2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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4月29日。
安曇野を訪れたときのこと。

連休の旅は、まず妻の実家である諏訪を訪れることから始まった。
直接大阪に帰ればいいものを、何故長野に寄ったかというと、
単純明瞭。松本でJFL(サッカーのJ2の下位リーグ)の試合があり、
妻がそれを見たいというのだ。
そう、この連休の長い旅は、松本のJFL観戦に始まり、
磐田のJ1観戦に終わるという、
妻の都合最優先のスケジュールだったのだ。

松本のサッカー場に妻を送った後、私は安曇野を探索した。
当初は上高地に行こうかと思っていたが、
快晴の連休に行けば、人ごみでうんざりするのでは?と思い直し、
かねてから関心のあった、魏石鬼八面大王伝説
(ぎしきはちめんだいおう)を探ることにした。

魏石鬼八面大王とは、桓武天皇の頃、安曇野の有明山の麓、
宮城の地に住んでいた鬼で、魔力をもって雲を起したり、
霧を降らしたり、天地を飛びあるいたりして
村人にさんざん悪さをしていたそうな。
それを聞きつけた朝廷は、坂上田村麻呂を派遣し、
苦難の末、田村麻呂は八面大王を打ち殺した。
しかし八面大王は生命力は凄まじく、
田村麻呂は復活を恐れて八面大王の体を切り刻み、
バラバラにして各地に埋めた。
それらは現在、耳は有明の耳塚、足は立足、
首は松本筑摩神社に、胴体は大王神社として残っているという。
こうして安曇野に平和が訪れたのだ。


ところで、まったく逆の言い伝えもある。
すなわち、全国統一を目指す朝廷が蝦夷討伐を行った際、
信濃国を足がかりにして、その住民たちに無理難題を押しつけ、
住民たちは重圧に疲弊し切っていた。
それを見かねた有明山の八面大王は立ち上がり、
坂上田村麻呂軍に一歩も引けを取らずに戦った。
しかし、とうとう八面大王は敗れ、再び生き返ることのないように、
体をバラバラに切り刻まれ、葬られた。

まったく正反対のの解釈だが、不思議なことに、
どちらも安曇野に残る伝承なのである。

※八面大王伝説に関する詳しい情報は、
ネット上でいくらでも資料があるので、
そちらをご覧いたされたい。
http://ravensky.nm.land.to/wiki/wiki.cgi?page=%C8%AC%CC%CC%C2%E7%B2%A6
個人的には、筑紫君磐井の王・八女大王の末裔が流れ着いた、
という説を面白く思う。


  * * *


松本のサッカー場を後にした私は、
有明の郷土資料館に立ち寄った後、有明山に向かった。


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どうやら有明山は古くから修験の霊山なのらしい。
私が有明山神社を訪れた時は、祈年祭が終わった直後だったらしく、
護摩を焚いたような炭がまだ燻っていた。
郷土資料館に寄らなければ、祈年祭を見物できたかもしれないが、
資料館は資料館で面白かったので、そこは良しとしよう。

有明山には、と呼ばれる横穴式岩室が残っている。
これこそが、八面大王の住処とされているのだ。
考古学的には、巨石露岩の下に構築された珍しい形の石室、
なのだそうだが、長年山岳修験者の修行場として
使われていた経緯があり、出土品は何もないそうだ。
周りには巨石がゴロゴロと転がっていて、
何か祭祀場のような雰囲気を漂わせている。
魏石鬼岩窟とは、”ぎしき=儀式”を行う磐座のことなのだろうか?
岩肌には仏画が複数刻まれていた。

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今回は時間がかなり限られている。
いつもなら、J1の試合なので、
たとえ昼からの試合でも朝早くから並び、
試合後も選手のお見送りやら何やらで、結構時間が持てるのだが、
JFLの試合ともなると、並ばなくても入れるし、
お目当ての選手がいるわけでもないので、
試合が終わればそれで終わり。
私には2~3時間しか時間がなかったのだ。


迷ったが、もう一つ安曇野で気になる場所があったので、
そこにも行ってみた。蝦夷に関わりそうな話だが、
まだ今回は書かないでおく。
案外これが手間取って、既にお迎えの一時間前になってしまった。

サッカー場に向かう途中、やはり見過ごせないと思い、
大王わさび農園へ。
ここは八面大王の胴体を埋めたといわれる、大王神社が鎮座している。
わさび農園の売店も、ボチボチ閉店準備に取りかかろうというさなか、
私は一路、大王神社へ。
農園の中程に鳥居があり、一目で大王神社だと分かった。
巨大なわらじが奉納されていたのだ。
果たして八面大王は巨人だったのだろうか?
この辺りはダイダラボッチ伝説もあるので、それとの混同か?

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拝殿の向こうには橋がかかり、その先の島に石の社があるのだが、
そこは関係者以外立ち入り禁止となっていた。
特に農園関係の施設があるわけでもなさそうなのに、
立ち入り禁止と言うことは、信仰に関することだろうか。
石の祠とは別の方向にも橋が架かり、そちらは通ることが出来た。

辺り一面のわさび畑の上を橋が架かっている。
橋の先には岩窟があった。
が、これは先の魏石鬼岩窟の再現だそうだ。
向かって左の岩窟に入り、奥深くまで進んでいくと、
2体の石像が佇んでいた。
岩窟はちょうど西を向いているようだ。
かなり黄色く染まった光が、右側の石像をかすめていた。
一定の時期、ちょうど石像に光が当たるようになっているようだ。
これはなかなか粋な計らいである。
民衆の八面大王を慕う気持ちが伝わってくるようだ。

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民衆のために立ち上がった八面大王伝説とは、
この大王神社の説明書きに書いてあったことである。
現在、八面大王はわさびの守護神として、
民衆に丁重に祀られているのだ。


夕日に映えるわさび畑と松本平。
遠くには穂高連峰がかすんで見える。
のどかな風景だ。

なんて、感慨にふけっていたが、
妻との約束の時間はとっくに過ぎている!
穏やかな風景とは逆に、現実は穏やかではなかった。
私は一路、サッカー場へと急いだのであった。



追記、というか妄想。

八面大王が気にかかったのは、
その伝承が以前であったとある伝承に酷似していたからだった。
それは阿蘇の鬼八伝説である。

鬼八(きはち)は健磐龍命(タケイワタツノミコト)に降った
阿蘇の先住民だが、健磐龍命のいじめに耐えかねて、反旗を翻す。
だが、鬼八は高千穂に追いつめられ、切り殺されてしまった。
しかし鬼八は切っても切っても復活するので、
健磐龍命は鬼八の体をバラバラに刻み、別々の場所に葬ったのだ。
ここでは名前の”八”と、バラバラに埋葬という伝承が重なる。
さらにいえば、阿蘇山は昔大きなカルデラ湖だったものを、
健磐龍命が岩山を蹴り破り、水を流して土地を開拓した、
という伝承があるのだが、
安曇野もかつては広大な湖で、
龍の子、泉小太郎が岩山を蹴破り水を流して開拓した、
という伝承が残っている。
泉小太郎は八面大王とは直接関係しないが、
安曇野に安曇族が侵入したころは、一帯が大きな湖だった、
といわれている。
”龍”で”八”と言うと、ヤマタノオロチや、
三湖伝説の八郎太郎、さらには八大竜王を思い浮かべるが、
さすがにこれは考えすぎか。

阿蘇と安曇野、ともに海人が関わっているといわれている。
だが、阿蘇は海から渡ってきた天孫族が原住民を討伐したのに対し、
安曇野は、海人族である安曇野住民の棟梁を、
大和に根付いた天孫族が討伐する話だ。
これは一体どういうことなのだろう?
討伐される側の”八”ってなんだ?
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むかしむかし、遠江国は見附村では、
秋祭りの日にどこからともなく白羽の矢が飛んできて、
矢が刺さった家は、娘を生贄に出さなければならないという、
悲しい悲しい風習があったそうな。

