2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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週末は山梨だった。

日曜日、陽のあるうちに仕事が終わり、時間をもてあます。
日中の暑さにまいり、どうこうする気もおこらない。
こういうときは決まって温泉でぼんやりすることにしている。

いつも行くのは甲府盆地の北東の山中、
「ほったらかし温泉」のこっちの湯だ。
この温泉は、今や関東屈指の人気温泉となり、
観光バスもひっきりなしに来るほどの発展を遂げたが、
数年前まではお風呂と駐車場しかなく、
本当に”ほったらかし”だったのだ。
それもそのはず、手軽に絶景が楽しめ、
それなりの風情がある日帰り温泉は、
私の知るところ、近辺に他にない。

私のような人間は、昔のようにほったらかされていて欲しいのだが、
そうはいかないのがこの世の常。何も言うまい。

とまぁ、それは良いとして、
温泉の麓には万力万葉の森なる公園がある。
公園の裏手には笛吹川が流れているので、
ちょっと立ち寄ってみることに。

笛吹川とは美しい名前であるが、その由来はもの悲しい。
昔、権三郎と呼ばれる笛の得意な若者が母と二人で住んでいた。
ある時洪水で母が川に飲み込まれてしまった。
一人残された権三郎は、来る日も来る日も笛を吹きながら、
母を捜し続けたという。しかし母は見つからず、
権三郎も、川に落ちて死んでしまった。
住民は、いつしかこの川を笛吹川と呼ぶようになったという。

私は初めて笛吹川の河原に降り立った。
これまでも気になっていたが、なかなか機会がなかった。
降りてみると、そこは両手で抱きかかえるくらいの大きさの
花崗岩がゴロゴロと転がってた。
これは、甲府盆地の釜無川では見られなかった光景だ。
私は足下の小石を探しはじめた。
笛吹川と言うからには、石笛が転がっていそうだ。
権三郎伝承に異を唱えるわけではないが、
伝承は時として、書き換えられる。
だが、思惑と違ったものに出会った。
道祖神である。

いや、正確には花崗岩が丸く削られたものである。
大きさは両の手の平でやっと包み込めるくらい。
これらが辻辻に祀られることによって道祖神となることは、
去年の夏に散々訪ね歩いたとおりだ。
また、お供え物のように祠の前に積み重なっていたり、
安産祈願のお礼に御供えしたという話しも聞いた。
大体の分布が笛吹川の流域なので、
おおかた川から拾ってくるのだろうと思っていたが、
いざこうして河原で出会ってみると、感動もひとしおだ。

丸い花崗岩はそこら中に転がっているわけではなく、
結構な時間河原の石を見て歩いた中で、
綺麗な丸い石はこのひとつだった。
最初は土地のものだから持って帰ってはいけないだろうと、
大石の上に置いていたのだが、
やはり気になり大石の方を見ると、
丸石もこちらを見ているような気がする。
これも出会いだ。と心定め、笛吹川の水で綺麗に清め、
連れて帰った。

道祖神を招いてしまったわけだ。
我が家に丁重にお祀りすることにした。
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今日は葉山で仕事だった。
 天気も良かったので、夕方横須賀の走水に寄ってみた。 

葉山にいるなら、夕陽の見える葉山側にいればいいものだが、
三浦半島に来ることなど滅多にないので、 前々から気になっていた走水に行ってみたくなったのだ。
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走水は、以前日記に書いた弟橘姫入水伝説が残る地とされている。
日本武尊の東征の際、走水から安房に渡ろうしたが 海が荒れ狂い渡航できず、
それを鎮めるために妻、 弟橘姫が人身御供として入水して果てたという伝説である。
ただ、今回の関心事は弟橘姫ではなかった。
走水を気にしつつも行かず仕舞いになっているうちに、
別の関心事からも走水が重要な位置を占めていることが分かったのだ。
それは、遠州灘で授かった石笛について調べていたときだった。
今風に言うところの”スピリチュアル”の先駆け、
浅野和三郎の石笛鎮魂帰神法は、走水から始まるというのだ。
大正5年、大本の出口王任三郎は弟子の浅野和三郎らと供だって、
浅野所縁の横須賀に鎮魂術の修練にやってきた。
その道中、王任三郎は弟橘姫を想い、一度走水が見たい言う。
師弟連れだって走水神社にやって来た。
そこで「ひとつ、石笛を授けてもらおう」と願い
三つの石のお宮がある場所で石を探し始めた。
そこで浅野和三郎に石笛が授かった。
以降、王任三郎から鎮魂帰神法を伝授され、
幾千人もの人の鎮魂をこの石笛で行ったという。
興味のある人は以下のリンクを読まれたし。

http://www.books.x0.com/rise/text2013.shtml http://www.books.x0.com/rise/text2014.shtml http://www.books.x0.com/rise/text2015.shtml

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走水神社は不思議な神社で、湧き水があるのだが、
 それが富士山の伏流水だと伝わっている。
また、本殿の背後には巨大な岩壁があり、
四角く穴が掘られて水神社と石像が祀られている。
この水神は河童のことで、赤い社の中には河童の像が鎮座していた。
巨大な岩壁の上に当たる山中には、味のある三つの石社があり、
ここは神明社となっていた。
この場所で王任三郎達は長い時間ごそごそと小石を探していたらしいが、
よくよく考えてみるとかなり怪しい一行だ。

 

 

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さて、私は境内をあとにして、すぐ近くの海岸へ向かった。
実は近所のスーパーで寿司を買ったので、
遅めの昼食は是非海を見ながら、と決め込んでいたのだ。
走水から観音崎までは、ボードウォークなる散歩道になっているが、
海岸自体は粗く削られた奇岩群となっている。
石質は泥岩だろう、おそらく走水神社の背後の岸壁と同じもので、
わりと柔らかいために波に削られてこのような風景になったのだろう。
予想通り、貝によって穴が空いた小石が沢山あった。
そのほとんどが泥岩で、乾いたら崩れやすいことは、 御前崎で実証済みだが、
性懲りもなくまた石笛を探し出した。 私もたいがい業深き人間である(笑)


散々探したが、どうもここは石の形が良くない。
御前崎で得た石笛の美しさを知っているだけに、 どうしても見劣りするのだ。
丸いものは脆い泥岩が多く、比較的硬い砂岩はゴツゴツしている。
やはり御前崎では自分自身”授かった”と感じたように、 特別なものだったのだ。
それを確認できて、不毛なことをしているのでは、、、 とむなしくなりつつあったが、
せっかく来たのだ。 音階の出る笛を授かりますように、と願い、
目に付いたのが写真の石笛。 なんだかゴツゴツして不格好だな、と思いつつも、
走水で見たどの石笛よりも深い音がして、 穴の塞ぎ方次第で音が変わる。
それによく見ると走水の海岸線に似た雰囲気を醸し出している。
そう思うとなんだか無性に愛おしくなり、 記念に頂いて帰ることにした。
浅野氏の得た石笛も、龍の頭の形というからには、 このようにゴツゴツしていたのだろうか。

 
さて、家に帰り写真を撮ろうとすると、あら不思議。
なんだか並べてみると、、、ちょうど木花咲耶姫と磐長姫のようだ。
なるほど、こういうことだったのか。

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東の空が黄金色に染まり、岩と岩の間に太陽の道が浮かび上がった。
寄せては返す波音が、かえって静寂をもたらし、
しばし、時を忘れて魅入っていた。
烏のつがいが飛んできて、岩の鳥居に並んで留まる。
そういうことか。
私は一つ、シャッターを切った。

