2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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遅ればせながら、わが江戸屋敷の鎮守さまのところへ、
新年の挨拶に出向いた。

二年参りは葛井神社、家族での初詣は諏訪大社と、
初詣はすっかり済ませていたのだが、
やっぱり現住所の鎮守さまのところにも行かないと、
なんだか申し訳ない気がする。

妻と連れだって、歩いて10分程度のところにある、
町の名前を冠した神社にたどり着いた。

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なんと、ここも諏訪神社だったりする(笑)
どんだけ~?と突っ込まれそうだ。


普段は車で通りすぎる際に一礼する程度で、
昼間にじっくり訪問するのは久しぶりだ。
だが、実はとても古い由緒を持つ神社だったりもする。

御祭神は、建御名方命 
そして 五十猛命・日本武尊・大日靈尊(おおひるめ)・保食神

建御名方命は当然として、その他の神々は、
杉山神社・大陸天神社・神明社・稲荷社を合祀したことによる。


創建の由来は、天正十八年(1590)信濃の豪族諏訪安芸守源頼忠の末孫、
諏訪左近頼久なるものが、主家北条左近大夫氏直の許を離れ、
この地に来たり慶長年中深く崇拝する信州諏訪大社の大神の分霊を受け、
守護神としてここに勧請せり、とある。

実に、400年以上の歴史を持つ神社なのだ。
諏訪氏は現在、小黒氏となってこの地に続いている。(というかウチの大家さん)
何故諏訪氏が北條方に?と疑問を抱き、諏訪氏の系図を紐解くと、
確かに諏訪頼忠も頼久も存在するのだが、ちょっと経緯が違うようだ。
諏訪頼忠は、諏訪総領家(武田氏に断絶させられた諏訪本家=由布姫の父上)
亡き後の諏訪のNO1で、信玄公の許で諏訪大社大祝をつとめた人物。
武田家滅亡後は一時期北條と手を組み、徳川と対立したがやがて和睦。
天正十八年には、徳川軍として、北条攻めに加わっている。
その功あって、武蔵の国に所領を貰っているので、
この地にゆかりがあってもおかしくはないのだが…

諏訪頼忠は、北條滅亡後に武州奈良梨に所領を得た。
奈良梨とは現在の埼玉県比企郡小川町あたり。
その翌年、上州那波郡惣社に転封され、惣社藩初代藩主となる。
関ヶ原合戦後の功績で、父祖の地諏訪に所領を与えられた後は、
息子諏訪頼水が初代諏訪高島藩主となり、その息子は忠恒。
忠恒の三男にやっと頼久が登場する。
が、その誕生は1640年以降なのだ。

一方、有名人である諏訪頼忠の系譜にこだわらなければ、
北條五代に仕えた諏訪一族の存在が浮かび上がってくる。
どうも、北條氏から所領を預かっていた諏訪氏が、
関東の各地に点在しているようだ。

『新編武蔵風土記稿』によると、
・入間郡寺尾村に諏訪馬之助が居城(北条役帳)
・橘樹郡西寺尾村に、白幡神社を城主諏訪が勧請(建功寺の旧記)
・秩父郡寺尾村にも諏訪の旧跡
と、諏訪氏に関連する記述のある書物が複数見られ、
そのいずれにも寺尾を領したと書かれているので、話がややこしい。
http://www.city.yokohama.jp/me/tsurumi/history/08-2.html
実際、北条早雲の旗揚げ時に馳せ参じた諏訪某がいて、
その子孫の右馬之助は、武勇に秀でた人物で軍記物にも
しばしば登場するようだ。

また風土記稿には、小田原落城の際、
家臣の諏訪左近頼久が小机領寺尾村小黒に逃れ、
その後の多摩川沿いの稲毛の地を開き、
屋号を村名にしたと記録されている。

まとめると、諏訪頼忠の曾孫ではなく、
北條一門の諏訪左近頼久?が小田原落城時にこの地に落ち延び、
小黒なる地が諏訪と呼ばれるようになった。
ということらしい。



それはともかくとして、自分の町の鎮守様に参るというのは良いものです。
なんの縁もゆかりもない明治神宮の人混みにこねくりかえされるよりも、
とても有意義なことだと思うのです。