ある時、見附村を通りかかった旅の僧がその話を耳にした。
祭の晩、娘を入れた白木の箱を納めたお宮の縁の下に潜んでいると、
恐ろしい怪物が娘を掠っていった。
その時僧が耳にしたのは、「信濃の早太郎には気付かれるな。」
と、しきりに口にしていたこと。

捨て置くわけにはいかないと、僧は早太郎を捜す旅に出た。
そして、たどり着いたは信州駒ヶ根、光前寺。
なんと早太郎は光前寺で飼われている山犬だった。


そして秋祭りの日。
白木の箱に早太郎を忍ばせた。

翌日、お宮に行ってみると、そこにはヒヒの化け物が
血まみれで息絶えていた。
早太郎の姿を探しても見つからない。
残されたのは点々と続く血の足あとだけだったと。

早太郎は、光前寺に帰って息絶えたとも、
途中の山中で息絶えたとも言われているそうな。

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この冬、私は遠州磐田、見附天神を訪れた。
天竜川の東に位置する大きな街の真ん中の、こんもり茂った丘の上。
矢奈比売神社ともいうこの神社の摂社に、霊犬神社がある。
霊犬神社の片隅には、ひっそりと太郎の碑が立っている。
碑の前の白い石は、さながら犬の前足のようだ。
おどろおどろしい風習は、早太郎の活躍のおかげで払拭され、
今は犬の散歩道として、のどかな公園になっていた。
ここ遠州では早太郎のことを”しっぺい太郎”と呼ぶそうだ。
しっぺいを疾病と捉え、病気除けの御利益があるという。
ただ”しっぺい”は、疾風から転じたという説もある。
早太郎も風を連想させる名前なので、その方がしっくり来る。

ここ見附天神では、面白い祭が残っている。
それこそ台風の時期に当たる旧暦八月十日前後、
浜垢離をした若者たちが腰ミノひとつで鬼踊りをするという。
人身御供の秋祭りがこれだったとも、
しっぺい太郎への感謝の祭がこれだとも言われているが、
はっきりしたことは分からない。

縄文時代から栄えた遠州地方のこと。
この地域には早い時代から水耕農業が始まっていたという。
風に乗ってやって来た、南国からの来訪者たちは、
そういう姿をしていたのだろうか。

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   * * *

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天竜川の流れも近い、木曽駒ヶ岳の足下に、
天台宗別格本山・宝積山光前寺が建っている。
しだれ桜で有名な光前寺。
先日私が訪れたときは、
雨だというのに駐車場は観光客バスで埋まり、
境内には人があふれかえっていた。

今なお賑わうこの古刹に、霊犬早太郎の墓がある。
本堂の隣、絶好の場所に葬られた早太郎。
ひっきりなしに訪れる客に、
尻尾を振って喜ぶ姿が目に浮かんだ。

早太郎御符を買ったついでに、お寺の人と話した。
聞いたところ、早太郎伝説はちゃんと寺史に残っているという。
早太郎を借りた僧・一実坊が、
供養の為に大般若経六百巻を納めた時の記録であり、
大般若経は現在寺の秘宝となっている。
正和丙辰(1316年)のことだという。



ところで、14世紀前半というと、
もうひとつ、遠州と駒ヶ根をつなぐ話がある。
正確には駒ヶ根の隣、伊奈谷のことである。

南北朝に分かれた時代、足利幕府と対立した後醍醐天皇は、
吉野に南朝を開き、皇子を全国に配置して南朝勢力を拡大した。
天台座主の経歴を持つ宗良親王が遠州井伊谷に入ったのは、
早太郎から20年後、1337年のことである。
天竜川の交通網(後に言う秋葉街道)を駆使し、
北朝軍を翻弄した名将でもある宗良親王。
その翌年、舟の座礁で遠州に入った時にはもう既に、
遠州に基盤が作ってあったのかもしれない。 (年表)

以降、宗良親王は井伊谷と伊奈谷を拠点に全国を転戦したが、
特に伊奈谷には最も長く滞在したという。
南朝勢力の背景には、修験者の情報網があったというが、
宗良親王が天竜川に固執した理由もそこなのではないだろうか。


早太郎の伝説には示唆するところが多い。
猿(ヒヒ)が娘を掠う話は、世界中に見られる異類婚姻譚だが、
犬がそれを阻止する話はあまり聞いたことがない。
早太郎伝説の場合は、どうしても山犬に山伏を連想してしまう。
となると、当時の悪習を仏法が改めさせたことを
象徴した話なのだろうか。
光前寺と修験の関わりについて訪ねると、
やんわりとはぐらかされたが、
室町時代の学問寺なら、修験も関わってくるのだろう。

ちなみに早太郎は、へいぼう(兵坊)太郎とも
呼ばれているそうである。


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上社本宮を出た御輿行列は、県道を真っ直ぐと、
上社前宮に向かっていった。

県道は途中までは狭い道で、そのくせ交通規制をしていないから、
トラックや観光バスが通るたびに歩みを止める。
今年の行列は例年に比べ、ずいぶんと氏子関係の参列者が多いそうだ。
これはきっと選挙が近いからだろう。

行列の先頭は、浄衣に烏帽子の神官が一人。
続いて青の直垂に頭襟を被り竹の杖を突いた二人。
その後ろがスーツ姿の大総代だろうか。
続いて白丁の二人が、五色の旗にくくられた鏡、同じく藤刀。
その後に黒はっぴ姿の八本槍。
錦の袋に入った重藤弓と根曲太刀。
その後に白丁の氏子が続く。
八人が神紋の入った白旗を立て、
薙鎌二人、錦の神紋旗二人、剣矛四人。
スーツ姿の参列者がずらりと続き、
白丁の薙鎌二人、神紋の太鼓を持つ二人組が黒はっぴ。
その後に萌葱色の直垂の雅楽隊六人。
御贄柱、白丁の薙鎌二人、大榊。
紺の直衣の神官、エンジの直衣の神官、
その後に黄丁の十四人が御輿を担ぐ。
最後が白丁の薙鎌が二人である。

一の鳥居を過ぎ、権祝家跡を過ぎると、
県道も道幅が広く民家も少なくなり、一気に開放的になった。
視界に広がる青空、南東に雪をたたえる八ヶ岳、
車も電線もない時代なら、さぞかし優雅な行列だったろう。

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前宮は守屋山の斜面を利用して建っているので、
わりと急な斜面を登らなければならない。
参道には脇にコンクリートの階段があるが、
大部分はただの地面である。
これは御柱を引き上げる為なのだろうか。
重い御輿を担ぐ面々にとっては、ここが最後の難関である。
この坂を登り切ると、御頭祭の祭壇である
十間廊にたどり着くのだ。

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十間廊の周りは、既にもう人だかりが出来ていた。
周囲は菊紋の幕で覆われ、先に到着した参列者たちが、
十間廊を埋め尽くしていた。

十間廊の祭壇に、どのように御霊代を入れるのかなと見ていたら、
なんと狭い入り口に御輿ごと突っ込んだ。
御輿ごと祭壇にあげようというのだ。
本宮の布橋でさえ狭かったのに、十間廊の入り口はさらに狭い。
狭い場所を好むのは、御霊代が蛇神と化しているからか。


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  * * *

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なんとか撮影場所を確保し、やっとのことで中の様子を窺うと、
もう既に神事は始まっていた。
祭壇中央には御輿がそのまま鎮座し、上手奥には大榊、
下手奥には供物の祭壇。
ちょうど献餞が始まるところだった。
十間廊の一番手前に、別の供物棚があり、
そこから順に、供物を御神前に奉納する。
御神酒、魚介類、米、野菜、雉、そして鹿。

