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2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

上社本宮を出た御輿行列は、県道を真っ直ぐと、
上社前宮に向かっていった。

県道は途中までは狭い道で、そのくせ交通規制をしていないから、
トラックや観光バスが通るたびに歩みを止める。
今年の行列は例年に比べ、ずいぶんと氏子関係の参列者が多いそうだ。
これはきっと選挙が近いからだろう。

行列の先頭は、浄衣に烏帽子の神官が一人。
続いて青の直垂に頭襟を被り竹の杖を突いた二人。
その後ろがスーツ姿の大総代だろうか。
続いて白丁の二人が、五色の旗にくくられた鏡、同じく藤刀。
その後に黒はっぴ姿の八本槍。
錦の袋に入った重藤弓と根曲太刀。
その後に白丁の氏子が続く。
八人が神紋の入った白旗を立て、
薙鎌二人、錦の神紋旗二人、剣矛四人。
スーツ姿の参列者がずらりと続き、
白丁の薙鎌二人、神紋の太鼓を持つ二人組が黒はっぴ。
その後に萌葱色の直垂の雅楽隊六人。
御贄柱、白丁の薙鎌二人、大榊。
紺の直衣の神官、エンジの直衣の神官、
その後に黄丁の十四人が御輿を担ぐ。
最後が白丁の薙鎌が二人である。

一の鳥居を過ぎ、権祝家跡を過ぎると、
県道も道幅が広く民家も少なくなり、一気に開放的になった。
視界に広がる青空、南東に雪をたたえる八ヶ岳、
車も電線もない時代なら、さぞかし優雅な行列だったろう。

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前宮は守屋山の斜面を利用して建っているので、
わりと急な斜面を登らなければならない。
参道には脇にコンクリートの階段があるが、
大部分はただの地面である。
これは御柱を引き上げる為なのだろうか。
重い御輿を担ぐ面々にとっては、ここが最後の難関である。
この坂を登り切ると、御頭祭の祭壇である
十間廊にたどり着くのだ。

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十間廊の周りは、既にもう人だかりが出来ていた。
周囲は菊紋の幕で覆われ、先に到着した参列者たちが、
十間廊を埋め尽くしていた。

十間廊の祭壇に、どのように御霊代を入れるのかなと見ていたら、
なんと狭い入り口に御輿ごと突っ込んだ。
御輿ごと祭壇にあげようというのだ。
本宮の布橋でさえ狭かったのに、十間廊の入り口はさらに狭い。
狭い場所を好むのは、御霊代が蛇神と化しているからか。


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  * * *

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なんとか撮影場所を確保し、やっとのことで中の様子を窺うと、
もう既に神事は始まっていた。
祭壇中央には御輿がそのまま鎮座し、上手奥には大榊、
下手奥には供物の祭壇。
ちょうど献餞が始まるところだった。
十間廊の一番手前に、別の供物棚があり、
そこから順に、供物を御神前に奉納する。
御神酒、魚介類、米、野菜、雉、そして鹿。

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江戸時代後期の旅行家、博物学者の菅江真澄の記録によると、
当時の供物は鹿の頭が七十五頭、まな板に乗せられ奉納されたという。
そのうち一頭は、必ず耳が裂けており、
これは神が矛で獲ったためだとされ、
諏訪七不思議の一つに数えられている。
その他にも獣肉、魚介類の料理が様々。
大勢の神官が敷皮の上に並んで座り、
御神酒を酌み交わしてこの供物を食べたという。
狩猟の恵みを感謝するこの神事は、
また春に蠢き出す自然の神をもてなす祭祀なのだろう。
七十五頭の鹿の肉は、近郷の氏子たちにも分け与えられ、
農繁期に入る前の、活力になったのかもしれない。
さすがに現在では鹿の頭は剥製を使うが、
雉は生きたまま三宝に乗せられて供えられていた。
御頭祭の供物については、菅江真澄のスケッチを再現したものが、
守矢資料館に展示されている。
なかなか生々しいが、見て損はない資料である。
ちなみに御頭祭の名称は、いまいち分かっていないようなのだが、
諏訪地方では祭の当番のことを御頭、
その当番になった集落を御頭郷と呼ぶのが気に掛かる。
この氏子たちに供物を振る舞った、
もしくは氏子たちが供物を負担したことが、
その名の由来なのかもしれない、とふと思った。

