2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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10月7日

明静院から下りてくると、すっかり日も傾いてしまっていた。
最後に立ち寄ったのが、越後国一宮、居多神社(こたじんじゃ)。

行ってみると、一宮とは思えないほどの規模。
同じ越後一宮の弥彦神社とは雲泥の差があった。
祭神は大己貴命・奴奈川姫命・建御名方命
居多は延喜式神名帳ではケタと読ませ、
北陸に多く祀られる気多神社(大己貴命が祭神)の流れとも言われている。
越後国府や春日山城にほど近い立地であるが、
どうしても、同じ五智公園内に立地する本願寺国府別院の陰に隠れて
目立たない存在となっている。
この辺りは、親鸞聖人一色なのだ。
居多神社も、親鸞が越後に流されて
最初に参拝した神社として、歴史に名を残しているようだ。


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境内には大国主命と奴奈川姫の妻問の歌碑があった。

●大国主命
八千矛の 神の命は 八州国 妻求きかねて 
遠々し 越の国に 賢し女を ありと聞かして 
麗し女を ありと聞こして さよばひに ありたたし 
結婚にあり通わせ
太刀が緒も 未だ解かずて 襲ひをも 未だ解かねば 
乙女の 鳴すや板戸を 押そぶらひ 吾が立たせれば 
引こずらひ 吾が立たせれば 青山に 鵺は鳴き 
野鳥 雉子は饗む 庭つ鳥 雞は鳴く 
慨たくも 鳴くなる鳥か 此の鳥も 打ち悩めこせぬ 
いしたふや 天はせづかひ ことの語り言も こをば。

●奴奈川姫
八千矛の 神の命 軟え草の 女にしあれば 
吾が心 浦渚の鳥ぞ 今こそは 千鳥にあらめ 
のちは 和鳥にあらむを いのちは な死せ給ひそ 
いしたふや 天はせづかい ことの語り言も こをば 
青山に 日が隠らば 鳥羽玉の 夜は出でなむ 
旭の 笑み栄え来て 栲綱の 白き腕 
沫雪の 弱かやる胸を そ叩き 叩き拱がり 
真玉手 玉手さしまき 股長に 寝はなさむを 
あやに 勿恋聞こし 八千矛の 神の命 
ことの語り言も こをば

現代訳は長くなるので書かないが、ずいぶん艶っぽい歌である。
出雲から押し寄せてきて、姫を娶り子を孕ませ、
あっという間に帰って行ったという大国主命。
出雲もまた中央に降ろうとする前夜、動乱の時代である。

この後、越の国は神話の舞台に取り上げられることもなく、
ヒスイブームの終焉と共にひっそりと息を潜めていった。
縄文時代からの強国の、最後の華が奴奈川姫の物語だったようだ。


日の沈む頃、親鸞聖人が上陸したという居多が浜に行ってみた。
新潟にしてはこじんまりとした砂浜。
親子連れやカップルたちがチラホラと海を眺めていた。

西の空が茜色に染まる。
大国主命も、この浜からやって来て、
この浜から去っていったのだろうか?
神話の昔も現代も、夕陽の美しさだけは変わらない。


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10月7日

姥が嶽神社の丘を下り、再び海岸沿いの道を走る。
太陽は傾きつつあり、開けっ放しの車窓からの風も
さすがに肌寒くなったころに、次の目的地に至った。

岩殿山明静院。
虫生岩戸なる、いかにも曰くありげな土地で国道を脇に入り、
岩殿山に続く細い砂利道を登っていく。
途中に駐車場があり、急な坂を歩いていくと、
右手に住職の家がポツンとあり、その先が境内となっていた。
急勾配の石段を登る。
中腹で土地が開け、小さなお堂と錆びて朽ちた遊具やベンチなどが点在。
ずいぶんと寂れてしまっている…

聖武天皇のころ、行基が国分寺建立に際してこの地に一寺を開き、
往時は妙徳院十一坊として大いに栄えたというのが信じられない。
唯一の寺院施設として残る粗末なお堂には、
行基作の国宝・大日如来像があるそうだが、
拝観料1000円・・・
ここは遠慮しておいた。

お堂の裏には上杉謙信公の墓。
玉垣があるでもなく、ポツンと五輪塔がひとつ。
戦国屈指の有名人なのに、この扱いは…

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大いに栄えていたころは、もっと大きな墓だったのだろうか。
沢山ある墓の一つとはいえ、寂しいものである。



