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2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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意宇六社参りの最後の一社、熊野大社にたどり着いたのは、
日もすっかり落ちてしまった午後6時過ぎだった。

八重垣神社から神魂神社の方へ戻り、国道432号を南下、
神納峠なるいかにもな名前の峠を過ぎて、県道53号へ。
意宇川沿いにしばらく進むと、熊野大社が見えてくる。
意宇川の水源地である天狗山(熊野山)の麓に鎮座するこの社は、
意宇一帯を治めた氏族の氏神として、古くから崇められていた。
出雲大社と共に、出雲国一之宮。
杵築大社(出雲大社)の創建までは、ここが出雲の権威だったのだ。
祭神は神祖熊野大神櫛御気野命、またの名を素戔嗚尊と伝わっている。
櫛御気野命(クシミケヌ)=奇(くし)+御食(みけ)で、
食物の神ということだ。
紀伊の熊野三山は、ここから勧請されたという説と、全くの別神という説がある。
ちなみにクマは古語で「神」を意味するので、熊野=神野 ということだ。

意宇川はあまり大きな川ではないが、この流れが出雲神話、
さらには日本神話の世界を育んだと思うと感慨深い。
辺りはすでに薄暗く、ひっそりと静まりかえった川面に、
熊野大社に続く朱色の橋が映えていた。


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境内に足を踏み入れると、まず目に飛び込んできたのが随神門の大きな注連縄。
広い斎庭が広がり、その先に大きな拝殿と大社造りの本殿が見える。
本殿の下手には伊邪那美神社。これも大社造りの大きな社だ。
上手には稲田神社。こちらは小さな社。
大社造りは、大抵両隣に小さな社を持っているが、
左右の社にまで拝殿がある、というのは熊野大社だけだった。

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まさかもう社務所には誰もいないだろうと思っていたが、
覗いてみると、神職の方が私服で帰り支度をしていたので、
無理を言って御朱印を頂いた。まさにギリギリセーフ。


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社務所の隣には、鑽火殿。
茅葺きのこじんまりとした、とても品の良い建物だ。
神魂神社の日記に書いた、国造の就職儀式である火継式を行うのが、この鑽火殿。
火継式の手順は以下の通り。

前国造が御帰幽された夜、御杖代彦(みつえしろひこ)と呼ばれる時期国造は、
出雲大社の斎館に入り、潔斎する。
翌朝、千家國造館の「お火所」にて、口伝の神々を招祭、礼拝し、
燧臼・燧杵を使って火を熾し、真名井の井戸から汲まれた水を使って御飯炊き、
それを神々と相嘗する。
これが第一儀。

お火所での儀式を終えた後、熊野大社にて第二儀。
熊野大神より新しい燧臼・燧杵を賜った後、鑽火殿にて火を熾し、
真名井神社の清水を使って炊かれた御飯を神前に供える。
次に、真名井の小石2個を噛む「歯固めの儀」を行い、
出雲大社の「お火所」で相嘗した御飯で醸造された
醴酒(ひとよざけ)を頂き、榊の小枝を持って神舞を舞う。
その後、伊邪那美社・火置社(ひおきしゃ)を拝礼し、
燧臼・燧杵を火置社に納め、神魂神社へ移動。

そこからは以前の日記に書いたように、神魂神社で相撲を見て饗応、
出雲大社に戻って数カ所に参拝し、火継式は終わるのだ。


つまり出雲国造は、その祖神である熊野大神に火を継ぐための神宝を与えられ、
晴れて後を継ぐことができるのだ。
朝廷介入後に創建された出雲大社ではなく、
あくまで熊野大社が本家とするところに、
国譲り神話の一方の主人公の本音を垣間見ることができる気がする。


一通りの参拝を終えると、神職の方が拝殿の扉を閉め始めた。
私の参拝が終わるのを待っていてくれたようだ。感謝。
さすがに辺りは薄暗く、夜の気配が立ちこめてきていた。
熊野大社の上社跡地や、天狗山の磐座など、
見てみたい場所はまだまだあるのだが、今回はこれで終了。
意宇六社を全て参ることができただけでも良しとしよう。

私は夜道を松江に戻った。
意外と元気なもので、夜遅くまで松江の町をほっつき歩き、
水郷の夜景を十二分に堪能したのだった。
宍道湖畔では、何組みもの家族連れが懐中電灯で水面を照らし、
網を片手に海老すくいをしていたのが印象的だった。
子供たちは海老すくいを楽しみ、
お父ちゃんたちはそれを唐揚げにして酒を楽しむそうだ。
あぁ、なんて豊かな土地なんだろう。

