2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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新潟はさすがに日帰りというわけにはいかない。
しかも妻は、翌日新潟空港に選手を見送りに行きたいとのこと。
妻は大分トリニータファンなので、
選手と話せる機会はアウエー戦の空港しかないそうだ。
したがって、空港近辺の海浜公園の駐車場で泊まることになった。
朝の海がとても爽やかで良かったが、
惜しむべくは水着を持っていなかったこと。
まだまだ暑い盛りだったので、綺麗な海に入りたかったが、
それは結局適わなかった。

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実は先日、北方文化博物館を出た後に、
時間があったので新潟市近辺の探索をしておいた。
新潟は軒並み温泉入浴料が高い。
だいたい600~1000円といったところだ。
しかし、私は探索の結果、300円で露天風呂に入れる
温泉地を発見した。しかも早朝からやっている上に、
近くには無料キャンプ場(車乗り入れ可)もあるという、
最高の立地条件。
以後、私の日本海側の拠点となることが確定したのである。

本当はこの日もそこで泊まりたかったのだが、
空港の件があるので山間のその温泉地には泊まれなかった。
仕方がないので、空港でのお見送りの後、
朝風呂を浴びにその地へ赴いた。

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そこは湯治場が2カ所あり、立ち寄り湯はどちらも低料金。
100円台で入れる大衆浴場も何軒かあるが、
無人の露天風呂が格別に気持ちよかった。
一応町中なのだが、木々に囲まれ完全に外部と遮断され、
木々の間から覗く空が清々しい。
泉質は少し青白いさらさらとしたもので、
慢性皮膚炎に効能があるという。
洗い場が申し訳程度にしか無いのが幸いしてか、
湯治客や地元の人は近所の150円の大衆浴場に行くようで、
前日夜もこの日も、他の客は誰一人来なかった。
まさに貸し切り状態、これ以上の幸せは無いだろう。


温泉の後は、近くのそば屋で昼食。
緑色が鮮やかな蕎麦であったが”へぎ蕎麦”ではない。
(モニタの違いで色味が正確に伝わらないことが残念だ。)
少しゴワゴワした食感で、ズルズルッとはいかなかったが、
蕎麦の香りが強く感じられ、なかなかの味だった。

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これにて新潟を後にしたのだが、実はその5日後、
今度は仕事で新潟に来ることになったのだ。
その時の話はまた次の日記で。

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暦の上では夏ももう終わらんとするとある週末、
妻が”アルビレックス新潟vs大分トリニータ”を見たいというので、
はるばる新潟市まで遠征した。
こういう場合、妻はスタジアムでサポーター仲間と合流し、
あとは別行動になるので、私は予てから行ってみたかった、
新津の北方文化博物館に脚を伸ばした。

元は新潟一の豪農、伊藤家の館だったのが、
昭和21年に遺構保存のため、七代伊藤文吉氏と、
進駐軍ライト中尉の協力で、戦後初の私立博物館として
財団法人化したのが現在の姿。
敷地8,800坪、建坪1,200坪、
母屋の部屋数65を数える純日本式住居は、
今なお在りし日の豪農の生活を彷彿させる。
私はこれを、山形の友からことある事に聞かされていたので、
今回やっと念願適っての訪問と相成ったのだ。


阿賀野川を河川敷に延々と広がる農地を横目に見ながら
沢海に至る。ビッグスワンこと新潟スタジアムから車で30分強。
どうもこの日は近所の神社のお祭りだったようで、
狭い道で御輿の行列とすれ違う。
御輿といっても軽トラの荷台と合体した、近頃よくあるタイプの御輿で、
氏子たちが道を譲った私に会釈して通り過ぎていった。

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北方文化博物館の櫓門で入館料800円を払い、
広い前庭を歩くと、道の脇の竹林で石仏たちが出迎えてくれた。
いつからこの庭に鎮座しているのかは分からないが、
石の風化の具合から見ても、相当古いものに違いない。
手を合わせた後、私はついつい写真を撮っていた。
いやはや習性とは恐ろしいものである。



伊藤邸は”コ”の字形をしていて、正面玄関を入って右が
土間続きの台所、玄関からあがってすぐの部屋が囲炉裏の間。

台所にはレンガ作りの竈があり、棚には厨房用品が並んでいた。
明治の半ばの伊藤家は、家族の他に60名近い使用人がいたそうで、
毎朝1俵(60?)の米が炊かれたという。
実生活でも鉄瓶や鉄鍋を使っている私は、
こういうものに目がないのだが、
さすがにこれほど大量の厨房用品をみると、
あきれかえってしまうばかりである。

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囲炉裏の茶の間は何部屋もあり、それぞれの自在鉤に
鍋や鉄瓶が掛かっていた。
天上の重なりあった大きな太い梁が、
ここが雪深い地であることを物語っている。

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常々私は囲炉裏のある生活に憧れているのだが、
さすがにこんなに囲炉裏があると管理が大変そうだ。
将来は八ヶ岳の中腹に小さな庵を結び、
ひっそりと生きていきたいものである。

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”コ”の字形の屋敷の奥側は、座敷と裏座敷になっている。
南面の美しい庭に面した土縁の上には、
会津から運んだ長さ15間半(約28m)の
通しの杉の丸桁を使っており、圧巻である。
縁側に腰を下ろしぼんやりと庭を眺めた。
先程のお御輿だろうか、肌をなでる風に
かすかに笛の音が混じっていた。

実は先に述べた山形の友としばしば語り合っていた内容は、
この縁側に仲間達とずらっと並んで酒を呑みたいな、
といったことなのだ。
さぞかしうまい酒になることだろう。

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長野県茅野市の国道152線とビーナスラインの交差点。
そこに御座石神社がある。

祭神は高志沼河姫神 (こし(越)のぬなかわひめ)。
建御名方命の母である。
御座石とは、いかにも石が鎮座してそうな名前なのだが、
元は母神の御住居の地と言うことで「御在所」や「御斎所」
などとも呼ばれてのが、何時の時代か御座石に転化したらしい。
とはいえ、当社は平地にあるにも関わらず、
いわくのある石がゴロゴロと転がっている。

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ビーナスラインに面した石鳥居から境内に入ってすぐ、
木製の鳥居が見える。これは黒丸大鳥居と呼ばれ、
曳いてきた御柱を鳥居に仕立てたもの。
諏訪地方ではありとあらゆる社の四辺に御柱が建っているのだが、
御座石神社では四辺の御柱はない。
どうも諏訪地方では男神の象徴が御柱、
女神の象徴が鳥居という見解があるようだ。
(ただし、諏訪社下社には御柱があるのでさらなる調査が必要)

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境内に数多ある石の中で、特に注連縄で祀られているのがこの石。
なんでも高志沼河姫神が建御名方命の招きに応じ、
越の国から鹿の背に揺られやって来た時の、
鹿の足跡が残っている石だそうな。
確かに足跡らしき穴はあるが…

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本殿横の大きな石は、穂掛石。
矢ヶ崎村七石の一つとされ、昔は田の中にあって
稲の穂を掛けたことから名付けられたそうだ。
武田信玄が川中島からの帰りに、
これら七石を賛美したと伝えられている。

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鹿の足跡石のすぐ横には、何とも可愛い石が埋まっていた。
これは特に何の説明もないのだが、
上部がお尻のように窪んでいて、線が入っている。
線は人の手によるものに見えるのだが、詳細は一切不明である。

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そして最後は石鳥居脇の2つの石。
これにも説明は一切なかったが、平らな石の上に乗っているので、
何らかのいわくはあるのだろう。

先程の御座石神社の由来とは少し矛盾するが、
ここには諏訪の七石(矢ヶ崎村七石とは違う)の一つ、
御座石があったとされている。
それはこれらのうちのどれかなのだろうか?
諏訪の自然崇拝やミシャグチ神とも関わる重要な石のはずだが、
そのことに関する説明は何もなかった。
上記、鹿の足跡石には、高志沼河姫神が腰掛けて休んだ
との伝承もあるようだが、果たしてそれが御座石なのだろうか。

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石についてはさておき、この神社にも道祖神が沢山あった。
真ん中の石も風化しているが双代道祖神である。

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また沢山の石像があったが、もはやここまであると、
何がどんな神様なのか見当がつかない。
皆一様に胸の前で手を合わせているので、
こちらまで敬虔な気持ちにさせられる。


実はこの境内はあまり広くなく、また交差点に面しているため、
敷地は三角形といったものだが、
色々な要素があって面白かった。
極めつけは酒蔵である。

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4月27日の「どぶろく祭」で振る舞われるどぶろくが、
この醸造倉で作られている。
昨年の祭りの際に選ばれた当番の氏子3人が、
当日まで社務所に泊まり込み、
かくはんや温度管理などを繰り返して酒を醸造しているそうだ。
ちゃんと杉玉も下がっているが、約一ヶ月で作るどぶろくに、
新酒の熟成の目安となる杉玉は必要なのだろうか。
wikiで調べると、元々は酒の神様に感謝を捧げるもの、
となっているので、そちらの意味が強いのだろう。
祭り当日はどぶろくの他、鹿肉、独活など
この地方独特の肴が振る舞われるそうで、
是非とも参加してみたいものである。


乙事諏訪神社から西へ、山を降っていくと高台に鳥居が見えた。
なんと、そこが乙事諏訪神社下社跡だった。

階段を登ると、神社跡は見事に公園になっており、
双代道祖神がひっそりと私を迎えてくれた。
この辺りに道祖神が多いのは、県境だからだろうか。

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元境内の敷地は、西半分が公園になのだが、
東半分は何やら怪しげな社が並んでいた。

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社というよりも柵といったほうがよいだろうか。
中央の台座の上に石があり、小さな鳥居が
洩れた光を浴びて輝いている。
石の前には二匹の犬がしっぽを振っている。

もしや、犬神!?