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供物の献餞が終わると、御贄柱が祭壇中心に移された。
この柱に向かって宮司が祝詞を奏上し、
各関係者が玉串を奉奠する。
この御贄柱は、本来ならば神の依り代となっていた。
御贄柱の名の通り、”おこう”と呼ばれる少年を生贄にしたのだ。

またもや菅江真澄の記録によると、
供物の宴が終わったあと、篠の束を床に捲き、
その上に一対の先の尖った柱を立てる。
”おこう”と呼ばれる赤い装束を着た少年の手を柱に添えさせ、
祭壇に柱ごと持ち上げると、神官が藤刀で柱の先を幾度も斬りつけ、
数種の小枝を飾り付け、一本の矢も括り付ける。
もう一本の柱も同じようにし、左右の柱を縄で結び、
柱に向かって神官たちが祝詞を読み上げる。
そして鍬の皮をよった縄で、柱に少年たちを縛り上げるのだ。

そこで大紋を着た男が子供を追いかけて神前に出てきて、
一方神長官(これが守矢氏)は神前を退出し、
藤の茂る大木の前に行き八本の刃物を投げる。

ここからが祭の最高潮で、諏訪の国司の使者が馬に乗って登場、
その馬の首めがけて、人々は物を投げかける。
馬はなおも走り、子供たちがそれを追いかける。
その後ろから、御贄柱を担いだ神官たちが
「お宝だ、お宝だ。」と言いながらサナギの鈴を枝に掛け、
そろりそろりと走り出し、前庭を七回回って姿を消す。
そして、神長官の待つ大木の前にたどり着き、
”おこう”たちは開放されるたそうだ。

「守矢資料館のしおり」によると、
かつては”おこう”たちは殺されていたらしい。
一説には、諏訪大祝一族の少年を殺さなくなったことで、
成長した一族の男子が権力を指向するようになり、
中世諏訪家は権力闘争に明け暮れるようになったとも言う。
現人神とされる神家(後の諏訪家)の正当性を護るための
方便だったのかもしれない。
また、先の尖った柱を刻みつけるのは、
ミシャグチ神の神降ろしをして占うときに、
剣先板なる先の尖った板の先を刻むことに類似しているという。
ミシャグチ神を降ろし占うのも、御贄柱を斬りつけるのも
神長官守矢氏の仕事であり、この神事を司ることで、
守矢氏は大祝諏訪氏に次ぐ第二の地位を保ってきたのである。
国司の登場は、まったく意味が分からないが、
一番盛り上がる場面となると、無視するわけにはいかない。
国司に物を投げつけ追いかけるのなら、
権力に屈しないという意味なのか。
それとも国司が何かをもたらしたので、
「お宝だ、お宝だ。」となるのか。


さて、この御頭祭であるが、菅江真澄の記録以前、
室町時代(一三五六年、一巻完成)の神社側の記録、
『諏訪大明神画詞』にはこうある。
春祭の大御立座神事(おおみたてまししんじ)と、
冬祭の御立座神事はともに主役となるのは六人”おこう(神使)”様。
神使は現人神大祝の代役となる人であり、
代々の大祝は幼童なので、神使にも幼童が選ばれる。
神使は古くは神氏が出したが、近世では御頭郷が出した。

三月の酉日に前宮下の神殿と神原廊(十間廊)にて、
一、響膳儀式。禽獣と魚類の調味美を尽くす。
二、大祝の神格授与。神使は大祝の前に膝まづき、
  玉鬘をかけてもらい、御杖柱を受け取ると神懸かりする。
三、神意を受ける。神長は御杖柱を立て、申立てを行い、
  大祝は祝詞を読み、神使たちはこれを口まねする。
四、神宝授与。神長は鉄鐸(サナギ鈴のこと)を神使の首か、
  御杖柱に吊す。
五、出門と神殿巡り。神使一族一行は、松明で明るい神門を出、
  神殿の外を三回逆回りして出発。  
  

神使は二人三組となり、三方面に旅立って湛え神事を行う。
すなわち、湛えの場所(巨木、岩石、ミシャグチ社)にて、
村人を集め御杖柱と鉄鐸で、農耕に先立って
ミシャグチ神を降ろして、豊作祈願の祈祷を行うのだ。