こうして松江の夜は更けていった。
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『八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を』

神魂神社の西、山ひとつ向こうには有名な八重垣神社が鎮座している。
八岐大蛇を退治した素盞嗚尊が、当地に宮造りして稲田姫命と夫婦となった、
という故事から、縁結びの神として崇敬されている。
wikiによると、「須賀(雲南市大東町須賀)の地(須我神社)に創建され、
後に、青幡佐久佐日古命が祀られる佐久佐神社の境内に遷座した」のだそうだ。

八重垣神社についた時は、すでに17時近くなっていたのだが、
駐車場にはまだまだ車が停まっていて、
さらに私の後からも参拝客がやって来ていた。
一の鳥居の前に回ってみると、横のバス停では若い女性客が
大勢バスを待っていた。ずいぶん賑やかな神社だ。


鳥居をくぐるとすぐに随神門。

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なんだこりゃ?

そして随神門をくぐるとすぐに社殿の正面に出た。
小さな境内だが、綺麗に整備されていて、狭さを感じさせない。
そして、周りの木々に結ばれたおみくじの数が、参拝者の多さを知ることができた。

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参拝を済ませ、右隣の社務所で御朱印を頂く。
今回の意宇六社参りでは、できる限り御朱印を頂こうと思っていたので、
遅い時間にもかかわらず、こころよく引き受けてくれて嬉しかった。
この神社では、重文の板絵を有料公開しているが、
さすがにこちらは見せてもらうことは辞めておいた。

社殿の左隣には、奥社と鏡の池に通じる道が続いている。
実は、この鏡の池が女性たちの人気スポットになっているのだ。
が、その道に入る手前には、山神神社が…

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なんとも分かりやすい素晴らしいお社だ。
社の下の筒状になった切り株の中には、
これまた小さい男根木像がぎっしりと詰め込まれている。

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そして、道の向かいにも…
前の日記のくびれ石造物も木の根本だったが、
ここでもやはり木の根本に祀られていた。

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こういうのって、民俗に興味のない乙女たちは驚くんだろうな…


さて、奥へと続く道は一度境内を抜け、結婚式場(^_^;)の横を通り過ぎ、
深い森へと続いていった。
薄暗い森の道は、そう長くはなく、すぐに「鏡の池」へたどり着いた。

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この池は、稲田姫命が八岐大蛇から身を隠した際に、
その御姿を写して美容調整された池で、別名を姿見の池という。
稲田姫命の御霊魂が底深く滲透していることから、
縁結び占いの池として信仰されているのだそうだ。

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社殿で売っていた占い用紙に百円か十円硬貨を乗せ浮かべてお祈りする。
用紙が早く沈む(15分以内)と良縁が早く、
遅く沈むと(30分以上)縁が遅いといわれ、
また、近くで沈むと身近な人と、遠くで沈むと遠方の人と結ばれるという。

遅く沈む判断基準が30分以上だなんて、親切な設定だ。
そんなにも長持ちはしないだろう、
と思っていたが、ずっと沈まずに立ち尽くしている女性がいたり…

私はさすがに占いはしなかった。
というよりも、狭い空間に女性ばっかりで、私の存在自体が浮いてしまっていた…
沈まない占い用紙の結末が気になりつつも、その場を退散した。

出雲を旅している間、時々とても気になるものを見つけたが、
神魂神社でもまた、見つけてしまった。

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前回の日記の写真を見てもらうと、ヒモロギの隣に立木が写っているのだが、
その根元に、このような真ん中にくびれのついた石が3つ。
後ろの小さな石碑には、地主神と読める気がする。


このような石は、揖屋神社でも見かけた。
やはり木の根本にちょこんと置いてあった。

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また、六所神社では、くびれはついていないが、
同じように木の根本に祀られている例も。
こちらはなんと、荒神幣に囲まれている。

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以前、長野や山梨で見た「くびれ型石棒」と似ている。
ずっと気にかけていたのが、まさか出雲で見かけるとは思ってもみなかった。

出雲との決定的な違いは、それが祠に祀られているか、
木の根本に「ごく自然」に置かれているかである。
諏訪のミシャグチ降ろしの儀式などは、
神が木を伝ってその下の石に降臨する、とされているので、
木の根本に石があると、ハッとする。
場所は違えども、古代人の宗教的価値観に沿ったものかもしれない。

もしくは、出雲では荒神さまが木に巻き付いたりと、
「木」になにかを関わらせることに、価値を置いているのかもしれない。
荒神さまの例をあげると、藁蛇は荒神さまに献げる奉納なので、
荒神さまは、「木」もしくは「木に降臨する存在」なのだと思う。
ということは、この石も、「木or降臨物」に対する奉納なのだろうか?