映画”もののけ姫”で、山犬たちは祟り神となって荒れ狂う
オッコトヌシたちからサンを守る。
なんと、乙事に犬神がいるとは思わなかった。

勘のいい人はもう気がついていると思うが、
この社は三峯神社。
奥秩父にある修験の聖地、三峯神社から勧請されたものだ。
犬神とはオオカミのことで、秩父ではイノシシやシカやサルなど
農作物に被害を与える害獣を追い食いし、
人里では火災や盗難に対して吠え立てるオオカミを、
山の神の使いとして崇め、”大口之真神”として祀る
犬神信仰が行われているのだ。

なんと、乙事主に犬神、役者は揃ったようなものである。
私の脳裏には、乙事主の大群と戦う犬神の姿がよぎった。



そしてその隣は、箭弓神社。
埼玉の箭弓稲荷神社からの勧請かと思ったが、全然違った。
なんでも創始年代は分からないらしいが、
昔、大下東組の六地蔵の辻で、正月に子供達が”道きり”といって、
道に縄を張りここを通る人に「道祖神さまにお賽銭をくれ」
といって、お小遣いを稼ぐ習慣があった。
ある正月、ここへ馬に乗った侍が通りかかったが、
子供達を無視して通り過ぎようとした。
その時弓を持っていた子供が矢を放ったところ、
運悪く侍の目に刺さり、侍は落馬し命を落とした。
その後、その子供達の家に不幸が続き、侍の祟りだという噂が流れ、
弓矢を撃った子の親が、祠を建て侍の霊を祀ったのだという。

名もなき侍が”祟り神”になったと言うことだ。
そういえば、もののけ姫でもアシタカが
弓矢で侍を射殺すシーンが象徴的に使われていたな。

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三峯社と同じような柵に囲まれているが、
こちらは祠があり、前に丸い石が3つ置いてある。
ワタが散乱しているが、元は座布団のようなものに
乗せていたことが分かる。
これは侍を埋葬した時の枕石で、
今では「力石」とか「お試し石」と呼ばれ、
願い事が叶い時は軽々持ち上げられ、
適わないときは持ち上がらないと言われている。
なぜ祟り神が願い事の神様になったのかは分からないが、
この大きさの石なら誰でも持ち上げられることは確かだろう。



あとで調べて分かったのだが、
富士見町には宮崎駿氏の別荘があるらしい。
エボシ御前の由来となった烏帽子なる地名もある。
この近辺でなじみ深いキノコに”ジゴボウ”と言うのもある。
なんだ、そういうことだったのか…

物語のラストで、首を打ち落とされたシシ神さまが、
ダイダラボッチに変化するが、
鹿の頭とダイダラボッチ、どちらも諏訪盆地に
なじみの深いものなのである。


富士見町は実は何も調べていなかった。
本当は釣りがメインで帰りにちょこっと
御射山神社に立ち寄ろうと思っていただけなのだ。

だが、熊を恐れて早々に竿を納めた私。
こういうときに参考になるのは地図に載っている地名だ。
そして、真っ先に目についた地名があった。
”乙事”である。
オッコト・・・熊の次はイノシシか!
脳裏にジブリ映画”もののけ姫”に出てくる
巨大イノシシ=オッコトヌシが大群で押し寄せてきた。
これは是非とも行って確かめなくてはならない。

ちなみに、ここ富士見町は、映画”いま、会いに行きます”
のロケ地としても有名らしいが、その時は私の頭の中は
イノシシでいっぱいなので気がつかなかった。

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なかなか大きな神社だ。
ちょっとした高台に建っていて、周りには道祖神や
蚕玉神社の石塔がある。
参道は大きな木に挟まれていて、あたかもこの先にある社殿を
長年にわたり守っているように見える。
私はこういう自然を生かした神社は大好きである。

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かつて乙事村には、旧乙事村の産土神で
御別当神を祀った御別当社と、五味太郎左衛門同族の氏神で
御別当大明神を祀った神社があったが、
両社とも諏訪大明神を勧請し、社名を乙事諏訪神社上社、
同下社としたという。
しかし昭和25年、乙事諏訪社は合併され、
下社のの本殿を上社に移し現在の乙事諏訪神社になっている。
この神社の拝殿は、江戸時代初頭に再建した
諏訪大社上社本宮の拝幣殿を、200年後の本宮改築時に
移築したもので、桃山様式の建造物として極めて優秀で
国宝に指定されているとのこと。

なるほど、農村の片隅の神社にしては、随分立派なものである。
参拝を済ませ、裏手に回ろうとすると・・・

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ハリボテ!?

映画のセットじゃあるまいし、
まさか拝幣殿が板一枚とは思いもよらなかった。


それはともかくとして、この境内でほかに目を引く物に、
自然の大石を使った灯籠がある。

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溶岩状の岩の上に丸い灯籠が乗り、その上に平らな自然石が乗り、
なにやらただならぬ雰囲気を漂わせている。
このような灯籠が5つくらいあったろうか。
そして、道祖神もやたらと多い。

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写真以外にもあと2体はあったと思う。
祠の道祖神も岩の上に鎮座していて、
つくづく自然を巧みに取り入れていることに感心する。

しかし、ここではオッコトヌシとの関係はよく分からなかった。

つづく

ドルメン類似遺跡から山腹にそって北西に、
ヒマワリ畑を抜けた先にあるのが「原山さま」だ。

「原山さま」、本当の名は御射山神社。
諏訪大社上社の御射山である。
別荘地で有名な原村のあるこの山は、
かつては原山と呼ばれていたらしい。
やはり狩猟に適した広大な原っぱが続いていたのだろうか。

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背の高い木々に囲まれた神域。
森の広さで境内の規模の相当大きいことが分かる。
もとは神野とよばれ、諏訪明神の神聖な狩り場として
人の住むことは許されないところだったという。
また、山を降って甲州街道を渡った先の
御射山神戸(ミサヤマゴウド)という集落に
この神社の氏子たちが住んでいるのだが、
以前は集落から御射山社まで、松並木の参道が続いていた
とのことである。


駐車場からしばらく、案内も何もない道を歩いていたが、
やっと鳥居が見えてきた。
境内の広大さに対して、いたって質素な鳥居である。

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この時点ではまだ私は、この神社の規模を量りかねていた。
実はこのすぐ後ろに、小さな小屋のような建物があった。
とても社殿とは見えない形の建物なのだが、
なんとそこが目的の御射山社の拝殿だったのである。

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祭神は諏訪明神(建御名方神・大己貴神・高志沼河姫神)と
国常立命(クニトコタチノミコト)。
拝殿の中に本殿が並んでいる。
この広大な境内で、なぜこんなに小さな社なのだろう。
疑問を胸に、さらに奥へと続く参道に目をやった。

なんと、奥にもまだ鳥居があるではないか。
なんだか釈然としないまま、私は鳥居へと歩みを進めた。

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ちょっと変わった鳥居である。
そして、脇には御射山社の文字。
さっきの拝殿は一体何だったのだろうか?


鳥居の奥は、今まで見たことのない不思議な空間だった。
とりあえず真っ直ぐ進むと、さっきと同じ形の鳥居がある。
しかし、腰をかがめないとくぐれないほど小さなものだった。

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石の玉垣に囲まれた小さな祠。
大四御蘆社とのことだが、よく分からない。
しかし鳥居から真っ正面にあるこの祠が、
重要な神であることには間違いないであろう。

境内に目を移すと、左にも玉垣が3つ並んでいた。

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左から、神宮皇后社、子安社、伝大祝有員公塚となっている。
大祝有員公とは、上社大祝諏訪氏の前身である神氏の始祖である。

写真では分からないが、左2つの玉垣には
大四御蘆社と同じ形の小さな祠があるのだが、
有員公塚にはそれが見当たらない。

恐る恐る中を覗いてみると…

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小さな環状列石に見えるのは気のせいだろうか?
塚と言うからには墓地なのかもしれない。
環状列石は墓所の可能性があるとはいえ、
有員公が大祝になるのは806年(大同元年)のことである。
まさかその時代に環状列石はないだろう。
単にもともとあった祠が崩壊してしまっただけかもしれない。


色々と謎の多い上社御射山社であるが、極めつけは境内最北、
三輪社であった。

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三輪社だけ立派な灯籠を携え、別格の風格を感じる。
祠を先を地図でずっと辿れば、霧ヶ峰と下社旧御射山である。
文章ではうまく言えないので、この不思議な境内の配置図を、
以下に貼り付けておくことにする。

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地図の上の方に鰻放流場があるのだが、
ここ御射山神社の御射山祭では、子供の厄除けとして
鰻を放流する。いわゆる放生会だ。
狩猟と穂屋籠もりを主とする御射山祭が明治以降は
庶民の民俗的信仰と結びついたと、 案内板には書いてあった。
鰻を放流するところが、なにか蛇と通じるものがあって興味深い。