さて、お堂の左には、さらに階段が続いていた。
諏訪神社へと続く道だ。

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階段の行き着くところに諏訪神社、さらにその右奥、
注連縄の結界の向こうに大きな岩がゴロゴロと転がっていた。

 
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胎内岩と呼ばれるこの岩こそが真の目的地である。

かつては岩屋を形成し、その中に諏訪神社が鎮座していたそうだが、
宝暦元年の地震で崩れ落ちてしまったそうだ。

この岩屋は、建御名方命の誕生地と伝えられている。
出雲からやって来て、居多ケ浜に上陸した大国主命は、
身能輪山という山に宮殿を作って拠点にしていた。
それが現在の岩殿山なのだろうか。
黒姫山の奴奈川姫を娶り、生まれた子供が建御名方命である。
胎内岩の脇の諏訪神社には、
大国主命、奴奈川姫、建御名方命、乳母嶽姫命が祀られている。
乳母嶽姫命とは、むろん建御名方命の乳母をつとめた女性のことで、
前回の日記で紹介した乳母嶽神社の祭神であるとの説もあり、ハッキリしない。
個人的には、乳母嶽神社は奴奈川姫の終焉の地であって欲しいものだが…


胎内岩は、大きく分けて3つの岩から成り立っている。
注連縄を潜ると右側にある岩は平べったい岩で、
周りを一周することが出来る。
左の一番大きな岩は、高くそびえ立っており、
上に樹木が生えているので、半分は土に埋まっているのかもしれない。
この岩が胎内岩のメインのようで、岩の下にはお供え物にまじって、
子供のおもちゃが奉納されていた。
幼き諏訪明神を想って、、、
と言うよりは胎内岩の名前から、安産への願いを込めての奉納なのだろう。
そして、その奥には道を塞ぐように岩が横たわっていて、
ちょうどメインの岩と接する部分に、細い細い道が出来上がっている。
奥に進んでみた。
たった数メートルなのだが、急な登り坂に加えて足下がツルツル滑る。
地面や岩に手をつきながら、必死になって登り切った。

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登り切った先は、1メートル四方の小さな空間になっていた。
ここに岩でも被さっていれば、きっと岩屋と呼べるものになっただろう。
岩と岩の隙間に石の祠があり、そこは飯縄神社となっていた。
寺伝によれば、地震で岩屋が崩れ去った後、
裏山の飯縄神社と剣神社も合わせて祀るようになったという。
飯縄権現といえば、上杉謙信や武田信玄が篤く保護した軍神である。
一方で「管狐」を使役する飯縄法や、飯縄忍法なる方術を使う修験者を、
巧みに取り込み諜報活動に使ったなど、実利もあったのだろう。
春日山城にほど近いこの山に、修験者の足跡があるとは興味深い。

それはさておき、飯縄神社の祠の足下には、
小さな仏像が2体佇んでいた。
20センチにも満たないだろうか。
なんという仏様かは分からなかったが、
素朴な姿と場の空気が馴染んでいて、
妙に惹きつけられたものだ。
この仏様に出会えただけでも、
今回の旅は意義あるもののように思えた。

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10月7日 


ヒスイ工房跡の遺跡を見た後、山道を走って黒姫山に登った。
この山の中腹には、奴奈川姫の誕生地にして、
大国主命の求婚を受けた場所とも伝えられている、
福来口(ふくがくち)鍾乳洞があるのだ。

山道に入ると、県道が封鎖され、代わりに工場の中を通れように、
との看板が出ていた。恐る恐る工場に乗り入れると、
けたたましいサイレン音!
セコム?!かと思ったけど、
良く聞くと「車が通ります。」とのアナウンス。
あ~ビックリした。

気を取り直して山道をひたすら走る。
走って走ってかなりの標高まで達した。
が、どこにもそれらしき穴は見当たらない。
ナビの地図(山の中だと案内を放棄する…)を見てみると、
どうも鍾乳洞へ続く分岐を通りすぎていたようだが、
途中そんな道は見当たらなかった。

このまま行っても時間の無駄だと、引き返してみる。
地図の曲がり具合などと照らし合わせてみると、
鉱業関係者以外立ち入り禁止のゲートのある道が、
目的の道だったようだ。
ナビではちゃんとルート表示されているということは、
数年前までは封鎖されて居なかったのだろうか。