神奈川(相模地区)にもこれと同じような形の石があるようだけど、
はたして、他の土地にもこのような石があるのだろうか?


5月17日 夕方

真名井神社を出た時点で、もうすでに時間は16時になっていた。
まだ意宇六社のうち半分しかまわっていない。
急いで車を発進させ、真名井神社の前を通る道を西へ。
すぐに国道432号と交わるので、国道を南に折れた。
しばらく行くと、風土記の丘が見えてきた。
風土記の丘にも寄ってみたかったが、今回のテーマは神社なので、
泣く泣くそこを通り過ぎて、神魂(カモス)神社へ。

神魂神社の駐車場に車を停め、ほっと一息。
駐車場は車が沢山停まっていて、まだまだ観光客が居るようだった。
そして、小高い丘の中腹にある境内へ。

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鬱蒼とした木々に挟まれた石段を登り切ると、
いきなり本殿が目の前に。
1583年改修の記録が残る本殿は、最古の大社造りで、国宝に指定されている。
なんと400年以上、このままの姿でここに建っているということだ。
出雲大社のような派手さはないが、他を圧倒する存在感を放っていた。

神の魂と書いてカモスと読むのは、
神の坐(いま)す所→カンマス→カモス とも、
イザナミ(とイザナギ)を祀ることから、神ムスビ→カモス 
など諸説あるが、はっきりとしたことは分からないようだ。

神魂神社は意宇地方と拠点とする出雲国造(出雲臣)にとって、
熊野大社と並ぶほど重要な神社なのだが、
延喜式神名帳には記載されて無く、それゆえ、出雲臣の私的な神社だったとも、
実は創建は延喜式以降、だとも言われている。
社伝では、斉明天皇の勅令により出雲大社が創建されるまで、
天穂日命の子孫が出雲国造として25代まで当社に奉仕したとされ、
いわば、出雲国造の本貫の地といって差し支えない。
国造の就職儀式、火継式では、熊野大社での神事の後、神魂神社へ参拝、
力士から酌を受け、その力士の神事相撲3番を見学する。
その後、国造は出雲大社に向かい、そこでの神事によって、
国造継承の儀式は完了するのだ。


神魂神社は、イザナミを祀る点で、イザナギを祀る真名井神社と対になっているが、
それとは別に、出雲大社と対になっているとされている。
出雲大社の本殿の男造りに対して女造り。
祭神は、出雲大社は西を向いているのに対し、東を向いているという。
そして、どちらの天井にも八雲の図が書いてある。
出雲大社のものは、八雲の図なのに実際書かれている雲は七つで、
理由は謎とされている。
このことは今回の本殿公開に先立つ報道で、
散々語られていたので記憶に残っている人もいるかもしれない。
だが、神魂神社には、なんと雲が九つ書かれているというのだ。
こちらは本殿公開はされていないので実際の絵は見られないが、
社務所で購入した絵はがきをみると、
確かに出雲大社の雲と同じようなタッチで、雲が描かれているのが分かる。
雲がひとつ、出雲大社から飛んできた、なんて風雅な言い方もできるが、
あきらかになんらかの意図をもって描かれているのは明白だ。
朝廷の命令で建てることになった出雲大社から、雲ひとつ取り上げた。
それは、まじないであったか、ただの意地であったかは分からないが。

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神魂神社境内の下手側に、幾つか社が並んでて、
その中に気になるものがあった。

いかにも曰くありげな横穴と、その前には神の依り代である神籠(ヒモロギ)。
横穴に入ってみると、深さは3mほど、
穴の奥は人が一人なんとか座って居られる程度の穴だ。
社務所で巫女さんに聞いてみると、「ただの防空壕です。」と一言。
そんなことは無いでしょう?と返しても、防空壕の一点張り。
あまり愛想の良い人ではなかったので、それ以上訊くのは辞めておいた。

ヒモロギは、古式なんとか神事で使用されたもの。
あの調子なので詳細は訊けなかったが、
根本に藁蛇が絡みついていたことと、右隣が荒神社なので、
荒神さまに纏わる神事だったのかもしれない。