諏訪の花火の翌日は、釜無川で釣りをしようと
県境を越えて蔦木宿まで南下したが、
どうも数日前に熊が出たらしい。
まったくこの夏は、熊が多いこと多いこと。
岩手では車に乗っているときに遭遇したから笑っていられたが、
川で釣り中に、それも一人でいるときに出会ったら
シャレにならない。
たいして釣れもしなかったので早々に切り上げた。


八ヶ岳にぐっと近づいた富士見町や茅野市周辺では、
いろいろと面白い遺跡が多い。
「縄文のビーナス」や「仮面の女神」といった縄文2大アイドルも、
この近辺の遺跡から出土した。
また黒曜石の発掘例も多く、恐らく縄文人達が黒曜石を求めて
この近辺に集中して住んだのだろうと思われる。


富士見町をドライブしているとなだらかな山腹に
ポツリポツリと家があり、それ以外は見通しの良い田畑。
標高は1000mを越えているだけあって空が近く、
快晴の日にはその名の通り、富士山までも見渡せることだろう。
将来はこういうところに庵を結んで住みたいな、
なんて思いながら走っていると、カーナビ上に目を引く表示を発見。
”ドルメン類似遺跡”
なんと分かりやすい遺跡なんだ。


遺跡は民家の畑の目の前にあった。
民家の庭では家族でバーベキューをしている。
庭先から丸見えなので、なんだか気まずい。
夏真っ盛りの昼下がり、私はかなり異質な人に見られただろうが、
まぁ気にしたら負けだ。

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説明書きによると、ここ坪平遺跡は石で覆った墓と目される遺構で、
4mに近い間隔で2基並んで発見されたそうだ。
片方からは長さ15cm程の人形をした石製品、
もう片方からは遺物が見つからず、
蓋石の北側から石器や土器片が発見された。
これらは縄文後期(約3800年前)の遺構とされているとのこと。

遺跡の発掘調査のサイトがあったのでリンクしておく。
http://www.alles.or.jp/~fujimi/idojiri/h10/dorumen.html


大まかに説明するとドルメンとは支柱墓のことで、
幾つかの石の上に平らな石を置いた巨石墓。
もともとは土や小石に覆われているが、
風雨にさらされ剥き出しになっているものも多い。

しかし辺りを見回しても、ドルメンとおぼしきものは見当たらない。
石碑の横の木の下に、赤い石が埋まっているが、
これのことを指しているのだろうか?


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八ヶ岳山頂まで直線距離で10km。
目の前に八ヶ岳がそびえ立つ。
この位置に人形の石を遺体と共に埋めたことが興味深い。
石と埋まるといえば、諏訪上社前宮の御室神事を思い起こす。
旧暦12月下旬、御室社なる穴に蛇型のミシャグチ神と神官が
100日の間籠もり、神事を行うというものだ。
縄文時代の祭祀の形を色濃く残すこの神事が象徴しているものは、
言うまでもなく再生だろう。

もし本当にこの人形の石が御室神事と同等のものならば、
諏訪の地では約3700年に渡って、
縄文時代の信仰を伝えてきたことになる。
明治になって、御室神事の秘伝が途絶えてしまったのが、
なんとも残念でならない。




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今宵は諏訪湖の花火大会。
4万発の花火を湖から1mの場所で見物。
湖面からの風も涼しく、素晴らしい夜。

東京は嵐が来たり停電したりと何だか大変のようだが、
信州の夏は快適である。

全開にした車の窓からは、夏草の匂いに混じって
時々農場の濃い匂いが鼻を掠める。
伸び気味の髪の毛は風に踊り、快適な運転を妨げるので、
その度に私は髪をかき上げるが、その仕草さえも気持ちいい。
ビーナスラインを飛ばす私。
夏休みだというのに車は他に見当たらず、自然と速度はあがっていく。

目的地は八島湿原の近く、旧御射山(もとみさやま)遺跡だ。
空と草原しか見えない、だだっ広い霧ヶ峰の高原に、
日本版コロッセウムともいえる、大競技場があったのである。

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さかのぼること鎌倉時代、山の傾斜を利用した競技場には
将軍はじめ、鎌倉幕府のそうそうたる武将が桟敷を連ね、
巻狩り、鹿撃ち、相撲などの競技を観戦した。
この神事・御射山祭は毎年7月26日から29日まで行われ、
信濃の豪族が交代で穂屋に籠もり豊作を祈る一方で、
信濃の氏人が騎射等の腕を競って諏訪明神に奉納したとされる。
起源は古く、いつから始まったかは分からないのだが、
平安時代から鎌倉時代(特に鎌倉時代に北条氏の信奉厚く全盛期)
に栄え、元禄年間に上社と下社の抗争が
激化してのち衰退したそうだ。

今でも、宮司が出てきて厳かに神事が行われるそうだが、
もちろんかつてのような盛大な祭りというわけにはいかないだろう。
私としては、古代から延々と続く御射山での神事に、
ミシャグチ神との関連を想像してしまう。
”みさやま”と”ミシャグチ”
その音の響きに、偶然ではない何かを感じてやまないのだ。


さて、旧御射山遺跡の案内板のある場所から草原に入っていく。

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案内板には、誰がどの場所で桟敷を使ったなどと詳細に書かれているが、
辺りを見回してもビックリするほど何もなく、
とても桟敷跡を探し歩く気にはなれない。
比較的近場に「看御射山競技場跡」と刻まれた碑があったので、
これで良しとしよう。

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さて、この広大な敷地の中心、つまりは一番深い場所に
こんもりと木が生い茂った場所があり、
当然の如くそこに引き寄せられていくと、木の中に祠があった。
祠の前では年配の女性が祝詞をあげていて驚いた。
人っ子一人も居やしないと思っていたのに、
一体どこから来たのだろう?
耳を澄ますが、あまり聞き慣れない祝詞のようだ。

その人の参拝が終わるまで待って聞いてみたところ、
ここ旧御射山神社は、この方の氏神だそうだ。
霧ヶ峰高原のど真ん中、民家といえばペンションくらいしか
見当たらないのに、ちゃんと氏子が存在していることに感動した。
女性が立ち去るの方を眺めると、腰辺りまである草原の中をを
ビーナスラインに向かって突っ切って行くのが見える。
いや、もしかしたら道があったのかもしれないが、
地元の人以外は絶対に分からない道だろう。

私も参拝し、写真を撮る。
夕暮れ前の黄色い光に照らされ、神域が浮かび上がる。

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例によって祠の周りには御柱が四方に建っている。
石碑の文字は、達筆すぎてちょっと読めなかった。
祠はとても小さな石製の祠で、ここにかつて将軍も参加したほどの
権威ある祭りが行われていたなんて、にわかに信じられない。
だがそれは事実なのである。



帰りは、来た道と違う道を通ってみた。
なんと、ここにきて初めて旧御射山神社の文字を見た。
こんな草原の真っ直中に看板を置いても、
この看板までたどり着く方が難しいだろう…

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実は諏訪に何度も行っているのに、
下社秋宮には今まで一度も行ったことがなかった。

私の妻の家は上社本宮の氏子なので、何かある度に上社に行くのだが、
こと下社に関しては、諏訪湖の向かいにも関わらず、
全くと言っていいほど参らない。
たまに行く事があるとすれば、下社秋宮横の、
諏訪名菓”新鶴の塩羊羹”を買いに行くくらいである。
なにやら妙な対抗意識というかなんと言いうか、
言葉では言い表せない何かがお互いの歩み寄りを
邪魔している感じがする。
いや単に、下諏訪がいつも混んでいるから
行かないだけかもしれないが…
従って、私も自然と下社側、特に秋宮には足が向かなかった。

しかし、諏訪を語る上で、下社の存在は避けては通れない。
今回は意を決して、新鶴の塩羊羹を買いに行くついでに参ってみた。


先に諏訪大社を知らない人のために解説しておこう。
諏訪地方は、大まかに言うと諏訪湖を中心にして
南は上諏訪、北は下諏訪に分かれている。
上諏訪には上社本宮とその前身といわれる上社前宮があり、
下諏訪には下社春宮と下社秋宮があり、
こちらは季節ごとに神が移動するという。
しかも全てが信濃国一の宮だ。
基本的に上社は男神・建御名方命を祀り、
下社はその妻・八坂刀売命を祀っており、
諏訪の昔話では、この夫婦が喧嘩して別居したことになっている。
諏訪湖畔の温泉は、妃神が家を出るときこぼした涙だそうだ。
しかしそこは夫婦のこと、真冬に男神が妃神のもとへ
通う道が、有名な諏訪湖の御神渡り(おみわたり)である。
上下共に本殿を持たず、上社は守屋山を遙拝し、
下社春宮は杉のご神木、下社秋宮はイチイのご神木を神体とする。
七年に一度の御柱祭は、山の上から木を落とす奇祭で、
これも上社と下社でちょっと違うのだが、
そのレポートは4年後にでも書きましょう。


とまあ、ざっと書いてみたが、実際行ってみると
上社と下社は随分毛色が違うことに気付く。
上社は山の傾斜を利用して作られた神社なのに対し、
下社は平地に建てられていて、社殿が豪奢な作りになっている。
それもそのはず、今の社殿は江戸後期に
春宮を柴宮(伊藤)長左衛門、秋宮を立川流・立川和四郎富棟
という宮大工の名工に競わせ建てたものなのだ。

