2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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夕暮れ、大崎の荒脛巾神社から涌谷町の黄金山神社を経て、
塩竃神社の秘宝を拝見した後、多賀城址にやって来た。

簡単に説明すると、黄金山神社は聖武天皇の時代、
東大寺の大仏建立の為の金を工面しているさなか、
百済王敬福によって日本初の金の産出が行われた場所である。
このことから、陸奥には金があると知れ渡り、
朝廷による蝦夷計略の歴史が始まるのだ。

塩竃神社は陸奥国一宮、かつて鹽土老翁神という人物が、
海上経由でやって来て(朝廷か?)、
原地の民に製塩を教え街を発展させたという由来の場所。
秘宝の製塩の竈が4つ、今でも水を張られた状態で残っており、
その水の色が変わると変事が起こるという。
写真はダメだが、拝観は受け付けている。

多賀城は、朝廷の蝦夷計略の前線基地で、陸奥国の国府。
坂上田村麻呂が蝦夷との境界線を北に広げるまでは、
常に軍事基地として機能した。

つまりは、この一帯は朝廷と蝦夷のせめぎ合いの歴史そのもので、
今回の旅は、その地を実際に見ることも目的であった。

その多賀城は今は基礎のみを残して公園化している。
そしてその隣接地にも、荒脛巾神社が存在する。
こちらは大崎の荒脛巾神社よりも知名度が高く、
研究者も何度か取り上げているようである。

なぜ陸奥経営の中心地である多賀城に
蝦夷の信仰篤いアラハバキが存在するのか?
一説には蝦夷をもって蝦夷を制する朝廷側の政策だという。
また、それとは逆に、もともとアラハバキは朝廷が東北に持ち込んだ、
と言う説もある。
まったく正反対の説なのだが、アラハバキの正体が分からないだけに、
その謎が解けるのにはまだまだ時間が掛かりそうだ。



そうなると、現在の多賀城の荒脛巾神社をこの目で見てみたい。
私は暮れゆく夕陽を気にかけながら、この日最後の締めくくりにと、
多賀城市の入り組んだ市街地を、現地に急いだのだった。

カーナビのマップには表示されているのだが、
実際の場所にはなかなかたどり着かない。
やっと鳥居を見つけたと思ったら、畑の向こうだ。
仕方がないのでちょっと離れた陸奥総社の駐車場に車を停め、
現地に向かう。

畑の敷地はちょっと横断出来なさそうだ。
別方向をくまなく探すと、民家の裏の小さな路地の脇に、
あらはばき神社と書かれた板を発見。
明るい木地に白文字だから分からなかった…

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手作り感のある鳥居を抜けると、道の両脇に大きな木。
なかなか見応えのある参道だ。
と思ったら、すぐに民家だった。
なんとこの神社、民家の庭先に鎮座しているのだ。
夕飯の準備をしている姿がカーテン越しに見える。
ちょうど忙しいさなかに来てしまったようだ。
これではちょっとお話しを、と言うわけにはいかないな。

玄関先を突っ切ると、すぐにお社の前に出た。
社が3つ並んでいて、真ん中が荒脛巾神社。
向かって右が養蚕神社で、左が聖徳太子堂。
荒脛巾神社の目の前には蓋をした井戸があり、
その後には水金神の石碑。
荒脛巾神社と養蚕神社の間には、石碑が3つ。
二荒山神社の文字だけが確認でき、その他は分からない。
特筆すべきは、荒脛巾神社の供物の多さであろう。
大崎市の荒脛巾神社にもあったような、
布きれと履き物が賽銭箱の両脇の柱を埋め尽くしている。

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お社の周りも布が張り巡らされ、縁の上にも沢山の奉納物、
屋根は朽ちたかビニールシートで覆われ、
もはや原型を想像できない。
縁の上の供物は、向かって右には小さな神棚。
中には舟に乗った3体の金精様が乗っていた。
向かって左には、これまたそそり立つ赤い金精様。
根本には鈍く輝くオカメ像。
大きく広げた扇子は、女性器を暗示している。
アラハバキは現在では足の神様だとされるが、
足=下半身 とのことで、生殖器にも御利益があると信じられている。
もしくは、もっと混沌とした理由で、
塞の神や道祖神と習合したのかも知れない。
アラハバキ=塞の神説を唱えている研究者もいるのである。