さて、神魂神社にはこのような由緒がある。
垂仁天皇は、出雲国造十三代の孫、野見宿祢(ノミノスクネ)が
怪力であることを御聞きになり、
当時大和で日本一の大力と豪語する當麻蹴速(タイマノケハヤ)と
角力させんと勅使を当大庭に遣はされ、宿祢に伝えさせ給う。
 爾来宿祢は当社に参籠、必勝を祈る内に、神夢に依って、
裏山へ奇岩、怪石を累々と集めて力試をし、天磐座大神を祀り、
信仰によって自信を深め遂に蹴速を倒して、天皇の親任を得、
当時殉死の弊風があったのを改めて埴土に替える様になったと伝えられる。

また、最後の一行については、日本書紀にこうある。
垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命が亡くなった。
それまで垂仁天皇は、古墳に生きた人を埋める殉死を禁止していた為、
群臣にその葬儀をいかにするかを相談したところ、
野見宿祢が土部100人を出雲から呼び寄せ、人や馬など、
いろんな形をした埴輪を造らせ、それを生きた人のかわりに埋めることを
天皇に奏上し天皇はこれを非常に喜び、
その功績を称えて「土師」の姓を野見宿祢に与えたとある。

野見宿祢は土師氏の祖とされる人物で、
土師氏は古墳造営や葬送儀礼に関わった氏族。
意宇群がヤマトから「黄泉の国」と呼ばれたことと、
土師氏の祖が意宇群から出ていることは、なにか関係があるのかもしれない。

それはともかく、神魂神社の裏山には、今でも磐座が残っているという。
境内を下手に進み、禊ぎ場らしき湧き水を通り過ぎると、
私立高校の敷地に入る。
敷地内に入るのは気が引けたが、野球の試合をやっていて、
観客が大勢いたので、それに紛れて入らせてもらった。
(この日記は掲載許可をもらっていますが、見学される方は迷惑をかけないように!)

グラウンドの近くに、森を背にした鳥居があり、
出雲神社、と扁額に書いてある。
そこから少し入ったところに、質素な拝殿があり、
そのすぐ後ろに岩が、まさに累々と積まれていた。

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拝殿はあれども、聖域を仕切られているわけではないので、
岩の山に登ってみた。

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前から

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横から

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後ろから

この他にも、奥の磐座なる場所もあるようなのだが、
スズメバチが飛び回っていたので、これ以上の探索は諦めた。
帰り際、試合を終えた高校球児の一団が、
元気な声で「ありがとうございました!」と挨拶してきた。
こちらは、感謝されるようなことは何もしてないのだけどね…(^_^;)
私は曖昧な笑顔で返したのだった。

5月17日 夕方

偶然ながら六所神社に立ち寄った以上、
その近くに鎮座する真名井神社にも参らないわけにはいかない。
時間が足りずに諦めようとしていた「意宇六社参り」への意欲が
再びふつふつと湧いてきた。

六所神社から意宇川にそって西に向かうと、
すぐに神奈備山である茶臼山が右手に見えた。
『出雲国風土記』に、宍道湖を囲む4つの神奈備山
(茶臼山・仏経山・大船山・朝日山)のひとつとして記されているように、
古くから信仰されている山である。
この山を背負う形で、真名井神社が鎮座しているはずだ。
田圃に囲まれた道を北に曲がると、すぐに鳥居が見えてきた。
小さな駐車場にはすでに車が停まっていて、どうやら先客がいるようだった。

鳥居からは急な石段が続く。
真名井神社は茶臼山の中腹にあるのだ。

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上から若い女性二人組が降りてきたので、先ほどのレンタカーの主なのだろう。
この二人組は、この先の八重垣神社でも見かけたので、
縁結びの祈願に来ていたのだろう。

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急な石段を登り切ると、開けた場所に真名井神社の社殿があった。
大社造りの本殿は規模こそは小さいが、どこか凛々しい風格を感じさせる。
祭神は伊弉諾尊(イザナギ)と天津彦根命(アマツヒコネ)、
伊弉冉尊(イザナミ)を祀る神魂神社と対になっている。
アマツヒコネはこの地の豪族、山代直の祖神として祀られているようだ。

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真名井神社の名の由来は、真名(素晴らしい)井(水)とのことで、
今回は見なかったが、神社の東には真名井の滝があるそうだ。
出雲国造の襲職の儀式、「火継式(神火相続式)」では、
熊野大社で神宝、燧臼・燧杵で起こした神火と、
真名井の滝にて汲まれた神水を使って御飯を焚き、
新しい国造と神々が相嘗(あいなめ:共に食すこと)する。
そして真名井から取られたふたつの小石を噛む「歯固めの儀」、
相嘗と同じ御飯で作られた醴酒(ひとよざけ)を飲む儀式を経て、
祖神天穂日命の御霊威を継ぎ、大国主大神に仕える身となるのだそうだ。
火と水の合体こそが、出雲の神性の神髄なのだろう。

