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2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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前回、前々回の日記で弟橘媛と橘樹神社について書いてきたが、
今回はその時知った不思議について書こうと思う。


実は、橘樹神社で私はある女性に会った。
現代の弟橘媛、、、ではなく地元の奥様だったが、
携帯で社殿の写真を撮っていたので、
郷土史に詳しいのかと思い、訪ねてみたのだ。

その方は、謙遜しながらも色々と教えてくれた。
先の子母口貝塚も、富士見台古墳もそれによって場所を知った。
そして、弟橘媛にまつわる会話の中で、
ひとつ興味深いことを教えてくれた。
昔は母に連れられて、橘樹神社の他にもう一カ所、
ここではない場所へも参拝しに行っていた、とのことだ。
それは弟橘媛を祀っていたとか、媛の母を祀っていたとか、
昔のことで曖昧だが、そういう記憶があるという。

私はこの日の締めとして、わずかな手がかりをもとに、
その神社を探してみることにした。


尻手黒川道路を川崎方向に進むこと15分、
井田の手前にある某寿司屋の裏手にその神社があるとのことだ。
暮れゆく幹線道路を私はキコキコと爆進した私は、
件の寿司屋を見つけたことには見つけたが、
その裏に神社など無くボーゼンとした。
いや、正確には周辺に熊野神社があったが、
ガレージのような造りに変わっていて、
とても橘樹神社と並び称される神社には見えない。
もしかして宅地開発の波に飲み込まれてしまったのか。

どうも違う気がしたので、初老の男性をつかまえて訪ねてみた。
が、ヤマトタケルや弟橘媛に関わる神社は
子母口の橘樹神社以外は聞いたことがない、と言う。
男性の家自体は、昭和40年頃に引っ越してきたらしく、
古い歴史は分からないと言っていたが、
近隣に住んでいるなら話くらいは聞いたことがあってもよさそうだ。
困っていると、山の麓に八幡様ならある、と情報を教えてくれた。
山の麓なら、かなりの歴史深い社なのではないか?
何はともあれ、私はそこを探すことにした。

下校途中の中学生たちの間を縫って、
話にあった山と思わしき場所を目指す。
そこは、マンション工事の進む真っ直中の山であった。
山の中腹に鳥居が見えたので近づいてみると、
これが30°以上ありそうな急傾斜の参道。
八太神社となっている。
八幡神社ではないが、立地は男性の話と一致する。
地元では八幡様で通っているのかもしれない。

麓は自転車を停められる雰囲気ではなかったため、
30°を押して登った。 
(ふう、この日は坂ばかりだ…)


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坂は10mほどしかなく、すぐに鳥居にたどり着いた。
奥に見える社殿は、民家みたいな造りで、
玄関先に賽銭箱と八太大明神と書いた額が掛けられている。
社殿に比べ境内の広場は広く、何かを焼いた跡がある。
どんど焼きの名残のようだ。

社殿には見るものは特になかったが、
鳥居横の狛犬は興味深かった。

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鼻が根本から折れているとは言え、
まさしく橘樹神社の狛犬と同じ山犬だった。
特に下手の親子狛犬は、子犬のじゃれ方もそっくりだ。
橘樹神社で出会った女性の言っていた神社は、
ここ八太神社と考えて間違いないだろう。

しかし新たな疑問が生じてしまった。
山犬はヤマトタケルに関連のある狛犬だから、
八太神社はヤマトタケルに所縁のある神社である、
と考えてもおかしくはないだろう。
だが、地元での呼称は八幡様である。
八太は”ヤブト”と読むのだが、ハタとも読め、
実際そう読む地名もある。
八幡も”ヤハタ”と読む場合があるように、ハタが関係している。
そして八幡といえばやはり、古代渡来氏族・秦氏だろう。