  * * *


日の出の瞬間はあっという間だった。
日の出前から重い三脚を据え待機していた私の周りに、
どこからともなく修学旅行の小学生達が群がり、
わんやわんやの大騒ぎになっていた。
海から顔を出した太陽の、生まれる速度は案外速い。
水平線はわずかに霞み、うっすらとした太陽が昇っていく間、
子供達は大はしゃぎし、三脚の前にまで飛び込んで来る始末。
とはいえ、私も十数年前は伊勢に修学旅行に来て、
二見浦の旅館に泊まっていたのだ。
その時は早起きできなくて断念したのだが、
帰ってきた同級生達が大はしゃぎしていたのを覚えている。

太陽が顔を出し切ると、次第に小学生達は去っていった。
先程までの喧噪が嘘のように、辺りは静まりかえった。
他の観光客も、一人また一人と立ち去っていき、
一人残された私の前に、太陽の道が現れたのだった。

   * * *

旅の最終日を飾るに相応しい、素晴らしい写真が撮れた。
人目に晒されるのを避けていたのだろうか、
ちょっと訳ありのようなカップルがやって来たので、
私はその場をカップルに譲り、境内を後にした。
夫婦岩に烏のつがい、そして意味深なカップル。
繰り返す波音だけが、いつまでも耳に残った。



2007年新緑の旅、完。


5月8日夕刻。

熊野速玉神社は観光客であふれかえり、
とても居たたまれなくなって、熊野元宮と言われる神倉神社に向かった。
速玉神社と神倉神社は神倉山の山道で繋がっており、
距離もそんなに離れていない。
実は過去に一度訪れたことがあったが、
その頃はまだ神社にはさほど興味がなく、
ただ名所と言うことだけで速玉神社を訪れたのだった。
その時に、山道に迷い込み、偶然たどり着いたのが、
神倉神社だった。
その時見た神倉神社の光景は、私の脳裏に深く刻み込まれた。
いずれまた訪れてみたいと思っていた場所であり、
私にとって、熊野散策の真の目的地とも言える場所であった。

そんな思いを胸に、今回は山道ではなく道路を通って
神倉神社にたどり着いた。
正面から訪れたのは初めてだったのでうかつだったが、
源頼朝寄進と言われる鎌倉積みの急勾配の石段が待ちかまえていた。
これはキツイ。案の定、妻は根を上げて車に戻ってしまった。
山の神の機嫌を損ねると後が怖いのだが、
せっかくここまで来たのだ、私は一人で先を急いだ。

石段を登っていくと、途中で道が分かれていた。
おそらく、以前来たときは、この分岐の
どちらかを辿ってきたのだろう。
これは間違えると速玉神社まで歩くはめになってしまう。
迷っていると、向かって左の石段に、
青い鳥が降り立つのが見えた。
きれいな鳥だったので、引き寄せられるように近づくと、
ちょっと飛んでは、また石段の先に降り立つ。
どうもこれは、導かれているとしか思えない。
ここは熊野、八咫烏ではないけれど、
鳥の導きには従うべきだろう。

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青い鳥は、私が進路を決めると、
納得したように飛び去っていった。
(最近この手の話が多いなぁ(^^;)
 でも誇張ではなく本当なのだ。)

急勾配の石段を登り切ると、一気に汗が噴き出してきた。
岩を削りだした手水舎で手を洗い清め、
玉垣に囲まれた空間に足を踏み入れた。

およそ神社の境内とはかけ離れた空間。
切り立った崖の上に、巨大な岩がずしんと座り、
その上にさらに丸い大岩数個が、どすんと置いてある。
転がり落ちたらひとたまりも無いだろうが、
推定創建年代128年頃、いやそれ以前、
神話で言うところの神武東征以前から、
この光景は変わっていないようだ。

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土台の巨大な岩は袈裟岩、上に乗っている岩はゴトビキ岩。
ゴトビキとはヒキガエルの方言で、
岩の形がカエルが座った形に似ているということである。
またの名を”琴引岩”とも言うらしい。
琴と言えば、古代には神託を受ける際、
琴の調べが重要な意味を持っていたようだ。
三韓征伐の際、仲哀天皇が神託を信じられず、
琴を弾く手を止めてしまったことが思い浮かぶ。
もしかしたら琴引岩という名は、
そのような神事の名残なのかもしれない。

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注連縄を張ったゴトビキ岩の周りには、
同じくらい大きな岩が並んでいて、
その中の3つに囲まれた、ちょうど畳1畳分ほど空間に、
白い石が敷き詰められていた。
どこからどう見ても、これは宗教的行事に使う空間だろう。
熊野速玉神社に属する修験者の集団、神倉聖の本拠が、
この神倉神社なので、修行に使われていたのかもしれない。
3つの岩に囲まれた閉ざされた空間は、
私の最も好きな磐座の形態で、
これまで幾例か目の当たりにしてきたが、
白い石が敷き詰められ、現在でも使われていそうな
雰囲気を漂わせているのは、ここ神倉神社が初めてであった。
むろん、前回訪れたときには、この空間には気が付かなかった。
まだ早い、ということだったのだろうか。

ゴトビキ岩の前に立ち、眼下に広がる熊野灘を見渡す。
気持ち良い風が吹き抜けた。
熊野攻略に行き詰まった神武天皇は、天磐盾に登ったという。
その天磐盾こそが、この神倉山だと言われている。
眼下に広がる広大な熊野灘は、
神武にとっては、自分が辿って来た道であり、
唯一の退路でもあった。
危機に立たされた神武は、どういう気持ちで
熊野灘を眺めたのであろうか。

風があまりに気持ちがよいので、
海に向かって石笛を吹いた。
古代の調べとも言われる石笛の甲高い音が、
辺り一面にこだまする。
時の流れがこの空間だけ止まっているような、
心地よい錯覚に包まれた。

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5月8日


熊野本宮から海辺に出て、国道42号線を南下、
補陀落渡海の捨身行で有名な補陀洛山寺から、
那智川沿いに山間部に入っていく。
つづら折りの山道を経て、わずかなスペースの駐車場に至る。
運良く先客の一台が出て行ったので、
すんなりと駐車場に入ることが出来た。


飛瀧神社(ひろうじんじゃ)。

鳥居をくぐると、参道は下に向かっていた。
樹齢を重ねた大木に囲まれた参道は、
参拝者の気持ちをぐっと引き締める。
決して広い境内ではないが、
何か”気”のようなものが漲っているのが肌で感じられた。
耳の奥で、轟音がこだまするような気にもなってくる。

参道を降りきると、開けた小さな空間に社務所が建ってた。
社殿はない。
広場の先端に鳥居があり、そこから仰ぎ見るようになっているのだ。



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圧倒的な迫力だった。
遙拝所から沢の斜面を隔てたその向こうに、
ドドドドドドドドドドドドドドドド・・・
と水が落ちている。
霧と化した御神水が気持ち良い。
森の木々の隙間から漏れた光が、
滝の前の岩に降り注いだ。
私に撮れと言わんばかりだ。
すかさず撮った。
しばらくして光は消えた。


御幣で祀られた岩は、正確な由来は分からないが、
本来は岩が祭壇そのものだったのだろう。
時には神懸かりになり、岩に乗って滝と対峙したかもしれない。
大いなる滝を背負い、民衆達に神託を降す指導者、
そのような神々しい光景が目に浮かんだ。

熊野那智大社に属する飛瀧神社は、
神仏習合の時代、天台宗那智山青岸渡寺を中心に行われた、
那智四十八滝回峰行の一の滝とされている。
残念なことに、明治初期の神仏分離令・修験道廃止令によって、
厳密な秘密主義で、口伝を主とする那智滝行の行法作法は、
ほとんど失われてしまったという。
1991年、これら失われた那智四十八滝回峰行は、
わずかに残された古文書や古地図によって、
地元の有志たちがなんとか復興させたのが、
せめてもの救いである。