真名井神社からは、出雲の中心だった土地が一望できた。
かつての繁栄の土地も、いまはのどかな田園風景が広がるばかりだった。

六所神社で見かけた藁蛇。

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境内の御神木に絡みついている。
小さいけれども、数が多い。
こちらは揖屋神社のように台座に載っているわけではないが、
頭の前にはちいさなアーチ型の台が用意されていた。
周りには小さな御幣が土に刺さっている。
この神社では、小さな御幣(荒神幣)がやたらと刺さっていた。
それも藁蛇の周りに限らず、何の変哲もない小石の周りなどにも刺してあった。

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どうもこの藁蛇、正確には荒神様への奉納物で、
藁大蛇とか、クチナワさんだとか呼ばれているらしい。
稲作に関連する水神を表現し、荒神幣は小分けにされ、
御神木のほか、井戸や水道にも祀られるという。

また、一部ではアラハバキとも呼ばれているらしいことも分かった。
アラハバキというと、これがまた謎に包まれた神とされ、
神話から消された神だとか、古代アラハバキ族の神だとか、
色々な説があるが、どれも空想の域を出ない。
民俗に見られるアラハバキは、この日記でも幾つか紹介してきたが、
それは巨石であったり足腰の神やイボ神だったりすることが多く、
藁蛇の形をしたものは、ここ出雲・伯耆地方だけの特徴のようだ。
アラハバキの「ハバ」は蛇の古語で、アラハバキは蛇神だとする説があるが、
なるほど、出雲のアラハバキはまさにそのまま蛇なのだ。

巷ではアラハバキは東北の神という認識が強いみたいだが、
アラハバキを祀る神社のリストを見ると、
出雲と伊予と三河と武蔵と陸奥に集中分布していることが分かる。
http://kamnavi.jp/jm/arahaba.htm
特にその中でも出雲と武蔵の多さは抜きんでている。
武蔵といえば、揖屋神社の日記でも触れた藁蛇の集中する土地である。
武蔵でこの藁蛇をアラハバキと呼んでいる話は聞いたことがなく、
多くは氷川神社などの「門客神」をアラハバキとしているようだ。
だが、国造の出自や出雲系の神社など、出雲と接点の多い地域だけに、
どこかで藁蛇の習俗とアラハバキが分離して残ったような気がしなくもない。

雲伯地方で藁蛇を木に巻き付ける習俗は、
実際は伯耆国、現在で言う安来・米子・境港に多いようで、
隣接する東出雲町もその影響を受けて、藁蛇を奉納しているのだろう。
伯耆国の古名・伯岐(はばき)国ともなにか関係があるのだろうか。
http://www.z-tic.or.jp/p/museum/digital/eizoudemiru/aki/

これが出雲の西、石見になると、神楽に藁蛇が大元神の御神体として登場する。
この藁蛇は託綱(タクツナ)と呼ばれ、神楽の終盤、綱貫~御綱祭で登場する。
託綱の名からも伺えるが、かつてはこの神楽で大元神を神降ろしし、
託宣を行っていたようだ。
この託綱も、神楽の翌日には御神木に巻き付けられる。
http://movie.pref.shimane.jp/culture/kagura.html

出雲・伯耆・石見で荒神様(三宝荒神といえば竈神)とくれば、
製鉄やタタラと結びつけたくなるし、結びつけば、
その他の地方のアラハバキも説明が付きやすくなるのだが、
いかんせん、タタラの中心地ハバキの国の荒神様が
水神だと伝わっていると、どうも辻褄が合わなくなってしまう。
そもそも出雲で蛇神というと、それは海の向こうからやってくるものだ。
旧暦十月、世間では神無月と呼ばれるこの月を、
出雲(と諏訪)では神在月と呼ぶことは有名だが、
なぜ十月に神が集まるか、ということはあまり知られていない。
毎年この月のころになると、出雲の海は激しく荒れる。
これを「お忌みさん荒れ」といって、人々は龍蛇様の到来を待つのだ。
龍蛇様とはセグロウミヘビのことで、灯火に寄り集まる黄金色の身体を、
出雲の人々は神と崇め、この頃を神の寄り集まる月「神在月」とした。
現在でも島根半島に鎮座する佐太神社では、
神在祭にて龍蛇様を御神体として迎え入れる神事が伝わっている。
(神在祭の期間中は、一般参拝者のために社前に安置されている
 とのことなので、いずれ拝見してみたいものだ。)