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大晦日~元日

この正月も、妻の実家である諏訪で過ごすことにした。
大晦日の夜、紅白も終わりに近づいた頃、
単身、雪の降る中を自転車に跨がり、茅野の葛井神社に向かった。
諏訪では二年参りが当たり前らしい。
二年参りとは、大晦日の夜に神社に参り、そのまま年を越すことで、
そのためか、諏訪では大晦日の晩から神社の境内がにぎわう。
私の生国では、大晦日はお寺で除夜の鐘というのが基本だったので、
これには少し戸惑った。
本当は除夜の鐘も鳴らしているのかもしれないが、
雪道をひた走る私の耳に届いたのは、鐘の音ではなく花火の音だ。
諏訪の人たちは、大晦日の夜には花火を打ち上げる。
煩悩の数だけ打ち上げるかどうかは分からないが、
とにかく午前0時に向けて、花火を打ち上げる音がこだまする。

葛井神社は、茅野といっても北にあるので、妻に実家からは割と近い。
ものの15分ほどで神社に着いた。

境内には葛井の池があり、池がご神体とされている。
岸には、池を隔てて守屋山の方向を拝む形で社殿が建っており、
その前に参拝者たちが集まっている。
殿上では既に宮司が背を正し、神事が始まろうとしていた。

一連の進行のあと、宮司が社殿の外に向かった。
御手幣送りを行うので、葛井の池に一同集まるように呼びかける。
”御手幣送り”とは、その年一年の上社で使った幣帛・榊などを、
大晦日の深夜にく葛井の池に投げ入れることを言う。
古い資料では、寅の刻(午前4時)に前宮御室の御燈を合図に葛井の池に投げ込むと、
卯の刻(午前6時)に遠州のさなぎの池に浮かび上がるとされているようだ。
今は午前0時に投げ込むようになっているが、いつの頃かにかわったのだろうか。
ちなみに、さなぎの池とは御前崎市の桜ヶ池だとされていて、
あちらには秋の中日のおひつ祭りで池に沈めたおひつが、
諏訪湖に浮かび上がるなどという伝説が語り継がれている。
http://miyokame.blog82.fc2.com/blog-entry-82.html

この日は天気のためか、案外参拝者は少なかったので、
良い位置を確保できた。
池の手前にしめ縄が張られ、そこを中心に四方からライトアップされていた。
一同が見守る中、宮司が祝詞を奏上する。

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冷気が肌を刺す。
御手幣を投げ入れるのを、まだかまだかと待ちわびる。
地元のアマチュアカメラマンは案外冷静で、
時計を見ながらまだ数分ある、なんて言っている。
今では前宮の御燈は見えないけれど、
時計に合わせて正確な時間に投げ入れるのか。

そして時は来た。

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紙の包みを、ぽーんと放り投げて池に投げ入れる。
御手幣が池に着水する直前、カメラの電池が切れた。
低温による電圧降下だ。バッテリーゲージの点滅を
はらはらしながら身構えていただけに、
着水する直前のカットがうまく撮れていたのでホッとした。

私のドキドキとは裏腹に、神事はあっさりと終わった。
ただ投げ入れて終わりだったようだ。

神職たちは社殿に戻り、歳旦祭へと神事は進む。
殿上で一連の神事が行われ、参拝客達も皆社殿前へ集まった。
私も衆に交わり冷え切った体を焚き火で温めながら、
新年のお祭りを眺めていた。

ふと、池の方を見た。
逆光に照らされ不思議な色彩に輝く池から、
冷気が霧となって立ちこめている。
しめ縄の向こうはまるで異空間だ。
ハッと気がつきカメラを取りだそうとした時、
池を照らすライトが消されてしまった。


本当に葛井の池が桜が池と繋がっているとは思わないが、
もし、あの時見た池の輝きが、次元の歪みか何かだったら…
なんて考えると、胸の中でどんどん想像がふくらんでいく。
今も脳裏に焼き付いているあの光景は、
龍神様からのちょっとしたお年玉だったのではないか、
と新年早々妄想している私であった。



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