熊野信仰が都の貴族の間で広まったのが平安中期以降だが、
伝承でいう天竺より来た裸形上人による開基が仁徳天皇の時代。
遡って神武天皇の東征の成功の決め手とされた場所も熊野。
よほど熊野は重要な位置を占めていたらしい。
そもそも熊野の”熊”の字には
”神”の意が含まれているという。
宗派も教理も無い時代、畏るべきは人の理解を超えた
大自然の現象であり、その意味で那智の大滝は
充分その対象となるに相応しい迫力を持っている。
これに神を見ずとして、果たして何に見るというのか。

東征時、土地の神の毒気にやられ、危機に陥った神武一行。
見かねた天上界の神々は、救いの手をさしのべた。
高倉下神の倉の屋根を突き破り床に突き立った、
霊剣布都御魂剣を授かったことによって、
神武も兵たちも士気を挙げ、辺りの敵を打ち破ったという。
私には天から剣が降ってくるイメージが、
どうしても那智の大滝のイメージと重なる。
いや、剣でなくても良い。
神武達を励ます何かが、熊野の地で降ってきたことは
確かなことなのだろう。


ハンカチ王子、ハニカミ王子と、
世の中王子様であふれかえっている昨今である。
愛称が付くことは、それだけ注目されているということだし、
必然的にメディアの露出も増え、ファンも増える。
世間がそれに踊らされ過ぎている気も少しするが、
まぁ世の中に明るい話題を振りまいてくれる彼らの笑顔は、
何物にも代えられないだろう。
それにしても、ポッチャリ王子はあんまりだと思う。

だが、現代に匹敵いやそれ以上の王子ブームのが10世紀の日本にあった。 



5月7日

淡路島から本州に渡った我々は、神戸で昼食、
楠木正成公を祀る大湊神社でお参りをし、
一気に大阪を抜けた。

実家に戻って近所の大鳥神社(太陽の道の途中に当たる)
に寄ってみるかな、と思ったが、一般道のあまりの混みように、
そのまま高速で大阪を抜けてしまった。

松原でおり、九度山経由で下道を走る。
目的地は熊野三山。
せめて山深い紀伊山地の気分だけでも味わおうと、
高野山から大塔に抜ける山道を使ったのが間違いだった。

高野山金剛峯寺に着いた時点で、もう辺りは真っ暗。
幸い金剛峰寺はライトアップされ、
迫力満点の光景に妻は満足したようだが、その後が大変だった。

ナビで見ても地図で見ても、どう見ても一度和歌山の海辺に出て、
田辺から山に入る道が大きいし早い。
スーパー林道みたいなのも有るが、やたらと高いし、
ナビがその道をどうしても避けたがる・・・

と言うことで、一度山に登ったのをまた降りるのは癪なので、
街頭もほとんど無い国道168号線を時間にして約4時間、
ひたすら走り続けることになったのだ。
世に聞く大塔村の空気に触れてみたかった、ということもあるが、
ただひたすら山道で、ただひたすら真っ暗闇で、
大変以外の感想はなかった。
いや、星がきれいだったことが、せめてもの救いだろう。


この紀伊山地の巡礼の地全体が、
世界遺産として登録されているわけである。
全ての道が熊野に通ず、とでも言っても過言ではないくらい、
紀伊半島全域に熊野古道が点在している。
かなり険しい山並みに、日本有数の豪雨地帯、
なんとか切り開いた山の道を、雨に流されないように
石畳を敷き詰めて整備したのがいわゆる熊野古道である。
他には道路を敷く場所がないために、
古道を潰して道路にした場所も多々あり、
十津川街道と呼ばれた道が、
今では168号線となっているのがいい例だろう。
以前は、地域と密接した生活路となっていたわけで、
登録後に地域住民との間に色々と問題が発生したことも、
記憶に新しい。


そう言ったわけで、熊野本宮近くにたどり着いた頃には、
へとへとになっていた。
紀伊半島有数の温泉地とはいえ、夜遅くにやっている処はない。
河原を掘って出る温泉に入って、道の駅で車中泊した。



翌日、熊野三山を中心とした熊野古道を散策してみた。

熊野古道でポイントとなるのは、九十九王子と呼ばれる、
古道の途中に点在する神社だろう。
熊野本宮周辺まで来てしまうと数えるほどしか無いのだが、
京都から大阪を経由して熊野まで、
九十九つまり無数の王子が点在する。

王子の初見は11世紀半ばの増基の手による参詣記
『いほぬし(庵主)』にあり、11世紀には既に
王子が成立していたことが分かっている。
王子とは、熊野巡礼道周辺の雑多な神々を、
熊野修験の組織が、熊野に関係する神社として
再編成したものといわれており、修験の守護神は童子の姿、
ということから王子という発想が生まれたという。
むろん、神仏習合の時代なので、王子は神とも仏とも捉えられる。
実質的には、”蟻の熊野参り”と言われるほどに、
狭い巡礼路にひしめき合った参詣者達が、
休憩したり物資補給をしたり、といった場所であったという。


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本宮でもらったパンフレットを元に、発心門王子へ行ってみた。
熊野巡礼路も大詰めの発心門。
発心とは発菩提心、すなわち仏道に入り、
修行への志を固めることを意味しているという。
発心門とは聖域への入り口を意味しているのだ。
車で乗り付けて、いきなり大詰め、
というのはちょっと趣に欠けるが、仕方がない。
世界遺産登録後は、この発心門王子からのトレッキングコースが
人気があり、徒歩3時間の道を楽しむツアー客が増えたという。
観光ツアーのガイドさんと少し話したが、
世界遺産登録直後は観光客であふれかえり、
中にはミニスカートにハイヒールでトレッキングに来てしまう、
よく分かっていないお嬢さんなんかもいたそうだ。
しかし観光客で賑わったのは一時期だけで、
今ではすっかり客足が遠のいたと言っていた。
最近のユネスコの世界遺産の乱発ぶりは
見ていて苦々しく思うのだが、
一時的な経済効果はあれども、
その後の維持管理や規制に勝るメリットは
果たして有るのだろうか。

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発心門王子とその周辺の古道をちょこちょこと歩き、
車で他の王子を廻ってみることにした。
水呑王子は荒廃していてよく分からなかった。
その名前からして、水飲み場でも有ったのだろうか。
水呑王子から山を登っていき、頂きにあるのが伏拝王子。

伏拝王子自体は、小さな祠しか残っておらず、
代わりに茶店が営業していた。
目の前には茶畑が広がり、山裾まで見渡せる。
ここから伏せるように熊野本宮を遙拝したから、
伏拝王子の名が付いたという。

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そして、最終的には熊野本宮に至る。
元の本宮は、熊野川の中州に位置していたが、
明治22年の大洪水により水に呑まれてしまい、
近隣の山の中腹に移った。
現在の本宮は、申し訳ないがあまり魅力を感じなかった。
そのかわり元社地は、現在は「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれ、
川の中州に鎮座する立地、いまだに残る巨木、
だだっ広いままの社地、中央の小さな祠などなど、
私の興味に応えてくれるに十分なものであった。
そもそも、明治までは洪水で社殿が流される
なんてことは無かったわけで、明治の大洪水はは森林伐採による
山の保水力低下が原因である。
川の氾濫を抑えるためにダムを造る、という考えは、
とうてい好きになれないが、一度水に浸かったからといって、
歴史有る社地を他に移すのもいただけない。
愚かな選択だった、とまでは言わないが、
そう言った歴史を経て、今なお元社地に魅力が残っている、
というのは、やはり何かしらの力のある土地だったのだろう。