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江戸時代後期の旅行家、博物学者の菅江真澄の記録によると、
当時の供物は鹿の頭が七十五頭、まな板に乗せられ奉納されたという。
そのうち一頭は、必ず耳が裂けており、
これは神が矛で獲ったためだとされ、
諏訪七不思議の一つに数えられている。
その他にも獣肉、魚介類の料理が様々。
大勢の神官が敷皮の上に並んで座り、
御神酒を酌み交わしてこの供物を食べたという。
狩猟の恵みを感謝するこの神事は、
また春に蠢き出す自然の神をもてなす祭祀なのだろう。
七十五頭の鹿の肉は、近郷の氏子たちにも分け与えられ、
農繁期に入る前の、活力になったのかもしれない。
さすがに現在では鹿の頭は剥製を使うが、
雉は生きたまま三宝に乗せられて供えられていた。
御頭祭の供物については、菅江真澄のスケッチを再現したものが、
守矢資料館に展示されている。
なかなか生々しいが、見て損はない資料である。
ちなみに御頭祭の名称は、いまいち分かっていないようなのだが、
諏訪地方では祭の当番のことを御頭、
その当番になった集落を御頭郷と呼ぶのが気に掛かる。
この氏子たちに供物を振る舞った、
もしくは氏子たちが供物を負担したことが、
その名の由来なのかもしれない、とふと思った。

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供物の献餞が終わると、御贄柱が祭壇中心に移された。
この柱に向かって宮司が祝詞を奏上し、
各関係者が玉串を奉奠する。
この御贄柱は、本来ならば神の依り代となっていた。
御贄柱の名の通り、”おこう”と呼ばれる少年を生贄にしたのだ。

またもや菅江真澄の記録によると、
供物の宴が終わったあと、篠の束を床に捲き、
その上に一対の先の尖った柱を立てる。
”おこう”と呼ばれる赤い装束を着た少年の手を柱に添えさせ、
祭壇に柱ごと持ち上げると、神官が藤刀で柱の先を幾度も斬りつけ、
数種の小枝を飾り付け、一本の矢も括り付ける。
もう一本の柱も同じようにし、左右の柱を縄で結び、
柱に向かって神官たちが祝詞を読み上げる。
そして鍬の皮をよった縄で、柱に少年たちを縛り上げるのだ。

そこで大紋を着た男が子供を追いかけて神前に出てきて、
一方神長官(これが守矢氏)は神前を退出し、
藤の茂る大木の前に行き八本の刃物を投げる。

ここからが祭の最高潮で、諏訪の国司の使者が馬に乗って登場、
その馬の首めがけて、人々は物を投げかける。
馬はなおも走り、子供たちがそれを追いかける。
その後ろから、御贄柱を担いだ神官たちが
「お宝だ、お宝だ。」と言いながらサナギの鈴を枝に掛け、
そろりそろりと走り出し、前庭を七回回って姿を消す。
そして、神長官の待つ大木の前にたどり着き、
”おこう”たちは開放されるたそうだ。

「守矢資料館のしおり」によると、
かつては”おこう”たちは殺されていたらしい。
一説には、諏訪大祝一族の少年を殺さなくなったことで、
成長した一族の男子が権力を指向するようになり、
中世諏訪家は権力闘争に明け暮れるようになったとも言う。
現人神とされる神家(後の諏訪家)の正当性を護るための
方便だったのかもしれない。
また、先の尖った柱を刻みつけるのは、
ミシャグチ神の神降ろしをして占うときに、
剣先板なる先の尖った板の先を刻むことに類似しているという。
ミシャグチ神を降ろし占うのも、御贄柱を斬りつけるのも
神長官守矢氏の仕事であり、この神事を司ることで、
守矢氏は大祝諏訪氏に次ぐ第二の地位を保ってきたのである。
国司の登場は、まったく意味が分からないが、
一番盛り上がる場面となると、無視するわけにはいかない。
国司に物を投げつけ追いかけるのなら、
権力に屈しないという意味なのか。
それとも国司が何かをもたらしたので、
「お宝だ、お宝だ。」となるのか。


さて、この御頭祭であるが、菅江真澄の記録以前、
室町時代(一三五六年、一巻完成)の神社側の記録、
『諏訪大明神画詞』にはこうある。
春祭の大御立座神事(おおみたてまししんじ)と、
冬祭の御立座神事はともに主役となるのは六人”おこう(神使)”様。
神使は現人神大祝の代役となる人であり、
代々の大祝は幼童なので、神使にも幼童が選ばれる。
神使は古くは神氏が出したが、近世では御頭郷が出した。

三月の酉日に前宮下の神殿と神原廊(十間廊)にて、
一、響膳儀式。禽獣と魚類の調味美を尽くす。
二、大祝の神格授与。神使は大祝の前に膝まづき、
  玉鬘をかけてもらい、御杖柱を受け取ると神懸かりする。
三、神意を受ける。神長は御杖柱を立て、申立てを行い、
  大祝は祝詞を読み、神使たちはこれを口まねする。
四、神宝授与。神長は鉄鐸(サナギ鈴のこと)を神使の首か、
  御杖柱に吊す。
五、出門と神殿巡り。神使一族一行は、松明で明るい神門を出、
  神殿の外を三回逆回りして出発。  
  

神使は二人三組となり、三方面に旅立って湛え神事を行う。
すなわち、湛えの場所(巨木、岩石、ミシャグチ社)にて、
村人を集め御杖柱と鉄鐸で、農耕に先立って
ミシャグチ神を降ろして、豊作祈願の祈祷を行うのだ。

ちなみに、冬の神事ではこの逆の道をたどり、
豊作のお礼と、諏訪神に対する貢租の取り立てと、
ミシャグチ神の神上げを行っていたようだ。

こうしてみると、江戸末期の祭祀と室町時代の祭祀が
ずいぶん違うことに気が付く。
江戸末期のものは狩猟色が強く、
国司の登場に何か中央との接点を感じる。
室町時代のものは、狩猟の恵みによる宴はあるものの、
神使の湛え神事は農耕祭祀の色が強い。

四百年の間のこの変化は何なのだろうか。

諏訪明神を語る上で欠かせない物に、
”鹿食免”いわゆる肉食許可証がある。
これは、仏教の影響を受け肉食が忌まれていた時代に、
諏訪の神だけが発行することが許された神札である。
狩猟の神としても名高い諏訪大明神では、
神事における獣肉の供物、狩猟、鷹狩りなど、
権力者がそれを禁じていた時代においても、
それらは特例で許可されていた。
また、猟師たちは諏訪講を作って諏訪信仰を行い、
”諏訪明神の四句の偈”をもって罰除けとした。
「業尽有情 離放不生 故宿人身 同証仏果」
寿命の尽きた動物は放っておいても死ぬのだから、
人間が食べてあげて極楽往生させてもらうのが一番良い、
という意味である。
諏訪神社への参拝者はこのお札を頂いて帰るが、
一方で神社側も各地へ人を派遣して、
諏訪明神のご利益を説いて回ったという。
(全国2500社に及ぶ諏訪神社の拡大は、
実はこの肉食免許という現実的な欲望に目を付けた、
諏訪明神側の巧みな営業努力の賜かもしれない。)
こうした背景を考えると、御頭祭から農耕祭祀の意味合いが消え、
狩猟による肉食の面だけが抽出されてきたのが、
菅江真澄が目撃した御頭祭だったのではないだろうか。
国司の使者は、狩猟の禁制をはねのけて神威を護ったことなのか、
それとも鹿食免発行の認可が下りた喜びなのか。



