2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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信州では、迎え盆にカンバを焚く。
カンバとは白樺の皮のことで、この時期だけ流通するようだ。

13日の朝、迎え盆。
お墓に行き墓碑の前でカンバを焚く。
墓参りをすました後、家に入る前に玄関前でもう一度カンバを焚く。
いつもは勝手口から出入りする義父たちも、
この日ばかりは正面玄関から家に入る。

仏壇には精霊馬。
ナスとキュウリで作った牛馬で、
キュウリの早馬で祖霊を少しでも早く迎えるように、
ナスの牛はゆっくりとお帰りなさい、との願いが込められている。
仏壇正面には藁の盆ゴザが敷き詰められ、
垂れ下がったマコモは畳に届くほど。
マコモをつたって祖霊が仏壇に入ると言っていた。
えっ、祖霊って地面を歩いてくるの?
精霊馬といい盆ゴザといい、祖霊は結構小さいものらしい。
「草の影から見守る」というのもうなずける話だ。

両親は棚経のため、お坊さんを連れ歩く当番らしく、
慌ただしく出かけていった。
午後、家に戻ってきてお坊さんに経をあげてもらい、
お盆の初日の仕事は終わり。

16日、送り盆。
家の玄関前でカンバを焚き、そのまま墓地へ。
墓碑の前でカンバを焚き、祖霊を無事送り出す。
実はカンバを忘れてきたので、その辺の藁を焚いた。
いい加減なものだが、藁を焚く地域もあるので、
まぁご先祖様も笑ってすましてくれるだろう。


カンバや藁を焚くのは、祖霊が道に迷わないように。
ではその祖霊がどこからやってくるかというと、
多くは山からやってくると言われている。
白樺の皮を焚くのは、信州に多く見られる風習だそうだが、
信州の高原に白樺が多く茂っていることと関係しているのだろうか?
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8月14日


お盆の最中の夜、八ヶ岳南麓のとある神社。
夜風に吹かれて涼もうと、村祭りの舞を見に行った。

ナビにも地図にも表示されない小さな神社で、
ずいぶん道に迷ったが、闇夜に浮かぶ提灯の明かりを見つけると、
風に乗ってお囃子の音が流れてくるのが耳に入った。


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石段を登り着いた先では、もう既に舞が始まっていた。
氏子中の10才の女の子が舞う稚児舞は、
300年に渡ってその伝統を守り継いできたという。
いまは少子化で、都会に出て行った家族にも呼びかけて、
なんとか伝統を絶やさないようにしているようだ。
緑と赤の装束を身に纏った稚児舞は、
「御幣と鈴の舞」「剣と鈴の舞」「弓の舞」の三番の舞があり、
八ヶ岳に向かって設けられた祭壇を背に、二人一組で舞を踊る。


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観客は、ほとんどが地域の人だ。
稚児の家族が周りで見守っているくらいで、
境内ではお酒を呑んだり子供相撲大会があったりと、
それぞれが思い思いに楽しんでいた。
最近の祭はどこもかしこも、観光客や若向けのイベントを
盛りだくさんにするきらいがあるが、
氏子の氏子たちによる氏子たちのための
昔ながらの祭の姿がそこには残っていた。
部外者を招くわけでもなく拒むわけでもない。
心地よい空気。
少しぎこちない稚児たちの舞は、
時として凛とした鋭さをみせ、
そうかと思えばまたもとの
あどけない表情に戻っていたりする。
子供と大人の挾間を漂う彼女たちの表情に
すっかり魅了されてしまった。


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舞が終わり、稚児たちが勢揃い。
八ヶ岳に向かって全員で祈り、観衆に向かって餅を蒔く。
この時ばかりは観客たちも大にぎわいで、
境内にこんなに人が居たのかと思うほどだった。
破魔矢を放ち(危ないから手で渡していた^^)祭はお仕舞い。

世話人たちはそうそうと灯具を片づけ、直会の宴を始めた。
これからは大人たちの時間のようだ。

八ヶ岳の夜風は冷たく、残暑という言葉を忘れさせる。
祭の興奮が冷めないうちに、私は夜道を帰路についた。


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8月7日

多摩川流域の蛇神信仰を調べていたら、
稲城に面白い風習を見つけたので行ってみた。
「妙見尊の蛇より行事」
稲城の妙見寺に隣接した妙見尊で、
通称は、武州・百村の北辰妙見様と呼ばれている。
管理は妙見寺の住職が勤め、神仏習合時代の姿を思い起こす。
明治元年の神仏分離令によって、神社仏閣が明確に分けられたなか、
多くの妙見信仰の神社は祭神を天之御中主神と変えてきたが、
妙見尊は祭神を変えずにきたようだ。
このような神社が、まさか東京に残っていたとは驚きだ。