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収集がつかなくなったので、隣の聖徳太子堂に目を移した。
東北宮城で聖徳太子とは不思議な話だが、
これは宮城から岩手に掛けての民俗信仰、ヒョウトク(もしくはショウトク)
のことなのだろう。
ヒオトコ(火男=ひょっとこ)から転じた言葉で、竈神である。
民家の土間の柱に窯神の面を掲げておくと聞いたことはあるが、
実際に見たことはない。一体、火の気のない社に祀るものなのだろうか。
しかしここもまた凄かった。
正面には赤い衣を纏った異形の石仏が3体並んでいた。
左手には落花生型の石仏と、棒に木の円盤が巻き付いたもの。
木の円盤などは、大崎の荒脛巾神社の穴の空いた丸い石と
雰囲気は似ているかもしれない。


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何だか訳の分からないモヤモヤと、
入っては行けない場所に入ってしまったような後ろめたさ、
そしておっかなびっくりのおどろおどろしさ。
それにすがろうとする信心の集約。
こういった要素こそがまさしく民間信仰なのかと
肌で感じることが出来た気がする。


圧倒され、魅入っている間にすっかり日は暮れてしまった。
民家からは食事の団欒が聞こえていた。
急に現実に戻された気分。
なんだか自分が場違いな場所にいるような気がして、
居たたまれなくなった。

結局アラハバキとは何なのか。
色々なアラハバキを見たら、ますます分からなくなってきた。
もしかしたら、一つの答えだけではないのかもしれない。
永久に解けない謎かけかもしれないが、
それがまた面白いと思う今日この頃なのであった。
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荒脛巾神社のお社の裏には、
大きな杉の木が一本、そびえ立ってた。

そしてその根本には三吉神社の石碑。

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三吉神社とは、秋田の霊峰太平山に鎮座する神社で、
646年5月、役の行者小角の創建と伝えられる修験の古社である。
私はこの時まで三吉神社の存在を知らなかったし、
三吉神社の石碑も初めてだったので、あまり興味がわかなかったが、
その石碑の足もとに供えられた石が気になった。
小さな穴の空いた石。
そして隣の石祠の前には、さらに沢山の小石が転がっていたのだ。

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石に小さな文字で願い事を書いているものもあった。
イボイボイボイボイボイボイボイボイボイボイボイボイボイボイボ…

なるほど、イボ取りの願掛けなのだ。
この穴の空いた石、紐を通してお社の扉に括り付けているものもあった。
(一つ前の日記参照)
”穴あき石”と呼ばれる、穴の空いた石を奉納する信仰は、
薬師如来の信仰によく見られる。
穴が通る=よく見える、耳が通る として、
眼病や耳だれの回復祈願に、穴の空いた石や、
それに紐を通したものを納めるのだ。
また、イボ取りの信仰でよく見られるものに、イボを小石でなでたり、
糸を使ってイボを括る真似をするものがある。
これはそれらのごちゃ混ぜになった形なのかもしれない。

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3月18日、私は宮城の田園風景の中にいた。
抜けるような青空、流れゆく雲、
いや、そんな悠長なものではない。
遮るもののないだだっ広い平野に、突風が吹き荒ぶ。
何年か前の冬、同じ宮城の米山の道の駅で車中泊をしたことがあるが、
その時も車体を揺さぶる突風に、身を凍えさせた覚えがある。
この辺りの冬は、いつもそうなのだろうか。

前日、早池峰神社蘇民祭の後は盛岡市街をぶらぶらし、
その夜は花巻の鉛温泉に泊まった。
18日は、夜には自宅に戻りたかったので、
日中は岩手より駒を進めて、宮城でウロウロとしていたのだ。
古川インターからほど近い、大崎市上野目、
その名も荒脛巾という地に鎮座まします荒脛巾神社。
といっても、田圃の中にポツンと佇む、とても小さなお社であった。

トンビさえ揉まれ流され頼りなく舞う風の中、
私は意を決して車を降り、ロングコートの裾を
尋常じゃないほどたなびかせつつ、田圃の中の浮島のような、
小さなお社に続く一本道を歩いた。

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案内板にはこうある。

祭神 祖神として天地水の三神を基とし、
日輪を父なる神、万物を育む地水を母なる神とする
自然神信仰で二千年に及んで鎮座する産土神です。

由来 古代先住民(アラハバキ族)の祖神、
守護神として祀ったもので、ある文献によると、
東北、関東の地に600余社数え平安期のアラハバキ系中心王侯は
南部衣川、安倍氏が後裔と言われる前九年の役後、
改神或いは合祀の憂き目にあい現在県内にのこるアラハバキ社は
当社ほか数社の語鎮座が見られます。