前回の日記で出てきた徐福は、秦氏との関連が指摘されている。
先の女性の言うように、八太神社が橘樹神社の祭神、
もしくはその母を祀っているとすれば、

橘樹神社の祭神=橘樹郡の首長=秦氏の一族

となるが、不勉強で私にはそれ以上のことは分からない。
それに、神奈川神社庁によると、八太神社の祭神は
天太玉命(あめのふとたまのみこと)となっている。
これは忌部氏の祖とされる神なので、
ますますややこしくなってしまうばかりである。

もちろん長い歴史の紆余曲折の中で、
色々と書き換えられていったものもあると思うが、
ここまでキーワードがごちゃ混ぜになっていると、
なにがなんだかさっぱり分からないものだ(^^;


多くの謎は残ったままであるが、
今回の散策で新たに知ったことも多かった。
引き上げる頃には辺りはすっかり暗くなっていたが、
なかなか有意義な時間の使い方だった。
私はすっかり満足して帰路についたのであった。




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ヤマトタケルの妻、弟橘媛を祀る橘樹神社は、
多摩丘陵の南の端の中腹の平らに開けた場所に鎮座する。

そこからほぼ同距離に、二つの遺跡が存在する。
南に登れば子母口貝塚、北に登れば富士見台古墳である。
私はまず、南に向かって丘を登ることにした。


子母口貝塚は、考古学ではちょっとした重要な遺跡である。
標式遺跡といって、文献資料の無い縄文時代を区分する
基準となる遺跡なのだ。つまりは、新しく土器が発掘された場合、
幾つかある標識遺跡の出土品と照らし合わせて、その時代を特定する。
子母口貝塚の子母口式土器と似た形式ならば、
それは縄文時代早期のものだと判断されるのだ。
ちなみに縄文時代早期とは、約1万~6千年前で、
子母口貝塚は大体8千年前の遺跡だとされている。

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公園化された子母口貝塚にたどり着くと、
そこだけ空気が違うことに気が付いた。
いや、正確に言うと、臭いが違うというか、
何やら臭いのだ。
魚介類特有の臭いが…

地面を見てびっくりした。
やけに小石の多い公園だな、と思ったら、
それは捨てられた無数の貝殻だったのだ。
貝塚とは、言うなれば集落のゴミ捨て場みたいなものだが、
捨てられたといっても、それは8千年前の話。
昭和初期に発掘調査をしたとしても、
調査後は埋めてから開放するのが普通なのだが、
如何なることか?
もしや演出?とも疑ってみたが、臭い付きの演出なんて、
周辺住民が許すはずがない。
大雨で発掘後に埋めた土が流れたのか?
貝塚を他に見たことが無いのでよく分からないのだが、
そういうものなのだろうか…

川崎の内陸部にこのように魚介類を
補食していた形跡があるのは意外だが、
その理由が説明されていた。

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8千年前当時の海岸線は、地球温暖化のため極地の氷河が溶けて、
現在よりも3~5m高かったという。
(縄文海進:ピークは6千年前)
写真の地形図によると、丘陵地である子母口は、
ちょうど内湾を見下ろす海岸の地だったようである。

現在公園の眼下には果てしなく住宅地が広がっている。
縄文時代には一面の海だった、なんてとても想像できない。
地球温暖化が確実に進行している現在、
そんな穏やかなことは言っていられないが…


再び橘樹神社に戻り、そこから北に丘を登ること10分、
先程よりもより一層険しい坂は、
変速機付きの自転車を持ってしても、
押して登ることを強いられるほどだった。
古墳が丘の頂上に作られているようだ。

弟橘媛の遺品を埋葬したとされる富士見台古墳は、
丘の最高地とはいえ、周りを民家で囲まれた場所で、
案内板がなければとても古墳とは思えない塚だった。
もちろん景観もない。
現在の規模は、墳丘高3.7m、径17.5mだが、
宅地開発で削られる前はもっと規模が大きかったそうである。
悲しい伝説を今に伝える土地にしては、あまりに寂しい現状だ。