田圃の中にそびえ立つ大鳥居、
凛としたその姿は、とても好感が持てるものであった。

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5月7日午後

「女人禁制!?」

舟木の石上神社を探して、集落で道を聞いた時の話だった。
庭の囲いの中に子牛が気持ちよさそうに寝ころんでいる一軒家、
奥から出てきた女性は確かにそう言った。
その戒めゆえに、石上神社の境内の中は、見たことがないと言う。
今の時代に女人禁制の戒めを守っているとは…
石上神社は境内100平米もない、小さな神社なのである。
田舎の集落の小さなお社と何ら変わらない、
そんな規模の神社である。

案内通りに車を走らせ、石上神社にたどり着いた。
一般向けの地図もナビも、この位置を
正確に示すことは出来なかった。
そんな辺鄙な場所にも関わらず、この場所は一部の業界から、
非常に注目されているのである。

1970年代、奈良の写真家 小川光三氏が発見した
『太陽の道』なる日本版レイライン。
80年にNHKの特集が組まれたこともあり、
一気に有名になった説だ。

すなわち、石上神社、伊勢久留麻神社(淡路)、
大鳥神社、日置荘(大阪)、
二上山、箸墓、三輪山、長谷寺、室生寺、(奈良県)、
倶留尊、堀崎山、伊勢斎宮跡、神島(三重県)。
北緯34度32分の線で、これら古代からの聖地が結ばれるという。


鳥居前には確かに、女人禁制と掘られた石碑があった。
妻には車で待ってもらう。
というより、暑いから外に出たくないようだ。
この旅で、少しでも遺跡のおもしろさを知ってもらおう
と思っていたのに、まるで興味を持たないのは
いかんともしがたい。

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鳥居をくぐって30mも行くと、
左手が少し盛り上がった林になっていた。
そしてイヤでも目につく巨石がゴロゴロ。
参道を行き当たった場所には岩の積み重なった窟があり、
窟を利用して祠が設けられていた。
祭神は由緒書によれば天照皇大神と大日如来。
といっても、ここに限らず古来からの信仰の地では、
固有名詞の神を祀っている、という感じはあまり受けない。
もともとあった現地の太陽信仰に、記紀などで語られた神を
当てはめた結果が現在の祭神なのであろう。
(逆に、氏族神を祀った古社は、それに当てはまらないが…)

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左手の林に入ると、思わず目を見張った。
ある一つの石だけに、木漏れ日が降り注ぎ、
あたかも後光が差しているようだった。
この石は膝丈くらいの、ほんの小さな石なのだが、
祭壇が設けられ、背後の地面に御幣が何十本も刺さっている。
この御幣には何か特別な意味があるのだろうか。
これと同じ例は、富士青木ヶ原の魔王天神社で見たことがある。

ともあれ、なにやら重要な意味を持っていると思われる、
この石の光景は美しく、私は無心にシャッターを切った。
写真の善し悪しは9割がた光で決まる。
被写体と光と撮影者、その3つ波長がぴったり重なった瞬間、
その共鳴のピークの一瞬こそが、決定的瞬間なのである。
土門拳はそれを、「仏像は走っている、猛スピードで。」と表現し、
ブレッソンは「逃げ去るイメージ」と表現した。
スタジオでそれを作り出すのは簡単だが、
こういった旅での出会いは、まさしく神のさじ加減次第なのである。
案の定、しばらくすると木漏れ日は消え、
二度と光は差さなかった。
とある神職者に、神社や御神体を撮るのは
失礼に当たらないかと聞いたことがある。
曰わく、「心配しなくても失礼な時は写真に写らない」と。
まさにそうで、軽い気持ちで撮ったときなど、
予想外にぶれていたり、不思議な光が入ったりと、
ちゃんと写らないことがたまにある。
私は常々、写真は依り代であると言っているが、
まさにそれは、こういうことを指す。
だからこそ、撮影するときは姿勢を正し、
祭神にお参りし、その上で撮影するのだ。
(それに限らず、写真には対象以外に
 自分の人柄や人生自体も写りこむので、
 普段から身を律しておく必要はあると思う。)
余談が過ぎたが、つまりは聖地や御神体を撮影するようになって、
このような出会いを非常に意識させられるようになったと思うのだ。


林の中には、巨石がゴロゴロとしていると書いたが、
それにどれほどの意味があるのかはよく分からない。
祭壇が設けられている石は、先の光の石だけで、
他は石自体には祭壇はなく、一ヶ所、
過去に祭壇があったっと思われる巨木があった。

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巨木と言っても伊弉諾神宮のものと比べれば、
たいしたことはないのだが、雑木林を突き抜ける故に、
枝分かれした幹の一点に光が集まり、
なにか神々しい雰囲気を発していた。
祭壇は朽ち果て、わずかに痕跡が残る程度なのだが、
何故放棄されたのだろうか?
過去のブーム時に持てはやされても、
今は忘れられているのだろうか。
余計なお世話かもしれないが、それはあまりにもわびしいことだ。


神社は集落の全体の最高点に位置し、
巨石群の先は下り坂になっている。
林の途中で境内を縄張るロープが張り巡らされ、
それ以上は足を踏み入れても何も無いようだ。
引き返して、巨石群を隈無く見て回った。
ネットで仕入れた情報で、印象的な巨石があったのだが、
それがどうしても見つからなかったのだ。


慎重に探したところ、その石は、先の御幣を背負った石の
すぐ斜め後ろに、背中を合わせる形で見つかった。
どうやら前情報の写真とずいぶん雰囲気が違ったので、
うっかり見落としていたようだ。

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思っていたよりも大きな岩の組み合わせで、
岩に挟まれた丸い石も、一抱え以上の大きさがあった。
その石は、3つの石の組み合わせで構成されている。
それが何を表しているかは、言わずもがなであろう。
女人禁制とされるからには、石上神社の祭祀は男性のみで行われる。
そのような祭祀故に、このような石組が意味を持っているのだろうか。
もしくはその逆か。

由緒書によると、石上神社は「日を迎える座」
(朝日に向かって祭事を行う)であり、
今でも祭事が早朝に行われていることが、その証だとされている。
『太陽の道』は奈良の三輪山を中心に、東西に延びているという。
その西の果てが、「日を迎える座」である理由は分からないが、
この地がなんらかの古代祭祀の痕跡を、
今も伝える場所であることは確かである。

林の中の石組みは、ある点を中心に放射状に構成され、
その中心には、巨石群の中でも大きめの石が輪になって並び、
中心と思われる空間を護るように配置されていた。
この構成は、同じように古の祭祀跡とされる場所で、
よく見かける配置である。
実際見た中では、井伊谷の天白磐座や山梨の山梨丘神社で、
顕著にこの配置が見られた。
天白磐座では、時代別の考証もされており、
どうも仏教以前には、この石に囲まれた空間を
神の降り立つ聖域として、少し離れた場所に祭壇を設ける、
つまりは石上神社と同様の配置を取っていたことが分かっている。
天白磐座では、時代が移るにつれ、中央の聖域が祭祀場になったり、
経塚に利用されたようである。
ここ石上神社では、この聖域の扱いはどうなっているのだろう?
付近からは弥生時代の遺物が出土されているらしい。
今後の研究に期待。

古い伝統を色濃く残した石上神社、
これからも朽ちることなく脈々と伝わって欲しいものである。

5月7日

前日午後から7日午前は、徳島の誇る天下人、
三好一族の史跡を周った。
午後、とうとう四国を離れることに。
四国を離れる日になって、やっと空がカラッと晴れ渡った。
四国の旅は雨模様。だが、それはそれで良かったと思う。
いまだ神秘に包まれているという四国内陸部を、
霧雨と靄の中に幻想的に浮かび上がらせてくれたのだから。