ちなみに、冬の神事ではこの逆の道をたどり、
豊作のお礼と、諏訪神に対する貢租の取り立てと、
ミシャグチ神の神上げを行っていたようだ。

こうしてみると、江戸末期の祭祀と室町時代の祭祀が
ずいぶん違うことに気が付く。
江戸末期のものは狩猟色が強く、
国司の登場に何か中央との接点を感じる。
室町時代のものは、狩猟の恵みによる宴はあるものの、
神使の湛え神事は農耕祭祀の色が強い。

四百年の間のこの変化は何なのだろうか。

諏訪明神を語る上で欠かせない物に、
”鹿食免”いわゆる肉食許可証がある。
これは、仏教の影響を受け肉食が忌まれていた時代に、
諏訪の神だけが発行することが許された神札である。
狩猟の神としても名高い諏訪大明神では、
神事における獣肉の供物、狩猟、鷹狩りなど、
権力者がそれを禁じていた時代においても、
それらは特例で許可されていた。
また、猟師たちは諏訪講を作って諏訪信仰を行い、
”諏訪明神の四句の偈”をもって罰除けとした。
「業尽有情 離放不生 故宿人身 同証仏果」
寿命の尽きた動物は放っておいても死ぬのだから、
人間が食べてあげて極楽往生させてもらうのが一番良い、
という意味である。
諏訪神社への参拝者はこのお札を頂いて帰るが、
一方で神社側も各地へ人を派遣して、
諏訪明神のご利益を説いて回ったという。
(全国2500社に及ぶ諏訪神社の拡大は、
実はこの肉食免許という現実的な欲望に目を付けた、
諏訪明神側の巧みな営業努力の賜かもしれない。)
こうした背景を考えると、御頭祭から農耕祭祀の意味合いが消え、
狩猟による肉食の面だけが抽出されてきたのが、
菅江真澄が目撃した御頭祭だったのではないだろうか。
国司の使者は、狩猟の禁制をはねのけて神威を護ったことなのか、
それとも鹿食免発行の認可が下りた喜びなのか。



    * * *



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話を現実に戻そう。

十間廊での神事を終えた神官たちは、
御輿をその場に安置したまま、同じ境内神原(十間廊のある広場)
にあり、諏訪大神の幸御魂、奇御魂を祀る内御玉殿の前に並び、
祝詞奏上と一連の祭祀を行った。
そして
次に一段下の広場にある若神子社でも一連の祭祀。

最後に鳥居前で、全員による二拝二拍手一礼。

こうして、スーツ姿の参列者たちは解散し前宮で集会、
御輿行列は再び御霊代を上社本宮へ運ぶのだ。

来るときには薄く霞んでいた大空は、
もやが消え青く青く澄み渡っていた。
雄大な八ヶ岳が今ははっきり目に映る。
山の雪解けはまだ早かろうが、
疼き始めた春の息吹は、諏訪の大地に心地よくそよいでいた。

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追記

ちなみに、この御頭祭、
ある筋ではユダヤの祭礼のとの類似から、
日ユ同祖論の根拠としてあげられることがある。
旧約聖書、創世記22章がそれである。

アブラハムが神から、信仰心の証のため、
自分の息子イサクを生贄に捧げることを言い渡され、
モリヤ山にて縛り上げ、殺そうとしたところを、
神の使いがやって来て、それを止めた。
アブラハムが目を上げると、藪に首を突っ込んだ雄羊がいたので、
それを息子の代わりに生贄として捧げた。
というものである。

モリヤ山=守屋山 
イサク=ミシャクチの転じた物

儀式の類似と、キーワードの類似、
その他、75頭が現在のあるユダヤ系サマリア人の祭礼で
4月のこの時期に、75頭の羊を捧げる神事があること(未確認)
などなど、いろいろと共通項が認められるというのだ。

私としては、そういうことがあるかもしれない、
と浪漫のある話の一つとして留める立場をとりたいが、
一応ここに記しておこう。



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4月15日。

信濃ではまだ桜がチラホラと咲いているこの時期、
諏訪湖のほとりのお宮にて、古より伝わる神事が行われた。
諏訪大社御頭祭。
よく晴れ渡った、日差しの強い日曜日のことだった。