弟橘媛の遺品となると、やはり古事記に記された通り
櫛が治められているのかと思っていたが、
橘樹神社の社殿によると、
御衣・御冠がこの地に漂着したとなっているらしい。
はて?
貝塚のあった8千年前ならともかくも、
ヤマトタケル(記紀では2世紀、一般には4~6・7世紀頃の
複数の大和の英雄を具現化した架空の人物とされる。)
の時代に、果たしてこの地に海岸はあったのか?
もちろん無かったであろう。
縄文中期、約5千年~4千年前から地球の気温は下がり始め、
海面もそれに従い低くなっていくのである。
海岸のない場所に、漂流物は流れ着かない道理である。

よくよく調べてみると、面白いことが分かった。
郷土誌には「このあたりのむらのかしらの墓」
として紹介されているというのだ。
その郷土誌『橘』を見たことがないので断定は出来ないが、
ありそうな話である。
丘の上に首長を埋葬することも、その丘を崇めるために、
離れた場所に祭祀場(橘樹神社)を設けることも、
古代の祭祀の方法として非常にしっくり来るものがある。


話はちょっとそれるが、川崎の古名、
橘樹郡の由来にはもう一つの説がある。
多遅摩毛理(たじまもり)だ。
垂仁天皇の命で、不老不死の果実とされる
「非時の香の木の実」(ときじくのかぐのこのみ)を
常世の国から持ち帰った人物である。
常世の国とは日出ずる国、つまりは東国であり、
10世紀頃までの武蔵・相模両国はミカンの産地であった。
多遅摩毛理はミカンを非時の実として天皇に献上したのだ。
これにより、ミカンは 多遅摩の果→橘(たちばな)
と呼ばれるようになったという。
多遅摩毛理はもともとこの地の支配を命じられていたとする説もあり、
常世の国は神仙思想による創作、
徐福の不老不死を求める船出と同等のものと考えても良いだろうが、
とにかくこの地は橘と名付けられ、
多遅摩氏は橘氏の名を拝領したのである。

その橘の”かしら”を祀ってある神社、
「橘の頭」が弟橘媛の冠、もしくは櫛に転化して、
ヤマトタケルの物語に便乗する形になったのではないだろうか。
たまたまだったのか、本当に関係があったのか?
古墳は盗掘され尽くし、遺品の手がかりは何もない。
伝承に頼るしかない現在、伝承の是非を問うのは野暮かもしれない。
弟橘媛の存在はどうであれ、その存在に頼らざるを得ない事情や、
そうあって欲しいと願う土地の人の希望があったことだけは、
紛れもない事実なのであろう。

願わくば、この土地に伝わる伝承を、
後々の世までも伝えていって欲しいものである。


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私の住んでいる川崎市一帯は、
かつて橘樹群(たちばなぐん)と呼ばれていたそうだ。
今日は、近所の話でもしてみようと思う。


弟橘媛(オトタチバナヒメ)をご存じであろうか?
神話の時代のスーパーヒーロー・ヤマトタケルノミコトに嫁ぎ、
東京湾の藻屑と消えた悲劇の姫君である。
橘樹郡は、この姫君にまつわる話が由来となっているのだ。

神話では、日本武尊はクマソタケルやイズモタケルを征伐した後、
再び父親の景行天皇によって東国征伐を命じられる。
再三の外征命令にヤマトタケルは、父親に嫌われているのかと嘆くが、
母の倭媛に神剣・天叢雲剣と秘密の袋を与えられ、勇気づけられる。
尾張を過ぎ、相模国の手前で、後から追いかけてきた弟橘媛と再会。
だが、その地の土豪に欺かれ、二人は火攻めに合う。
絶体絶命の危機を救ったのが、母にもらった天叢雲剣だった。
剣で周りの草を薙ぎ倒し、袋の中に入っていた火打ち石で、
迎え火をして敵を焼き尽くした。(これが焼津の由来という。)
その後、無事相模国に入った一行が上総に渡る際、
またしても危機が襲う。
走水の海(現在の横須賀)が荒れ狂い、進退窮まってしまったのだ。
見かねた弟橘媛は、自らの身を海に沈め、
荒れ狂う海神の怒りを鎮めたという。
媛は入水前にこう残している。

「さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも」
(相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけて下さったあなたよ…… )

弟橘媛の犠牲によって無事海を渡ることの出来たヤマトタケルは、
妻の死を悼み、こう詠んだという。

「君さらず 袖しが浦に立つ波の その面影をみるぞ悲しき」

この詩が、現在の木更津、袖ヶ浦の由来とされている。


さて、入水した弟橘媛のその後はというと…
七日後、媛の櫛が対岸に流れ着いたので、
御陵を造って、櫛を収めたのである。
その御陵を作った場所というのが、橘の地なのである。


    *  *  *


私は先日、その橘樹郡の郡衙(政庁)が置かれていたとされる、
川崎市高津区野川周辺を散策してみた。

多摩丘陵の南の端、今は第三京浜が横切る急峻な丘を、
自転車でキコキコと走り回る。
この辺り一帯からは、縄文時代からの遺跡や遺構が
沢山発掘されているそうだ。
しかも郡衙のあったとされる影向寺は、
白鳳時代末期(7世紀末)の創建だと判明している。
かつては一大聖地として大変な賑わいを見せていたようだ。

今は住宅地として大半が埋まってしまっているが、
それでも辻には地神の社や庚申塔が点在しており、
往時の面影をわずかに留めている。

普段自動車で何気なく通り過ぎる土地も、
改めて自転車で回ると面白い。
とはいえ、丘陵地なのですぐにへこたれてしまう…
犬の散歩の奥様方に不思議な目で見られながらも、
私は目的の場所にキコキコ向かったのだ。

目的の場所とは、橘樹神社。
”たちばなじんじゃ”と読む。
まさしく、弟橘媛を祀ったとされるに
相応しい名前の神社である。

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中原街道と尻手黒川道路の交差する地に、
子母口富士見台という地がある。
前述の野川の隣に位置する住宅街なのだが、
この丘の一番見晴らしの良い場所に、
橘樹神社は鎮座している。

祭神は日本武尊と弟橘媛。
御神体も、夫婦の二体の像であるらしい。
住宅地のど真ん中にしては、凛とした佇まいで、
思わず背筋をピンと伸ばしてしまう。

境内に入ると(といっても数歩だが…)
嫌が応にも目に付くのが狛犬。
狛犬というとどうしても猛々しいものを想像してしまうが、
この狛犬のなんとも可愛らしいことか。

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狛犬は正確には「獅子」と「高麗犬」
高麗犬とは、高麗または異国の犬の意で、
あくまで犬ではなく神獣だとされているのだが、
これでは可愛いワンコである。

灯籠や石碑に比べてずいぶん新しい印象なので、
最近のペットブームに便乗しちゃったかな?
なんて思っていたが、境内を回ってみて仰天。
明治13年の銘がある、先代と思しき狛犬が、
枯れた御神木を守るように鎮座していたのだ。

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犬の狛犬がある神社に、秩父の三峯神社がある。
三峯山は修験の霊山なのだが、山犬がヤマトタケルを導いた、
との伝承があり、山犬が神使として崇められている。
ヤマトタケル繋がりで、ここ橘樹神社でも山犬を崇めているのであろうか?
一説には、明治の神仏分離令で、神仏習合していた多くの神社仏閣が、
皇室ゆかりの祭神に塗り替えられたという。
そのモチーフとしてよく使われたのが、ヤマトタケルのような、
全国を駆けめぐった英雄である。
もちろんヤマトタケル伝からして作られた伝説と言われているのだが、
そうした万人受けする祭神を祀ることで、
俗信を取り除き、皇室を崇めるシステムを作っていったのであろう。
ここ橘樹神社とて、その影響を受けてないとは言い切れない。
だが、ヤマトタケルを象徴する場合、真っ先に思いつくのは白鳥であり、
山犬は三峯山の伝承に過ぎず、象徴とするにはいささか力不足の気がする。
当時、明治政府の指導でもあったのだろうか?
モヤモヤしたものを頭に抱えながら、私は散策を続けたのであった。

(続く)






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