さて、山の鉱業や火の属性を起源に持つ三宝荒神と、
里にて稲作や水の属性を持つ荒神様。
果たしてアラハバキはそれを繋げるキーワードに成り得るのか、
興味は尽きるところを知らない。

5月17日 午後

揖屋神社から、再び西に進路を取った。
松江の目的は、意宇(オウ)六社巡り。
揖屋は松江でも東の果てなので、ここからは意宇川に沿って西に向かうのだ。
が、道が渋滞していた。
黄泉比良坂を出た時点で、もう時刻は15時をまわっていた。
実は、意宇六社のうち、場所を明確に調べていたのは、
揖夜、神魂、八重垣、熊野、の観光名所としても有名な神社。
他の2つ、真名井、六所神社は、だいたいの場所しか分かっていなかった。
正直なところあまり見所のなさそうな神社なので、
現地で神社を探すのは、痛いタイムロスになる可能性もある。

ということで、真名井、六所神社はスパッと諦めてることにした。
国道9号の渋滞は、松江バイパスに入る道が原因だった。
松江バイパスに入りさえすれば、次の目的地である神魂神社まで、
大きく分かりやすい道が続いている。
だが、渋滞。
クセで、ついつい脇道に入ってしまった。
農村風景が続いているから、道は繋がっているだろう、との考えだ。
だが、入った脇道は分かりにくく、少し迷ってしまった。
とりあえず進んでいると、なんと意宇川に出た。
ここを進むと、そのうち神魂神社にたどり着くだろう。
そう考えて、川沿いの道を進む。

しばらく行くと、畑の向こうに鳥居が見えた。
もしやと思い農道に入っていく。
案内板も由緒書きも無く、神社名が分からないが、
場所的にここが六所神社だとピンと来た。

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境内は狭く、鳥居から覗くと社殿が近くに見える。
ここが、かつての出雲国庁に併設した神社だったとは、とても想像できない。
六所神社とは、出雲惣社として六柱の神を祀ったとも、
または、本来は「禄所」で国内の神社の管理・統括をする場所とも言われている。
ちなみに六柱の神とは、
伊邪那岐命、天照皇大神、月夜見命、伊邪那美命、素盞鳴尊命、大己貴命。
いかにも朝廷から来た国司の管轄らしい組み合わせだ。

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社殿の中の様子。
祭壇の奥の急峻な階段は、大社造りの本殿の階段で出雲らしいが、
おそらく意宇六社で一番こじんまりとした社殿ではなかろうか。

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社殿の前には、ちゃんと六所神社の額が掛かっていた。
板にそのまま書いたような粗末な額だ。
お世辞にも達筆とは言えない字…
やはり、出雲人にとって、大和朝廷に屈したことは、
今も忘れられない汚点なのだろうか。
それがこの朝廷主導の施設の扱いに顕れている気がするなぁ。







※以下はひたすら長いので、興味のある人だけどうぞ(^_^;)

702年、この地に大和朝廷から出雲初の国司がやって来た。
正五位下忌部宿禰子首(いんべのすくねおびと)。
壬申の乱では大伴吹負に従って古京を守り抜き、
天武天皇の元で帝紀・上古諸事の記定にあたり、
伊勢神宮の奉幣使もつとめた、文武両道の大ベテランだ。
いまだ強大な出雲国を治めるには、
それほどの人物でないと勤まらなかったようである。

国司就任により、それまでの出雲国造は力を失った。
出雲国造は、その当時にはすでに出雲臣と名乗り、
その後、現在に至るまで出雲国造家として延々と続いているが、
元々は意宇地方を支配するオウ氏であった。
国造とは国司の前段階の地方長官で、各地方の首長を率いていた。
ところが、朝廷から国司が来たことによって、
オウ氏=出雲国造は地方長官という立場を失い、
他の首長たちと地位が横並びになってしまったのだ。
とはいえ、大和朝廷にとっては最後の強敵であった出雲、
国司の人選には慎重に慎重を重ねたのだろう。