そして特徴的なのは、秋宮神楽殿の巨大な注連縄。

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出雲大社ほど大きくはないのだろうが、それでも太さは1m位ある。
*ちなみに私の母方の実家は島根だが、
出雲大社は行ったことがないのだ…


そんなこんなで、同じ上社と下社は
同じ諏訪大社とは思えないほど違う。
これはきっと系統が違うのだろうと思っていたら、
やっぱり違ったようだ。

諏訪市博物館で見た古代の住民の変革図によると、
縄文時代の集落跡は八ヶ岳~上諏訪に多く、
弥生時代の遺跡は下諏訪湖畔周辺に多い。
下諏訪側に出現した弥生人は安曇族の特徴を持つのだが、
この安曇族が少し難解。
海人津見(あまつみ)から転化した海人族で、
広く海運に携わっていた氏族なのだという。
北九州を根拠とする安曇族が糸魚川から侵入し、
定住したのが信州安曇野の地。
この安曇族が北九州に伝わった稲作文化を
日本各地にもたらしたとされ、信州ももちろんその一つ。
それを証明するように、縄文系の上社の神事は
御頭祭のように、狩猟との関係を色濃く残すのに対し、
弥生系の下社の神事は、御田植神事のように、
農耕色の強いものが多いのだ。
そもそも下社の祭神・八坂刀売命は穂高見命の妹神とされ、
穂高見命は綿津見神(わたつみ)の嫡男。
綿津見の別称が安曇の語源となった海人津見(あまつみ)、
とくると、八坂刀売命は安曇族の姫だと言うことが分かる。
それにしても壮大な話だ、頭が混乱する。
建御名方命と八坂刀売命がいつ結婚したかに関しては、
情報がないので、この先は全て私の想像になるが、
糸魚川の拠点(彼の母は糸魚川の奴奈川姫)から
信州に進出する際、安曇族と婚姻関係を結ぶことによって、
協力を取り付けた、なんてこともあるかもしれない。
(安曇野の歴史はまだ調べてないので何ともいえないが。)


諏訪の神は、ミシャグチ神に代表される縄文系の蛇神信仰が、
いつの間にか竜神信仰に変化していったようだが、
AYUさんによると龍は水田農耕時代に輸入された水神だそうで、
その概念はこの時期に安曇族と共に入ってきたものかもしれない。

そんなことを考えていたら、御柱祭で使う縄でさえも、
とぐろを巻いた蛇や龍に見えてくるから不思議である。
もっとも、これはもともとその意味を
含ませているとも言われているようであるが…

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国道20号を上諏訪から下諏訪へ向かう途中、
ちょうど上諏訪駅を過ぎて、中央線と交叉した先を曲がる。
セイコーエプソンの工場の裏手に、目的の神社があった。

この神社、少し変わっているのである。

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先宮神社
祭神は「高光姫命」(たかてるひめのみこと)
別名「稲背脛命」(いなせはぎのみこと)
「諏訪神社の祭神「建御名方命」が出雲より、
州羽(諏訪)の地に遷御された以前より、
すでに原住民の産土神であった。
しかし「建御名方命」が諏訪神社に鎮座した当時、
国ゆずりの為抵抗したが遂に服従し、
現在の社地に鎮座することになった。
この事により、他地に出ることは許されず、
今でも境内前の小川には橋を架けないとの言い伝えがある。」
当社の由緒書にはこうあった。

その言い伝えは本当だった。
確かに境内鳥居前の小川に橋は無かったのだ。
まぁ、小川と言うよりは溝なのだが、
跨いで外に出れるら!などとは言ってはいけないのである。


神話の時代、建御名方命は天孫族の追求を逃れ諏訪の地に至ったが、
遂にこの地で天孫族に降り、諏訪の地から出ない事を誓った。
故に、諏訪の神は十月になっても出雲に集まらなくてもよく、
神無月とはいわずに、”神在月”というのである。
また一説では、神社の四方に建てる御柱は、
この地から出ないことを示す結界だといわれている。

上諏訪の洩矢族が、建御名方命の下で重職に就き
大いに繁栄したのに対し、なぜ高光姫なる人物は、
建御名方命と同じように、自由を奪われたのだろうか?
これがさっぱり分からない。

また、別名の稲背脛命は、出雲の国譲り神話で
武甕槌命たちと大国主との談判をまとめた神で、
備中神楽では「国譲りの能」の道化役として登場するが、
それ以外ではあまり有名な神ではないようだ。
国譲りをまとめてしまった仲裁役を、
抗戦派の建御名方命は憎んだのだろうか?

いずれにせよ分かるのは、この神社に橋を架けてはいけない、
という伝承があり、それが今でも守られていることだけである。
本殿横の大ケヤキだけが、その秘密を知っているのだろう。

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この連休は妻の実家の諏訪に帰るつもりだったが、
あいにく私が風邪でダウンしてしまったので、
家に閉じこもって日記を更新している。


実は今年の盆にも諏訪に帰っていた。
諏訪は近いこともあってよく帰るのだが、
これまであまりじっくり周辺を見て回ったことはなかった。
それが相手の実家のつらいところ。
自宅のように、一人気ままに出かけるわけには行かないのだ。
よって、出かける際には妻を連れて行かなければならないが、
現代っ子の妻が私の趣味に付き合うはずもないのがつらいところ。
今回は、うまいこと言いくるめて沢山回ってきた(笑)



「諏訪盆地には、出雲の国の国譲り神話とは別に、
もう一つの国譲り神話がいい伝えられています。
そのことは、室町時代初期に編まれました
『諏訪大明神画詞』などに記されています。
それによりますと、出雲系の稲作民族を率いた
建御名方神がこの盆地に侵入しました時、
この地に以前から暮らしていた洩矢神を長とする先住民族が、
天竜川河口に陣取って迎え撃ちました。
建御名方神が手に藤の蔓を、洩矢神は手に鉄の輪を掲げて戦い、
結局、洩矢神は負けてしまいました。」
(神長官守矢資料館のしおりより抜粋)

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神長官・守矢氏。
表札に本当にそう書いてあるのを見て感動を覚えた。
神話の中に登場する一族の家の玄関が、自分の目の前にあるのだ。

天竜川河口の戦いの後、建御名方神は洩矢神を滅ぼさなかった。
建御名方神は諏訪氏として現人神・大祝(おおほうり)になり、
洩矢神は守矢氏として神職筆頭の神長官という地位についたのだ。
以来、七十六代守矢実久氏に至るまで、つまりは明治五年の
世襲神官制の廃止に至るまで、守矢家が務める神事の一切は、
一子相伝により「くちうつし」で伝えられてきたのである。
現七十八代目当主・守矢早苗氏には、その概要しか伝わっておらず、
古代からの秘伝が明治で途絶えてしまったのは非常に残念であるが、
この家の神事が一般に知れ渡る切っ掛けとなったのも、
明治に一子相伝が途絶えたことによる。
そう考えると、何とも皮肉なものである。

一子相伝で伝わる秘伝とは、
一、ミシャグチ神祭祀法
一、御室神事の秘法
一、御頭祭に行われる御符札の秘法
など、年内神事七十五度の秘法を始め、
一、祈祷殿で行う蟇目の神事法
一、家伝の諏訪薬の製造法
一、守矢神長の系譜
などだったらしいが、実際に七十七代真幸氏が
七十六代実久氏に口伝を受けたのは、
ミシャグチ神御頭占法と蟇目神事についてのみであった。
それも、今では途絶えてしまったそうで、非常に残念な話である。

守矢資料館は守矢家の敷地内にあった。
守矢家の敷地には、資料館の他にもミシャグチ神を祀る社や、
歴代の墓地、はたまた御先祖の古墳などもあり、
その歴史の深さを嫌が応にも感じさせる。

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資料館に入ると、いきなりショッキングな光景が飛び込んできた。
心臓の弱い方や動物愛護の方は画像をクリックしないように。
この動物達は、御頭祭で奉納される生贄である。
もちろんこれは剥製であり、今より二百二十年ほど前の
博物学者・菅江真澄のスケッチを参考に復元したものである。
今でも残る上社前宮の十間廊に七十五頭の鹿の頭など
様々な供物を並べ、大勢の神官がそれを下ろして食べる。
壮絶な神事である。
写真の一番奥にある太い柱は御贄柱といい、
十間廊の神事の後は、この柱に御神(おこう)という、
紅の着物を着た八歳くらいの子供に手を添えさせ、
柱ごと人々が力を合わせて十間廊に敷いた竹の筵の上に押し上げる。
そして、柱に矢や刀で傷を付け祝詞をあげ、
最後には御神を縄で縛り付けてしまうのだ。
この辺りが神事の最高潮で、その後馬に乗った使者が登場し、
御贄柱を担ぎ上げた神官達がそれを追うように庭を七周し、
長殿の前の桑の木の下で御神の縄を解き神事は終わる。

菅江真澄は神事の様子をこのように書き記しているが、
かつては御神を殺したそうだ。
現在の御頭祭では、供物は剥製を使うらしいが、
写真資料を見たところ、相当異色の神事と思った。
機会があれば、是非見てみたいものである。


資料館をでて右手を見ると、高見にこんもりと木が生い茂っている。
これが御頭御社宮司総社である。御社宮司と書いてミシャグチと読む。
これこそがミシャグチ神を祭る社なのだ。