7日は本州に渡り、一気に和歌山まで抜けたかった。
だが、淡路島の下道など滅多に走ることがないのだからと、
鳴門大橋を渡った途端に高速を降りてみた。

晴天の島の道は気持ちいい。
近畿の都市部はもうすぐそこなのに、
陸続きでないというだけで、ずいぶん本州とは雰囲気が違う。
淡路の東岸をひた走り、一宮伊弉諾神宮にたどり着いた。
海岸の県道33号が郡家川を渡ると、
一宮に向かう88号と交叉する。
その先の平けた土地に、伊弉諾神宮が鎮座しているのだ。
通称、幽宮(かくりのみや)。
国産みの後、淡路のこの地に宮を建て、隠れ給うたという。

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一の鳥居から拝殿まで真っ直ぐ、
白い砂利敷きの参道が続いている。
聖域全体の気配というか、空気がとても清々しい。
こういう場所に行き当たると、とても気分が良い。
世の人はこれをヒーリングというようだ。

随神門の手前には池があり、ちゃんと参道に橋が架かっている。
池の小島には巌島神社。亀が何匹も甲羅干しをしていた。
脇ではアヒルがぷかぷか浮いている。
のどかなものだ。

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随神門を潜ると、巫女が拝殿に向かっていた。
私は巫女萌え気質では無いのだが、
やはり巫女が写ると画がしまる。
後を追って行くと(*決して怪しい人ではない)
拝殿で昇殿祈願の儀が執り行われるところだった。
手早く参拝を済ませ、祈願をのぞき見。
私は祝詞の格調高い響きが好きで、
人の参拝をよく脇から覗くのだが、
今回は良いものを見させてもらった。

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祈願の際に、雅楽の調べに合わせ、巫女舞が奉納されたのだ。
右手に御幣、左手に鈴を持って舞うのは、先ほどの巫女だろう。
本殿に向かい、ゆっくりと周りながら、
シャン、シャン、シャン、と鈴を鳴らす。
優雅な舞についつい長時間うっとりとしてしまった。
伊弉諾神社での体験は、時間を超越して神代に迷い込んだような、
そんな気分に浸ることの出来た、貴重な時間だった。

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それが神代でも古代もなく現在だということは、
境内にある大楠の御神木が証明していた。
樹齢はどのくらいだろうか。
古代から延々と繰り返される当地の神事を、人々の暮らしを、
ずっと見守ってきたに違いない。
淡路島がなぜ国産み神話で一番最初に生み出されたのか、
その答えはもはや歴史の闇の中だが、
そのような記念すべき島の一番重要な土地が、
ここ伊弉諾神宮なのであろう。

5月6日 

祖谷渓から吉野川に沿って平野部に出た。
徳島県は中央構造線が南北を分断するように走っており、
構造線を流れる吉野川に沿うように、平野部が続いている。
ここまで出てくると、徳島市まではあっという間だ。

国道192号を走っていると、ちょっと気になる寺があった。
その名も「お花大権現・林下寺」。
お花ですか… 大権現ですか…

江口駅を少し過ぎたあたりで、小さな路地に入っていった。
車一台が通るか通らないかといった道だが、
林下寺までなんとかたどり着いた。

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どうもお寺というのは苦手である。
私にとって、神社は開かれている公園のような感覚だが、
お寺は他人の民家の敷居を跨ぐような、そんな感覚がある。
お花大権現は、まさしくお寺のそれであった。

楼門には、訪問客は鐘を鳴らせと書いてある。
ゴーーーーン、と響かせると、住職が出てきた。

住職がまず案内してくれたのが、お花大権現のお堂だった。
お花(愛称、お花はん)とは、今から約300年前の実在の人物で、
殿様の目がかかり側室に取り立てられ寵愛を受けていたが、
他の女中たちの嫉妬を買い、殺されてしまったそうだ。
哀れに思った殿様が城内に祠を建てて祀ったのが始まりである。
大正2年に鉄道敷設のために、現在の場所に移動したそうだ。


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お花大権現のお堂内は、性器であふれかえっていた。
お花はんがなぜ性の神様になったか、その経緯は分からないが、
参拝客は四国に限らず、本州からも人が訪れるという。
祈願の奉納は勿論のこと、行き場の無くなった神像たちもまた、
保護者のもとに集まって来るのだ。
これらの神像は、あまりにも分かりやすい形のため、
地域住民の信仰心が無くなった時点で、
ワイセツな俗信と見なされるのだろう。
こういった陰陽像を祀る神社仏閣は、
なぜか大抵沢山のコレクションを持っている。
中には明らかに管理者の趣味だろ!
とツッコミたくなるような資料館もあるが、
お花大権現は趣味に走らずw、
信仰に基づいた奉納物を中心とした資料館を持っていた。

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資料館で真っ先に目がいくのは、等身大の弁財天裸像。
薄絹一枚で無数の男根に囲まれている姿は、
艶めかしいを通り越して妖艶である。
前言撤回、やはりこの配置は住職の趣味の世界なのか(笑)?

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5月6日。

祖谷渓から吉野川本流に戻ると、
そこが大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)である。
大股で歩いても小股で歩いても危ない、
という救いようのない名前の付いた渓谷で、
その上雨でぬかるんでいるので、ちょっと近づき難い…

大歩危小歩危の主立った場所は通り過ぎ、
その先にある賢見神社に向かった。
ナビで見ると、簡単に行けそうなのだが、
その実は吉野川沿いの急峻な崖の上だった。
しかも麓には、通行止めの看板が…

諦めきらずに、細い道を登っていく。
集落もチラホラとあるので、通行止めというのが信じられなかったが、
しばらく行くとその理由が分かった。
落石があったらしくい。
道のど真ん中に落石防止のバリゲートが建っていた。
ただ、直前の通行止めの看板は伏せられている。
通れるのか!?

車の幅をギリギリ開けて建っていたので、
10mほどのバリゲートをそろそろと通過。
妻からは大顰蹙を買ったが、まぁ良くある話だ。

バリゲートを通過すると、後は順調そのもの。
しばらく行くと賢見神社の駐車場にたどり着いた。

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明らかに下界と違う。
雲が下にあるのだ。
「ほらほら、和製マチュピチュだよ」
なんて冗談を言ったら呆れられた…
マチュピチュじゃないにしても、
これは険峻な山城のような佇まいだ。
阿波の山岳武士というのは、
こういうところに拠って戦ったのだろうか。


駐車場からは5分くらい歩く。
賢見神社にたどり着くと、すごい雨になってきた。
どうやら自分たちが雨雲の中に入ったようだ。
そんな天気にもかかわらず、神社は賑わっていた。
特にお祭りでもないのに、家族連れが3組ほど居て、
子供達が雨よけのテントの中ではしゃいでいた。

本殿は境内すぐの場所にあり、
たどり着いた時にはちょうど祈祷を行っていた。
神前には奉納品が隙間無く並び、その奥が見えないほど。
賢見神社の邪気退散の霊験は西日本随一
といわれているそうだが、その為だろうか。

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本殿からさらに山中に入った場所に、奥宮がある。
途中までは山を下る形になるので、雨で滑って大変だった。
奥宮に近づくにつれ、六地蔵、水子地蔵、不動明王と続き、
奥宮の横には水行場があった。
ここは神仏習合の修験場だったのだ。
行者は居なかったが、沢蟹が修行していた。