祭祀年 定かではないが、アラハバキ族の王城の地を
西暦前に米山町朝来に、また西暦後、多賀城へ、
そして古川市宮沢(302年)に移したとある。
これを証とすれば、このいずれかの時代にこの地に
一族集団が安住の地をもとめ守護神として祀ったものと
推定される。

あまりも意表を突く文章だった。


実際、アラハバキ信仰とは何か?
私には「分からない」としか言いようがない。
この日記でもこれまで幾つかアラハバキに関するものを紹介してきた。
http://miyokame.blog82.fc2.com/blog-entry-24.html
http://miyokame.blog82.fc2.com/blog-entry-23.html
http://miyokame.blog82.fc2.com/blog-entry-22.html
http://miyokame.blog82.fc2.com/blog-entry-3.html

この神社の由緒書きに書かれていたアラハバキ族とは、
『東日流外三郡誌』という文書に基づくもののようである。
東北を中心にしたアラハバキ族の歴史を語るこの文書自体は、
昭和の世に捏造されたものだと言われているが、
そうだとしても、こういった文書が作られることには、
それなりの理由があると思う。
それほど東北にはアラハバキ信仰が根付いていると言えるのだろう。

しかし、アラハバキ信仰は東北に限ったことではない。
リンク先の4つめ、三河から遠江西部に掛けても、
アラハバキ信仰の面影は残っており、
有名なところでは、三河国一宮砥鹿神社の摂社が荒羽々気神社である。
また、信頼のおけるサイトの調査した分布を見ると、
出雲国と武蔵国にもアラハバキを祀る神社が多い。
これは、武蔵国のアラハバキが、
出雲系の氷川神社の摂社に多いことに起因し、
このことからアラハバキは製鉄に関係があるのでは?
とも言われている。

その他にも、”ハバ”が蛇の古語を意味することから、
蛇信仰=縄文系古代祭祀の中心 とする説や、
さらにはシュメール語説、インド鬼神説、etc…
数えたらきりがないほど説があるのだ。

ただ、現在における民間信仰の形としては、
ハバキ=脛巾(脛当て)として、旅や足の神様として、
またはイボの神様として祀られていることが多いようだ。
そして上野目の荒脛巾神社も、その例に漏れることなく、
みずいぼの神様として祀られていたのだ。

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半ば開いた扉から中を覗いてみると、
布や靴やその他諸々雑多なものがごちゃ混ぜに、
壁一面にあふれかえっていた。
明るい日中のこととは言え、たった一人で訪れていた私には、
この何ともいえない異様な雰囲気は恐ろしかった。
逆にいうと、その得体の知れないおどろおどろしさこそが、
現代の世に民間信仰が切り捨てられずに生き残っている証しなのだ。
こんな小さなお社なのに、これほどの奉納品があると言うことは、
この集落だけでなく、様々な場所から人が訪れるのだろう。
私のような一介の民俗ファンが訪れるよりも、
ただし信仰心から訪れる人の方が多いに違いない。

そして、このお社の裏にはさらなる奇妙なものがあった。

つづく





3月17日、今年は暖冬と聞いていたが、
山麓の県道沿いにはまだまだ雪が残っており、
数日前からぶり返した寒さが、
冬らしい冬を過ごさなかった私の、鈍った肌身に突き刺さる。

美しく雄大な早池峰の姿を東に臨み、
花巻から大迫の早池峰神社にたどり着いたのは、
午前9時30分をちょっと過ぎた頃であった。

駐車場に車を停め、宿坊の立ち並ぶ参道を歩き、
半年ぶりに早池峰神社の境内に足を踏み入れた。
二の鳥居を過ぎた辺りは左側が見通しがよく、
そこから間近に迫る早池峰を遙拝できる。
清々しい青空だ。
期待と不安を胸に秘めつつ、我々は本殿での参拝を済ませ、
参加者の集う大広間で参加受付を済ませたのだった。


早池峰神社を初めて訪れたのは平成13年の蘇民祭であった。
その後は夏の神楽、冬の蘇民祭と、毎回ではないものの、
頻繁に訪れるようになった。
蘇民祭は今や観客ではなく参加者になっているので
写真の撮影はしていない。
今回は、押し入れに眠っていた平成13年の
蘇民祭のフィルムを引っ張り出してきたので、
その写真を掲載しようと思う。