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境内はこの地方の神社の例に漏れず、御柱が四方に建っている。
社は閉まっていたが、どうも扉ではなく板が直接正面に
はまっているような作りだった。
ミシャグチ神の御神体は蛇形とも陽物形とも言われているが、
実際はどのような形をしているのだろうか?
ここにあるとも、はたまた形があるとも限らない話だが、
いつかはこの目で確認してみたいものである。

御頭御社宮司総社境内には、上手に小さな祠が2つあり、
ご丁寧に、それぞれの四方にも御柱が建っていた。
祠の位置から諏訪湖方面を眺める。

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諏訪湖と諏訪の街と八ヶ岳の稜線が一望できる。
この地の神の鎮座する場所として、
これ以上に相応しい場所は無いだろう。
神長官守矢家が、縄文の昔からこの地に居を構え続けている理由も、
うなずけるというものである。


ちなみに手前に見える建物が、守矢資料館。
建築家・藤森照信氏が手がけた建物で、新しいのに懐かしい、
この地によく馴染んだ素晴らしい建物だった。

なお、守矢家の裏手には藤森氏が手がけた高過庵が、
これまた不思議な空気を漂わせているのだ。

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磐神社から少し衣川を降ったところ、衣川の関の裏手の山に、
月山神社と並んで和我叡登挙神社があり、
そこにもアラハバキ神が鎮座しているという。
安部頼良が館を衣川上流から下流に移転した際に、
アラハバキ神の依代を近隣に見出したのだろうか?
しかしこの和我叡登挙神社、延喜式にも記載されているのだが、
明治の頃には既に、その場所も読み方さえも忘れられていた。
今は、場所はこの三峯山に特定し、読みも”わかえとの”
に落ち着いているが、異説もあるようでなんとも釈然としない。
釈然としないのは、実際訪れて見ての感想でもあるが、
それは追い追い書いていくことにしよう。


その山の麓についたころは、すでに夕方近くになっていた。
昼頃、歴史資料館の案内係のおばさんに聞いた話だと、
地元の人が元朝参りに行く神社らしいので、
それなりに有名な神社なのかと思っていたが、
全然場所が特定できずにウロウロしてしまった。
見つけたのも偶然に近い。
私は衣川でもう一つ気になっていた場所があり、
そこに行く案内板を先に見つけて行ってみたのだが、
二社とも、奇しくも同じ山にあったのだ。
その神社とは三峯神社。
旅行中はこの山の名を知らなかったので気が付かなかったが、
山の名も三峯山と言うそうだ。

三峯神社は、その名の通り秩父の三峯神社の分社である。
前九年の役で、蝦夷討伐に苦戦した源頼義・義家父子が、
日本武尊が東夷征伐の際に秩父の三峯神社に祈願した故事に習い、
当地に三峯の神を奉祀したのが始まりだという。
その後、享保元年に改めて秩父から分霊勧請したのが
今の三峯神社である、と由緒書にあった。
ただ衣川の三峯神社は予想以上に小さかった。
民家に隣接する形で建っているが、行った時間が遅かったため
誰もいなくて何も聴けなかった。
面白いことに、駒形神社でもないのに神厩舎と神馬像があった。
そしてその奥が真の目的地である和我叡登挙神社に繋がる参道だった。

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三峯山は標高130mの里山だが、とても険しい山だった。
参道があり、ふもとのほうはコンクリートの階段まであるのだが、
標高が上がるに連れて、道が形を成さなくなってくるのだ。

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夏の間は誰も登らないのか、草は生え放題。
昼間のおばさんは15分もあれば登れると言っていたが、
とてもとても、それどころではなかった。

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やっとの事で山頂にたどり着く。
月山神社の鳥居が見えたが、もはや参道は草木に埋もれ見えない。
まさかここで藪こぎをするとは思いもよらなかった。

情報によると、月山神社と和我叡登挙神社は
隣り合わせになっているらしい。
月山神社を進んでいくと、神楽殿のようなものがあり、
その奥に本殿がある。
その他の建物というと、鳥居脇に朽ち果てた社があっただけだ。

おかしいなと思い、脇道に入ってみるも、降っていくのみ。
しばらく歩いても和我叡登挙神社らしき建物は見当たらない。
しかたがないので月山神社に戻る。
何しろ、由緒書きも案内板も何もないので、
よく分からないまま月山神社の本殿の前に行くと、
本殿前に申し訳なさそうに鎮座している岩があった。
もしかしてこれがアラハバキ神なのか!?

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これまで見てきたものの圧倒的な存在感と比べると、
このアラハバキ神はいかにも存在感がない。
大きさもせいぜい2m四方といったところか。
何よりも、アラハバキ神の後ろに社があるのが気にかかる。
これはどうしたことだろうか?

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後に調べた結果、やはりこの磐が和我叡登挙神社のアラハバキ神
であることには間違いないようだ。
ただ、あまりに資料が無くて、それ以上のことはわからなかった。


三峰山を去った私は、途中の村道の片隅に館跡の碑を見つけた。
安部貞任が拠点にした衣川の館跡だ。
夕日に赤く染まるその碑の周りは、一面の田んぼが広がっていた。
1062年、衣川の柵を朝廷軍に落とされた阿部貞任は、
衣川の館に火を放ち逃走する。
そこに追いついたのが源頼義の嫡男・源義家。
逃げる貞任に義家は呼びかけた。
「衣のたてはほころびにけり!」
そこで貞任は、咄嗟に上の句で返答した。
「年を経し糸の乱れの苦しさに。」
貞任の機知あふれる返答に、義家は思わず追うのを躊躇った。

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かくして、厨川の柵に逃れた阿部軍も、
奮闘むなしく敗れ去ってしまった。
貞任は討ち死に、藤原経清は斬首、貞任の弟宗任は配流。
ここに、安部氏による蝦夷の反乱は終止符を打たれたのだ。
しかし勝利した源氏は、武士の台頭を恐れる朝廷の貴族たちによって
都に呼び戻された。
結局は、源氏に協力した出羽の清原氏だけが得をしたのだ。
その後清原氏は、経清の息子・藤原清衡と陸奥守に返り咲いた
源義家の連合によって滅ぼされる。
その奥州藤原氏は三代後の藤原泰衡の時代に、
義家の子孫、源頼朝によって滅ぼされるのだ。
まさに戦乱の世を絵に描いたような、
因果応報がもつれにもつれた蝦夷の戦い。
血を血で洗う蝦夷の歴史を、アラハバキの神は
常にその地で見守ってきたのであろう。
戦が止んで久しい現在も、そしてこの先もずっと、
アラハバキ神は同じ場所で人々の生活を見守っていくのだろう。

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アテルイの時代から約250年後、
華やかな平安文化に酔いしれる朝廷の
貴族達を震撼させる争乱が起こった。
1056年、前九年の役の勃発である。

蝦夷を束ねる安倍頼良と陸奥守・藤原登任。
両者の衝突から始まった戦乱の炎は、
源氏の総領・源頼義の陸奥守就任によって、
一度は下火になった。
藤原登任率いる朝廷軍に快勝した蝦夷軍も、
さすがに武門の名門中の名門、源氏とは
事を構えたくなかったようだ。
安倍頼良は名を頼時に改名し恭順。
(源頼義と読みが同じだったため)
時の天皇の母の病気祈願のための大赦で、
反乱を起こした頼時の罪も許された。
しかしそれでは納得いかないのが、反乱軍鎮圧のために
遠く陸奥まで派遣されてきた源頼義。
頼時の子、安倍貞任に濡れ衣を着せ挑発、
奥州は再び戦火に包まれた。

戦乱で死亡した頼時に代わって、蝦夷軍を率いたのは貞任と、
妹婿の藤原経清。経清は元々は中央の人間だが、
源頼義のもとを離れ、妻の実家の安倍氏へと加担した。
二人の連合は強く、朝廷軍を散々打ち負かしたが、
頼義は出羽の蝦夷、清原氏を見方に引き込み、
ついに安倍軍も奮闘むなしく敗れ去ったのだった。


平泉の北に位置する衣川の地は安倍氏の拠点。
平安時代は地方長官として陸奥守が置かれていたが、
実質の支配権は蝦夷の実力者・安倍氏が握り、
安倍氏の勢力圏と陸奥守の勢力圏の境界線が
この地を流れる衣川だったという。
世界遺産候補に挙がっている平泉と違って、
衣川はきわめて閑散とした農村だ。
それでも、近年の義経ブームで発掘調査が進み、
安倍氏や資金面の協力者・金売吉次の居館と思われる遺構が
次々と見つかっているという。

「夏草や兵どもが夢のあと」とは、平泉を詠んだ芭蕉翁の句。
だが、今や陸奥きっての観光地と化した平泉よりもむしろ、
平泉の人気に押されて、未だ日の当たらない衣川にこそ
相応しいかもしれない。
言い古された言葉ではあるが、
形のあるものは、いつかは滅び去るのが必定。
しかしどんなに時を経ても、変わらないものもある。
安倍頼良の時代から、いやもっと以前からかもしれない、
遙か悠久の昔から、この地の守り神として人間の営みを
絶えず見守り続けていたもの。
私が衣川の地を踏んだのは、この地に祀られるアラハバキ神を
訪ねるために他ならない。

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上衣川村のその名も”石神”に目的の磐神社はあった。
田園風景の真ん中にこんもりとした林があり、
遠くからでも簡単にそれと分かった。丹内山神社の前例から、
アラハバキ神は山に鎮座しているものとばかり思っていたので
少し拍子抜けした。
だが、安倍館西郭・東郭・古舘に囲まれたこの地のこと、
阿倍氏の守護神アラハバキ神であることに、もはや疑う余地はない。