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5月6日。

前日夜に高知城のお膝元で夕食を食べた私たちは、
その後、祖谷渓に急いだ。

高速のETC割引が午後8時までなら使えるのと、
祖谷渓の温泉の営業時間に間に合わせるためだ。

ここで急がずに、翌日物部村を見に行く、
という選択肢もあったのだが、それはあまりにマニアックすぎて、
細君のゴキゲンを損ねてしまう…ので、四国の定番観光地、
祖谷渓に向かったのだった。

道の駅「西祖谷」は、祖谷秘境の湯に隣接しているのだが、
道の駅自体はとても小さく、車中泊にはちょっと向いていな買った。
だが、夜も遅く、しかたがないので駐車場の隅で泊まる。


翌日は、雨は小降りになっていたが、
全体的にしっとりとした天気。
これは四国に居た間、ずっとそうだったのだが、
かえって幽玄な雰囲気を醸し出していて良かったのかもしれない。

午前中は、「かずら橋」へ。
祖谷渓といえばここというほど有名スポットだ。
私は昔来たことがあるらしいのだが、良く覚えていないので、
改めてみると、想像していたよりも
ずっとスケールが大きくて驚いた。

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かずら橋は、平家の落ち武者が、
追っ手が来たらすぐに落とせるようにと、
かずらで編んだのが始まりらしい。
そう、この四国中央部の山岳地帯には、
平家の落ち武者伝承が存在するのだ。
いや、伝承というか、実際に史跡が残っている。
安徳帝の侍医を務めた堀川氏なる人物が、
落ち延びてこの地に至ったときに、
辺りに薬草が沢山生えていることに気がつき、
この地で医者を務めながら定住したというものだ。
堀川氏を含めた平家の落ち武者達が、
時代を経て阿波の山岳武者と恐れられるようになり、
その後、戦国前期最強を謳われる阿波三好家の
天下掌握の礎となっていくのだ。

まぁそれはいいとして、かずら橋は怖かった。
何とかは高いところが好きというように、
私もその何とかに分類される類なのだが、
それでも怖かった。何が怖いって、
足下が濡れてツルツル滑るのだ。
さすがに落ちることは無いとしても、
片手に傘、片手でカメラを押さえて渡るのは相当怖かった。
やはりこういうところは身軽にして行くべきだったようだ…



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5月5日午後。

四万十川を中村まで下った時点では、
足摺に向かうかそのまま高知に向かうかを迷っていた。
だいたい私の旅は、地図を見て気になる場所を回る、
といったものなので、進路はその時の気分によるところが大きい。
いかんせん、この時は中村あたりで雨がぱらついてきた。
足摺はとても興味深かったのだが、雨の岬はどうも気が乗らない。
私たちはその日は高知に向かい、夜のうちに徳島中部に抜けることにした。

そうと決まればあとはのんびりとしたものだ。
ちょうど昼どきだったので、幡多郡黒潮町で
道の駅「ビオスおおがた」に入った。


ビオスおおがたはものすごく広い道の駅だった。
目の前に広大な砂浜。
駐車場は他県ナンバーで埋まっていた。
ワゴンの荷室を改造した車が多い。
これらは全部サーファーだった。

道の駅自体も大繁盛で、薪や炭なども安価で売っている。
今回はタイミングが合わなかったが、
旅行中、時にはこういう場所でテントを張りたいものだ。

道の駅ではタイの押し寿司と鰹のたたきを買った。
鰹のたたきは、夜に高知の市場で食べたものの方がおいしかったが、
押し寿司はこれまで食べたことのないほどの旨さだった。
これで400円だったかな?ずいぶん安かった覚えがある。

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目の前は広大な砂浜。
今にも降り出しそうな空模様が、視界をあやふやなものにして、
どこまでも砂浜が続くような、そんな錯覚に陥った。

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5月5日。

宇和町の祖母宅を後にして、私と妻は南に進路を取った。
父は電車で帰るとのことで、後一日滞在するそうだ。

あまり自分の趣味ばかりではいけないので、
日本一の清流といわれる、四万十川を観光して
高知に出ることにしたのだ。

実はこれまで、高知には一度も行ったこと
はない。
宇和から高知はすぐ隣なのだが、
帰郷はいつもフェリーか大橋だったので、
必然的に四国の南は通らなかったのだ。
近くて遠い、それが高知だった。


四万十川は前日の雨で、清流と言うほど綺麗ではなかった。
だが霧の切れ目から覗く山の緑を、静かに水面に映す景観は、
どこかここが日本ではないような、そんな気分にさせてくれる。
四万十川には、沈下橋と呼ばれる欄干の無い橋がある。
大水の時、流されないように水面下に沈むのだ。
流木などで橋が壊されないように、欄干がない。

車一台がやっと通れるほどの橋が多く、
写真の橋など、とてもじゃないが車で通ろうという気にはなれなかった。
これまで車が落ちたなんてことは無いのだろうか。

橋と絶景を眺めながら、お茶を淹れて一服。
のどかなひとときだった。

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写真は南国の楽園ではなく、宇和海。
佐田岬の海岸である。

5月4日。

大洲を後にした我々は、一路佐田岬へ向かった。
佐田岬は、今でこそメロディラインなる国道が出来、
根本から一時間ほどで岬まで到達できるが、
昔は県道をクネクネと巡り、先端までバスで3時間くらい掛かったらしい。

あいにくのぐずついた天気。
雨こそ止んだが、駐車場からの山道は未舗装で、
このぬかるんだ道をひたすら歩く。
灯台に至るも、なんだかパッとしない。
やはり岬はカラッと晴れた日でないと…

だが、妻は大分が見えたから満足のようである。
我々は海岸に降り、小石を拾ったりして遊んだ。

佐田岬の小石は、緑色をしている。岸壁も緑色だ。
上の写真の海の色は、この緑色片岩の小石が原因のようだ。
佐田岬のすぐ北の海中を、中央構造線が走っているので、
構造線の南側は三波川変成帯といって、片岩層が続いている。
特に、緑色の片岩層は、佐田岬、徳島の祖谷渓、
伊勢の二見浦、長野県大鹿村、秩父の長瀞によく見られる。
今回はほぼ中央構造線に沿って旅をしたので、
本当に中央構造線が続いているということが、
身をもって実感できたのだった。

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帰りは、八幡浜の常食(ローカルフード)、チャンポンを食べ、
異国情緒あふれるお菓子、唐饅をかじりながら帰途についた。

5月4日、愛媛県大洲市。

この日もあいにくの雨だった。
前々日に愛媛入りしたのだが、
自由になる日は、この日一日だけだった。
妻の希望で佐田岬に行くことになっていたので、
その前に通り道に当たる大洲に寄ってみた。


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大洲ではまず臥龍山荘に立ち寄った。
冨士山(とみすやま)の山裾を洗うように流れる肱川を、
高台から見渡すことの出来る好立地に、
明治の貿易商河内寅次郎が、構想10年、工期4年の歳月と、
延べ9000人の人手を要して築いた別荘である。
贅に贅を尽くした山荘は、それでいて嫌味ではなく、
寅次郎氏の趣味の良さが窺えるものだ。
竹を敷き詰めた2畳ほどの玄関を過ぎると、
4畳半ほどの部屋の一辺が神棚になっている。
神棚の下には透かし彫りの採光で、
障子に渦巻き模様などが浮かび上がる。
その他には2部屋。いずれもこじんまりとした和室で、
片部屋には濡れ縁があり、そこから庭園を眺められる。
なんとこの濡れ縁の天井は、屋久杉の一枚板だ。
残念ながら、室内は撮影禁止なのが悔やまれる。