    * * *



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話を現実に戻そう。

十間廊での神事を終えた神官たちは、
御輿をその場に安置したまま、同じ境内神原(十間廊のある広場)
にあり、諏訪大神の幸御魂、奇御魂を祀る内御玉殿の前に並び、
祝詞奏上と一連の祭祀を行った。
そして
次に一段下の広場にある若神子社でも一連の祭祀。

最後に鳥居前で、全員による二拝二拍手一礼。

こうして、スーツ姿の参列者たちは解散し前宮で集会、
御輿行列は再び御霊代を上社本宮へ運ぶのだ。

来るときには薄く霞んでいた大空は、
もやが消え青く青く澄み渡っていた。
雄大な八ヶ岳が今ははっきり目に映る。
山の雪解けはまだ早かろうが、
疼き始めた春の息吹は、諏訪の大地に心地よくそよいでいた。

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追記

ちなみに、この御頭祭、
ある筋ではユダヤの祭礼のとの類似から、
日ユ同祖論の根拠としてあげられることがある。
旧約聖書、創世記22章がそれである。

アブラハムが神から、信仰心の証のため、
自分の息子イサクを生贄に捧げることを言い渡され、
モリヤ山にて縛り上げ、殺そうとしたところを、
神の使いがやって来て、それを止めた。
アブラハムが目を上げると、藪に首を突っ込んだ雄羊がいたので、
それを息子の代わりに生贄として捧げた。
というものである。

モリヤ山=守屋山 
イサク=ミシャクチの転じた物

儀式の類似と、キーワードの類似、
その他、75頭が現在のあるユダヤ系サマリア人の祭礼で
4月のこの時期に、75頭の羊を捧げる神事があること(未確認)
などなど、いろいろと共通項が認められるというのだ。

私としては、そういうことがあるかもしれない、
と浪漫のある話の一つとして留める立場をとりたいが、
一応ここに記しておこう。




4月15日。

信濃ではまだ桜がチラホラと咲いているこの時期、
諏訪湖のほとりのお宮にて、古より伝わる神事が行われた。
諏訪大社御頭祭。
よく晴れ渡った、日差しの強い日曜日のことだった。

その日、早めに諏訪に入り、妻の実家に腰を下ろす。
駐車場の確保が心配なので、歩いて行こうと思っていたのだ。
だが心配はいらなかった。
古くから諏訪にすむ義理の両親たちでさえ、
この祭のことを知らないという。
案の定、駐車は十分に空いていた。
いまや地元の氏子よりも、他所からの来訪者の方が
地域の神事に関心を持つ時代なのだ。
早めに着いたので、守矢資料館に行ったところ、満員御礼。
一部の団体が「守矢の本当の祭神は誰か?」などと騒ぎ立てていた。
何のことかは想像つくのだが、それは筋違いというものだ。
早々に退散し、本日の主祭神と思われるミシャグジ神に、
撮影の許可と無事を祈った。


諏訪大社は諏訪湖を囲むように、4つの神社が鎮座している。
すなわち上社前宮、上社本宮、下社春宮、下社秋宮である。
御頭祭自体は上社前宮で行われるが、
その前に上社本宮で例大祭を行い、御霊代を御輿に乗せて、
前宮まで行列を作って移動するのだ。

神事は午後1時に始まる。
それまで上社前宮拝殿前に待機。
斎庭には既に御輿が用意されていた。
そして、拝殿下手の四脚門が開かれていた。
普段は閉ざされている四脚門。
諏訪大社の磐座、硯石の真っ正面に位置するこの門は、
江戸時代初期の社殿再建時に、真っ先に再建されたほど、
上社本宮にとっては重要な門だと思われる。
拝殿などができる以前は、この硯石に向かって
神事を行っていたと、文献にはあるそうだ。

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徐々に大総代、氏子関係者が斎庭に集まってきた。
中でも、「黄丁」と呼ばれる黄色い装束を身に纏った一団が目を惹く。
彼らが御輿を担ぐ役のようだ。
太鼓がドーンと打ち鳴らされ、花火がパーンと打ち上げられた。
神事の開始の合図である。

四脚門から神官たちが斎庭に入る。
黒・藍・エンジ・白、装束の色は神職の位を表すようだ。
私は四脚門の外にいたので、斎庭の様子はほとんど見えない。
修祓で祓い清めた後、祝詞の奏上。
宮司が拝殿にあがり、朱の錦に包まれた御霊代を御輿に納めた。
「ぅぉぉぉおおおおおおおぉぉぅぉぉぉおおおおおおおぉぉ…」
雅楽の調べと共に、体格の良い神官が低く野太く叫ぶ。
神霊を御霊代に移すのだ。
何度も何度も繰り返される唸りにも似た雄叫びは、
粛々とした深緑の境内に鳴り響いた。

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  * * *

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本宮での神事も終わり、行列が動き出した。
四脚門から斎庭の外に出る。
御輿に先行する者達は、薙鎌、黒い羽の付いた竿(槍袋か?)、
矛を象ったもの、諏訪大社の梶の神旗など、
長ものを携えた者が多い。
狭い四脚門を潜り、さらに狭い「布橋」と呼ばれる回廊を
竿を倒して通るのは大変そうだ。
だが、もっと大変なのは御輿の担ぎ手たちだ。
御輿の高さギリギリの四脚門を抜けた先は、
幅もギリギリしかない布橋が待っている。
御輿は相当思いようだが、案外長い布橋を
休むことなく一気に抜けなければならないのだ。

布橋とは一体奇妙な名前だが、これは古来、
諏訪の現人神である大祝が神事の際、
この回廊に布を敷いて通行したことに由来するようだ。

聖なる布橋を潜り抜ける、黄色い一団。
担ぎ手たちは長く連なる。
あたかも穴から這いだした蛇のように見えた。
なるほど、これは冬眠から目醒めた蛇を表現しているのだ。
諏訪大社の現在の神、建御名方命が諏訪に侵入する以前、
諏訪湖畔にはモレヤ氏なる先住民がいて、
自然を神格化したミシャグチなる神を信仰していた。
そのミシャグチを象徴するものこそ、蛇だと言われているのだ。
自然神が冬眠から目覚め、活動を開始する。
諏訪の春の訪れは、この御頭祭に象徴されているのであろう。

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布橋を抜けると鳥居があり、鳥居から一直線に県道が延びている。
前宮まで約1.5km、起伏はあれど真っ直ぐなのだ。
往時は本宮から前宮まで、全てが諏訪大社の境内だった
というから驚きである。

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続く

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高遠の桜は今が盛り。
夜の城址には人があふれ、
会社帰りの大人たちは騒ぎ、
恋人たちが愛をささやきあっている。
誠に結構なことである。

約四百年前、この城を舞台に血生臭い戦乱があった。
信玄亡き後の武田領に、当時最強の織田軍団が襲いかかった。
仁科五郎盛信をはじめとする、武田軍最後の精鋭たちは、
劣勢ながらも見事に戦い抜き、華々しく散っていった。
これを最後に武田軍は崩壊し、勝頼の自害をもって
甲斐源氏の名門、武田宗家は滅んだのだ。

そんな昔の話など、知っているのかいないのか、
高遠城は連日花見客で賑わい、人々は儚い夢に酔いしれる。
この地に眠る数多の魂も、自分たちの子孫が平和に暮らしている姿を、
枝の上から目を細めて眺めていることだろう。




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遠州七不思議の一つに、桜が池の龍神伝説がある。
なんとこの池、諏訪湖に繋がっているというのだ。
私は桜が池をこの目で見たくなり、
先日の遠州紀行の際に立ち寄った。

地図を見るまで実感がなかったのだが、
桜が池は遠州といっても東の端。
それまでは、天竜川流域の流通の関係で
諏訪と繋がる伝説があるのかと思っていたが、
実際に現地に赴いてみると、
そこが天竜川流域とは言えない場所であることが分かった。