大広間では、見知った顔もチラホラと居たので、
ストーブを囲みながら歓談する。
なにせ参加者関係者全員が入ることの出来る大広間だ。
大型の石油ストーブが何台あってもまだ寒い。
参加者一同はここで「寒い寒い」とぐずる習わし(笑)で、
この間に境内では神事が執り行われているのだが、
郷に入れば郷に従え、私も神事は見学せずに
歓談に勤しむのであった。


    * * *



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これは過去の写真だが、参加者が受け付けを済ましている間、
社務所では蘇民袋を作っている。
十二支の焼き印の入った365個の駒を麻の袋に詰め、
口を縛り表に「○○年 蘇民祭 五穀豊穣」と書き込む。
参加者はこの蘇民袋を求めて争うのだ。
一の鳥居を過ぎたとき、最終的に袋の口を握っていた三名が勝者。
その中でも優勝者には大きな蘇民将来札が与えられ、
1年間の無病息災と家内安全が約束されるのだ。
このことは、「備後風土記」にある蘇民将来の説話に基づいている。

昔、武塔神という神が、旅の途中一夜の宿を求めた際、
裕福な家に住む巨旦将来に宿を請うも断られてしまい、
巨旦の兄である蘇民将来を訪ねると、
蘇民は貧乏にも関わらず部屋を提供した。
質素ながらも丁寧なもてなしに感謝した武塔神は、
厚く礼を述べ去っていった。
やがてその村落を再訪した武塔神は、
蘇民将来を訪ね、その正体を明かし、
蘇民の家の者は腰に茅の輪を括り付けて寝るように告げる。
果たして夜が明けてみると、村落は疫病で死に絶え、
腰に茅の輪を括り付けた蘇民の家族だけが助かったというもの。

この説話が全国に流布し、各地の蘇民将来符や茅の輪くぐりとして
今に伝わっているのである。
岩手では、裸で蘇民袋を奪い合う蘇民祭が盛んで、
1月2日の胡四王神社蘇民祭から始まり、
3月17日の早池峰神社蘇民祭で幕を閉じる。
その間、様々な場所で蘇民祭が行われるのだ。
とりわけ水沢の黒石寺蘇民祭は、日本三大奇祭として有名である。

    * * *


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神事が執り行われ、争奪戦の開始である。
と言っても参加者一同は大広間で「寒い寒い」と繰り返し、
いまだ服も脱がずにいた。
さすがに業を煮やしたか、審判長が外から
「いい加減にしろ!」と激しく窓を叩き、
一同は慌てて服を脱ぎ飛び出していくありさまであった。

拝殿前から始まった争奪戦は、ゆるい緊張感に包まれていた。
なにせほとんどいつもの顔ぶれ、
土曜とあって例年よりは人数が多いとしても、せいぜい十数人。
黒石寺では、堂内が数百人のフンドシ男であふれかえるそうだが、
早池峰神社の蘇民祭は、それに比べると実に素朴である。
私などはそこに魅力を感じてしまうのだ。

集団が拝殿前の石段を下りようとすると、
「まだ早いまだ早い」と周りから雪玉を投げ込まれたりする。
「今の内に触っどけ。」と、蘇民袋にも簡単に触らせてもらえる。
観衆の中に子供が居ようものなら、
その子を高々と担ぎ上げたりもするのだ。
今年は元気のいい男の子で、
服をはぎ取られた上半身裸姿で、
勇壮に腕を天に振り上げていた。



しばらくして、そろそろ進めという雰囲気になったので、
集団は神門の石段をゆっくりと息を揃えて下りていく。
半ば凍った石段はツルツルと滑り、
後ろ向きで下りる人には危険きわまりない。
審判の声に従い一歩一歩確実に下りていくのだ。

そして長い参道をゆるりゆるりと歩みを進める。
この頃になると、社務所の大広間で機会を窺っていた参加者も
争奪戦になだれ込み、肉の壁もかなり厚くなった。
やっと、冷たい風から逃れることができホッとした。
…のも束の間、今度は外野からの水攻撃が!
ゆるい緊張感を引き締めるためか、
参道では外野からのちょっかいが激しくなる。
大量の雪の固まりならまだ可愛い方で、
柄杓で水を撒かれたりすると溜まったものでない。
幸い、柄杓の水は後ろに居た同行のK氏が盾となって、
中間にいる私にはあまり被害が及ばず助かった。
と思って油断していたら、「うひゃっ!!」
頭の上から直接水を掛けられた。
ずぶ濡れである。
その反動で周りの人が離れたので、
寒風が一層身に染みたのであった…