庭を進むと、不老庵なる茶室がある。
断崖に乗り出すように建つ茶室は、
なんと数本の生きた木が支えているのだ。
対岸から見ると、森の中に浮かぶように見える、粋な茶室である。
天井は緩やかなカーブを描き、そのカーブに竹材が隙間無く並び、
屋形舟をイメージした作りになっている。
抹茶を頂きながら、不老庵から外を眺めた。
雨に煙った大須の山並み、穏やかな肱川の流れ、
最高の借景庭園である。

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さて、ここ大洲には不思議な伝承がある。
目の前の肱川で、少彦名神が溺死したと言うのだ。
出雲で葦に弾かれ常世の国に行ったはずの少彦名神であったが、
伊予では、道後温泉で人々を助けたあと、
大洲に来て客死したことになっている。
それにちなんだ地名も幾つかあるようだが、
あいにくの雨で、色々と回る気にもなれなかったので、
少彦名神陵とも言われる、粟島神社に立ち寄ってみた。

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粟島神社は見ての通り、巨大な岩の上に本殿が建っている。
こういった磐座や神体石の上に、
こんなに大胆に本殿が乗っているのは初めて見た。
写真で見たことはあったが、やはり本物に目の当たりにすると、
その迫力に口がぽかんと空いてしまう。
一体全体、これはガガイモの舟に乗ってきた
少彦名神を表現した結果なのであろうか?

ちなみに、大洲は”おおず”と読むが、
古語だと”おおくに”とも読める。
少彦名の相棒、大国主となんらかの関係があるのかもしれない。

大窪山福楽寺。
私の曾祖父が眠る寺である。

今回の帰省までは、このことを知る由もなかった。
我が家の家系は複雑で、90歳になる祖母はあまり語らないし、
父親も若いうちに都市部に出たからか、
あまり家系のことは知らないようだ。

父親と私と妻で、愛媛の西の端まで帰った今回。
この機を逃しては、もう知ることも出来ないのではと危惧し、
父親を担ぎ出し、我が祖を辿ることにしたのだ。

ことの発端は、仏壇に飾られている三枚の写真だった。
戦争で亡くなった祖母の元夫が中央。
左は、その後反戦運動で政府に睨まれ、
神戸から逃れてきたという、6年前に亡くなった祖父。
分からなかったのが、右側に飾られている、僧形の男性。
詳しく聞いてみると、祖母の父で、天台の僧だったという。
話によると、日光のほうで生まれ、
鳥取のほうで修行した人だったことが分かった。
大正年間、祖母がまだ幼い時分に亡くなっており、
家にもそれ以上の情報は伝わっていなかった。

翌る日、親戚周りを済ませ、曾祖父の寺に行って見ることになった。
父が場所だけは覚えていたようだ。
そして行き着いたのが、福楽寺。
曾祖父は生前、この寺の住職だったそうだ。
現在の住職の奥さんがいたので、話を伺ってみると、
確かにそういう話が伝わっているという。
当時は(明治の半ばか?)僧の妻帯が許されておらず、
と言ってもやはり人間なので内縁の妻たる人はいて、
それが祖母の母、つまりは私の曾祖母だったのだ。

奥さんは奥の院に、曾祖父、静然和尚の
墓所があることを教えてくれた。
父親も、寺は知っていても、
奥の院の墓所のことまでは知らなかったようだ。
車なら行けないことはない…と言う。
陽も黄色くなりつつある時刻ではあったが、
ここまで来て参らないではご先祖に顔向けできない。
我々は未舗装の山道を延々4km、登っていったのであった。


果たして、電気も通っていない山奥のその奥に、
福楽寺の奥の院はあった。
今にも崩れそうな石段が延々と続くが、その行き着く先には、
最近再建したというこじんまりとしたお堂が建っていた。
そこから右手に山に入っていく。
磐座とも思える巨石群に囲まれた一角に、
福楽寺歴代住職の墓碑が並んでいた。

33世住職の墓碑には静然和尚の名があった。
日光輪王寺で得度し、大正11年に亡くなったと彫られている。
間違いないだろう。

我々父子二代、初めての墓参りである。
歴史の闇に閉ざされる前に、なんとか縁が繋がって良かった。

5月1日

甲賀を出た私は伊賀を経て柳生に至った。
男子なら誰でもワクワクするであろう(笑)これらの土地は、
それぞれ滋賀、三重、奈良、と県は違うが、
実際はほぼ隣接しているといえる。

柳生の地に着いたのは夕方近くだった。
昼過ぎまで土砂降りだった雨も落ち着き、
時折雲間から青空が覗くほどになっていた。

柳生の地には何の所縁も調べ物もないのだが、
有名な神社があるので寄ってみる気になったのだ。

まずは柳生家菩提寺・芳徳寺に立ち寄る。
芳徳寺は最近資料館を増築したようで、
木肌がまだ新しい建物は清々しかった。
資料はこれといって記憶に残るものはなかったが、
秘蔵品の写真展示がやたらと格好良かったのを覚えている。
よくある説明的な平べったい写真ではなくて、
闇から浮かび上がるような刀の柄や秘伝書の描写は、
いろいろと想像力をかき立ててくれるものだ。
撮影者はかなりの使い手であることは間違いない。
私もいずれはそういう有意義な仕事をしてみたいものだ。



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境内の奥の山中には、柳生家歴代の墓所がある。
一応この地に足を踏み入れるのだから、
領主様に挨拶をしておこうという心積もりだ。
六地蔵の佇む石段を登ると、四角に区切った一角に
墓標や五輪塔が並んでいた。
柳生家は石舟斎宗厳以降、しばしば歴史書や、特に時代小説に
取り上げられること多いので、著名な人物が多い。
そのような墓標が整然と並んでいる光景は圧巻だった。
名だたる作家先生達もこの地を訪れているのだろう。
ちょっとおかしな表現だが、墓地が生きている感じがした。

芳徳寺から逆方向に山中を歩くと、
有名な天乃石立神社がある。
山道を歩くこと20分ほどか。
途中、霊園の側を通りかかったが、
きちんと区画された墓地には真新しい墓石が多い。
よく見ると赤文字の戒名が多い。
赤文字の戒名は、生前に頂いておくもので、
例えは悪いが新築マンションの入居予約みたいなもの。
この地の住人は、それほどまでに用意周到なのだろうか。

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山肌の茶畑を抜けると、天乃石立神社の鳥居に至った。
鳥居の先は急に深い森になっている。
参道の山道の右側は深い谷となっていて、
巨大な岩がゴロゴロと転がっていた。
谷間の木々の裂け目からあふれる光が、
それら岩を反逆光に照らしだし、
早くも神秘的な雰囲気を醸し出していた。

谷の始まりが御神体だった。
天乃石立神社の拝殿は、参道から歩くと
右手の御神体石を通り過ぎた位置にある。
つまりは今来た道に向かって拝む形になるのだ。
不思議な位置関係だが、光の差し込む方向だからか、
それとも柳生家菩提寺の方向だからか、は分からない。

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上左(拝殿側)から、きんちゃく岩、前伏盤、
下左から前立盤、後立盤と名付けられており、
それぞれ、日向神社、天立神社、天石立神社、天石吸神社で、
祭神は天照皇大神、櫛盤門戸命、豊盤門戸命、天盤戸別命と、
それぞれ独立した神社となっている。
が、地元の人はきんちゃく岩以外をひっくるめて神戸岩と呼ぶそうだ。

これらの岩は大変美しい姿をしていた。
手力雄命が押し開いた天の岩戸の扉石が、
勢い余って飛んできたのがこれらの岩だと言うだけあって、
扉のような平たい形の岩が重なっている。
なめらかな表面にうっすらと苔が生えているその様は、
無機質な岩にも命が宿っているように感じられる。
午前の雨に湿った空気が、光をさらに演出していた。