ネットの情報に、過去のタイムスケジュールが載っていて、
早朝から萱場で萱を刈り、神社で干すこと数時間。
午後3時ころから干した萱を寄り合わせ、巨大な蛇を作るという。
さすがにこの暑いさなか、朝から行くのは大変なので、
蛇をより始める3時頃に行くことにした。

電車で30分ほど。
隣の市とはいえ、交通の便は悪い。
京王相模原線の稲城で降りると、
いかにも神社がありそうな山が目の前に見えた。
そこへ向かっていく途中の道で、
写真サークルらしき中高年の人たちとすれ違う。
郷土文化云々と書かれた旗掲げていた。
もしや、と思って歩みを早めたが、時既に遅し。
完成した蛇の前で、直会の宴が開かれていた。
なんでも今年はいつも以上に早く完成したらしい。
遅れてきた訪問者に、おばさんたちはビールを勧めながら、
「せめて蛇をさわっておいで!」
蛇をさわることで、厄災を落とすのだ。

蛇より行事の起源は、寛文2年(1662)
諸国に疫病が蔓延した際に始められ、
以来、氏子たちの手によって延々と続けられてきたという。
萱で蛇を作るのは、妙見尊の建立に由来する。
天平宝字4年(760) に、伏敵祈願のために道忠禅師が
尊星王の秘法を七日七夜に渡り修したところ、
妙見菩薩が青龍に乗って現れ国難が消滅したという。
その時に建立されたのが妙見宮(今の妙見尊)であり、
その後天永3年(1112)、妙見寺を建立し別当に充てたことが、
妙見寺縁起に記されている。

蛇より行事が始められたのは、創建よりもかなり後の時代になる。
確かに山頂の妙見尊から延々と80mほど、
石段に沿って伸びる蛇は、妙見様を背に乗せている格好になり、
これは妙見様の降臨の再現しているのだろう。
かつてはさらに長く、今の京急のガード下まで、
実に200m以上の長さになったという。
茅葺き住居の減少と宅地開発によって萱の確保が難しくなり、
現在では境内脇に萱場を作って伝統を守っているとのことだ。


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蛇の頭は、鳥居横の二十三夜塔の前に横たわっていた。
二十三夜塔は月待ち信仰の一つで、
十三夜、十五夜、十七夜、十九夜、二十三夜、二十六夜など
特定の月齢で行われる月待ちの中でも、
もっともポピュラーなものである。
月待ち信仰は、月の満ち欠けよろしく、
女性の出産や子育てに関する祈願が行われたらしい。
住職によると、蛇より行事の行われる8月7日は、
ちょうど二十三夜に当たるのだという。
ということは、蛇より行事は二十三夜待ちの一環で、
直会の宴で真夜中過ぎの月の出を待ったのだろうか。


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多摩川流域で萱の蛇というと、世田谷奥沢神社の「大蛇お練り」、
横浜生麦の「蛇も蚊も」が思い当たる。
どちらも江戸時代、疫病が流行ったことに由来する。
厄よけの行事であり、蛇より行事と同じように、
萱や藁を使って大蛇を作りあげるのだ。
奥沢神社は八幡大神のお告げ、生麦は素戔嗚尊に因んで、
との由来で、必ずしも妙見菩薩の乗っていた青龍
というわけではないようだ。
江戸時代中期、厄災を除く蛇の流行が
この地域であったのだろうか?

氏子のおばさんにもらったビールを飲み干し、
また来年と笑いながら、直会の続く境内を後にした。
夏の太陽はいまだ天高く、
額に浮かぶ汗は拭っても拭いきれないほどだった。


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とうとうお舟は神楽殿を3周まわり、
神楽殿の正面で動きを止めた。
神楽殿に向き合うように向きを変え、
五色の布が取り払われた。

