2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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先日のニュースで知ったのだが、
初詣シーズンを前に、ネット参拝の是非を巡って
神社界が揺れているらしい。

 全国約8万か所の神社を管理・指導する神社本庁(東京)は、「ネット上に神霊は存在しない」と、今年初めて自粛を求める通知を出した。しかし、導入している神社からは「神社に親しみを持ってもらえる」「遠方の人の助けになる」との声もあり、本庁では頭を抱えている。とのこと。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061216it04.htm

ネットで参拝とは横着甚だしい。
と最初は思っていたのだが、それがそうでもないようだ。
案外心配するほどの問題ではないのかもしれない。

初詣はともかくとして、それ以外で神社に行くことといえば、
何かの祈願の為、というのが圧倒的に多いだろう。
祖霊崇拝が仏教の専売特許となって以来、
苦しい時の神頼み、が八百万の神との正しい付き合い方なのだ。
特定のご利益が全国的に有名な神社、
例えば合格祈願なら太宰府天満宮、縁結びなら出雲大社
などがあるが、まぁ合格祈願も縁結びも、
実際に神社を訪れた方が、ご利益を得た気分に浸れるだろう。
だが、病気などで外出ままならない人にとっては、
それこそ藁にもすがる思いで祈祷を申し込む人もいるはずだ。
病は気から。まさにそのことである。

考えてみれば、インターネットが普及する前には、
手紙で祈願を受け付けたり、郵便が発達する前は
村の誰かが代表してお札をもらってきたり、
または村に分社を勧請したり石碑を建てたりと、
その時その時の事情に合わせて、便利に解釈されて来たものだ。
ボタンをポチッと押すだけのネット参拝も、
きわめて現代的な解釈である。
ただ、それでは満足できない人が必ず出てくるはずである。
ご利益はその祈願が大変であればあるほど、
より実感をもったものになるのだ。
ポチッと参拝で満足する人、遠くの神社まで参らないと
気が済まない人、色々な祈願の形があっても面白い。


それよりも、一年の挨拶である初詣に、
明治天皇を祀る初詣ランキング一位の神社に赴くよりも、
ネットでもいいから故郷の氏神様を検索してお参りしてみる、
なんてことのほうが、案外重要なのかもしれないな。

はてさて、今宵は他国の聖者の誕生日。
色々なケーキが楽しめる日である。
みなさんいかがお過ごしでしょうか?


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甲府盆地の北方、金峰山の各登山口には
金桜神社の里宮が鎮座している。
一番有名なのは昇仙峡も近い甲府市御岳町の金桜神社だが、
ちょうど近くを通ったので、牧丘町の金桜神社も訪れてみた。

御岳町の金桜神社とは違い、こじんまりとした境内であったが、
本殿背後のご神木が立派であった。
真っ直ぐに立つ一本の杉。
のどかな境内だが、ご神木の周りだけは、
ヒシヒシと霊気がみなぎっていた。

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ところで、案内板にちょっと面白いことが書いてあった。

「社記によると、仁寿3年(853)3月
天台宗智証大師により大和国より勧請した鎮守社という、
旧社地は高原といい、金峰山東登山道の御料林内にあり、
往古の石積や礎石、古代文字を刻む石碑などが残されている。」

古代文字って…

確かに古代文字や神代文字というものが存在する、
ということは知っているが、いかんせん眉唾物である。
なので私は古代文字はあまり信じないことにしているのだが、
こうもはっきりと案内板に書かれていると、見てみたくなる。

私は旧社地へ向かうことにした。




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現社地から琴川に沿って北へ数キロ、
山道の途中に旧社地はあった。

案内板はあったが、そこには先程と同じ文面が、
そして、その奥には朽ち果てた案内板があり、
何とか読んでみる。
どうも、織田軍の甲州征伐の際に焼き討ちされ、
それ以来打ち棄てられたまま、社地を変更したらしい。
こんな山奥の神社まで…と思ったが、
山岳修験の勢力も封じておく必要があったのかも知れない。
最近何かの雑誌で、放光寺の若い僧が中心になって、
廃れてしまった金峰山の修験の道を開拓している、
ということを知ったが、その起点もこの金桜神社の現社地。
戦国当時、この地の修験は相当の力を有していたということだろう。

旧社地に足を踏み入れると、真っ先に目に飛び込んでくるのは
ペンキ塗りの赤い鳥居。
朱塗りの鳥居と違い、どこか毒々しくて落ち着かない。
落ち着かないと言えば、どうも旧社地に入ってからは、
何か異様な空気を感じる。
この時期山に分け入ると、熊が出ないかとソワソワするのだが、
ここでは熊ではなく何か別のものを感じる。
言葉では言い表せない何か歪んだ次元のようなもの、
とでも言うべきか。