御前崎市佐倉にある桜が池は、ちょっとした公園になっていて、
夕方にもかかわらず、ひっきりなしに人が訪れる。
池の側には池宮神社が鎮座し、桜、水に相応しく祭神は瀬織津姫。
桜、もしくは佐倉の由来は、平安の昔、国主の妻”桜御前”が、
この池で水死したことに由来する(遠江風土記伝)。
敏達天皇13年(584年)の創建とされるが、
神殿の造営は、長保3年(1001年)。
古来より、池そのものが神格化され信仰対象になっていたという。

桜が池には奇祭とも言える神事が残っている。
秋の彼岸に行われる「お櫃納め」は、
遠州灘で禊ぎをした屈強の若者たちが、下帯一つで桜が池に入り、
百近くになるお櫃に入れた赤飯を、順次池に沈めるというもの。
このお櫃が諏訪湖に浮いたこともあるという。

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このお櫃を奉納される対象は、大蛇とも龍神と言われているが、
この龍神は実在した人物、天台宗の僧、皇円阿闍梨である。
皇円阿闍梨は、『扶桑略記』を記したことで歴史に名を残すが、
浄土宗の開祖、法然上人の師匠としても名高い。

平安末期のこと。
様々な難行苦行を重ねても仏法の極め難きことを知った皇円阿闍梨、
五十六億七千万年後に出現すると伝わる弥勒菩薩に会い、
その教えによって人々を救おうと考え、
嘉応元年(1169)、身を龍と化し桜が池に入定したという。
お櫃納めは、その後桜が池を訪れた法然上人が
師の安泰と五穀豊穣を願い、お櫃の赤飯を納めたことに由来し、
その後、親鸞上人、熊谷蓮生坊直美によって継承された。
『お櫃納め』は、八百数十年続く歴史ある神事なのである。


桜が池の周囲を歩いてみると、南岸だけが開け、
他三方は丘になっていて、深い森に囲まれていることが分かる。
この地形は、2万年ほど前、地殻の変動により形成された丘陵の谷が、
南からの風や波によって運ばれてきた砂によって
堰き止められたものだという。
従って、池を拝むと自然に諏訪湖を拝する形になるのは、
諏訪湖との伝説になんらかの影響を与えているのかも知れない。
また面白いことに、遠州にはもう一つ諏訪の龍神に関する伝説がある。
遠州七不思議の一つ、池ノ平である。
池ノ平は天竜川流域、遠州北の玄関口に位置する山の中腹、
7年に一度現れるという幻の池である。
9月の半ばに10日ほどしか現れないという池は、
地元の人もほとんど見ることができないと言われているが、
この池は、龍神が桜が池から諏訪湖に帰る途中の休息地である、
という伝説が残っている。
7年というと諏訪の御柱際の周期。
それを踏まえて関連付けた伝説なのだろう。
龍神が天竜川を遡って諏訪湖に帰るとは、まるで鮎や鮭のようだが、
大河の流域に住む人々にとっては、至って普通のことなのだろう。

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池宮神社には資料室があったので、
そこで神官に諏訪での伝説を知っているか聞いてみた。
実は、遠州では諏訪湖に繋がると言われているが、
諏訪ではそうは言われていない。
遠州”サナギの池”に繋がるのは、茅野市の葛井神社の池なのだ。
神官は葛井神社のことは知らなかった。
社史に書かれていること以上の情報は得られなかったが、
葛井と聞いて、「九頭竜?」と聞き直してきたことが気になった。

  * * *  

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果たして、葛井神社には確かに池があった。
葛井神社の祭神は槻井泉神。
だが桜が池同様、古来より池そのものが信仰対象だったという。
従って神社の本殿も、池を背にして建っている
葛井神社の神事は、「御手幣送り神事」。
大晦日の深夜に幣帛を池に投げ入れると、
これが翌朝、遠州サナギの池に浮かぶというのだ。
その”サナギの池”が、”桜が池”ではないかと言われている。

約700年前の書物に、既にこの神事のことが記述されている。
記述によると、「参拝者は死人のフリをして地面に伏す」やら、
「帰るときは刀をくわえる。これに行き会ったものは必ず死ぬ」
などと、物騒なことが書かれている。
もちろん現在はそのようなことは無く、
幣帛を投げ入れるだけなのだが、
ちゃんと御手幣送り神事は継続している。

興味深いことに、葛井神社の代々の神主は九頭井氏といい、
葛井神社も別名”九頭井明神”と言うそうである。


さて、九頭竜とお櫃納めと聞くと、箱根神社との関連が浮かぶ。
毎年7月31日、箱根神社では芦ノ湖の守護神九頭龍大神に
三升三合三勺の赤飯をお供えする特殊神事・湖水祭が行われるという。
富士講の外八海に含まれる芦ノ湖、桜が池、諏訪湖(葛井池だが…)
に共通する、水に関する神事、
密教の守護神である九頭龍の影。
なにやら深い関わりがありそうである。




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何かのお導きなのだろうか。
石笛を授かった。


4月8日、私は遠州にいた。
昼頃、エスパルス戦を観戦に来た妻を日本平スタジアムで降ろし、
私は一路、遠州に向かって高速を飛ばした。
遠州七不思議のうちの幾つかに興味があったので、
それをこの目で確かめてきたのだ。

見聞を終え日本平に戻ろうかと思ったが、
まだ待ち合わせの時間には少しある。
せっかく海の近くに来たのだ、潮の香りでもかいでいこう、
と、車を海岸線の近くまで走らせた。

私のカーナビは、すぐに迷子になったり
海や山に突っ込んだりする困りものなのだが、
神社仏閣名勝だけは、なぜかしっかりと表示する。
そのときも、ナビ上のとある場所にある神社がやけに気にかかり、
もののついでにそこを訪れてみた。

そこはなんの変哲もないよくある名前の神社で、
歴史は古いようだがこれといって見るものはない。
一応お参りをし、社殿の裏に回ってみたが、特に何もない。
無駄足だったかな?と思いつつも、
ふと、普段は注意深く見ないような石塁に目をやると、
一部に不思議な石が使われていた。
無数の小さな穴が空いていたのだ。


江戸時代後期の国学者に、平田篤胤という人物がいる。
本居宣長によって確立した国学を、
その跡を引き継ぐ形で確固たるものにした人物で、
純粋なる神道を尊重したその思想は、
後の尊皇攘夷に影響を与え、明治維新の原動力となった。
その平田篤胤が学者として脂の乗ってきた40代のとある時、
不思議な笛を得る夢を見たという。
その夢のことが忘れ得ぬまま、東国三社参りの旅に出た帰り、
道中立ち寄った銚子の神社で、夢に見た笛とそっくりな石が、
神社の拝殿に沢山供えられているのを見る。
どうやらそれは、近くの海岸に打ち寄せる石を
氏子の村人たちが奉納したものであった。
篤胤は神主に譲って貰えぬかと頼み込んだが、
神様の供物を見ず知らずの人にあげるわけには行かぬ、と断られる。
それでも散々食い下がり、最後には何とか手に入れた。
それが現在、渋谷の平田神社に残っている石笛である。
篤胤はこのことに感動し、屋号を「伊吹乃屋」に改名。
これ以降、さらに学術に磨きをかけていったとのことである。
※この顛末については、篤胤の弟子が著した
『天石笛之記』を読まれたし。

実は石笛については、秋頃からずっと気になっていた。
海岸や川原を訪れるたびに小石を注意深く見ていたのだが、
これまで一向に見つけることは出来なかった。

石笛は、古くは縄文遺跡からも出土している。
言うなれば古代の楽器だ。
現在でも京都の地主神社では神事に演奏されるという。
石笛の発する音は、犬笛のような高波長を伴うもので、
神に通じる高貴な音色として、呪術的な場面で使用されるそうだ。
といっても平田篤胤の石笛は、法螺貝のように
「ぶぉ~ぶぉ~」と鳴ったそうだが。


