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2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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竹寺の弁天池の前で見かけたお地蔵様。
魚を抱いて、優しくこちらに微笑みかけていた。
左手は錫杖かと思っていたが、写真をよく見るとヒレがあるので、
うなぎなのかもしれない。

世の中にはサバ地蔵やヤマメ地蔵もあるというので、
珍しくもないかもしれないけど、
何やら無性に惹きつけられるお地蔵様だった。

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9月29日

子の権現の参拝を終え、同じ山の尾根続きである竹寺に向かった。
竹寺へは、子の権現に登ってきた道を再び降りて、
県道53号を南下、高麗の方から登る道が一般的なようだが、
とても雨の悪路を戻る気にはなれなかったので、
門前で作業をしていた人に聞いてみたところ、
抜け道があることが分かった。
鳥居の前、なかばトレッキングコースと同化したような道が、
車も通行可能だという。
しばらく走ると隠れ里といった感じの集落に降り、
そこから竹寺へと再び山道を登ることとなった。
こちらの道は幅も広く、子の権現ほど不安感はなかった。
駐車場には観光バス。竹寺は武蔵野三十三観音霊場三十三番の結願寺。
知名度も高いのでもっともなことではある。

駐車場から境内に向かうと、その名の通り竹林が迎えてくれた。
石の鳥居を潜り抜けると、そこには不思議な世界が待っていた。


竹寺の正式名称は医王山薬寿院八王寺。
子の権現と同じく、寺の名を持つが鳥居が結界を張っている。
それは子の権現でも同じことだったが、
竹寺ではそこかしこに色々な寄進物が佇んでいる。
東南アジア風の母子像、やたらとマッチョムキムキな牛頭天王像、
朽ちた錨、様々な歌碑等々。
どうも中国や東南アジアからの寄進が目立つ。
だがそのまとまりの無さが、混沌たる俗信を表しているようで心地よい。
境内右手の庫裏では、先ほどの観光バスの客人たちが、
昼食をとっているようだ。
後で知ったのだが、竹寺の精進料理は有名らしい。
その日はとても忙しそうだったので遠慮したが、
次の機会には是非とも味わってみたい。

境内奥に、竹で出来た細い鳥居が稲荷社のごとく連なっており、
その先は山になっている。
山の斜面に鳥居が設けられ、そこには立派な茅の輪が掛かっている。


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竹寺の歴史は、天安元年(857)に慈覚大師が東国巡礼の際、
病人が多いのを憐み、この地に道場を造ったことにはじまる。
疫病といえば牛頭天王と茅の輪。とはいえ牛頭天王は謎の多い神である。
疫病退散の茅の輪は、『備後国風土記』の蘇民将来の話に由来する。
すなわち、ある時、武塔神が旅の途中、宿を求めて民家を訪ねた。
対応した巨旦将来は裕福にも関わらずそれを拒んだが、
巨旦の兄で貧しい暮らしをしている蘇民将来が、武塔神を家に泊めた。
武塔神が再び村を訪れた時、蘇民将来の親類には
茅で作った目印を腰に付けさせ、それ以外の巨旦の一族を滅ぼしたという。
その時に、武塔神が自らを素戔嗚尊だと名乗ったことから、
蘇民将来の物語は素戔嗚尊のものとされた。
また京都の祇園寺(観慶寺)の門前街・祇園の守り神が、
八坂神社の素戔嗚尊だったため、
インドの祇園精舎の守護神である牛頭天王と同一視され、
素戔嗚尊=牛頭天王 の構図が出来た。
故に、 牛頭天王=素戔嗚尊=武塔神=疫病神 
と、ざっくばらんに言うとこうなるようだ。

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竹寺の本堂は、もはや寺と言ってよいものかどうか。
何も知らずに来ると、神社と勘違いしてしまう。
いや、いまや神社と寺の区別もつかない時代、
名前と外観の不一致さえも気にならないかもしれないが…

右手の手水場は、竹製の蛇口に竹製の柄杓で洒落ている。
竹寺全体に、こういった洒落っ気が感じられるのは、
住職の志が高いからであろうか。
不思議な置物もチラホラとはあるが、
それを含めてとても気持ちのよい空気が漂っている。

本尊の牛頭天王に参拝。
こう言えても私は蘇民将来の子孫だったこともあるので、
良き縁に結ばれたことに感謝の意を表明。
本堂の扉は少し開いていて、中には護摩壇が設けられていた。
そしてその先には牛頭天王らしき、角の生えた小さな像。
あまり見慣れぬ光景に、失礼ながらも写真を撮らせて貰った。
扉の向こうには、一体何があるのだろう?