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薄暗い森の木々に埋まっているとは言え、
まだ遺構はわずかに残っている。
崩れさった石垣や石段、わずかに残る社殿の基礎。
あちこちに石が転がっていて、苔が張り付いている。
案外雑草が少ないのは、あまり日光が当たらないからだろうか。

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元の本殿のあった場所には、今も小さな社が建っていて、
まったく人が訪れないわけではないようだ。
社の後は急な斜面になっている。
何かありそうなので登ってみたが、
行き着いた先は岩が積み重なってできた壁。
あちこちに転がっている石は、
この崖から生み出されたものなのだろうか。
肝心の古代文字は、どれのことを指しているのか
まったく分からなかった。
模様みたいな亀裂のある石が沢山あったが、
もしかしてそれのことを指しているのだろうか?

時が止まったような山中の聖域。
木漏れ日だけが、刻々と時を刻んでいた。

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大石神社の長い長い石段を降りている時、
ふと脇にある公園にいる夫婦に目をやったが、
特に気に留めることもなく、私は石段を降りていった。

麓の石灯籠に乗っかっていた石ころを撮影しているとき
(我ながら、なんてマニアックなんだ…)
その夫婦に声を掛けられた。
「磐座ですか?」

普通に生活していて”磐座(いわくら)”
なんて単語を使う人はあまりいないだろう。
それだけでその人が何故この神社にいるのかが理解できる。
同好の士だ。

話をしていると、大石神社の近くの花子薬師のことを教えてくれた。
その方々は磐座の知識が尋常ではなく、
件の薬師もあまり人には知られていない磐座なのだという。
なんでも磐座学会の人らしい。
私はその学会のことはあまりよく知らないのだが、
そういえばmixiで知り合った人がその会に所属していたことを思い出し、
それとなく聞いてみると、お知り合いだと言っていた。
う~む、世間は狭い。

その方々、S夫妻は、親切にも花子薬師を案内してくれた。
大石神社から徒歩数分の民家の裏。
なるほど、これは案内がないとなかなか分からない。

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竹林の中に、無造作に積み重なった巨大な石。
しかしなんだこの積み重なり方は!
学生時代によく食べた、某レストランの
山盛りパフェを思い出した。
今にも崩れ落ちそうな魅力はたまらない。

祠の中を覗くと、小さな祠にこれまた小さな丸石が山積み。
つくづく山積みが好きなようだ。
写真には写ってないが、祠の上には
うっすらと花子薬師と読める板が掛けてある。
その由来は案内してくれたS夫妻も知らないという。
花子…ありきたりな名前だけに、不思議な感じがする。

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S夫妻は何度も来ているらしく、簡単に写真を撮って帰って行った。
きっと他の磐座を巡るのだろう。
夫婦で同じ趣味とは羨ましいことである。
ともあれ感謝。

独りになってすることは、もちろん磐座の周囲を探検である。
上に登れるという話を聞いたので、登り口を探してみる。
といっても大石神社のようにハシゴがあるわけではないので、
ひたすらよじ登る。

岩から岩に飛び移ったりと、軽くインディージョーンズしながらも、
なんとか頂点にたどり着いた。

優美な曲線をもつ丸い岩肌は、
思わずほおずりしたくなるほど美しい。
周囲は高く伸びた木々に囲まれ、
色づき始めた葉っぱの、淡いカーテンに包まれる。
なんとなく、この巨石が花子と呼ばれることにも
頷ける気がした。

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山梨三大石の最後の一つ、大石神社は、
笛吹川に沿って延びる雁坂みちに案内板が出ているくらい、
観光名所としても有名のようだ。
先の立石神社とは、ちょうど天狗山を挟んで反対側、
天狗山の南麓に鎮座している。

長い長い石段を登り、たどり着いた先には社殿。
そしてその背後には、社殿を遙かにしのぐ巨大な岩。
それも一つではなく、複数の巨大な石の固まりが、
デーーーンと山頂に降っていたような印象だ。

祭神は大山祇命。山の神である。
だが、『甲斐國志』ではこの山は物部山であり、
そこに鎮座するのは物部神社としている。
現在物部神社は、大石神社から南西へ10km、
大蔵経寺山の麓に鎮座しているのだが、
そちらでは磐座などは見出すことが出来なかった。

巨大磐座の全容は、高さが12m、まわりが67m。
とても一枚の写真に収まるものではないので、
気になる方は現地に赴いてもらうしかない。
磐座をぐるっとまわると、岩と岩のすき間に
1m四方の空間があることに気が付いた。
そしてそこにはハシゴが…