次から次へと続く外野の波状攻撃にも耐え、
参加者一同に妙な連帯感が出来た頃、
参道は三の鳥居に差し掛かった。
前半のゆるい緊張感は一変し、参加者の目付きが変わる瞬間だ。
ここから先は、何が何でも蘇民袋から手を放してはならない。
ここで集団から外れると、もはや付け入る隙はないのだ。
二の鳥居を過ぎると、そこから先は急な石段である。
もはや石段に差し掛かれども他人のことを気遣う余裕など無い。
私は不幸にも石段に背を向けていた。
転がり落ちないように必死に堪え、集団にしがみつく。
石段を一歩一歩確かめて、などという余裕は当然無く、
集団に押されるままに、一段一段ずり落ちていく。
審判も指導しようと声を掛けるが、もはや誰にも届きはしないのだ。

集団に押されながらも、私は何とか持ちこたえ、
一の鳥居の2m手前に至って、
蘇民袋を両手で掴める位置に食い込んだ。
石段も終わり、後は力のぶつかり合いだ。
集団は鳥居の左側の雪の上に倒れ込む。
私もそれに巻き込まれ、不自然な姿勢で固まった。
それでも離すものかと食い下がっていたが、
なんとしたことか、私の横の人が完全に押しつぶされてしまい、
私がその上に乗っかる形になってしまった。
そのまま集団は動かない。
しばらくの硬直の後、仕方なく私は蘇民袋から手を離し、
倒れた人と共に戦線から退いた。

しかしまだ2mある。
勝負は一の鳥居を抜けた先で決まるのだ。

隙を見出し付け入ろうと、外周で見守る作戦。
集団の外周には、同じような魂胆の者や、
脱落した者がどんどん増えていく。
集団のもみ合いは蛇行し、一の鳥居の1m手前で再び硬直、
隙が生じた!

と、私は入り込もうと試みたが、
硬直の中心には、押しつぶされた年配の人が居るようだ。
審判が必死に救出しようとするが、どうにもならない。
外周で見守っていた参加者も気がつき始め、
将棋倒しの人壁を押し上げようと引っ張るが、
複雑に絡み合った裸体は岩と化し、ビクリとも動かない。
食らいついている者達は、ここで離されては堪らんと、
必死で抵抗しているのだ。
本来ならば、一の鳥居を通り過ぎないと、
勝者は決められないことになっている。
審判も、ここで終えても福は来ない、と諭すが、
もはや興奮の極みに達した猛者たちの心には届かない。
昨年の蘇民祭で、下敷きになって押しつぶされていた苦痛が、
私の脳裏に蘇った。
下敷きになった人は、どうすることも出来ないまま、
ひたすら耐えるのみなのだ。

とうとう審判側が折れた。
集団をかき分け、蘇民袋の口を握った三名に、
順位の札をくわえさせた。
争奪戦の幕切れである。
押しつぶされた人も無事救出され、
体から湯気を立ちのぼらせた男たちが、
もと来た参道を帰って行く。
結局私は機を窺ったまま見逃してしまった。
煮え切らない思いではあるが、今日の敗北は明日の勝利。
来年こそは上位に食い込んでやろうと意気込んだのであった。


戦いの後に振る舞われたあったかい蕎麦に舌鼓を打つ。
この瞬間があってこそ、今年一年を頑張ることが出来る。
とは、言い過ぎかもしれないが、
それこそが私にとっての早池峰の蘇民祭なのである。


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護摩壇の灰はもう煙を上げることもなく、
一般の観衆の行列もすっかり捌け、思い思いに帰って行った。
会場の隅に控えていた消防車も、そろそろと走り去り、
跡には穏やかな安堵が充満していた。

行者たちは最後に一斉に法螺を吹き鳴らし、
行事の終了を告げる。

後は不動院に帰るのみだ。

来たときと同じように列を組み、
来たときと同じ道を戻る。
違うのは、無事荒行を成し終えた
行者たちの面持ちだけだった。

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夕陽に照らされた一行は、
狭い歩道を列を乱さず帰って行った。

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不動院にたどり着くと、大導師を中心に集まった。
最後の読経が澄み切った青空に、
いつまでもいつまでも響き渡った。

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大導師が指導の言葉をかけ、解散。
修験者の多くは民間信仰者。
行が終わると普通の人の顔に戻り、
普段の生活に戻っていくのだ。