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本堂をぐるりとまわる。
下手側、つまりは山肌とは反対側が開けていて、
辺りの風景を見渡すことが出来る。
この日は霧がかかって真っ白だったが、
天気が良いとさぞかし眺めが良いのだろう。

ふと、折れた木に目をやってギョッとした。


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木の幹から牛頭天王が…
諸星大二郎の世界に迷い込んだのかと思った。

何でもこの彫刻は、落雷で折れた御神木に東南アジアの彫刻家が、
牛頭天王を掘ったそうだ。
そういえば仏教が日本に浸透してきた時期、
仏像は巨大な御神木から刻み出していたというが、それと同じ感覚か。
その後、平成11年の本殿焼失の際、
燃えさかる炎に表面を焦がしたらしい。
御神木は落雷で形を変えてもなお、竹寺の歴史を見つめてきたのだ。
黒く焦げた表面が彫刻に表情を与え、
牛頭天王の陰に満ちた性質を表しているよう。
偶然とはいえ、彫刻に宿ったものの成したことのようにも思われた。
そのうち幹から腰を上げそうな、そんな気もしなくはない。

彫刻をよく見ると、牛頭天王の手前には黒こげになった動物が、
またその足の後ろには炎を免れた猫のような動物が掘られていた。
片方は滅び、片方は助ける。
蘇民将来の物語を彷彿させる、と思うのは考えすぎだろうか…

9月29日


前日からの車中泊。
朝、目を覚ますと大雨。
昨夜は雲一つない星空だったのに…
この日は、巾着田に一番乗りして誰もいない彼岸花を堪能しようと思っていたが、
この様子じゃ彼岸花どころではない。
予定変更して、兼ねてから目を付けていた飯能の山奥の寺院に行ってみることにした。

泊まっていたのは名栗湖ダムのほとり。
県道53号から国道299号に抜ける天目指峠なる山道に入ると、
途中、子の権現への道を示した看板がある。
そこを入っていくと、さらに細い道をつづら折りに、山の上に登っていく。
降りしきる雨の中、この道は辛い。
手持ちの地図やナビにも表示されない道なので、
心中不安になったころ、屋根付きの立派な駐車場があらわれた。
なんと、この雨の午前だというのに、何組か参拝者が居るようだ。
内心ほっとした気持ちで車を降り、境内へ続く道を歩く。

しばらく行くと、赤い鳥居と両側に小さな店。
お店はまだやっていなかったが、こんな山中にしては豪華な門前である。
鳥居を潜ると、山門が見えた。
大鱗山雲洞院天竜寺。
延喜11年(911)に、子の聖がこの地に十一面観音像を祀って
天龍寺を創建したのが始まりだそうだ。
紛れもない寺院なのに、鳥居があるのは、
この地方が廃仏毀釈の難を免れたというか、反骨したというか、
真相はどうかは分からないが、とにかく古い信仰の名残を残しているのだ。


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山門を抜けると、いきなりド派手な仁王像が立っていた。
雨に濡れそぼった強靱な肉体は、無機質な彫像があたかも生命を得たようだ。
まさか迫力に立ちすくむ、なんてことはないが、
おかげで一気に目が覚めた。

参道を進むと茅葺きの立派な建物。
遠くから見ると、ここが本堂なのかと思っていたが、
そうではなく事務所兼庫裏であった。
本堂はそこから折り返した場所なのだが、
本堂よりも遙かに規模が大きい。
本堂の軒下は、履き物で埋め尽くされていた。
こちらのお寺は、足腰の神様としても有名なのだそうだ。
そっと内部を覗くと、やたらと大きな赤いハイヒールが奉納されていた。
なんと、サイズは1メートル以上。
よく見ると、ハイヒールのそばに「アッコにおまかせ」と…
大きいとは聞いていたが、まさかこれほどまでとは(笑)

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境内を徘徊している間も、参拝者はひっきりなしに訪れていた。
こんな山奥で、雨の中のこと。
意外に思っていたが、奉納された履き物の数を見ると、
子の権現に対する信仰の篤さがうかがい知れるというものだ。
私もよくよくお参りして、その場を後にした。