どういう展開になるのやら、固唾を呑んで見守っていると、
突然お舟が横に傾いた。


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そして、若連が乗ったそのまま地面に倒れる。
と思ったら、今度は逆の方向から引っ張って立ち直り、
そのまま激しく倒れ込んだ。
曳行も荒々しかったが、最後はそれに輪を掛けて激しい。
さすがは舟を高山に運び込んだ海人族である安曇族の祭である。
下諏訪一帯は、上諏訪よりも安曇野の文化との共通点が見受けられる。
それは、上諏訪が狩猟に由来する御頭祭、
下諏訪がお舟祭を重要視することからも伺えるが、
実際の街の雰囲気も、上と下ではずいぶん違うように感じられる。
御柱にせよお舟祭にせよ、派手で賑やかなのは下社の方で、
上社はどちらかというと、庶民の介入しがたい
神聖な雰囲気をもった神事が多く感じられるのだ。
諏訪湖を巡る文化の違いは、
大げさに言うと古代史の縮図と言えるかもしれなくて、
非常に面白い謎である。

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ともあれ、再びお舟は起こされ、拍手喝采の中、
祭は無事終了した。
これからお舟がどうなるのか、興味はあったがもう時間切れ、
バスの集合時間だ。
諏訪湖が夕日で赤く染まる中、私たちは家路についたのだった。


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辺りが急にざわめきだした。
どうやら偉い人が裏であれこれしてどうこうなったらしい(笑)


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木遣り衆が御幣を突き上げた。
出発の木遣りに合わせ、お舟の若連たちが
手に持った山吹色の幣を空に掲げた。
出発だ。


再び熱気が蘇り、秋宮までの坂を一気に駆け上がる。
しかし、本当はここからが正念場なのだ。
境内に入り、真ん中に位置する神楽殿を3周まわる。
この細かくまわるのが実に大変なのだ。
春宮から街道を抜けて秋宮に至るまでは。
直線の繰り返しだったので、人数さえいれば何とかなる。
しかし、狭い境内に入ってしまうと、
限られた人数で息を合わせないと、まったく動かなくなってしまう。
何しろ、木の固まりを引き回しているのだ。
境内は段差もあれば剥き出しの地面もある。
木遣りと若連と曳き手、皆の息が合わないかぎり、
お舟はぴくりとも動かないのである。

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実に時間が掛かった。
木遣りが鳴り、若連が幣を振るい、曳き手が綱を曳く、
この一連の動作で進むのはたった1メートルにも満たない。
うまく息があったとしても、3メートルも進めば良い方だろう。
怒号が飛び交い、古老が「木遣りに合わせろ!」とか
「木遣りも合わせろ!」などと怒鳴りつける。
お舟に乗る若連は、こうして地域の中で
逞しくなっていくのだろう。

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バスの集合時間の19時まで、あと1時間となった。
義父とバスで来ている以上、それに乗り遅れるわけにはいかない。
お舟は、後1周。果たして、見届けることが出来るのか?
神社側もさすがに時間を制限しているらしく、
曳ききれないことも有るとか無いとか。
最後まで全うできなければ、担当の御頭郷はあと10年、
挽回の機会を持てないのだ。
自然、境内は焦りと緊張に包まれた。
息もだいぶ合ってきたようで、最後の最後にして
驚異の速さで巻き返しに掛かる。
木遣りとラッパと怒号が織りなす混沌が、
一つの目的に向かって統合されていくさまは、
まさに祭の熱狂であり、体中の血が熱くたぎるのが、
心地よい快感と変わっていった。

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続く


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御神霊の乗った長持行列が行った後は、
いよいよお舟祭のメインイベント、芝舟の曳行である。

神楽殿の前のお舟に若衆の面々と木遣り衆が乗り込んだ。
お舟の上と、その前後数カ所に配置した木遣り衆が、
御幣を天高く突き立て、「イヤァァァァァァ」と
独特の節回しの木遣り唄を歌う。
(ちなみに諏訪では、木遣りは歌うではなく鳴くというらしい。)
御柱祭もお舟祭も、すべてはこの木遣りの音頭次第だという。
やはりうまい下手があるらしく、
下手な木遣りではまったく息が合わないそうだ。
「イヤァァァァー 山の神様ー お願いだー」
などと、色々と言い回しがあるようで、
面白かったのは、動かなくなったときなど、
「イヤァァァァァ しばらくー 休憩ー」などと、
歌い手も色々と小ネタを持っていること。
非常に高い声で簡潔に鳴かれる信濃の木遣りは、
情報伝達に最適なのだろう。