仕方が無いので、麓に降りる道を戻り、
見晴らしの良い場所から眺めてみることに。
そういえば、ネットで福来口の写真を探すと、
どれもこれも遠くからの写真しか無かったのを不思議に思っていたが、
みな同じ思いをしたのだろう。

肝心の福来口は見えた。
遠くからでも大きな穴がぽかりと空いている様子が分かる。
その少し下には滝があったので、
もしかしたら福来口から水が流れているのかも知れない。

夫来口とも書く福来口。
夫とはむろん大国主命のことだ。
この地に誕生した奴奈川姫は、大国主命が迎えに来るまでは、
機を織り、川の水で布をさらして暮らしていたという。
大国主命が越の奴奈川姫を娶ったことは、神話でおなじみの話だが、
ただ単に訪ねてきて求婚したのではないようだ。
上越の伝承では、出雲から来た大国主命が求婚に際し、
土着の豪族を切り従えた後の求婚だったようであるが、
福来口にしても、一説には奴奈川姫の夫を破って、姫を奪った場所ともいう。
ただのロマンスでは語ることのできない、いわく付きの場所なのだ。

しかし、あろう事か現在の福来口は、すぐ近くまで削り取られていた。
黒姫山は石灰質の山なので、セメント業者によって
無惨な姿になりつつあったのだ。
そういえば、山の麓の工場はセメント工場だった。
そのうち、福来口を望める場所にも、来ることが出来なくなるのだろうか。

        *  *  *   

山を下り、国道8号を北上。
国道8号はずっと海岸線を走るので、すこぶる気持ちが良い。
途中、糸魚川市の魚市場で鮮魚祭がやっていたので
磯焼きのコーナーで昼食。
さすが魚市場だけあって新鮮。しかも量が多く、
一人で食べるのがもったいないくらいだった。
こういうときは、どうしても一人旅の寂しさを感じてしまう。

糸魚川の市街地を抜けると、信号も少なくなり快適そのもの。
左に日本海、右に山並み、雲一つ無い青空が眠気を誘う。
眠気覚まし、というわけではないが、
途中、気になっていた神社に立ち寄った。


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乳母が嶽神社。
祭神は奴奈川姫と八千矛命(大国主命)
ただし、鳥居の神名には加具奴知命(カクツチの誤記か?)とあって、
詳細は不明。
鳥居前には大きく「諏訪社」と書かれた碑があり、
否が応でも奴奈川姫との関係を思い浮かべる。

神社の由来書きには、源義朝の家臣、野宮権丸郎(権九郎?)
が落ち延びてこの地に隠棲したとき、
ここの海で東西から織り交う「四海波」の沖合から霊象を得て
これを祀ったところ、「乳不足の婦人はわれを祈念せよ」
とのお告げがあったという。
以来、この神社は乳不足の婦人に霊験があるという。


ただ、土地の伝承では、
建御名方命の乳母を務めた女性の墳墓とも、
奴奈川姫自身の墳墓とも言われているようだ。

奴奈川姫は、建御名方命を生んだ後、大国主命と仲良く暮らしていたが、
ある日、出雲で大国主命の父(素戔嗚尊)が亡くなったとの知らせが届く。
大国主命は姫を連れ出雲に帰ろうとするが、
出雲に居る他の夫人に会いたくないので、姫は出雲入りを拒んだ。
命は姫が寝ているすきに舟に乗せ就航したが、
能登で気がついた姫は、逃げて国元に帰ってきた。

追っ手から逃れ、各地に伝説を残しつつ、
最終的にたどり着いたのが吉が浦。
景観の良いこの地にしばらく逗留していたが、
そのうちに、子の建御名方命が説得にやってきた。
だが、テコでも動かない母に根負けした息子は、
この地に宮殿を建ててあげ、姫はこの地で天寿を全うしたのだ。


海岸沿いの高台に位置するこの神社。
国道8号から小さな脇道を入ったが、案内もなく探し出すのに苦労した。
集落からも少し離れ、訪れるものも少ないのだろう。
落ち葉が一面に積もっていた。
神社から少し歩くと、木々が途切れ眼下に日本海を見渡せる場所があった。
ちょうど北西に向かって開けている。
姫は海の彼方に去っていった夫を思いつつ、
生涯をこの地で過ごしたのであろうか。


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10月7日

塩の道から少しはずれ、黒姫山の麓、田海に車を走らせた。
田海を流れる田海川は、その上流に奴奈川姫の住居跡伝説を残す、
いわく付きの川である。
その田海川の河口近くで発見された縄文遺跡が、寺地遺跡である。
住宅街の中程にある遺跡公園に行ってみて驚いた。
諏訪大社でおなじみの「御柱」があるではないか!!

