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2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

全開にした車の窓からは、夏草の匂いに混じって
時々農場の濃い匂いが鼻を掠める。
伸び気味の髪の毛は風に踊り、快適な運転を妨げるので、
その度に私は髪をかき上げるが、その仕草さえも気持ちいい。
ビーナスラインを飛ばす私。
夏休みだというのに車は他に見当たらず、自然と速度はあがっていく。

目的地は八島湿原の近く、旧御射山(もとみさやま)遺跡だ。
空と草原しか見えない、だだっ広い霧ヶ峰の高原に、
日本版コロッセウムともいえる、大競技場があったのである。

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さかのぼること鎌倉時代、山の傾斜を利用した競技場には
将軍はじめ、鎌倉幕府のそうそうたる武将が桟敷を連ね、
巻狩り、鹿撃ち、相撲などの競技を観戦した。
この神事・御射山祭は毎年7月26日から29日まで行われ、
信濃の豪族が交代で穂屋に籠もり豊作を祈る一方で、
信濃の氏人が騎射等の腕を競って諏訪明神に奉納したとされる。
起源は古く、いつから始まったかは分からないのだが、
平安時代から鎌倉時代(特に鎌倉時代に北条氏の信奉厚く全盛期)
に栄え、元禄年間に上社と下社の抗争が
激化してのち衰退したそうだ。

今でも、宮司が出てきて厳かに神事が行われるそうだが、
もちろんかつてのような盛大な祭りというわけにはいかないだろう。
私としては、古代から延々と続く御射山での神事に、
ミシャグチ神との関連を想像してしまう。
”みさやま”と”ミシャグチ”
その音の響きに、偶然ではない何かを感じてやまないのだ。


さて、旧御射山遺跡の案内板のある場所から草原に入っていく。

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案内板には、誰がどの場所で桟敷を使ったなどと詳細に書かれているが、
辺りを見回してもビックリするほど何もなく、
とても桟敷跡を探し歩く気にはなれない。
比較的近場に「看御射山競技場跡」と刻まれた碑があったので、
これで良しとしよう。

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さて、この広大な敷地の中心、つまりは一番深い場所に
こんもりと木が生い茂った場所があり、
当然の如くそこに引き寄せられていくと、木の中に祠があった。
祠の前では年配の女性が祝詞をあげていて驚いた。
人っ子一人も居やしないと思っていたのに、
一体どこから来たのだろう?
耳を澄ますが、あまり聞き慣れない祝詞のようだ。

その人の参拝が終わるまで待って聞いてみたところ、
ここ旧御射山神社は、この方の氏神だそうだ。
霧ヶ峰高原のど真ん中、民家といえばペンションくらいしか
見当たらないのに、ちゃんと氏子が存在していることに感動した。
女性が立ち去るの方を眺めると、腰辺りまである草原の中をを
ビーナスラインに向かって突っ切って行くのが見える。
いや、もしかしたら道があったのかもしれないが、
地元の人以外は絶対に分からない道だろう。

私も参拝し、写真を撮る。
夕暮れ前の黄色い光に照らされ、神域が浮かび上がる。

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例によって祠の周りには御柱が四方に建っている。
石碑の文字は、達筆すぎてちょっと読めなかった。
祠はとても小さな石製の祠で、ここにかつて将軍も参加したほどの
権威ある祭りが行われていたなんて、にわかに信じられない。
だがそれは事実なのである。



帰りは、来た道と違う道を通ってみた。
なんと、ここにきて初めて旧御射山神社の文字を見た。
こんな草原の真っ直中に看板を置いても、
この看板までたどり着く方が難しいだろう…

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実は諏訪に何度も行っているのに、
下社秋宮には今まで一度も行ったことがなかった。

私の妻の家は上社本宮の氏子なので、何かある度に上社に行くのだが、
こと下社に関しては、諏訪湖の向かいにも関わらず、
全くと言っていいほど参らない。
たまに行く事があるとすれば、下社秋宮横の、
諏訪名菓”新鶴の塩羊羹”を買いに行くくらいである。
なにやら妙な対抗意識というかなんと言いうか、
言葉では言い表せない何かがお互いの歩み寄りを
邪魔している感じがする。
いや単に、下諏訪がいつも混んでいるから
行かないだけかもしれないが…
従って、私も自然と下社側、特に秋宮には足が向かなかった。

しかし、諏訪を語る上で、下社の存在は避けては通れない。
今回は意を決して、新鶴の塩羊羹を買いに行くついでに参ってみた。


先に諏訪大社を知らない人のために解説しておこう。
諏訪地方は、大まかに言うと諏訪湖を中心にして
南は上諏訪、北は下諏訪に分かれている。
上諏訪には上社本宮とその前身といわれる上社前宮があり、
下諏訪には下社春宮と下社秋宮があり、
こちらは季節ごとに神が移動するという。
しかも全てが信濃国一の宮だ。
基本的に上社は男神・建御名方命を祀り、
下社はその妻・八坂刀売命を祀っており、
諏訪の昔話では、この夫婦が喧嘩して別居したことになっている。
諏訪湖畔の温泉は、妃神が家を出るときこぼした涙だそうだ。
しかしそこは夫婦のこと、真冬に男神が妃神のもとへ
通う道が、有名な諏訪湖の御神渡り(おみわたり)である。
上下共に本殿を持たず、上社は守屋山を遙拝し、
下社春宮は杉のご神木、下社秋宮はイチイのご神木を神体とする。
七年に一度の御柱祭は、山の上から木を落とす奇祭で、
これも上社と下社でちょっと違うのだが、
そのレポートは4年後にでも書きましょう。


