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2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

謂伊神社へやって来た目的は、
「謂伊神社境内遺跡」、
通称「天白磐座遺跡」を訪れる為である。

謂伊神社の裏にある薬師山(標高41m)の頂上に位置し、
約40m四方に渡って群在する巨石群。
平成元年の発掘調査によって、
古墳時代前期から平安時代に至る長期間、
連綿と続いた祭祀場であったことが証明された、
日本屈指の規模を持つ古代祭祀場である。

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謂伊神社下手脇から薬師山に分け入ると、
早速大きな岩に遭遇。
これはかなり期待できる。

薬師山はなだらかな山なので、山頂に向かって真っ直ぐ進む。
もともと小さな山のこと、道を間違えることもない。
何しろ頂上にあるものがあまりにも大きすぎて、
迷いようがないのだ。

時計はもう既に夕刻を指していた。
薬師山を覆い包む背の高い樹木の為に、
山全体が薄暗い印象を受けるのだが、
木々のすき間から降り注ぐやわらかな光の束が
頂上の岩を静かに浮き上がらせている。
静謐な緊張感の中で私は磐座と対峙した。

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大きな岩が3つ、それぞれの岩を線で結ぶと、
三角形の空間が出来上がる。
古代の人々は、この空間に神が降臨すると考え、
祭壇として祀ったのである。
そう断言できるのは、発掘調査の出土物によって、
時間軸で祭祀形態の変化が分かるからだ。

この三角形の空間から出土されるのは、
縄文土器、弥生土器、時代が飛んで鎌倉時代の経塚関係遺物、
江戸時代の古銭類。
このうち縄文~弥生時代の土器片は、
祭祀とは関係ない可能性が指摘されている。
そして磐座が祭壇として機能したとされている古墳時代の遺物が、
この空間から一切出ていないことが重要で、
古墳時代の祭祀関係遺物は一番大きな岩の側、
上の写真でいうと下手の大きな岩の下手側の地中から出土しており、
このことは、三角の空間は神の降臨する聖域として、
その手前の岩陰で祭祀を行ったことを物語っている。

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今ではその場所では大きな木が岩と同化していて、
長い長い歴史をその造形に感じとることが出来る。


時を経て仏教文化華やかなるころは、
磐座は本来の意味を失い、経塚として機能したようだ。
鎌倉時代の渥美窯製の経筒外容器が
三角の空間から出土している。

江戸期には、民間信仰の中で磐座は生き続けていたのだろう。
硬貨をお供えする心理は、現在の民間信仰に通じるものがある。

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そして現在、学問研究のおかげで本来の意味を取り戻した磐座は、
貴重な遺跡として考古学ファンの聖地となっている。
祭祀の有無は分からないが、注連縄が張られ岩の上には祠があった。


さて、この磐座は何を祀っていたかというと、
その名の通り、引佐北方にある天白山かと思っていたのだが、
氏子総代に聞くと、どうも違ったようだ。
天白は、ここの地名である井伊谷小字天白に
由来しているのだろう。
今は木々に隠れて見えないが、
磐座から北東の方向に位置する三岳山を祀っているそうだ。
三岳山の名の通り、3つの山が連なっていて、
そのような山が古代の信仰対象になっていたということを
全国の遺跡を調べて回った井上香都羅氏が唱えている。
また氏によると、そのいわゆる神山信仰の対象は祖霊である。
お盆などに祖霊が山から戻って来る観念は、
日本人には受け入れやすいものだと思うが、
まさにその原点なのではないだろうか。


彼岸花の咲く秋の夕暮れ、この地の遙か昔の民の、
素朴な祈りに想い巡らすひとときであった。

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9月中旬のとある土曜日。
妻のジュビロ磐田戦に付き合って、静岡西部に赴いた。
スタジアムに妻と友人を降ろし、ふらふらとドライブ。
私が普段神社や遺跡を巡るのは、大抵が何かしらの所縁を感じたところ。
静岡西部の地には初めて降り立ったこともあり、
特にこだわりもなかったので、
午前中は浜松城や三方原古戦場などを観光した。

浜松といえば、天竜川の河口。
出発前に少し調べたところによると、
この辺りにも縄文遺跡が多く、太古から栄えた地域だったようだ。
浜名湖畔まで行くと、古代祭祀場の遺跡もあるというので、
そこに行ってみることにした。
とりあえず遺跡名と大体の住所だけを控えて来ていたのだ。