そもそも、古代出雲は一枚板ではない。
弥生時代中期、出雲東部の意宇川流域に農耕集落が発生し、
首長(オウ氏)をはじめ、幾つかのムラが発生した。
一方、弥生時代後期、出雲西部の神門(カンド:神戸とも)川~斐伊川流域には、
カンド氏を中心に、幾つかのムラが出来ていった。
意宇川流域ではオウ氏が勢力をつけ、クマノ神を掲げるクニが生まれる。
一方で神門川流域では、カンド氏がキツキ神を掲げるクニを作り上げた。
だが、神門川流域はそのころ、吉備からの侵入を受ける。
弥生時代末期~古墳時代初期の吉備は、大和と同盟関係にあった。
強大な同盟を背景に、吉備から神門川を伝って、
(今の広島県三次市から国道184号沿いに)出雲への侵入をはじめた。
そして支配下に治めたのが、神門川中流の小さな盆地、須佐の地である。
須佐を落とした吉備軍は、神門川をさらに遡り、カンド氏を屈服させた。
ここに、出雲西部は大和朝廷に降ったのだった。
須佐を屈服させ、須佐の男たちを先兵として出雲西部を征服した歴史は、
大和朝廷に伝わると、スサノオ神話の土台となった。
出雲の山奥の小さな集落でしかない須佐が、
後に出雲を代表する神と伝えられることとなったのである。

だが、吉備の出雲西部支配は、そう長くは続かなかった。
大和朝廷が急激に力を伸ばしてきた5世紀末、
吉備と大和の関係は緊迫したものとなっていた。
対大和に力の重点を傾けると、必然的に出雲の支配力は弱くなる。
その隙に乗じて、出雲東部で力を蓄えていたオウ氏は、
出雲西部を着実に切り取っていったのだ。
これから先は、オウ氏の全盛期になる。
出雲全土をほぼ掌握したオウ氏は、氏族の神クマノ神の上に、
出雲全土の頂点に立つべき神、カモス神を生み出した。
それが今の神魂神社である。
神魂神社を頂点として、熊野神社、杵築神社(現出雲大社)、佐田神社、能義神社と、
各地の有力首長の祭祀を組み込みながら、出雲神話を造っていったのである。
また、出雲国引き神話に見られるように、国外にも影響を与えていった。
コシ国から引いてきた土地は美保関になり、
新羅から引いてきた土地が日御碕になる、といった神話は、
当時の出雲の外交関係が背景になっていると考えられる。

だが、オウ氏の出雲支配も長くは続かなかった。
6世紀になると、吉備を滅ばした大和朝廷が出雲に侵入を開始してきた。
まずは物部氏。
物部氏は、但馬から海路による侵入を試みた。
出雲西部、斐伊川下流、美談に県を置いたことが記録として残っている。
そして、次の段階は蘇我氏。
これは、かつての吉備からの侵入経路をなぞったようで、
かつてのカンド氏の領土を切り取った。
その形跡は、須佐の地を流れる素鵝(ソガ)川、
カンド氏の祀っていたキツキ神(現出雲大社)の本殿の真後ろにある、
素鵞(ソガ)神社などは、その名残だと言われている。

また、出雲の東に位置する伯耆・因幡も、古墳の分布によると、
当時すでに大和朝廷の支配下に置かれていたようだ。
こうして、東西を大和朝廷に挟まれた最後の大国・出雲は、
戦わずして生き残る道を選んだ。
これが、大国主の「国ゆずり」である。
一時は出雲全土を支配したオウ氏は、出雲”臣”という
朝廷の決めた姓を名乗り、出雲国造の地位のもと、
朝廷の下で出雲国の管理をした。
まだこの段階では、出雲臣(オウ氏)の下に、
他の首長が従う支配体制は温存されていたが、
国司の赴任によって、その地位も剥奪され、オウ氏の中心地は国庁となった。
結局、オウ氏は神魂神社と、朝廷側に組み込まれた杵築大社(現出雲大社)の
2大祭祀センターの長に収まることで生き延び、今に至るのである。


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5月17日 午後

揖屋神社前の道を東に行くと、すぐに集落が途切れ、田畑に囲まれる。
道しるべの示すままに、平行する小川を渡ると、
道は車一台がやっと通れる広さに。
そしてそのまま山に入っていく。
道の両脇は、畑と小規模な果樹園。
だが、あまり手入れが行き届いている様子ではなかった。
一抹の不安を感じながら進むと、左脇は用水池になり、
その先に目的地があった。

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黄泉比良坂(よもつひらさか)。
黄泉から夫イザナギを追う、亡き妻イザナミ。
穢れきった姿を夫に覗かれ、怒りに狂って黄泉比良坂まで追ってきたのだ。
イザナギは黄泉路を千引きの岩で塞ぎ、イザナミの追求を逃れた。
半分残った黄泉路が、先ほど訪れた伊賦夜坂(揖屋神社)となり、
黄泉路は分断されたのだ。
異界との境界に岩を祀り、塞の神(道祖神)とする信仰の起源である。
というよりも、神話形成当時の風習が物語に反映されたものだろう。
現代でも塞の神信仰は、日本中あちらこちらに残っている。

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注連縄をくぐり、黄泉比良坂に足を踏み入れた。
揖屋神社とは打って変わり、落ち着かない空気。
夕暮れ時には絶対に来たくない場所だ。
注連縄から少しも進まない場所に、千引きの岩はあった。
しかも、なんと間が空いて道になっているではないか!?