とまあ、ざっと書いてみたが、実際行ってみると
上社と下社は随分毛色が違うことに気付く。
上社は山の傾斜を利用して作られた神社なのに対し、
下社は平地に建てられていて、社殿が豪奢な作りになっている。
それもそのはず、今の社殿は江戸後期に
春宮を柴宮(伊藤)長左衛門、秋宮を立川流・立川和四郎富棟
という宮大工の名工に競わせ建てたものなのだ。

そして特徴的なのは、秋宮神楽殿の巨大な注連縄。

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出雲大社ほど大きくはないのだろうが、それでも太さは1m位ある。
*ちなみに私の母方の実家は島根だが、
出雲大社は行ったことがないのだ…


そんなこんなで、同じ上社と下社は
同じ諏訪大社とは思えないほど違う。
これはきっと系統が違うのだろうと思っていたら、
やっぱり違ったようだ。

諏訪市博物館で見た古代の住民の変革図によると、
縄文時代の集落跡は八ヶ岳~上諏訪に多く、
弥生時代の遺跡は下諏訪湖畔周辺に多い。
下諏訪側に出現した弥生人は安曇族の特徴を持つのだが、
この安曇族が少し難解。
海人津見(あまつみ)から転化した海人族で、
広く海運に携わっていた氏族なのだという。
北九州を根拠とする安曇族が糸魚川から侵入し、
定住したのが信州安曇野の地。
この安曇族が北九州に伝わった稲作文化を
日本各地にもたらしたとされ、信州ももちろんその一つ。
それを証明するように、縄文系の上社の神事は
御頭祭のように、狩猟との関係を色濃く残すのに対し、
弥生系の下社の神事は、御田植神事のように、
農耕色の強いものが多いのだ。
そもそも下社の祭神・八坂刀売命は穂高見命の妹神とされ、
穂高見命は綿津見神(わたつみ)の嫡男。
綿津見の別称が安曇の語源となった海人津見(あまつみ)、
とくると、八坂刀売命は安曇族の姫だと言うことが分かる。
それにしても壮大な話だ、頭が混乱する。
建御名方命と八坂刀売命がいつ結婚したかに関しては、
情報がないので、この先は全て私の想像になるが、
糸魚川の拠点(彼の母は糸魚川の奴奈川姫)から
信州に進出する際、安曇族と婚姻関係を結ぶことによって、
協力を取り付けた、なんてこともあるかもしれない。
(安曇野の歴史はまだ調べてないので何ともいえないが。)


諏訪の神は、ミシャグチ神に代表される縄文系の蛇神信仰が、
いつの間にか竜神信仰に変化していったようだが、
AYUさんによると龍は水田農耕時代に輸入された水神だそうで、
その概念はこの時期に安曇族と共に入ってきたものかもしれない。

そんなことを考えていたら、御柱祭で使う縄でさえも、
とぐろを巻いた蛇や龍に見えてくるから不思議である。
もっとも、これはもともとその意味を
含ませているとも言われているようであるが…

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国道20号を上諏訪から下諏訪へ向かう途中、
ちょうど上諏訪駅を過ぎて、中央線と交叉した先を曲がる。
セイコーエプソンの工場の裏手に、目的の神社があった。

この神社、少し変わっているのである。

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先宮神社
祭神は「高光姫命」(たかてるひめのみこと)
別名「稲背脛命」(いなせはぎのみこと)
「諏訪神社の祭神「建御名方命」が出雲より、
州羽(諏訪)の地に遷御された以前より、
すでに原住民の産土神であった。
しかし「建御名方命」が諏訪神社に鎮座した当時、
国ゆずりの為抵抗したが遂に服従し、
現在の社地に鎮座することになった。
この事により、他地に出ることは許されず、
今でも境内前の小川には橋を架けないとの言い伝えがある。」
当社の由緒書にはこうあった。

その言い伝えは本当だった。
確かに境内鳥居前の小川に橋は無かったのだ。
まぁ、小川と言うよりは溝なのだが、
跨いで外に出れるら!などとは言ってはいけないのである。


神話の時代、建御名方命は天孫族の追求を逃れ諏訪の地に至ったが、
遂にこの地で天孫族に降り、諏訪の地から出ない事を誓った。
故に、諏訪の神は十月になっても出雲に集まらなくてもよく、
神無月とはいわずに、”神在月”というのである。
また一説では、神社の四方に建てる御柱は、
この地から出ないことを示す結界だといわれている。

上諏訪の洩矢族が、建御名方命の下で重職に就き
大いに繁栄したのに対し、なぜ高光姫なる人物は、
建御名方命と同じように、自由を奪われたのだろうか?
これがさっぱり分からない。

また、別名の稲背脛命は、出雲の国譲り神話で
武甕槌命たちと大国主との談判をまとめた神で、
備中神楽では「国譲りの能」の道化役として登場するが、
それ以外ではあまり有名な神ではないようだ。
国譲りをまとめてしまった仲裁役を、
抗戦派の建御名方命は憎んだのだろうか?

いずれにせよ分かるのは、この神社に橋を架けてはいけない、
という伝承があり、それが今でも守られていることだけである。
本殿横の大ケヤキだけが、その秘密を知っているのだろう。

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