三方原からさらに北に車を走らせ、
ふとナビを見ると鳥居マーク。
実は私のカーナビは古い機種なので、
詳細表示にはからっきし弱いのだが、
由緒ある神社や寺はしっかり網羅しているので便利なのだ。

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先に進んでも良いのだが、何故かふと寄ってみたくなった。
彼岸花の咲き乱れる参道脇の駐車場に車を停める。
地元の人だろうか、家族総出で境内を掃き掃除、
微笑ましい光景だ。

式内社の蜂前神社。
社伝によると、応神11年に八田毛止恵が、
勅命により遠江国へ下向し、この辺りを開墾したのが始まりだという。
私の実家も八田という地名なので、
偶然とは言え何だか親しみを感じた。
参拝し、掃除をしている方に神社のことを聞いてみると、
とても親切な方で、神社のことや今から行こうとしている場所のこと、
その他諸々色々なことを教えてくれた。
旅先でここまで親切にして頂いたのは久々だ。
Iさんには、この場を借りて重ね重ねお礼を申しあげます。


さて、目的地の地図まで書いてもらったので、
謂伊(いい)神社の場所はすぐに分かった。
もののついでに、南朝・後醍醐天皇の第四皇子である
宗良親王の軍事拠点にして終焉の地である井伊谷宮と、
井伊家の菩提寺・萬松山龍潭寺にも立ち寄る。
そう、この地は徳川四天王として名を馳せた、
井伊氏の本貫地だったのだ。
また井伊氏がこの地に根付く以前は井の国と呼ばれていて、
縄文・弥生の遺跡、古墳が数多く残され、
水にまつわる伝説も多いという。
一時は2万年前の人骨かと思われていた、
三ヶ日人(その後の研究により縄文人と訂正)の発掘された
三ヶ日もすぐ隣にあり、一気に謂伊神社への期待が高まる。

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謂伊神社は一見ごく普通の神社だった。
祭神は玉依姫命 品陀和氣命 息長足姫命。
近世までは正八幡宮と呼ばれていた神社である。
案内板には数多くの摂社の名が連なってるが、
ただ一つ、変わった名前の摂社があった。
「モロード様伊豆社」

ただ、境内のどこを探しても見つからないので、
社務所で何やら作業をしている人たちに聞いてみた。
その人たちは、10月にあるお祭りの為に、
新しい注連縄を作っているそうで、太い藁を束ねてよじり、
はみ出た藁をはさみで切っていく作業はとても大変そうだった。
モロード様について聞くと、氏子総代の方が出てきた。
口では分かりにくいから案内してくれるそうだ。
「今日は神主が葬式に行ってるから、詳しいことは分からないよ。」
と言いながらも、神式葬式のことや
昔の謂伊神社がものすごく広かったこと、
今度行われる珍しい祭りのことなど色々と教えてくれた。

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そしてたどり着いた場所が意外だった。
上の写真の本殿の裏の細いすき間を通り抜け、
本殿上手奥のちょっとしたすき間に、モロード様が祀られていた。

このややこしい道を通るしかモロード様には会えないようだ。
経験上、本当の祭神は本殿上手奥に祀られていることが多いように思う。
このモロード様、総代の人も一体どんな神様なのか
まったく分からないと言っていたが、
この神社の本当の祭神なのかもしれない?

モロード様というと、間違いなく客人神(まろうどかみ)のことだろう。
一説には天孫系の神に祭神の地位を奪われ、
客人扱いされている神様なのだという。
また一説には客人神の分布が、
製鉄に関わる遺跡・地名の分布と重なることから、
出雲の客人・少彦名神に関係しているともいう。
正体の分かっている客人神としては、
埼玉の氷川神社の客人神が有名で、
なんとその正体はアラハバキ神だとされている。
氷川神社は出雲の斐伊川に鎮座する、
杵築大社(出雲大社)からの勧請によるもの。
そしてアラハバキ神も、製鉄に関係がある神といわれているのだ。

アラハバキ神といえば、三河にはアラハバキ神を祀る神社が多いという。
そして三河と遠江は隣同士である。
謂伊神社のモロード様は、
アラハバキ神である可能性が高いのではないか!?
(でも伊豆社ってなんだ…?)

そんなこんなで想像をふくらませてしまった。
しかし謂伊神社に来た真の目的は、モロード様ではなく、
もっとすごいものなのだ!


つづく


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