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これはどう見ても、「登れ!」
と言っているようにしか見えない。

とはいっても、この鉄のハシゴ、
何かに固定されているわけではなく、
バランスを崩すと後に倒れそうだ。
私は高いところ好きの馬鹿なのだが、
このハシゴはちょっと怖かった。

さて、それでも登り終えた私。
眼の前は空。
そして眼下にはさっきまで磐座を眺めていた社殿、
遙か遠くには山梨市街が見下ろせる。

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山頂の磐座の上に胡座をかいて、そっと目を閉じると、
日々の生活や社会の喧噪などはすっと頭の中から消え去り、
古い昔にタイムスリップした気分になれる。
巨大な磐座は人類がこの地に住み始める以前から、
ずっと同じ場所に鎮座していたに違いない。
かつては選ばれたものだけにしか、
磐座に触れることは出来なかったのかもしれない。
もちろん、上に乗ったかどうかなどは分からないが、
権威を手にした一部の人間は当然の欲望として、
辺り一面を見渡すことの出来る巨大な岩の上に立ったことだろう。
はたまたやんちゃな若者などは、こっそり岩の上に座り、
仲間と夢を語り合っていたかもしれない。
時には緊急時の見張り台として、軍に使用されていたかもしれない。
ただ確実に言えることは、巨大な岩の温もりと、
岩の上から見る空は、何時の時代も変わらないということだ。

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大石神社境内には、頂上の磐座の周りにも無数の大石が転がっている。
全てに名前が付いているのだが、とても覚えきらないので割愛。
印象に残ったのは、社殿の左にあった丸っこい大石で、
笠石神社と同じく、三つそれぞれに祠を持っている。

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笛吹川流域と言えば、丸石道祖神の集中地帯。
考えようによってはこれも巨大な丸石道祖神みたいなものだ。
丸石信仰と笛吹川北岸の山の関係は常々気になっていたのだが、
巨石を産出する山のが、丸石信仰の中心地にあることは
とても興味深い。

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あまりの石の多さに少々飽きてきた頃見つけたのが、
不思議な木の鳥居。
後には大石があり、上には祠が乗っているのだが、
この半分倒れかかった立派な鳥居がとても印象深かった。
確か後の石は烏帽子岩と名付けられたいたはずだ。
名付けられている石もあれば名付けられていない石もあり、
その基準はよく分からないのだが、
とにかく無数の石がある。
大石神社というよりも、天狗山自体が一つの磐座群なのだと思う。
あまり天狗山登山の話は聞かないが、
山頂に何があるのかちょっと気になるところである。



笠石大明神で出会った老人によると、
笠石は山梨三大石の一つであり、
他には立石神社と大石神社があるという。

立石神社は、笠石大明神と大して離れていない
天狗山北麓にあり、大石神社は天狗山の南麓、
笛吹川の流域にあるという。

笠石大明神から東へ、牧丘町のに向かって車を走らせると、
すぐに立石神社にたどり着いた。
笠石方面から牧丘町に向かうと、
谷間の県道が、鼓川と交叉する場所がある。
その先の脇道を右に入り、皷川の南岸を進んだ先、
御所という地に鎮座していた。


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ここでも六地蔵を見かけた。
神社の境内ににあるのは神仏習合の名残か。
六地蔵の円柱にちょこんと笠が乗っている。
よく落ちないものだ。


立石神社の祭神は、天手力男命。
天の岩戸を押し開けた神様だ。
笠石大明神の祭神は天照大神なので、
なにか関係しているのだろうか。
案内板には、「別名加茂山神社立石大明神という、
御神体は八稜石でみな直立す。」とある。
”みな”というだけあって、
その辺にゴロゴロと岩が転がっているのだ。

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本殿の後には、大きな岩が立っている。
尖った印象の立石だ。
だが、その後にはもっと大きな岩が鎮座していた。

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ぬぅっとこちらを伺うように、その大岩は立っていた。
凹凸が光の加減で人の顔に見える。

これも八稜石なのだろうか?
稜とは”多面体における平面と平面との交わりの線分。”
つまりは”角”。
そして八には”数え切れない数”の意味があるので、
角張った石という意味だろうか。
しかしどうもこの大岩には、八稜石の印象が沸かない。
むしろ先の尖った印象の岩のほうが、八稜石に近い気もするが、
もっと別の意味なのだろうか。