解散の声と、行者たちの笑顔を見て、
私もドッと座り込んだ。
とにかく昼前から飲まず食わず。
そのうえ、朝の寒気に服を着込んで来ていたので、
暑くて暑くて堪らない。
ある意味修行だ。





では。

早速精進落としに取りかかろう。
門前街には雰囲気の良い店が沢山あるじゃないか。
奇しくも高尾山は冬そばキャンペーン中である。
私は一番旨そうな店に入り、
とろろそばの大盛りで注文したのであった。






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未だ燻る護摩壇の正面に、塩の山が供えられた。
火渡りの荒行が始まるのだ。
清めの塩の場所がすなわち、火渡りの出発点となる。

火渡り行に入る前に若い行者が二人、
護摩壇の両脇に設置された大釜と対峙した。
結袈裟を諸肌脱ぎに、笹の枝を神妙に天に掲げる。
と、思った瞬間、煮えたぎる大釜にバシャンと浸し、
そのまま背中に打ち付けた。
右に左に真後ろに、何度も何度もムチ打つように、
熱湯を背中に打ち付ける。

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真後ろにいた観衆は、飛び地る飛沫に逃げまどい、
おかげで私は最良の場所に陣取ることが出来た。
熱湯に耐えた行者は再び結袈裟を纏い、
今度は足袋を脱ぎ揃える。
いよいよだ。

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紫色の法衣の先達が護摩壇の正面に立ち、
灰と煙の向こうの祭壇に祈りを捧げる。

足袋を脱いだ行者たちが、先達の左右に列を成し、
これからの荒行に耐えるべく、精神を統一させている。

先達が三宝の塩を手に、じゅっ、じゅっと、
燻る灰を踏みしめた。
先頭を切って道を清め歩くのだ。
それに続いて行者たちも、しっかりとした、
それでいて素速い足運びで足を運ぶ。
ちょっとでも怖じ気づいたら、それが足取りを鈍らせ、
ひいては足の火傷につながるのだろう。
ただ歩くだけではない。
強靱な精神が屈強な身体を作り上げるのだ。

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会場が何やらざわついたと思ったら、
大導師に付き従っていた稚児が灰の上を駆け抜けていった。
まだ小学生くらいであろうか。
朱の衣裳を着ていることから、
選ばれしものであることは間違いないのだが、
年端もいかない幼子に、やはり火渡りは辛いようだ。
本人はどう思っているのか、知る術も持たないが、
幼児体験に神秘に触れることが、
今後の成長に多大な影響を及ぼすことは間違いないだろう。
きっと強い人間に育つことかと思う。





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行者が全て渡り終えると、今度は一般の人の火渡りだ。
一般人の頃には灰も温くなっている、
と前情報に聞いていたが、
見たかぎりでは、煙はまだまだ立ちこめている。


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陽に照らされた火渡りの光景は、とても美しいものであった。



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一般の人が火渡りをしている間、
行者たちは場の両側でサポートしてくれている。
小さな子供や老人が渡る際は手を引いて共に渡り、
渡り終える地点では、行者たちが道を囲むように立ち、
マントラと法具の音で祝福するように迎えている。
祭壇の前では大導師と紫法衣の先達が、
金剛杵を肩に当て、労をねぎらってくれる。
自分たちが行を終えても、それで満足することなく、
民を安全に導かなくてはならないのだ。
ここに民間と切っては切れない関係を持つ、
修験道のあらましを垣間見た気がした。

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つづく

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大導師の祈祷も佳境に入ったようだ。
立ち上がり、法剣を振るう。
法剣で護摩木の封を切り、マントラを称えながら
護摩壇に向かって投げ入れる。
護摩壇の左右からも行者たちが護摩木を投げ入れ、
火力は益々激しくなった。

灰と煙と熱気が凄い。
私は大導師のすぐ後ろにいたので、
風向きが変わるともろに熱を受ける。
流石に大導師の老体には応えるのであろう。
時々付き添いの行者が菅笠で、大導師の顔を庇っているようだ。


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結界内は荒れ狂う劫火に苛まれた。
灰が飛び散り煙が目に染み、熱が行者の法衣を焦がす。
私の回りの観衆も、ひとり、ふたりと退散していく。
火を鎮めるために行者が阿伽(あか)と呼ばれる水をかけ、
鍬のような法具で火を整える。
修行を積んだ行者でも、やはり炎には耐えられないのか、
なかなか護摩壇に近づけないようだ。
顔を背け、手を伸ばして杉の葉を火に押し込む様子には、
見ているこちらも苦しくなる。