拝殿のみの小さな神社だが、縁起式内社である。
由緒書には、「古来社殿は設けないならわしであったが、
明治4年には上衣川村の村社となり、明治30年頃、
近郷の氏子の強い要望による寄付金で拝殿が建築された」とある。
近代になってアラハバキ神の意味が忘れられていくのを恐れて、
拝殿を建てたのであろうか?
古来からのならわしを破ってまでも、残さなければならないと、
明治の氏子達は思ったに違いない。。。と考えたい。

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はたして、拝殿の裏には巨大なアラハバキ神が鎮座していた。
石柱の柵はあるが、もはや形をなしてはいない。
岩の中程に小さな祠がある。
私は呼ばれた気がしてアラハバキ神の上に乗ってみた。
とたんに視界が揺らぎ………

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とはならなかったが、写真にはこう写っていた。
非科学的なことを言うが、時に写真が依代になることもあろう。
今は拝殿があるので見通しが悪いが、何もなかった時代には、
この少しの高さからでも辺り一面を見晴らすことが
できただろうと思われる。
もしかしたらこの地の指導者は、アラハバキ神の上で何かを感じ、
氏子達に神託を降していたのかもしれない。

実は磐神社のアラハバキは対になっている。
その相手は少し北に行った衣川村のその名も”女石”の地、
松山寺内にある女石神社だ。
朽ちかけた拝殿の裏に鎮座ましますのが女石。

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あまり大きなものではなく、案内も何もないので、
住職に場所を聞いてやっと分かった。
大きくはないが、その名の由来となったであろう裂け目が、
鋭利な刃物で切ったように鮮やかであった。

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私が女石の周りをウロウロしているのを、
寺の子が不思議そうに眺めているのが印象深かった。

ひふみよいむなやこと、とこやなむいよみふひ。
ふるべゆらゆら、ゆらゆらとふるべ。

私とアラハバキとの出会いは、高橋克彦氏の小説『火怨』だった。
蝦夷の若者アテルイが、物部の巫女から
アラハバキの神事を受ける場面である。
不思議な祝詞の文句と共に、私の脳内に強烈な印象として残った。

その神事の舞台となったのが、東和の丹内山神社である。
丹内山神社は花巻と遠野の中間の、小高い丘を利用した境内。
神社の由来は、約1200年前上古地方開拓の祖神、
多邇知比古神(たにちひこのかみ)を祭神として祀ったのが始まりで、
延暦年間には坂上田村麻呂が参籠し、
享保3年(1096)頃からは、隣の群である江刺に
拠点を構えていた藤原清衡公の信仰が篤に厚く、
毎年の例祭には清衡公自ら奉幣して祭りを司っていたと言われている。
ちなみに藤原清衡公は、私の崇敬する藤原経清公の嫡男で、
平泉四代の栄華の基礎を培った人物である。

境内には駒形社、安産神、疱瘡神、八幡社、加茂社などの境内社、
また十一面観音を祀るお堂、
挙げ句の果てには胎内山七不思議なるものがあり、結構広い。
しかし、肝心のアラハバキ神はどこに鎮座されているのか。

はたしてそれは、本殿の裏手にあった。

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本殿も壁一面に古事記と万葉集の彫刻が施された見事な建築なのだが、いかんせんその背後からは、圧倒的な存在感が伝わってくるのだ。
本殿よりも大きい岩が鎮座している。
これこそがアラハバキ神なのか!!
やっと巡り会えた感動に、周りを何度もぐるぐると回ってしまった。
ここに来るまで、境内にはアラハバキについては
何の記述も無かったのだが、鎮座ましますその横には
ちゃんと由来が書いてあった。

ーアラハバキ大神の巨石(胎内石)ー
千三百年以前から当神社の霊域の御神体として
古から大切に祀られている。地域の信仰の地として栄えた当社は、
坂上田村麿、藤原一族、物部氏、安俵小原氏、南部藩主等の崇敬が厚く
領域の中心的祈願所であった。安産、受験、就職、家内安全、
交通安全、商売繁盛の他、壁面に触れぬよう潜り抜けると
大願成就がなされ、又触れた場合でも合格が叶えられると
伝えられている巨岩である。東和町観光協会
(原文ママ)

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胎内潜りは壁に触れても触れなくてもOKという。
なんとサービス精神旺盛な神様か。
従って意外とミーハーな、否、信心深い私は胎内潜りを行ってみた。
とてもじゃないが、壁に触れずに潜り抜けることはできない。
なにしろ潜るべきすき間の途中に、地面から飛び出た岩があり、
それを乗り越えるには体をあらぬ方向に曲げなければいけないのだ。
案の定体が触れてしまった。
ここは東和町観光協会の言葉に甘え、合格ということにしよう。

ところで、アラハバキ神は中央から疎外された神なので
まともな記録がほとんど無く、後世になって色々な説が出てきている。
・ハバとは古語で蛇のことで、蛇神を祀る。(古代神山信仰の名残か?)
・出雲の流れを汲む氷川神社がもともと
 アラハバキを祀っていたことから、製鉄の神。
・製鉄に関わることと脛巾=脚絆に通じることから
 修験の信仰として取り入られ、脚の神とされる。
・伊勢神宮において、瀬織津姫(神宮の荒神にして早池峰の女神!)
 がアラハバキ姫と呼ばれていた伝承がある。
・東日流外三郡誌によると、大陸から渡ってきたアラハバキ族の
 祭神がアラハバキ。※東日流外三郡誌は偽書の確率が高い…

はたしてアラハバキ神とは一体何物なのか?
いずれにせよ、天孫神話に追いやられた今となっては、
わずかな記録や伝承に頼るしか、知る術がないのである。


アラハバキ神の正面に立ち、両手をそっと添えてみる。
少しでも神の体温を感じることが出来るだろうか。
目を閉じ、これまでの経緯、そして思いの全てを打ち明け祈願する。
どの位の時間が経過しただろうか。


ガサガサ。


なんと!!

手をついていたすぐ左脇の注連縄の中から蛇が!!

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・・・・・・



と思ったらよく見るとトカゲだった。
しかし、なんとも美しい。
トカゲをこれほどまで美しいと思ったことはない。
注連縄から顔を出し、しばらくこちらを見つめている。
神の使いかなのだろうか?
うん、きっとそうに違いない。
そう思うことにしよう。
きっと私の祈願を受け取ってくれたのだ。

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おまけ。

当地に所縁のある坂上田村麿、藤原氏、
そしてその後の領主である安俵小原氏、南部氏、
そのなかで物部氏の名だけが浮いている。
いや、『火怨』では物部がキーワードになっているので、
ある程度、物部の名を期待して来ていたのだが、
本当に物部の信仰対象だったとは驚いた。
まぁ高橋氏も当然ここに取材に来ているだろうし、
この由緒書を参考にしたことは大いにあり得る。
ただ、物部一族は蘇我馬子に敗れて以来、
歴史の表舞台から消え去った一族だ。
(例外として石上麻呂がいる)
この陸奥の地に突如、物部の名が出てくるのは意外だった。

歴史上、天孫族に追いやられ消えていった土着の民たちは、
神話や伝承の中でのみ、その存在が覗えるありさまだが、
その中でも大和のニギハヤヒを奉じ、
イワレヒコ(神武天皇)の東征の際天孫族に与して、
大和朝廷で重要な地位を占めた物部氏は、土着の民としては
異例の出世頭だったのだ。
天皇家の軍事面、または石上神宮の祭祀権を握っていた物部氏。
(物部のモノとは武器、または物の怪=呪術のモノの意)
にも関わらず、蘇我合戦以降一気に没落したのは、
朝廷を中心とした中央勢力が、新しい学問としての仏教に
傾倒していくなか、古い土着の神を祀る物部氏は
時代に乗り遅れてしまったからだと言われている。
蘇我合戦の原因は仏教導入を巡る戦いであり、
対する物部・中臣は排仏派だったのだ。
それでも、日本各地に物部の名残が残っているのは、
軍事氏族として日本全国に派遣されていたことと、
中央で敗れた後、全国の氏族を頼って落ち延びたからとされている。

物部氏については、書き出すとキリがないのと、
未だ謎とされていることが多いので詳しくは書かないが、
物部氏とアラハバキの関係ついては面白い説がある。
埼玉を中心とした武蔵国に多い氷川神社に、客人神
(まろうどかみ=土地を奪われて後から入ってきた
 日本神話の神と置き換えられた神)
としてアラハバキを祀っていたことは先に書いたが、
その氷川神社の祀官が鍛冶氏族である物部氏の流れを汲むそうだ。
氷川神社のある埼玉は、古代製鉄産業の中心地。
また、陸奥では多賀城址近辺の荒脛巾神社など、鉄鉱山の近くに
アラハバキが祀られている例があるそうだ。

高橋氏の小説では、物部氏は蝦夷の経済面のパートナーとして、
金属精錬の民として書かれている。
特に『炎立つ』では金売吉次(昨年話題になった源義経を
鞍馬山から平泉に連れて行った人物)が物部の末裔とされている。
小説を鵜呑みにするわけではないが、アラハバキと物部の関係には、
色々と想像をかきたてる要素が含まれていて、面白いと思うのだ。