その日、早めに諏訪に入り、妻の実家に腰を下ろす。
駐車場の確保が心配なので、歩いて行こうと思っていたのだ。
だが心配はいらなかった。
古くから諏訪にすむ義理の両親たちでさえ、
この祭のことを知らないという。
案の定、駐車は十分に空いていた。
いまや地元の氏子よりも、他所からの来訪者の方が
地域の神事に関心を持つ時代なのだ。
早めに着いたので、守矢資料館に行ったところ、満員御礼。
一部の団体が「守矢の本当の祭神は誰か?」などと騒ぎ立てていた。
何のことかは想像つくのだが、それは筋違いというものだ。
早々に退散し、本日の主祭神と思われるミシャグジ神に、
撮影の許可と無事を祈った。


諏訪大社は諏訪湖を囲むように、4つの神社が鎮座している。
すなわち上社前宮、上社本宮、下社春宮、下社秋宮である。
御頭祭自体は上社前宮で行われるが、
その前に上社本宮で例大祭を行い、御霊代を御輿に乗せて、
前宮まで行列を作って移動するのだ。

神事は午後1時に始まる。
それまで上社前宮拝殿前に待機。
斎庭には既に御輿が用意されていた。
そして、拝殿下手の四脚門が開かれていた。
普段は閉ざされている四脚門。
諏訪大社の磐座、硯石の真っ正面に位置するこの門は、
江戸時代初期の社殿再建時に、真っ先に再建されたほど、
上社本宮にとっては重要な門だと思われる。
拝殿などができる以前は、この硯石に向かって
神事を行っていたと、文献にはあるそうだ。

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徐々に大総代、氏子関係者が斎庭に集まってきた。
中でも、「黄丁」と呼ばれる黄色い装束を身に纏った一団が目を惹く。
彼らが御輿を担ぐ役のようだ。
太鼓がドーンと打ち鳴らされ、花火がパーンと打ち上げられた。
神事の開始の合図である。

四脚門から神官たちが斎庭に入る。
黒・藍・エンジ・白、装束の色は神職の位を表すようだ。
私は四脚門の外にいたので、斎庭の様子はほとんど見えない。
修祓で祓い清めた後、祝詞の奏上。
宮司が拝殿にあがり、朱の錦に包まれた御霊代を御輿に納めた。
「ぅぉぉぉおおおおおおおぉぉぅぉぉぉおおおおおおおぉぉ…」
雅楽の調べと共に、体格の良い神官が低く野太く叫ぶ。
神霊を御霊代に移すのだ。
何度も何度も繰り返される唸りにも似た雄叫びは、
粛々とした深緑の境内に鳴り響いた。

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  * * *

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本宮での神事も終わり、行列が動き出した。
四脚門から斎庭の外に出る。
御輿に先行する者達は、薙鎌、黒い羽の付いた竿(槍袋か?)、
矛を象ったもの、諏訪大社の梶の神旗など、
長ものを携えた者が多い。
狭い四脚門を潜り、さらに狭い「布橋」と呼ばれる回廊を
竿を倒して通るのは大変そうだ。
だが、もっと大変なのは御輿の担ぎ手たちだ。
御輿の高さギリギリの四脚門を抜けた先は、
幅もギリギリしかない布橋が待っている。
御輿は相当思いようだが、案外長い布橋を
休むことなく一気に抜けなければならないのだ。

布橋とは一体奇妙な名前だが、これは古来、
諏訪の現人神である大祝が神事の際、
この回廊に布を敷いて通行したことに由来するようだ。

聖なる布橋を潜り抜ける、黄色い一団。
担ぎ手たちは長く連なる。
あたかも穴から這いだした蛇のように見えた。
なるほど、これは冬眠から目醒めた蛇を表現しているのだ。
諏訪大社の現在の神、建御名方命が諏訪に侵入する以前、
諏訪湖畔にはモレヤ氏なる先住民がいて、
自然を神格化したミシャグチなる神を信仰していた。
そのミシャグチを象徴するものこそ、蛇だと言われているのだ。
自然神が冬眠から目覚め、活動を開始する。
諏訪の春の訪れは、この御頭祭に象徴されているのであろう。

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布橋を抜けると鳥居があり、鳥居から一直線に県道が延びている。
前宮まで約1.5km、起伏はあれど真っ直ぐなのだ。
往時は本宮から前宮まで、全てが諏訪大社の境内だった
というから驚きである。

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続く


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