やがて、行者たちと観衆の見守る中
火は落ち着き護摩壇は白い灰の野と化していくのであった。

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つづく

燃える松明を掲げた行者を先頭にして、
柵と注連縄で結界された四角い空間に、
行者一行が入っていった。

南西の端から入った一行は、結界の中をぐるりと周り、
それぞれの定位置に落ち着く。
北に祭壇、真中に護摩壇、南に大導師の座が用意されていた。

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いよいよ柴燈護摩行の奉修が始まりである。

大導師に付き従っている先達が、見事な口上で進行を務めていく。

「○○山の△△行者、この度のお勤めご苦労でござる。」
「うけたまわり候」

おそらく相手も、相当修行を積んだ行者なのだろう。
強く、澄み切った返答に、計り知れない力を感じる。
どこの所属なのかはちょっと分からないが、
何人かそのような受け答えがあった。
全国から名のある行者が集まっているのかもしれない。


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祭事は次々と進んでいく。
斧を担いだ屈強の行者が護摩壇の前に立ったかと思うと、
渾身の力で幾度となく振りかぶる。
煩悩を断ち切る斧である。

法剣でも同じことをし、その次は弓を持った行者が、
護摩壇に向け矢を放つ。
南東の角から順に、全ての角で矢を放つ。
最後に護摩壇の目の前で、天に向かって矢を放つ。
見事。
鋭い動きで放つ矢は、空気を切り裂き護摩壇に刺さった。
見ているものをも魅了するほど、清々しい所作であった。

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そして、遂に護摩壇に火が点される。
先の雨で湿っているのか、堆く積まれた杉の葉には、
なかなか火が付かない。
やっとの事で白い煙が立ちのぼり始めると、
護摩壇の火に当てるために、梵天の御輿が護摩壇を回り出した。
周囲の行者達が一斉に錫杖を鳴らし、マントラを繰り返す。
その絶えることない独特のうねりの中を、
梵天を担いだ行者たちが、何度も何度も護摩壇を回り、
御守札に霊力を注ぎ込む。

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行者達に呼応したのか、燻った火が勢いを持ち始め、
白い煙が天高く昇り始めた。
大導師の祈祷も、どんどん力を増していく。

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つづく

3月11日、日曜日。

昨夜からの雨はいまだ止まず、
家の中でさえ、底冷えする。
布団から出ることさえも躊躇われたが、
気力を振り絞って自宅を出た。

目指すは高尾山。
高尾修験による大火渡り祭が行われるのだ。


11時半頃、電車を乗り継ぎ、高尾山口に着く。
寒さによほど参っていたのか、車内のほとんどを寝て過ごした。
駅に降り立つ。
何とか雨はあがったものの、どんより曇った暗い空は、
高尾の山に暗くのしかかる。
それでも、道中の睡眠で多少の元気を取り戻した私は、
会場を目指して歩いた。

火渡り祭の開始は午後1時なのだが、
少し早めに来て立地を見ておきたかったのだ。
案内板の通りに進んでいると、
ふと道を逸れた一角が騒がしいことに気が付いた。
ケーブルカー駅の手前、高尾山不動院で何やら人が集まっている。
覗いてみると、行者装束の面々が、不動院の庭に集まってきていた。
どうやら不動院が、修験者たちの待機所になっているようだ。
鮮やかな結袈裟を纏った人もいれば、真っ白な装束の人もいる。
どうも色が鮮やかになるほど、格が高くなるようだ。
中には外国人の修験者もいた。
そういえば、撮影している観衆も外国人が目立つ。
今や日本人よりも外国人の方が、
日本文化の勉強に熱心だというが、
それもうなずけることかもしれない。

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気が付けば、いつの間にか雲が退いていた。
先程までの天気が嘘のように、空の青が広がっていく。
庭では修験者たちの祈祷が始まった。
先達の指導のもと、般若心経を一斉に称える。
天まで届かんとする読経の声に、飯縄大権現が応じたのだろうか。
祈祷が終わる頃には、すっかり空は晴れ上がっていた。

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朱の法衣を纏った大導師が、若い行者を従えて、
不動院の庭に入ってきた。
境内の空気が変わり、緊張が走る。
しばしの休憩に戯れていた行者達も、
背筋をシャンと伸ばし、大導師を注視する。
出発だ。