遠野の夜は早い。
翌日には遠野を離れるので、私は日の暮れる
ギリギリの時間まで走り回っていたのだが、
さすがに6時を過ぎると、夏とはいえ辺りに闇が迫ってきた。
街道をはずれ、案内板の示すままに小川沿いの砂利道をひた走る。
この先に六角牛山の登山口があり、六神石神社があるはずだ。

六角牛山。
”ろっこうし”と読む。
大昔に女神あり、三人の娘を伴ひてこの高原に来たり、
今の来内村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、
今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと
母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて
姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫目覚めてひそかにこれを取り、
わが胸の上に載せたりしかば、ついに最も美しき早池峯の山を得、
姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神
おのおの三の山に住し今もこれを領したもうゆえに、
遠野の女どもはその妬みを畏れて今もこの山には遊ばずといえり。
(遠野物語第2話)

早池峰の女神様にお世話になっているのだから、
お姉様にもご挨拶しておかないと…などという安直な理由ではあるが、
こう見えても義理堅い私、一応筋は通しておくのだ。

六角牛山も、早池峰と同じく山頂に奥宮を持ち、
各登山口に里宮として六角牛神社を持つ。
ただし何故かは分からないが、目指す神社は、
明治になって”六神石神社”と表記を変えたそうだ。

日の暮れる前、県道35号線脇、糠前の六角牛神社に参ったのだが、
そでは私は何も見出せなかったので、
”角牛”を”神石”と変えた六神石神社を見てみたくなったのだ。

はたして、砂利道の行き着くところが六神石神社だった。
狭い砂利道が急に開け、巨大な駐車場が現れた。
観光バスが停まるのでも無ければ、こんな大きな駐車場は
必要ないと思うのだが…
あるいは、よほど地元の人の来訪が多いのか?
遠野観光協会のマップにも載らない砂利道の果てにしては、
いささか大げさすぎる。

駐車場に車を乗り入れると、向かいの一件家で番犬が吠え立てる。
普段はこの時間に余所者が来ることなど、まず無いのだろう。

鳥居は山の麓にあり、四方を森に囲まれている。
きっと昼間でも薄暗いのだろう。
まだ辛うじて日はあるが、境内には電灯もなさそうなので、
私は懐中電灯を用意した。
さすがに夜の神社は怖い。

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鳥居脇の”六神石神社”の文字の上には鉄枠があり、
”六神石神”とでも読ませていたのだろうかと勘ぐってしまう。

日があるうちに本殿まで行こうと、一気に参道を駆け上がったが、
なかなかたどり着かない。
辺りがどんどん暗くなるに従い、胸中もどんどん不安になる。
ようやく社務所のある広場にたどり着くと、急に視界が開けた。
本殿前には赤い灯籠があり、何故か菊の御紋。
そういえば、”ろっこうし”は別名”六皇子”と書いたり、
実は祭神は女神ではなく住吉三神だったりと、
なにか中央と関係がありそうだ。
鳥居から真っ直ぐ本殿まで伸びる参道なども、
遠野に似つかわしくない立派な配置である。

本殿とその脇に1つ、背後に4つの摂社。
合計6つの社が存在する。だから六神石なのか?
本殿は住吉三神として、背後の社は古峰神社、稲荷社、
日本武尊と、後は確認できなかった。
いずれにせよ遠野とはあまり縁のない神々である。

ああだこうだと見て回っているうちに、辺りはすっかり暗くなった。
地明かりを頼りに、これが最後と社務所脇の建物をのぞき込む。
なにやらキラリと光る文字。
なんだ?と思い懐中電灯を点けると…


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巨大な獅子頭なのか?御輿なのか?
額の上に「六角牛大権現」の文字。
一瞬、直江兼続公を思い起こしてしまった…
否、ふと見てはいけないものを見てしまった気がしてしまった。
もっとも、真っ暗な社に光を当てて暴こうとする、
後ろめたさがそう思わせたのだろうが。

どうやら六神石神社でも盛大なお祭りがありそうだ。
この大権現がどのように活躍するのか、この目で確かめてみたい。


さて、帰ろうかと思っていると、なんだか辺りが騒がしい。
カサカサカサと森を移動する音、木を揺さぶる音、
キイーーー!!キイーーー!と叫ぶ声。
猿の経立だ!

「この地方にて子供をおどす言葉に、
六角牛の猿の経立 (ふったち) が来るぞといふこと
常の事なり。この山には猿多し。」(遠野物語第47話)

遠野物語の一節が脳裏によぎる。
しかもこれは、明らかに威嚇されている。
暗闇の中、四面楚歌だ。
私は一目散に逃げ出した。
神域ではあまり派手なことをするもんじゃないな。





遠野の伝承園で見た映像の片隅に、ちらっと異様な神社が映っていた。
駒形神社としか分からなかったが、とにかく私は惹きつけられた。
駒形神社といえば馬の守り神。馬産地として有名な岩手のこと。
遠野周辺だけでも駒形神社は沢山ある。
一体どこの駒形神社のなのか分からないので、
とにかく駒形神社を見かけたら立ち寄るようにした。


まず初日に行ったのが、二社。
上組駒形神社と錦織駒形神社。
上組は遠野駅の近く、上組集会場のそばにあって、
車を停めにくいのと、コンクリートに囲まれた環境をみてパス。

もう一社の錦織駒形神社は、遠野の外れにあった。
赤い鳥居を潜ると、道の両側に山百合が何十本と咲き乱れ、
辺り一面に百合の香りが充ち満ちている美しい神社だったが、
私の求めていた駒形神社ではなかった。
境内の案内板に以下の文があった。

 「もとは蒼前駒形明神をまつり、
 のちに男性器の形の石棒を御神体としています。
 若い女たちが田植えの最中に眼鼻のない のっぺりとした子供に
 赤い頭巾をかぶせて背負った旅人が通り、
 置いていったのがいまの御神体とされています。
 境内の竜石の話もあわせて「遠野物語拾遺」
 第14話と第15話にのっています。」

境内の雰囲気と違って、気持ちの悪い話である。
残念ながら石棒の御神体も竜石なるものも確認できなかった。

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翌日。

早池峰神社例大祭のあと、再び遠野に繰り出した。
目指すは附馬牛の駒形神社。
この神社、昨日伝承園でもらった観光マップには
載っていなかったのだが、カーナビで表示されているのを偶然発見した。
と言っても、山の中にポツンと鳥居マークがあり、
道は表示されていない…

ともあれ行ってみた。
県道160号を早池峰から遠野市街に向かう途中、
猿ヶ石川と荒川が合流する地点から山道に入っていく。
わりとすぐに見つかったのが、元駒形神社。
元駒形神社は祠とご神木だけの小さな神社だったが、
駒形神社はそのさらに山の奥だということが分かった。

道の感じから、そう遠くでは無いだろうと踏んだ私は、
元社の脇に車を停めたまま、徒歩で山道を進むことにした。


ところが、いつまでたってもたどり着かない。
しばらく歩いたが、やはり車で行こうと引き返していたところ、
地元の人らしき、ヒゲのおじさんに出くわした。
挨拶ついでに駒形神社の場所を聞いてみた。
「*****んだ」
しまった、ひどいなまりでよく聞き取れない。
どうも、この道の先なので歩いて行く方が良いと言っているようだ。
自転車を押して歩くおじさんと、道を共にした。

歩きながら、家はこの辺なのかと聞くと、
うんにゃ、この先だ、と道の先の山中を指さす。
一人で暮らすのが気が楽だと言っていたが、
山中に住んでいるのだろうか?
私はふと、遠野物語の山男を思い起こした。

ついでに駒形神社に来た理由、牛馬をなだめる猿の信仰の事を聞くと、
「それは分からないが猿と言えば…」と続く。
附馬牛にある伝承。
昔、川の上流から猿と馬が流れてきた。
それをおばあさんが拾って飼ったが、両方ともすぐに死んでしまった。

聞き取れない部分も多いのだが、大体はこんな話だった。
何のとりとめのないところが、ある意味遠野物語的ともいえる。
だが、そんな話は柳田翁の作品には載っていない。

そして、こんな事を付け加えた。
「遠野で猿というと、河童のことだ。」

私は「えっ!」と思った。

遠野物語第59話、
「外の地にては河童の顔は青しというようなれど、
 遠野の河童は面の色赤きなり。」

赤い顔と言えば猿を連想する。
しかし、河童は馬にとって、守護神どころか天敵のようなもの。
河童が馬を淵に引き込もうとする話は、全国に分布している。
何らかの因果関係がありそうだが、
おじさんからはそれ以上の話は得られなかった。

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10分くらい歩いただろうか。
山道の終わりに駒形神社はあった。
朽ちかけた赤い鳥居の連なりが、二方向から伸びている。
「この鳥居も修理したいんだが…」とおじさん。
あれ?境内までも案内してくれるのか?
それにしても、まだ日中だというのに薄暗く、
鳥居の結界を潜ると、明らかに何か異様な空気を感じる。

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神門向かって右には大きな絵馬が、
そして左の縁台の上にも絵馬が立て掛けてあった。
それどころじゃない、門の中は絵馬やら馬の写真やらで一杯だ。
神門の右脇に手水舎があり、「ここの水がうまいんだ」とおじさん。
なんと親切なおじさんか。至れり尽くせりである。
神門を抜けると、気が遠くなるほど急な階段。
しかも朽ちかけていて危なっかしい。
それでもおじさんは一緒に登ってきてくれた。

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階段を登り終えると、そこが本殿。
これはすごい!鉄剣だらけだ。
右も左も正面も、至る所に鉄剣が奉納してある。

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私は到達感から、少し長めに感謝を祈った。
そして、振り返ると…


おじさんが消えていた。


嘘のようだけど本当の話である。
場所が遠野なだけに、不思議なことも不思議でなくなる。



本殿向かって右側に、小さい鳥居があった。

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祀られているのは、石板と石棒。
そしてその脇には、またしても大きな鉄剣。

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両早池峰神社でも、本殿の右側に大きな鉄剣が奉納されていたが、
ここも同じく右側だ。
それにしても、早池峰神社の鉄剣は、修験関係で納得いくのだが、
駒形神社に鉄剣とは意外だった。
これの意味するものは一体…?