   * * *


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境内をさらに進むと、そこには一刀石と呼ばれる岩がある。
あるいは、神戸岩よりこちらの方が有名なのかもしれない。
ある夜、柳生石州斎が、この地で修練中に天狗を仕留めた。
だが、翌日現場を見に行くと、仕留めた天狗はおらず、
代わりに大岩が真っ二つに割れていたと言うのだ。
さすがは柳生新陰流開祖、見事なまでの切り口である。

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というのは伝説だとしても、花崗岩は地表で空気に晒されると、
突如としてパキッと割れることがあるという。
いつから割れていたかは分からないが、
ある日突然割れていた、ということは大いにありそうだ。
光の差さない深い森の中、真っ二つに割れた大きな丸い岩は、
先ほどの神部岩とはまた違った、威厳にも似た佇まいを見せてた。

そしてその後ろの崖のには、小さな天狗の像が祀られていた。
全てを知っているような顔をして。

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外は雨。
昼前だというのに部屋の中は薄暗く、 どこかピリピリした静寂に満ちあふれている。
ゆらり… 空気がわずかに揺らいだ。
「誰ぞ!?」
緊張が走る。
と、突然背中越しに殺気。
私はすかさず右前方に身を翻し、腰のものを一閃させた。
手応えあり。
私はこうして忍びの者を捕らえることができた。
もっとも、気配を完全に消すこともできないようでは、 忍者としては未熟者ではあるが。

5月1日のこと。
ここは甲南、望月家屋敷。 甲賀忍者の頭領の隠れ屋敷である。
私はとある調査のために、この屋敷に忍び込んだのだ。


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「さて、こやつはどうするか…」
捕らえた忍者は、この期に及んでも自ら死を選ぶこともなく、
かといって命乞いをするわけでもない。煮え切らない奴だ。
私はこれは機と、作戦を変更した。
捕虜と引き替えに、屋敷の主から情報を聞き出すことにしたのだ。
果たして、屋敷の主は現れた。
深い藍染めの作務衣に、白く染まった頭髪。
好々爺といった面持ちだが、瞳の奥は油断ならない光を湛えている。
だが意外にも、交渉は順調に進んでいった。
順調すぎて、罠ではないかと疑ったが、
主の瞳から鋭さが消えていたことで、その非を悟った。
我々が諏訪の手の者だとわかり、主は心を開いてくれたのだ。
我々は甲賀三郎伝説を追ってきた。
甲賀三郎という者が、深い洞窟に閉じこめられ、 地底の国をさまよった末、
体を蛇神に変え 諏訪湖にたどり着いた、という説話である。
その説話の伝搬に、甲賀望月家が関わっているという。
その真偽を確かめるために、甲賀の地に潜入したのだ。
主が好意を示してくれたのは、かつて諏訪の御柱祭を視察に行った際、
村人に飲めや飲めやと大層もてなされた経緯があるかららしい。
遠き日の思い出に目を細めながら、主はゆっくりと語り出した。


甲賀武士の頭領、望月家の始祖は甲賀三郎兼家、 伝説の人物そのものであった。
時は平安中期、平将門の乱に軍功のあった者の中に、
信濃国司諏訪重頼の三男、望月城主、望月三郎兼家がいた。
兼家は新たに朝廷から近江国甲賀郡の郡司に任ぜられ、
知行地を名を冠して甲賀三郎兼家と名乗るようになった。
望月家の定着した土地は甲南町塩野というが、
信濃の望月にほど近い北佐久にも塩野の字が見える。
これは望月家が入国に当たって、 所縁ぶかい塩野の地名をつけたのではないかと言われている。
塩野にはかつては諏訪神社が鎮座していたそうだ。
今は小さな祠だけが残っているそうだが、 我々は見つけることが出来なかった。


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※塩野諏訪神社旧社地付近


甲賀の地を治めるに当たって、土地の土豪と密接に関わるうちに、
山伏・山岳武士の多い土地柄故、次第に隠密の術を得意とする
武士団の統領と成長していったという。
忍者は、当時は素破(すっぱ)・乱破(らっぱ)などと呼ばれ、
忍術を使ってニンニンと戦うと言うよりも、 諜報活動などを主な仕事とした。
活動時の隠れ蓑としては、全国を渡り歩く行商人、 加持祈祷をする呪術師、
修行の旅の遊行僧などがあるが、 甲賀者はその中でも、
朝熊ヶ岳の山伏姿に身をやつし、 御符や薬を売り歩いた経緯がある。
これは、山伏ならば関所を手形無しで通過できるのと、
伊勢神宮と対をなす朝熊ヶ岳の金剛證寺の薬僧なら、
全国的に有名だから疑われ難いという理由によるそうだ。
その為か、甲賀忍者は薬に長けると言われ、 今でも甲賀には製薬会社が沢山存在している。 主が言うには、甲賀と伊賀の間に諏訪という集落があり、
そここそが現代の甲賀諏訪信仰の本拠だという。


 



 滋賀と三重と京都と奈良の国境に位置する山間の土地に、 果たして諏訪の集落はあった。


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立派な祝詞殿を正面に持つ諏訪神社の社殿は、
とても山間の小さな集落には似付かない規模のものだった。
諏訪集落から山を南に下ると、伊賀国上野の城下町であり、
伊賀一宮敢國神社の本殿には、甲賀三郎が祀ってあった。
伊賀に甲賀とは不思議な話に思えるが、
講談などで語られるような伊賀対甲賀の構図は実際にはなく、
似たもの同士、分け隔て無く戦乱の世を生き抜いてきたそうだ。
甲賀三郎説話は、諏訪大社発行の食肉免罪符、 鹿食免と共に全国に広まったという。
中世から近世を通して、肉食は仏教の影響で忌み嫌われて 穢れとされていたが、
諏訪大社は古来から狩猟の神として崇められ、
御頭祭に代表されるように、肉食が公に認められていた。
狩猟を生業とする者には、絶大な信仰を集めたようだ。
そういう人たちに、諏訪大社の関係者は、鹿食免を売り歩いた。
これらは諏訪大社経営費の重要な資金源だった。
これを請け負ったのが、望月家を中心とした甲賀者達だったようだ。
神官なり山伏なりの姿をし、辻辻に立っては甲賀三郎説話を説法し、
鹿食免を売り歩いていったのだ。 もとより諜報活動の一環だったのか、
それとも売り歩いたことによって、諜報の術を得ていったのか、
それは何とも言えないが、とにかく時には朝熊ヶ岳の薬を売り、
時には諏訪大明神の鹿食免を売り、 全国を渡り歩いて諜報活動を続けたのだ。
ここで引っかかるのは、甲賀三郎説話の必要性。
説話から読み取れることは、甲賀三郎が地底の国で彷徨いつつも、
恋人の父の作ってくれた鹿の肉の餅を食べることで、
生きながらえることが出来たという節くらいのように思える。
諏訪大社の御頭祭では、今でも鹿肉餅を模したものを 奉納しているが、
それだけでは甲賀三郎説話の壮大な物語が 必要とされた説明としては物足りない。
ひとりの人間が地底で蛇神ないしは龍神になる話には、
なにか下敷きとなる話がありそうな気がする。
屋敷の主にそのことを聞けども、 龍神に関わる伝説に関しては分からなかった。
甲賀の郷土の風習にも、龍神関係は思い当たらないという。
しかしただひとつ、思わぬところに手がかりが転がっていた。
ここ望月屋敷のある場所は、甲南町竜法師というのだ。


甲賀三郎龍神伝説、さらなる探求はいずれまた。


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