YOUTUBEで木遣りの音源を見つけたので張っておく。
http://www.youtube.com/watch?v=9p_pQFBRGTA


そしてゆっくりと、お舟は動き出した。
このお舟、御柱と同様コロも何もついていない。
かといって、担ぎ上げるのでもない。
ただただ引っ張るのだ。
御柱といい、お舟といい、つくづく諏訪の衆は
重いものを無理矢理引きずるのが好きなんだなと思う。
巨大建造物を作っていたとされる出雲とも関わり深い諏訪のこと、
コロもソリもなにも無い時代の巨大建築事業は、
こういう風に行われていたのか、と想像がふくらむ光景だ。



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お舟が太鼓橋を過ぎた頃から、何やら様子がおかしかった。
私は綱を引かず、お舟の周りにくっついていたのだが、
チンピラが何度もお舟に乗り込もうとして喧嘩が起こっていた。
やくざものとの確執は、毎年あるらしい。
乗り込むたびに、曳行を止めるのは、
やはり神聖な神の乗り物と全員が意識しているからなのだ。
今回も、何度も何度も乗っては引きずり降ろしを繰り返した。
が、春宮の参道から国道20号に抜ける手前で、
とうとうお舟が止まってしまった。
チンピラたちも、今回は必ず乗ってこい、
と上からきつく言いつけられていたらしく、
とうとうお舟を乗っ取ってしまったのだ。
山吹色の若連はお舟を下り、曳き手も全員曳くのをやめる。
この辺りから祭は中だるみになってきた。

国道の交通整理の問題もあり、なんとか進めなくてはならない、
協議の結果、チンピラも若連も、誰も乗らないお舟曳行になった。
空のお舟を曳いたまま、国道を抜け秋宮の参道に入った。
さすがにこの事態を申し訳なく感じたのか、
チンピラが若連の手を引いて、一緒にお舟に乗り込んだ。
「お、和解か?」とも思ったが、やはりそうはいかないらしい。
若連と木遣り衆が元通りお舟に乗り込んでも、
異分子が混じっている以上、お舟を進めるわけにはいかないのだ。

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気が荒いと言われる諏訪の衆だが、ここは殴り合いにはならず、
根比べとなった。
何しろここまで空のお舟を曳いてきたのだ。
時間は予定よりもずいぶん余っている。
曳き手も綱側の木遣り衆も、思い思いに散り、
日陰で酒やらビールやらを呷る。
この辺り、要領を得ているというか、なんというか。
とにかく、こういう中だるみは一番疲れるのだ。


続く


8月1日

諏訪大社下社には春宮と秋宮があり、
その名の通り、春から夏は春宮に、秋から冬は秋宮に、
御神霊が遷宮する。
その遷宮の行事が、8月1日のお舟祭である。

この日、奇しくも妻の実家の地区が10年に1度の御頭郷。
お舟祭のメインである芝舟を曳く担当地区だった。
義父は、私が来るなら祭に参加するという。
実際義父は、お舟を曳くのは子供の頃以来であり、
そしてこの機会を逃せば、次の10年後には曳く気力も無いだろう、
と語っていた。
そのような機会に、氏子として祭に参加できたことは、
またとない幸せである。

12時ころ、町内の広場に集合。
2台のバスで下社のある下諏訪に向かう。
諏訪湖周辺は狭い土地に道がひしめき合っているので、
かなり交通の便は悪い。対岸に行くだけなのに、
1時間弱も掛かってしまった。

13時頃、下社に着く。
バスに乗っていたのはお舟の前に着いている
雄綱、雌綱を曳く氏子の人たちで、
お舟の前後を堅め、お舟に乗り込む若い衆は、
すでに山吹色の衣裳に身を包み、お舟の前にびっしりと並んでいた。

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祭直前の独特の空気、緊張と高揚が充満する境内で、
人々は静かに時を待っている。
神前で木遣り歌を捧げる人、境内周囲の小陰で見守っている人、
炎天下にも関わらず、お舟から離れず気持ちを引き締めている人、
開始を待ちわび落ち着かない神職、様々な人の想いが行き交う。


そして、長持や御旗・薙鎌などの長物、それに続く裃の大人達、
きらびやかに着飾った稚児達を携えた遷宮行列が、
拝殿の奥に入って行った。
外野から見えない場所で、さらには厳重に白い布で目隠しをして、
御神霊の依り代を錦に包まれた長持の中に移した。

お舟に先駆け、遷宮行列が出発。
年に2度、遷宮の時にだけ開放される太鼓橋を渡り、
秋宮に向けて行列は進んでいく。
厳格なその歩みは、その後に続く波乱とは対照的に、
粛々と続いていくものであった。

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続く



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