いや、正確には4本の柱状の遺構と、
柱をぐるりと囲むストーンサークルの形跡が発掘され、
公園化するにあたって、4本の柱のモニュメントを建てたそうだ。
寺地遺跡は、縄文中期から晩期のヒスイ工房遺跡。
現在は、工房と思われる竪穴式住居の復元建物と、
祭祀場跡と思われる木柱と列石遺構で公園整備されている。
祭祀遺構からは石棒や御物石器、石冠、朱塗櫛、
焼けた人骨などが出土しているようだ。



工房跡で焼けた人骨とは、不思議な話である。
火葬の概念が輸入される以前の話なので、墓地ではないだろう。
墓地なら作業場である工房の近くではなく、居住地に隣接しているはず。
古来、たたらなど炉を使う場所では、
炉の神に人を生贄として捧げることで、火の勢いを保ったそうだ。
これは形式だけではなく、本当に人間の成分が火に有効に作用する、
みたいなデータがあったような気がする。
縄文時代の工房で、既にそのような儀式が行われていたとすると驚きだ。

この4本の柱が、諏訪大明神ともゆかりの深い
糸魚川で発掘されていたとは興味深い。
巨柱遺構自体は、出雲大社や三内丸山遺跡など、
日本海側では幾つかの発掘例があるが、
実際こうして「4本」が四角く並んでいることが、
御柱を連想せずにはいられなかった。

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10月7日

ヒスイ海岸では少しノンビリしすぎたようだ。
気がつくと11時近くになっていた。

実はこの日のルートは、その日の朝まで迷っていた。
姫川を遡り、信濃に抜けるいわゆる塩の道を辿ってゆくか、
海岸線をぶらぶらと上越市まで散策してみるか。
だが、ちょっと起きるのが遅かったのと、
ヒスイ海岸が予想以上に楽しめたことで、
時間のかかる塩の道ルートは断念した。

とはいえ、ヒスイ河岸の駐車場近くには、「塩の道はこっち→」と、
矢印付きの看板まで立っていて、私を誘惑していた。
なんでも、ヒスイ海岸は「西の塩の道」の出発点だそうで、
姫川の東岸から始まる「東の塩の道」とは信州小谷で一本になるようだ。
正式には千国街道というこの街道は、
糸魚川静岡構造線に沿って白馬~穂高~松本と、中信まで街道は続く。
そして諏訪からは中央構造線に沿って浜名湖まで、
いわゆる秋葉街道が塩の道として繋がっている。

信濃と越後の交流の歴史は古く、縄文時代にまで遡ることが出来る。
それを証明する物的証拠が、八ヶ岳山麓の縄文遺跡で出土する姫川のヒスイで、
おそらくそれは塩の道を通って流通していたとされている。
私の日記でおなじみwの建御名方命も、出雲から逃れるときには、
母・奴奈川姫の故郷である越の国から諏訪にたどり着いたとされ、
真偽はさておき、神話形成時代にすでに越~信濃の結びつきは
一般に認識されていたようである。

さて、矢印まで持ち出して道を示されたのだ。
そっちに行かないのは天命に反するというもの(笑)
その方向に車を走らせると、はたして諏訪神社があった。
塩の道に沿って諏訪盆地まで、諏訪神社が沢山あることは
当然予想出来ることだが、ここがその第一歩目だと考えると感慨深い。


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姫川のほとり、黒姫山に連なる山麓の森に、
諏訪神社の鳥居が見える。
住宅地からも離れた場所で、周りには田畑と工場。
工場の向かいの路上に車を停め、諏訪神社の森に入っていった。
鳥居をくぐった参道入り口は薄暗かったが、
奥に行くとパッと空間が開け明るくなった。
木々の葉を透かす日の光に、全身が暖かく包まれるようだ。
気持ちが良い。
よく、霊感のある人の話を聞いていると、
神様に歓迎されているとか、いないとか、という話が出てくるが、
霊感のない私でも、境内の空気で何となく
かの人たちの言っていることが理解できる気がする。
そういう意味で言うと、きっと私は暖かく迎えられたのだろう。
そう思いこむことにした。


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わりと無機質な社殿ではあるが、ゴミ一つ無く綺麗に手入れされている。
神社には珍しい重厚な金属の扉には、
「五本足の梶の葉」の神紋が刻まれていた。