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伊勢原市日向にて。


彼岸は一説に日願ともいう。
太陽と月の支配する時間が均等になる秋分の日、
その日を見計らったように咲きそろう彼岸花。
真っ赤な花弁は、その生命を燃え焦がすよう。
風に揺れ露に濡れ、わずか数日で消えてゆく。
月に祈り日に願う。
この時期を境に、野山ふたたび眠りにつく準備に入る。

だが私には、彼岸花の強烈な赤は異に写る。
緑と赤の強烈なコントラスト。
それは日本人ならではの潜在意識によるものか。
彼岸花の彼岸とは、向こうの岸を意味する。
すなわち、あの世だ。
中国から彼岸の思想が輸入されたときには、
彼岸は悟りの境地を意味する言葉だったが、
いつしか死後の世界とすり替わった。
そのためか、彼岸花には不吉な異名が多い。
死人花、地獄花、幽霊花…

彼岸花は強い毒性を持っている。
その毒性が死人を喰らう動物を退けるとして、
土葬の墓の近くに植えることがあったという。
また彼岸花は株分けでしか増やせないため、
自然と墓の近くだけに群生し、その場所を嫌でも目立たせる。
彼岸花が不吉なものと扱われるには、
このような背景も一つの要素としてあったのだと思う。
だがそれ以上に私個人の感情として、
やはり風に漂う赤の群生は、
なにか現実と異なる風景を見るような、
そんなおぼろげな気持ちを抱かせる。

不思議なことに、欧米人はそのような
偏見にも似た心情は全くなく、彼岸花を純粋に、
美しい花として楽しむという。
にわかに信じがたいのは、やはり私が日本人だからであろうか。

ゆらりゆらりと彼岸花、夢とうつつのはざまに揺れる。


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9月8日

自由が丘のほど近く、奥澤神社に大蛇が居る。
普段は鳥居に絡まってるが、年に一回練り歩くのだ。
ことの初めは宝暦年間、疫病はやりし夏の夜に、
八幡大神夢枕に立ち、藁で大蛇を作れと告げた。
それが厄除け大蛇のお練り。
お告げに従い疫病を逃れた人々が、
今の時代まで伝え続けたのだ。

奥澤神社を訪れたものの、時既に遅く、
大蛇お練りの終わった後だった。
元々広い境内ではない奥澤神社、
その参道いっぱいに屋台が犇めいていた。
屋台に埋もれた鳥居には、例によって大蛇が絡まっている。
この大蛇は去年の大蛇、一年間本殿で祀られ、
祭の一週間前、晴れて先代と交代して鳥居に登るのだ。

屋台で目を輝かせる子供たちを尻目に、
まずはお参りを済まさんと、社殿に来てみると、
果たしてそこに、大蛇が大きな目をむいていた。

賽銭箱の向こうには、神楽鈴。
軒から下がる鈴はないので、
参拝者自らが神楽鈴をシャンシャンと鳴らすのが
この神社の流儀らしい。
特に祭でなくとも神楽鈴を振るらしいが、
こうして目の前の大蛇に向かって鈴をシャンシャン振ってみると、
神楽鈴は大蛇の為にあるように思えてくる。
そういえば、ちょうど先月の同じころ、
多摩川少し上流の稲城でも、萱で作った大蛇を見た。
http://miyokame.blog82.fc2.com/blog-entry-118.html
稲城でも大蛇の顔の目の前で、
鈴(といっても仏具だが…)を振るって法要をしていた。
どちらも疫病除けが発端である。
時間は100年の隔たりこそあれど、
多摩川流域で藁蛇による厄除け信仰が複数残っているのだ。
どちらも伝承では、それで疫病が治まったというが、
藁には免疫効果でもあるのだろうか?
藁は麹菌を出すので食物に何か関係があるのか。
それとも、「藁にもすがる思い」ってやつだろうか。


この大蛇、目がくりくりっとして可愛いと思うのだが、
親に連れられお参りする小さな子は、
みんなこぞって怖がっていた。
考えてみれば、自分の体よりも大きな顔が
目の前で口を開いているのだ。
そういえば、子供のころって、
神社は何だか怖い場所だったなぁ。
そんな非日常の場所に、こんな巨大な蛇が居たら、
そりゃあビックリするだろう。
夢の中で大蛇に追われなければいいが・・・(笑


祭りの後、大蛇は本殿の奥に祀られる。
そこで一年間を過ごし、来年の祭の前に、
先輩大蛇と交代して鳥居の上に登るのだ。
「また来年。」と声を掛け、私は神社を後にした。


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