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ところで、神門向かって右側に、神馬舎がある。
昨日見た強烈な印象の映像は、この神馬像だった。
駒形神社だから神馬像があって当然なのだが、
なんだかこの神馬像はうつろな目をしていて、
薄気味悪い印象を受ける。
鳥居同様、朽ちかけボロボロだ。
対面してみると、ずっと感じていた異様な空気は、
この神馬像から発している気がしてきた。
何かを訴えるために、私を導いてきたのだろうか?

結局ここには、馬を慰める駒引き猿の関係のものは何もなかったが、
慰めるべき神馬の訴えを聞いたような気がする。
神霊の宿る依代を撮る行為は無償ではない。
その一つ一つが自分の肩に寄りかかってくる事を
覚悟しておかなければならない。
果たして私はそれに答えていくことが出来るのであろうか?
問答はまだ始まったばかりである。




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距離はないが、結構キツイ山道だ。
御輿を担ぎ上げるのが大変そうである。
宮司が遅れて慌てて追いかけて来るなど、
微笑ましい一面があったのは、なんとも村祭りらしいことである。

山の中腹に少し開けた場所があり、そこに祭壇が設けてあった。
各集落の獅子頭を次々に並べて置く。
あとで地元の人にこの場所の意味を聞いたところ、
ただ神社の境内が狭くなったので、この地に場所を移したとのこと。
それにしては、この山中も狭いのだが…
霊感はあまりない私であるが、この場所はなにか神聖なものを感じる。
のは、気のせいであろうか?

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獅子頭がこれだけ並ぶと圧巻である。

祭壇の中央に御輿と巨大獅子頭が鎮座。
荘厳な空気の中、宮司が祝詞を奏上。

さすがに写真は撮れなかった。
一人、写真を撮っている人がいたが、
私はこの場では祈りの妨げになることはしたくないと感じた。
自己満足のために神聖な祈りを汚すことは躊躇われる。
第一、写真を撮れる空気ではないのだ。
張りつめた空気の中、祝詞が大地に響き渡る。
森の木々さえも息を潜める。
私はこの場に居合わすことが出来たことを幸いに思った。

祝詞奏上が終わると、権現舞が奉納された。
岳集落と大償集落、双方による奉納だ。
昨夜と同じく、まずは岳の早池峰神楽から。

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囃子方の奏でる楽曲に合わせ、扇を使った舞を舞う。
開けた場所と言っても、ここは傾斜している。
この場で舞うのはとても大変な技量が必要だろう。
そして舞も大詰め、権現様と一体化しての獅子踊り。
延びたり縮んだりと大暴れだ。

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そして、大償神楽。

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集落を分けるためか、装束の色が違っている。
こちらは年配の方で、巧みな扇子さばきが堂に入っていた。

そもそも、この二つの集落がなぜそれぞれに神楽を伝えるのか。
大償神社神主の佐々木氏に残る記録「日本神楽之巻」には、
長享二年(1488)、早池峰開山に関わる山陰氏が神主を務める
田中神社から、大償神社の佐々木氏に
山伏神楽が伝えられたと考えられる文が残っているそうだ。
対する岳集落は、早池峰神社と6つの宿坊を中心とした集落で、
起源は分からないが、この6坊の修験者が伝え残してきたものが
早池峰神楽(岳神楽)と呼ばれている。
これら二つの神楽は、ともに競いながらも、
両者合わせて阿吽の舞いになっているといわれているのだ。

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山中での神事も終わり、神社に向かって帰って行く。
山の神の面を先頭に、行列を作る。
と思ったら、昨夜の神楽で山の神を演じた面は、
この日は猿田彦の役なのだという。
確かに道先案内は古来から猿田彦の役回りだ。
先日の写真の庚申信仰関係と思われる「くくり猿」といい、
一の駒の札の「馬と猿」の組み合わせといい、
どうも早池峰は猿に縁があるように思われる。

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神社の鳥居の前で子供達が踊ったあと、
宿坊街をさらに奥に進んでいった。

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どこまで行くのか?まさか各集落を回るのか?
と少し不安に思っていたが、別当寺の妙泉寺跡にある駐車場で
最初と同じように八幡を子供達と舞い、
神社境内に引き返していった。

妙泉寺は、明治の神仏分離によって、早池峰神社と分けられた寺。
詳しいことは分からないが、その跡地で舞うことも、
何かの意味を持っているのだろう。


山中での神事も終わり、みんなの表情もくだけてきた。
神輿の担ぎ手のおじさんの笑顔がまぶしい。

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そして祭りも終局に。

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この石段、かなり急なので、
重い神輿を担ぎ上げるのは相当気合いが必要だ。
ちなみに、冬はこの石段を裸でもみくちゃにされながら降りるのだ。


本殿前で神輿を降ろし、裃の人たちが本殿に向かって走る。
何故走るのかは分からないのだが、
祭りの始まる前にも石段を走り上がっている姿を見た。
本殿の中では、終了の儀式を行っているのだろう。
本殿下では、白装束の担ぎ手達の後ろ姿に、
祭りのあとの、興奮と安堵がにじみ出ているようだった。

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翌日、再び早池峰神社へ。
昨日の夜神楽は宵宮といい、本来は8月1日が例大祭。
これまで夜神楽は見たが、本祭は見たことがなかった。
それは何故かというと、夜神楽の後飲み明かして、
翌日はとても早起きできる状態では無いから…
というのは半分冗談なのだが、とかくこの早池峰神社例大祭、
夜神楽ばかりが知名度が高く、日本全国から観客が来るというが、
翌日の例大祭の話はとんと聞かない。
はてさて、例大祭とはどのようなものか?
私の期待は高まるのであった。

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神社に着くと早速、人が集まりつつある本殿前の広場へ。
本殿では、宮司が神事を執り行っていた。
外には裃を着た人々が、神妙に聞き入っている。
今回は中まで入ることは出来なかったが、以前春先の蘇民祭に来た時は、
宮司が御神前に献饌、祝詞を奏上し、
コマ(蘇民祭ではこのコマを取り合う)
を清めていた。
今回もかなり長い間、神事が執り行われていたようだ。

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本殿前に広場では、神輿や巨大な獅子頭が中心に据えてあり、
白装束姿の人々、山伏姿の人々、
白と青や黄を基調にした祭装束を着た子供達が、
緊張した面持ちで祭りの開始を待ちわびている。

祭りの開始は、本殿から出てきた宮司たちが、
御神体を神輿の中に移すことから始まった。
4~5人の神職者が輪になり
中心に抱え持った錦に包まれた(様に見えた)御神体を
衆目に晒さぬように神輿に運ぶ。
ちょうど私のそばにいた地元のおばさんが、
「御神体が見えたわ。運がいいわ。」
などと言っていたので、私もきっと運が良かったのだろう。
一瞬だったが、神輿の中心部にある小さな祭壇に、
御神体を移しているのが見えた。
なるほど、神輿にはちゃんと神を乗せるものなのだ。
こんな近くでその作業を見たのは初めてだったので、
改めて神輿の意味を認識したのだった。


そして、各集落の獅子頭が集まり、群衆が動き出す。

早池峰一帯の各集落には、必ず獅子頭があり、
早池峰神楽から伝播した神楽が伝わっている。
本来この神楽は、修験者のみが行う加持祈祷の舞であった。
それを、元禄から弘化にかけての百五十年間に起こった大飢饉の際、
豊穣を願う農民たちのために修験者たちが伝授したものだそうだ。
また修験者たちもその謝礼によって飢饉を乗り越えたのだという。
そこから、早池峰神社の神楽は発達して行ったのだ。


広場の混乱が次第に秩序を持ち始め、
ついには子供達と獅子頭達が輪になっていった。

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中心では、剣舞が行われる。
衣装からして、八幡だろうか。
昨夜の八幡は扇と弓が中心だったが、ここで舞われているのは、
剣と剣を打ち合う勇ましいものだ。
しばらく打ち合った後は子供たちの輪に混じる。
子供達はそれに合わせて内に外に御幣を振りかざす。
そして一連の舞を終えた後、行列は御輿を伴い
石段を降りて行くのだった。

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石段を降りた一行は、片方は鳥居脇の広場へ、
もう片方はそのまま神社外へ。
予想外の動きだ。私は迷ったが、
神社外へ延びる行列に着いていくことにした。
どうやらこの判断は正解だったようだ。
この後、神聖な儀式を間近で見ることが出来たのだ。
一の鳥居を潜り、そのまま宿坊街を抜けた一行は、
木々生い茂る山の中腹へ入っていった。

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つづく


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