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法螺貝を吹き鳴らす若い行者を先頭に、
行列を作って会場に向かう。
大導師は朱の傘に守られ、後には御輿のような御守札の山、
いわゆる梵天を担いだ白装束の信者が続く。
門前通りを抜け、甲州街道を南に折れ、
一行は火渡り行の会場にたどり着く。
普段は自動車の交通安全祈祷を行う広場である。

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いつのまにやら、会場には観衆が溢れかえっていた。
縄張りの周りを囲む人々は見学や撮影のため。
会場に続く長い列を作っているのは、
実際に火渡りを行うために並んでいる人々だ。
高尾山の火渡りは広く公開されているため、
一般客も火渡り行を行うことが出来る。
といっても火渡り行は危険な行なので、
行者が渡りきった後の、少し落ち着いた灰の上をを渡るのだ。

さて、行者一行は祈祷殿で祈りを捧げ、
いよいよ会場に足を向ける。
先頭を行く行者の手には、高々と火が掲げられた。
抜けるような青空に、黒い煤が煙る。

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つづく

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ふらりと寄った茶の直売で、
旅のお供に粉茶を所望。
よく炊きあがったおこわも求め、
軽く握って葉に添えた。
ここは遠州、山の中。
ひとり茶を淹れひと休み。




1月の終わりに天目山を訪れた。
何となく日記に書きそびれたまま、
このままお蔵入りかと思っていたが、
とあるニュースが飛び込んできたので、
今さらながら書いてみようと思う。


「山梨県甲州市教委は19日、同市の景徳院境内にある武田信玄の四男、勝頼(1546~82年)の墓の保存修理工事で、法華経の経文を書いた経石が先月末までに5415個出土したと明らかにした。専門家によると、経石は経典を納めた経塚に埋めるのが一般的で、墓から大量に見つかるのは珍しい。この墓は、勝頼が亡くなって約200年後に造り直され、当時の「武田ブーム」が影響している可能性があるという。」
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070220k0000m040060000c.html?in=rssw


その日は良く晴れた休日の午後だった。
甲州街道、道の駅甲斐大和の少し東、
景徳院入り口と書かれた道にはいると、
そこから先はずっと山道だった。
舗装はされているものの、民家もまばらで人影はなく、
道の脇には日川が流れが深い谷底に続いている。
勝頼主従自害の地は、現在は景徳院という寺院になっている。
徳川家康が主従を弔うために建てた田野寺が元だという。
脇にはちょっとした水場があり、首洗い池と呼ばれている…

駐車場に車を止め、急斜面を登っていく。
道は悪い。
景徳院に行く方はそうでもないのだが、
勝頼の墓に至る道は、土を踏みならしただけの脆い道だった。


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10mも登ると、地蔵が見えた。
没首地蔵尊。
勝頼と夫人、嫡男信勝の供養地蔵だというが、
それぞれ首はなく、うら悲しい気持ちになってしまう。
勝頼37歳、夫人19歳、信勝16歳。
まだまだこれから、という年齢だ。
信勝は織田信長の養女との間の子で、
その妻は信勝を産むとすぐに亡くなってしまったという。
戦国大名だから、何人も妻がいたのは当然だが、
最後まで勝頼に連れ添ったのは北条氏の娘だという。
かつては同盟国であった、織田、北条両家。
それも手切れになり、両家から攻められて滅亡に至る。
そうなるまでに追い込まれたのは、
勝頼自身の手落ちか、それとも時代がそうさせたのか。


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地蔵のさらに上には、甲勝殿という社と、生害石。
甲勝殿の裏には三人の墓があるとのことだが、
あいにく修復工事で重機を囲ってあった為、入れなかった。


訪れたその日は景観を損ねて残念、
くらいに思っていた工事現場だったが、
上記のニュースを知って驚いた。
5千を超える経石とは相当なものだ。
各地から参詣者が訪れたのであろうか。
徳川家康が、生前恐れ敬い見習った武田信玄。
江戸時代、家康が神となったため、
必然的に武田も崇められるようになったという。
そして現在、また武田ブームである。
といっても大河ドラマは勝頼の時代までやらないと思うが、
山本勘助が推しに推した諏訪御料人の息子が勝頼である。
この時期に経石が出てきたのは、
きっと勝頼があの世から番組PRしているに違いない。
これを機にもっと勝頼が評価されるようになると嬉しいな。

ならないか…



おまけ
http://www.youtube.com/watch?v=QzU5i-OGWlg






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