それよりも、岩と岩の間から日が差し込む様が、
天の岩戸に隠れた天照大神を思い起こさせて印象的だった。

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秋の初めのことだった。

甲州のことに興味を持ちだした私は、
甲府での仕事の翌日は、甲州探索に当てることにした。
大まかに巡りたいところは決めていたのだが、
牧丘の道の駅で観光マップを見ていると、
笠石大明神なる神社が妙に気になった。

ちょうど当初巡りたかった場所と同じ方面だったので、
探して見るも、これがなかなか見つからない。
天狗山と妙見山に挟まれた谷間の土地。
そう広いわけではないのである。
郵便配達中のお兄さんに聞いて正反対の道を教えられたが、
迷い込んだ先のブドウ農家でやっと場所を聞き出せた。

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だが、教わった場所に行ってみると、
ブドウ畑の向こうに鳥居は見えるのだが、
行き道が分からない。
目印の六地蔵の周りをうろうろうろうろ。
民家かから老人が顔を出したので聞いてみると、
「そっちだ」と指さしたのは、その方の庭先。
なんと、民家の中からしか行けないようなのだ。

・・・

そして、やっとの思いでたどり着いた。
ブドウ畑の間の細い道を30mほど進むと、
山の中腹の鳥居に続く石段にたどり着いた。
写真を撮っていると、先程の老人が追いついてきた。
ありがたや、案内してくれるという。

笠石大明神の鳥居をくぐると、
目の前下手には畳三畳ほどの小さな社。
そして上手には丸い大石が三つ。
ドンドンドンッと鎮座している。
なるほど、それぞれが笠を被ったように上部に割れ目がある。
どういう由来があるのかは、もうわからないそうなのだが、
毎年五月五日には、子供たちがこの上で
お重を食べる儀式があるそうだ。

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石の前には三つの祠。
端の一つは、今の祠になる前の祠の名残。
近年納め直したそうだ。
下手に建つ木造の社も、老人が若い頃に、
岐阜から宮大工を呼んで立て直してもらったらしい。
ちゃんと手入れがされているのだ。

江戸時代(天保か?)、甲州一帯が大飢饉に見舞われた際、
土地の代官水野某は飢える農民を見るに見かねて、
将軍に年貢の免除を直訴したという。
直訴はそれがどんな内容であれ、死罪に値する行為。
幸い願いは受け入れられ、この地の民は
飢えをしのぐことが出来たが、水野某は腹を切って果てた。
その水野某を笠石大明神の側に祀ったのが、
この神社が歴史に記録された最初である。

戦後、県の役人が来て神社を文化財に指定したいという。
そしてその後は国指定文化財にと…
氏子たちが資金をかき集めたが、県指定文化財で手一杯。
国の認定を勧められても、膨大な資金がどうしても捻出できなかった。
わずか十件の部落の氏神なのである。

文化財になるとどういう優遇があるのかは分からないが、
たとえそうでなくとも、この神社は氏子たちの手で、
しっかりと守られ続けていくと思う。
帰り際、ブドウ畑に挟まれた小さな参道老人は呟いた。
この参道も石を買ってきて石畳にするつもり、と。


追記

このところ、山梨で墓石を倒す悪戯が多発しているらしい。
先日は神社の1mくらいの石柱も倒されたそうだ。
関係あるかは分からないが、石和八幡も焼失した。
神も恐れぬ行為に目が余る。
犯人にとっては、それらは古いしがらみでしかないのだろうが、
それを守り続けることが、土地の歴史であり家の歴史なのだと思う。
本当に悲しいことである。




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抜けるような青空。
間近に臨む八ヶ岳は、険しい山容を白く覆い隠し、
振り返ると富士山が優雅に雪をたたえている。
視界を横切るのは七里岩。
延々と続く赤と黄色のカーテン。
その下には釜無川が、静かに静かに流れている。



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甲斐と信濃を結ぶ地域。
遙か昔からの聖地には、
やはりそれだけの理由があった。
と、思うことの出来た週末。
良き旅でした。


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○日当神社


石和町中川。
国道20号、一の宮橋付近を南に曲がったところ、
山梨園芸高校の脇に鎮座する日当神社。
古に、国司が旭日の昇るを見て、社殿造営の意を発し、
一社を建立して日当の社とした。と東山梨郡誌にある。
境内は住宅地の真ん中にしては広く、隣にはグラウンド。
子供たちの遊び場になっているようだ。
参道などはなく、鳥居をくぐると、
そこはもう社殿の前。

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大人の腰くらいの高さのすらっとした形の立石が、
広場の真ん中に立っている光景は、
かなり不思議な感じを受ける。
今まで見てきたものは、背の高い時は石畳の参道に、
逆に参道がない場合は丸っこい小さな立石だったのだ。
周辺の子供たちは、登ったりドロップキックしたりして
いたずらしないのかな…