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10月6日

この日は新潟の長岡で仕事だった。
仕事の後は、一気に上越まで移動。
新潟には何度か来ているが、どうしても新潟市方面が多く、
上越は以前から憧れていた土地なのだ。
翌日一日時間が空いたので、思い切って念願の地を目指した。

温泉の都合で、海岸沿いではなく内陸を走る。
が、これは誤算だった。
柏崎付近の県道は、まだ震災から復旧されていない道があり、
ナビの示すままに進むと、途中で引き返すこととなった。
山間の土地なので、迂回路が近くにあるわけでもなく、
かなりの時間のロスだ。
小千谷で蕎麦、柏崎で温泉に入ったこともあり、
日暮れ前に移動を開始して、糸魚川市に着いたのは真夜中になってしまった。

糸魚川では、車中泊とした。
普段は道の駅を利用することが多いのだけど、
この日は折角だから、海岸の公園で車中泊。
新潟の海岸線での野宿はこれで3度目となる。
駐車場の一角を確保して、エンジンを切り、
あらかじめ買っておいたビールを片手に、砂浜へ。
夜空に一面の星が輝き、背後には黒姫山の特徴的な影が、
星の明かりに浮かび上がっていた。
神話時代の姫様にまつわる重要な山である。
次の日は、この黒姫山の周囲を探索することになる。


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翌日。
目を覚ますと、快晴だった。
空が青い。
さっそく浜辺に降り立つ。
延々と続く白浜だ。
所々に釣り人が立っている。
エギでアオリイカを釣り上げていた。
昨夜泊まった場所は、須沢のヒスイ海岸で、
波打ち際をしばらく北に歩くと、姫川の河口に出た。
同じ新潟の川でも、信濃川のような荒れ狂った河口ではなく、
非常に穏やかな流れだった。
長い年月をかけて堆積した土砂が、河口に天然の堤を作り、
そこにも釣り人たちが点在していた。

姫川と言えば、ヒスイ海岸の名でもわかるように、
日本屈指のヒスイの産地である。
縄文時代から古墳時代にかけて、
ヒスイは勾玉などの装飾品に加工され、全国に流通していた。
その頃の遺跡や古墳から出土されるヒスイのほとんどが、
姫川産出のものだという。
ところが、奈良時代にヒスイの利用はぱったり途絶えてしまった。
以降、姫川のヒスイは長い間にすっかり忘れられたのだ。
昭和13年、姫川支流の小滝川で発見された石が、
科学分析でヒスイと認定された。
実にその時まで、遺跡から出土するヒスイは
大陸からの輸入品だと考えられていたのだという。

石好きの私が、それを知ってすることはただ一つ。
ヒスイ拾いである。
ヒスイの産出地としては、黒姫山の南、姫川支流の小滝川と、
黒姫川の西を流れる青海川の上流に硬玉産地と呼ばれる
ヒスイ原石の固まりのような地形があるのだが、
そこのものは天然記念物として、一切持ち出し禁止である。
そこで、ヒスイ収集家たちは、岩肌が削られ流れ着いた先、
または沖に流れて波に削られ浜に打ち上げられたヒスイを
血眼になって探すのだ。
ヒスイ海岸は、まさにヒスイ拾いのメッカなのだ。
ポツポツと立っている釣り人の間に、
下を向いてビニール袋片手にウロウロしている人が居たら、
それは確実にヒスイ収集家なのである。

私も海岸線を往復して探したが、
どうもこれといった石が見当たらない。
地元の収集家は毎日探して歩いているというし、
長い砂浜の波打ち際は全て小石で埋め尽くされているので、
そう簡単に見つかるものではないらしい。

半ば諦めて、テトラポットの山の陰で一休み。
のんびりと横になったり石笛を吹いたりして、さて帰るかな、
と歩き出したときに、見つけました!

はて、これがヒスイなのかは分からないのだけど、
他の石とはかなり違う緑の小石二つ。
あまり人の来ないテトラに囲まれた場所なのが幸いしたのか、
そう離れていない距離に、二つの小石を発見した。

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まぁ、似たような違う石もあるみたいだし、
そう簡単に見つかるものでもないみたいなので、
これがヒスイなのかどうかは何ともいえないが、
この石を手みやげに、家で勾玉でも作ってみることにした。
こうやって我が家にはどんどん石が増えていくのだ(笑)

続く



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