偶然たどり着いたこの神社では、奉納の形こそしていないが、
石塁に穴の空いた石が使われているのなら、
近隣で穴の空いた石が手に入る場所があるということ。
私は無性に海が見たくなった。

神社から道なりに丘を降りると海に行き当たった。
車を停め、堤を越えて海に寄る。
残念ながらそこはコンクリートの波止場だった。
薄暗く曇った空に、海はどんよりと波を湛え、
期待は裏切られたような感じがした。
それでも辺りを見渡すと、小川の流出口の近くに、
波に洗われた赤い岩があり、岩の背後はわずかに浜が出来ていた。
広さは一坪もなかったと思う。
だが小石の浜に降り立った途端、目の色が変わった。
穴の空いた石が沢山あるではないか!
私は真っ先に手に取ってみたのが、写真奥の石。
両手で包み込むくらいの大きさで、
正面の穴が貫通している。
顔を近づけてみた。
強烈な磯の香りが鼻を突く。
貫通している穴に息を吹き込むも、
すぅすぅと鳴るだけで音が出ない。
それでも最初に手に取ったのは何かの縁。
形が気に入ったこともあり、この石を持って帰ることにした。
他にちゃんと鳴る石がないか探し回る。
めぼしいものに息を吹きかけ、綺麗な音が鳴ったのが
右の3つ穴の石であった。


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夢中になってい探している内に、辺りはずいぶん暗くなった。
そろそろ帰ろうと堤の手前の車まで戻ったが、
漠然と、「何かお礼をしなくては」と思い、再び浜へ。
赤岩を見て思った。岩の上で海に向かって奏でてみよう。
だいぶ潮が満ちてきている。
靴が濡れないように注意して岩のもとに進むさなか、
ちょっと気になる石があり、それを拾って息を吹きかけた。
軽く吹いただけなのに、先に拾ったどの石よりも
気高く、研ぎ澄まされた音が鳴る。
これこそが授かりし石笛だ!
赤岩の上に立ち、遙か波の彼方へ向けて笛を吹く。

「ぴぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ......」

天にも届きそうな高い音色が耳を貫きぬけ、
周囲の波音を脳裏から消し去った。
しばしの静寂。

古来、石笛は招魂や神降ろしの儀式に使われたという。
縄文遺跡から出土する石笛は、その由来の古さを伝え、
江戸時代、廃れゆく神道研究を再興した平田篤胤は、
石笛に注目し、「八重事代主神は天石笛を製りて、
皇美麻命に奉りて、祝ひ給ふ」と、由来を神代に求めた。
その篤胤の影響を受けた神道霊学中興の祖・本田親徳は、
鎮魂帰神法において石笛を使用するようになり、
親徳に奥義書を授かった古神道家の出口王仁三郎は、
大本(大本教)においてその秘伝を継承した。
大本が現代の新宗教に多大な影響を与えているのは
言うに及ばないだろう。

また、神道や宗教家と離れた方向では、
口笛に代表される俗信がそれに近い。
夜中に口笛を吹くと蛇がでる、お化けが出る、
といった民間伝承は広く日本に分布しているし、
沖縄では魂(マブイ)を幽霊に盗られてしまう、
精霊(キジムナー)がやってくる等、
より霊性に近いものを呼ぶと伝わる。
東北岩手では、風を呼ぶ、嵐を呼ぶと伝わるそうだが、
口笛の音が風に似ていることの連想と、
水や風を司る蛇の信仰とが合わさったものかもしれない。
いずれにせよ、笛は霊的な何かを呼ぶものと
捉えられていたようだ。

笛の音は脳に心地よい残響音となり、
現実はふたたび波の音に呼び戻された。
そして私は海の彼方に感謝を述べ、帰路についたのであった。



 


○追記

なんと、この石笛たち、海から離れて乾燥してくると、
ボロボロと崩れ始めた。
特に穴の貫通していた二つは、半月の間に割れてしまった。
材質が泥岩なのだろう。
割れた断面から小さな貝殻が出てきた。
柔らかいから穴が空きやすいのである。

それでも、最後に見つけた小さな笛は、
そもそも石の種類が違い、少しも割れる気配がない。
もしあの時、もう一度海に引き返さなかったら、
この石笛は授かっていないわけで、
これは何かのお導きとしか考えられない。
ある筋の話によると、石笛はその持ち主1人だけの、
最高のお守りなのだそうだ。
持ち主が亡くなったとしたら、今度は霊界でその方を守り続けるとのこと。
この石笛は、後生大事にしようと思う。

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東海の名刹、大興寺。
なだらかに連なる丘、わずかに開けた土地、
その全てが深緑の茶畑に覆われた遠州相良。
緑に囲まれた丘の麓に大興寺は建っている。
いまからおよそ600年前、大徹和尚によって開山された大興寺。
この寺に、無縫石といわれるものがある。

大徹和尚は仏道を説くかたわら、石に関する学識も深く、
那須の殺生石の謎を解いた名僧とも言われている。
その和尚が九十余歳の今際の時、側で見守る門弟たちにこう告げた。
「わしの身代わりとして裏山より石が生まれるであろう。」

果たして裏山の萩間川には、まゆの形をした石が転がっていた。
それ以来代々、大興寺の住職が往生するたびに、
まゆ型の石が生まれ出で、その死と共に転がり落ち、
それを墓石とした。
これまで二十九代に渡り続いているという。
故にこの土地の人々は、荻間川の岸壁に丸い石が顔を出すと、
住職の先が長くないことを噂したそうな。

ある和尚は、この石が顔を出して来たことに気が付き、
夜中にこっそりと抜き取って山へ捨てた。
だが翌朝、石は元の場所に戻っており、
ほどなく石が転がり落ちて、住職は亡くなった。

またある和尚は、五十半ばで重い病にかかり、
まだまだ死にたくはないと思っていたが、
寺の小僧が石を見つけたと知らせに来た。
そこで和尚は、「その石はお前にやろう。」と
小僧に石を譲ってしまった。
小僧は嫌な顔をしたが言い返せず、
3ヶ月後にその石がぽとりと落ちたときに死んでしまった。
一方の和尚はみるみるうちに回復し、長生きしたという。
(非道い話だ…)


この石は、継ぎ目のない綺麗な形をしていることから
「無縫石」と名付けられたが、いつしか遠州七不思議、
子生まれ石と言われるようになったのだ。

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無縫石の生まれる川原は、大興寺から少し離れた茶畑の中にあった。
細い路地を入ると、萩間川らしき小川を見つけた。
地層が剥き出しになった岸壁に沿って、妙に白い川原が続くいている。
そこが白いのは硫黄か何かの成分だろう。
いわゆる湯ノ花になって底の石に積もっているのだ。

小川に沿って行くと、小さな社があった。

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中を覗いてみると、丸石がふたつ並んでいた。
まるで甲州の道祖神のようだ。
長寿安産子授之石とある。
壁に掛けられた千羽鶴の多さが、
この石の霊験の強さを物語っている。
まぁ実際の霊験は分からないが、
この近くには温泉が湧いているので、
温泉で体を温めた後、ことに挑めば、
霊験はさらに増すことと思われる。



社まで来れば、後はもう目と鼻の先。
萩間川が大きく湾曲する場所に、
件の崖はあった。

遠目から見ても、何やら崖にポコポコ飛び出しているのが分かる。
壮大な風景とは行かないまでも、静寂の中に奇妙さが漂う空間。
訪れるものを惹きつける何かがそこにはあった。