○八王子神社

石和町広瀬に鎮座する八王子神社。
20号が笛吹川を跨ぐ石和橋の西側、東八代合同庁舎の南である。
公民館の裏なので一見分かりにくいが、
遊具のある広場を目印に探すと良いかもしれない。
(といってもこれを読んで、行く人がいるかは微妙だが…)
祭神は大己貴命、八王子大神、国狭槌命、少彦名命、大山祗命。
このうち八王子大神とは、
天照大神が素戔嗚尊と誓約したまひける時に生ませる三女五男神、
のことである。
また、いづれの時代にか大己貴命が主祭神と祀るに至りぬ、
ともある。

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ここも参道などはなく、境内は広場になっており、
砂地の地面にそのまま立石が鎮座。
高さは膝丈ぐらいだが、白く上品な色をしている。
他の神社の立石がどちらかというと逞しいのに比べて、
ずいぶん気品がある立石だ。
そういえば社殿も白と赤を基調にした建物で、
立石と見事に調和している。


○国立神社

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御坂町井之上、美和神社と姥塚古墳のある南照院の中間点、
中央道の側に国立神社が鎮座している。
境内は狭いながらも木々が生い茂り薄暗い。
社殿の前の立石は、ゴツゴツとしている。
この立石の素材を選ぶ基準は何なのだろう?
磨かれたように綺麗なものから、
自然石のようなものまで、様々である。

境内を見回すと、下手に小さな社があった。
最初は気が付かなかったのだが、草に半ば埋もれているのは、
小さな社に対する立石ではなかろうか。
律儀にも、ちゃんと正面に立っているのだ。

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残念ながら、この「社と立石」で取り上げている神社は、
一部を除いて、地図にも載らない小さな神社なので、
社務所や由緒書きなどがなくて、
祭神や由来が分からないのだ。
なので、国立神社の祭神たちも結局は分からず仕舞であった。



○杵衝神社

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御坂町尾山、美和神社から南東の山の麓に鎮座する。
辺りはブドウ畑だらけで、ちょっと分かりにくい場所だった。

敷地は広く、鳥居をくぐり参道を歩くと、
脇の四角に囲った石の真ん中に、ちょこんと立石がふたつ。

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社か何かがあったのだろうか。
ふたつの小さな立石を祀るにしては、
随分広い空間を囲ってある。
特に何かが彫られているわけでもない立石だが、
きっと神聖な謂われがあるに違いない。
ポツンと立っている石を見ると、なんだか気が和んだ。

杵衝神社は、美和神社の山宮とも元宮とも
言われている神社である。
景行天皇の時代、甲斐国造の塩海足尼(しおみたるに)
によって大物主命が勧請された杵衝神社は、
どちらが最初だったか、はっきりしていない。
美和神社のほうも、一時は杵衝神社と
名乗っていた時代があるそうなのだ。

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立石が石畳から突き出ているところなども、
非常に美和神社と似ている。
どうもこれまで立石を見てきた中では、
美和神社と、美和神社山宮とされるここ杵衝神社のものが、
群を抜いて素晴らしい意匠を感じる。
もしかして、美和神社が立石のオリジナルなのかもしれない、
と思わせるのに十分な存在感を持っているのだ。



○西宮神社

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御坂町国衙。国道20号を笛吹川の東岸、長塚で南に曲がり、
県立博物館を過ぎると「西宮神社前」の交差点に出る。
そこが西宮神社である。
境内は道路によって三角形に狭められており、
鳥居はあれども垣根はない。

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落ち葉の積もる境内は、うら寂しいかぎりであるが、
実はここの裏手には国衙跡、
つまり甲斐の国庁の施設があったとされている。
甲斐には春日居町国府と、御坂町国衙があり、
どちらも国庁を表す地名である。
通説では春日居町国府を前期国府跡、
御坂町国衙を後期国府跡とされているようだ。
十世紀に編まれた『和名類聚抄』には、
甲斐国府在八代郡(御坂町国衙は旧東八代郡)
の記述があるので、少なくともその頃までには
国庁は御坂町に移動していたと考えられる。


ところで、この2カ所の国府跡は、
笛吹川を挟んで北と南に位置している。
たいして距離は離れていないのだが、
この両者にはある違いがあることに気が付いた。
三室山を中心とする笛吹川北岸は、
丸石道祖神が最も集中している地域。
国衙と美和神社を中心とする笛吹川南岸は、
立石を持つ神社が集中している地域なのである。

立石と丸石の対比、なにやら深い意味がありそうである。



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