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小川の水量が少なかったので、岸壁にぐっと近づいてみた。
一枚板に見える岸壁から、唐突に丸い石が顔を覗かせている。
数個の石があったが、どれもが丸い頭をしているのだ。
中にはすでに欠けているものもある。
どれが住職の石なのかは分からないが、
どうも生まれてくる石はまゆ型だけではなく、
まん丸のもの、空豆型のものなど、色々とあるようだ。
綺麗なまゆ型のものを、代々住職の墓石に使ったようである。
小川の周りには、岸壁から生まれたであろう
色々な形の石が転がっていた。


 * * *


科学的には、砂岩が堆積した際に石灰質の核が残ると、
核を中心に周囲の砂が圧縮され、
タマネギのように幾重にも重なり丸い石ができるのだという。
そして周りの柔らかい砂岩が風雨で浸食されると、
丸い石が徐々に顔を出してくるそうである。
言ってしまえば簡単だが、科学知識の乏しい時代には、
奇跡以外の何物でもなかっただろう。
もしかしたら、大徹和尚は石の研究を続けるうちに、
この現象のメカニズムに感づいていたのかもしれない。
それを知りながら、亡くなる直前に予言のような言葉でそれを告げ、
大興寺を奇跡の起こる寺として権威付けしたのならば、
和尚の知恵に感服つかまつるばかりである。

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天候はさらに悪化し、雨もどんどん大降りになってきた。

午後からの神事は今宮神社の社殿前で行われるのだが、
あまりに雨が酷いので、急ぎ社殿前にテントを移動、
関係者総動員のお仕事だ。
なんとか境内も落ち着きを取り戻してきた頃、
秩父神社の関係者が今宮神社にやって来た。
きっと今頃は、秩父の街を神官たちの行列が練り歩いていることだろう。

今宮神社の龍神祭の同日午後、秩父神社では御田植祭が執り行われる。
白装束に身を固め、鍬に見立てた竹を持つ神部たちの行列は、
秩父神社を出て今宮神社で水幣(みずぬさ)を受け取り、
秩父神社の鳥居から社殿に至る参道を、
田植えの所作をして歩くのだ。
今宮神社で水幣を受け取ることにより、
秩父の田圃に水が張るということである。

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飴色の装束を纏った神官が、榊を手に今宮神社の境内にやって来た。
続いて山吹色の神官と白装束の神部たち。
長持を担いだ者もいれば、太鼓を鳴らす者もいる。
一行は朱の鳥居を潜り、社殿前の急設テントの下に整列、
今宮神社の神職たちと対峙した。

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大きな幣が秩父神社の神官から今宮神社の宮司に手渡され、
奥の本殿の安置された。
これから神事を執り行い、この水幣に魂を込めるのだ。
献餞に続き、宮司による祝詞奏上。
秩父神社の神官や氏子たちも拝殿に上がり、
次々と参拝していく。

一通りの儀礼が終わったあと、本殿から御神酒がおろされた。
神職たちに盃が配られ、御神酒が振る舞われる。
寒い中を雨に打たれて歩いてきたのだ、
御神酒によって緊張の糸がほぐれたのだろう、
皆の顔に笑顔が浮かんだ。
神事の最中とはいえ、しばしの歓談の時である。

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そして神事は最後の時を迎えた。
今宮神社の宮司が拝殿にあがり、
奥の本殿に納められた水幣を携えてきた。
秩父神社の神官が恭しく頭を下げ、水幣が与えられる。
これにて武甲山の水が秩父の土地に満たされるのだ。

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結局空は荒れたまま、行列は雨の中を秩父神社に帰って行った。
神社に着いた後は、雨に打たれながらも、
田植え歌を歌いながら、稲を植える所作をして歩くのだ。
秩父の春の訪れである。

龍神が水を与えることを象徴するような天気の中、
水分神事は幕を閉じたのであった。

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 * * *

帰り道、温泉につかってゆっくりした私は、
境内に忘れ物をしたことに気がついた。
山道を途中まで来ていたが、やむなく引き返すことに。
山道を抜け、視界が開けてきたころ、
ふと空に目をやると、秩父の空の雲が裂け
夕焼けに輝く空が垣間見えた。
どうも龍神様が微笑んでいたようだ。

神事によって目まぐるしく変わる天候に、
龍神様の存在を肌で感じたような気がしていた。
そんな後での夕焼け空。
とても素晴らしい体験が出来た一日であった。



4月4日、どんよりと曇った空を気にしつつも、
私は車を秩父に向けて走らせていた。
目指すは今宮神社。

龍神の日に相応しく、先行き不安な空模様。
9時頃秩父に着いた頃には、今にも雨が落ちてきそうな天気だった。

今宮神社は、秩父夜祭りで有名な秩父神社のすぐ近くに鎮座し、
大宝年間に役行者が飛来し、宮中八神と観音菩薩の守護神である
八大龍王を合祀したのが起源だとされている。
また一説には、『先代旧事本紀』では
饒速日尊が東国へ赴く際に付き従った10名の人物の内、
知知夫彦命(ちちぶひこ)だけが、大神を拝すると記述されていて、
その知知夫彦命が留まったのが秩父神社であり、
知知夫彦命が拝した大神というのが、
ここ今宮神社の神であるという。
祭神の宮中八神とは、国内では皇居とここ今宮神社でしか
祀られていないそうで、見る人が見れば、
今宮神社に国中の気が集まってきているそうだ。

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境内には樹齢1000年を越えるケヤキの木と、
龍神池と呼ばれる池がある。
龍神池は武甲山の伏流水が湧き出ている秩父最古の泉とされ、
同日午後から行われる水分祭(みまくりさい)では、
秩父神社から神官が、この水をもらい受けに来るのである。
今宮神社の龍神祭は、明治維新後廃仏毀釈の修験道廃止により
途絶えていた伝統を、平成4年に復活させた神事で、
今はまだ社殿の復興がままならないため、
龍神木と呼ばれる大ケヤキの前に祭壇を設け、
野外で祭祀が行われれる。

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今宮神社の社務所から神官たちが現れ、龍神祭が始まった。
御神木の前に祭壇、その後ろに参拝者。
巨木や巨石を神の依り代と見なした原始アニミズムの祭祀は、
きっとこのような形をしていたに違いない。
これこそが信仰の原点であると共に、
集団政治の原点であったのかもしれない。
龍神木の立派な風格は、そう思わせるに相応しい
貫禄に満ちあふれていた。
このような祭祀はなかなか見ることが出来ないものだ。
私はこのような神聖な場所に立ち会えたことに
少なからず感動を覚えたのであった。

祭祀は献餞、祝詞奏上と続き、舞の奉納となった。
琉球舞踏の奉納である。
若い二人の扇を使った舞と、年配の女性による稲穂を使った舞。
どちらもゆったりとした動きが特徴の、優雅な舞であった。
午後から行われる水分祭によって
秩父地方の農作業が始まることを考えると、
豊穣を願う稲穂の舞は、この日の神事に相応しいものなのだろう。
途中、稲穂の舞が始まった途端に、パッと明るく日が差した。
雲が薄くなり、太陽が顔を覗かせている。
神話に聞くところによると、アメノウズメの舞によって
天照大神が岩戸から顔を出したという。
まさしく今がその状況だ。
古来より、芸能は神に捧げるものとされていたというが、
真摯な思いは天にも通じる力を発するのかもしれない。

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祭主の挨拶のあと、一般参拝者も玉串奉奠の列に並び、
午前中の龍神祭は幕を閉じた。
一般参拝の列も終わる頃には、
回復するかと思われた天気も再び悪化の兆しをみせ、
ついには雨が落ちてきた。

午後からの水分祭は、水をもたらす神事だとはいえ、
本当に雨が降ってくるとは・・・
凍える手でお弁当を食べながら、そう思ったものである。

つづく



「昔はこんなに人は来なかったんだ。」

振舞われたにごり酒を飲んでいた時、
隣に居た初老の男性が語りかけてきた。
「鉄工所をやっていてね、昔からこのお祭りは見てきたが、
 いつのまにやらこうなってたよ。」

金山神社の祭神、金山比古神・金山比売神は
その名の通り、金属工業や鍛冶の神様である。
吹差ふいごを操り火を生み出すことが性行為を連想させ、
(吹差ふいごは、箱から飛び出たハンドルを
 前後に出し入れすることで風を起こす)
それが安産、多産の信仰へと繋がったようだ。
ちなみにイザナミが火の神ホノカグツチを産み、
出産の際の火傷に苦しんで出した嘔吐物が、
金山比古・金山比売である。

社殿も鍛冶場をイメージしたものだし、
絵馬殿には金床(鉄を打つ台)と男根が合体したものが置いてある。
それが性の神様としての認識が大きくなったのは、
やはりかなまら祭の影響が大きいだろう。
江戸時代、川崎宿の飯盛女(売春婦)の願掛けにより、
始まったとされるかなまら祭。
伝統ある行事ではあるが、さすが性の祭だけあって寛容で、
女装クラブ・エリザベス会館の奉納をも受け入れた。
それがモロ出しピンクのエリザベス御輿なのである。
そのような性的嗜好を受け入れた先進性が注目されたか、
もしくはエリザベス御輿の非常に分かりやすい造形が目を引いたか、
とにかくかなまら祭はメディアに露出する機会が多くなった。
特に海外では、”歌麿フェステバル”として
脚光を浴びるようになったようだ。
また、1998年に男性同士のカップルが神前結婚式を挙げたことや、
先代宮司が、性病の神様としてエイズ問題に取り組んだことも、
金山神社の知名度を高めることになったのだろう。

鉄工所のおやじさんたちや、地元の信奉者の手を離れて、
かなまら祭は今や世界的に有名なフェステバルとなったのだ。




和太鼓の演目が始まり、境内がざわめきだした。
人が境内から街中へ移動し始める。
そろそろ出発だ。
鳥居から真っ直ぐ伸びた参道の先、
人の波の隙間から、チラリチラリ御神輿が見える。
錫杖を突いた先達、大きな扇を抱えた神官、
背の高い天狗面の猿田彦、朱の傘の祭主、
黒い男根舟形御輿、次の御輿は御神体かなまら、
その先にかすかに見えるのは、人波にそそり立つピンク。
桜の咲き乱れる境内を、勢いよく飛び出していった。

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行列はしばらく真っ直ぐ進んだ後左に曲がり、
川崎大師の門前街に入った。
趣のある商店街を3体の男根が練り歩く。
先頭の黒は凛々しく、真ん中のかなまらは荒々しく、
しんがりのピンクは華やか(?)に。
「でっかいまら!かなまら!でっかいまら!かなまら!
 でっかいまら!かなまら!でっかいまら!かなまら!」

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行列は周りを圧倒しつつ練り歩き、
川崎大師の横まで行くと引き返した。
御神体のかなまら様の御輿は、
辻ごとに担ぎ手が交互に飛び跳ね揺さぶる。
奮い立たせるように。いきり立たせるように。
かなり激しい運動であることは、見ている側でも想像できる。
その為か練り歩きも後半になってくると、
担ぎ手が疲れ果て、御輿は制御を失い右へ左へ蛇行する。
時にはその場で崩れかかり、傾いたまま止まってしまうこともあるが、
観衆の声援を浴び、精力を振り絞ってムクムクと立ち上がる。
あたかも、、、いや、例えるのはやめておこう(笑)

正直なところ、こんなに激しい祭だとは、夢にも思わなかった。
一方、エリザベス御輿の方はすこぶる楽しそうだ。
ピンクの衣裳をヒラヒラさせ、化粧をバッチリ決め込んで、
観衆の黄色い声に手を振りながら、それでいて野太い声で、
「でっかいまら!かなまら!でっかいまら!かなまら!」
この時ばかりは男としての本性が出てしまうようだ。
周りの人も浮かれて踊り出すしまつ。
「でっかいまら!ちっちゃいまら!」
エリザベス御輿の周囲には、妙な一体感が充満していた。

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鳥居をくぐり、行列は境内に戻ってきた。
広い街中と違って、境内の空間は狭い。
私は「まずいかな」と思いつつ荒ぶるかなまら様の側にいたが、
案の定、精根尽きてフラフラの御輿はぐらつき、
何度も周りの観衆を巻き込みそうになる。
私はその都度、植木の中に押しやられ、体中が痛かった。
そのような中、最後の一仕事。
御輿の担ぎ手たちが、一斉に上下運動を始めたのだ。
御輿はグラングランと揺れ動く。絶頂に達するがごとく。

大歓声の中、祭は終わった。
始まる前の厳格な表情とは打って変わって、
とてもにこやかな顔をした祭主の女性から
一言、挨拶があった。

「ごちそうさまでした。」

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もうお腹いっぱいである。

 完




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神事は荘厳な雰囲気の中、始まった。
鉄板貼りの八角形の社殿の内部は、中心に炉と吹差ふいごを備え、
正面に腰を据えた神官が、火打ち石で火を熾す。
火種から火を熾し、社殿の外に並んだ篝火に火をつけた後、
炉に火を移しふいごで風を起こすと、
あれよあれよという間に火が勢いを増していく。

かなまら祭の始まりだ。

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4月の第1日曜日、川崎大師にほど近い若宮八幡神社摂社、
金山神社で執り行われる祭である。

神官が炉に奉納された絵馬を投げ入れる。
側に山積みにされている絵馬は、
主に子授けや安産の願いが掛けられているようだ。
これは、金山神社の祭神、金山比古神ならびに金山比売神が、
鍛冶と性の神として信仰されているからである。

社殿の奥では、神官たちが祭祀を進めていく。
祝詞を奏上し関係者による玉串奉奠。
その間も、炉の前の神官はふいごを操り、
大量の絵馬を焚いていった。

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炉に火を入れ篝火に点火する”御火取祭”が終わった頃には、
境内は大勢の観客にあふれていた。
決して大きいとは言えない境内、もう身動きも取れないほどだ。
このお祭りは、御輿の練り歩きが有名で、
特に海外から沢山の見物客が訪れる。
司会進行も日本語と英語を駆使し、とてもインターナショナルだ。

金山神社の左脇、若宮八幡神社の社殿前で、
稚児舞が奉納される。
白と赤の巫女装束に身を包み、額には金の髪飾りがキラキラと揺れる。
相当練習したのであろう、幼いながらも凛々しく清々しい舞。

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絶賛の拍手が続く中、「おか~さ~ん!」と走っていったのは
ご愛敬である。





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しばらくすると、御輿に御霊を入れる儀式が始まった。
境内に並べられた御輿は3台。
それぞれ特徴的な形をしている。
性の神様らしく、男性器の形である。
3台の中で、一番最初に御霊を入れたのが、
おそらくメインの御輿なのであろう。
金山神社の額を頂く社の中には、木で出来た荒削りの男根像。
そしてその前には鉄製の魔羅、つまり”かなまら”である。

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祝詞を奏上し、玉串を捧げ、いざ御霊を入れる。
「ぅぉおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉ~」
突然のことに、ぞくっと身震いした。
ひげ面の大きな神官が、腹の底から雄叫びを上げたのだった。

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他の2台の御輿は、先のかなまら大御輿とは離れた位置にあった。
どちらとも、先の御神体よりも大きく、分かりやすい形をしている。
片方は漆黒で艶々と、舟の上に直立しているかなまら舟御輿。
もう片方はピンク色でむき出した。





















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その名をエリザベス御輿と言う(笑)

つづく









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