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これではイザナミ、出入り自由である…

道を遮る千引きの岩の向こうから、黄泉を出られない代わりに
1日に人を1000人殺してやろうと呪いの言葉を発したイザナミ。
それに対してイザナギは、それなら1日に1500人産ませよう、と返した。
それ故、人間は滅びることなく増えていったという。
生者の世界とと死者の世界との区別をはっきり分けたという、
この千引きの岩が開いていたらマズいのではないか?


何とか足が通る幅だった。
好奇心旺盛でなおかつ信心深い私は、鞄がこすれないように抱きかかえ
その隙間から黄泉国へ足を踏み入れてみた。
ここから先は黄泉の世界だ。

ほとんど消えかけているが、人が通った跡がある。
用水池の岸に沿って、獣道は続いているようだ。
木漏れ日があるが、背筋がゾクゾクとする感じは変わらない。
森の中へ単身踏み入れていく恐怖心と、それとは違う別の何か。
やがて、道らしいものは右に折れ、山を登る方向に。

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果てがない、気がした。

さすがに恐ろしくなり、引き返すことに。
こういう時は、後ろを振り返ってはいけない気がする。
私は脇目もふらずに来た道を引き返した。

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5月17日 午後

手間天神社で道草を食ったあとは、再び国道9号線を東へ。
揖屋駅を通り過ぎてすぐの交差点を左に入ると、そこが揖屋神社だった。

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『出雲国風土記』には「伊布夜(いふや)社」と名だけが記されているが、
『日本書紀』には「言屋社」の名で登場、斉明天皇5年の条、
「狗が死人の手を言屋社に噛み置いた。これは天子の崩御される兆である」とある。
『古事記』では、「黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂う」と登場。
そう、こここそが黄泉国の入り口なのだ。
記紀ともに、暗い印象で紹介されているが、
境内は開けていて明るく、それでいて厳かな雰囲気。
死の空気はここには感じ取れなかった。

祭神は、伊弉冉命,大己貴命,少彦名命,事代主命。
また、左脇には韓國伊太氐神社、右脇には三穂津姫神社。
韓國伊太氐神社とは、素盞嗚命と五十猛命を祀る社。
つまり、新羅から渡ってきた両神を祀っている。

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拝殿の正面にまわって、参拝。
拝殿の目の前に鏡があってビックリした。
なんだか鏡を目の前にすると、全てを見透かされているようで、
気持ちがスッと引き締まる感じがする。

参拝も済み、境内探索に取りかかる。
ちょうど拝殿と反対側に、妙なものを見つけた。

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藁の大蛇が木に巻き付いている。
大蛇の前には無数の小さな幣帛。
木と大蛇の周りは、竹の棒に縄を渡して囲み、結界としている。
しかも、ここだけではなかった。隣の木にも、大蛇が巻き付いている。

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聞いたところによると、この大蛇は荒神さまと呼ばれている。
ネットで調べると、アラハバキとも言われているそうなのだが、
これは現地では確認できなかった。
西伯耆~東出雲を中心とした民間信仰で、毎年11月~12月に氏子たちが藁で作るそうだ。

多摩川流域の、藁の大蛇は疫病除けの意味合いが強かったが、
この一帯では稲作との神、または水神として祀られているという。

※多摩川流域の大蛇

http://miyokame.blog82.fc2.com/blog-entry-118.html
http://miyokame.blog82.fc2.com/blog-entry-121.html

出雲と武蔵国多摩川では遠く離れているが、
武蔵には出雲臣が入植しているので、起源は同じなのかもしれない。
短絡的には決められないが、もしそうだとしたら、
律令制以前の風習が、あまり形を変えずに今まで伝わって来たことになる。
約1500年前の風習ということか。いやはや、気の遠くなる話である。
当時の人も、やはり今と同じ思いでこの藁の蛇を編んでいたのだろうか。


ちなみに、この荒神さまの手前には、小さな祠がふたつ。
経津主神と建御名方命を祀る祠だ。
こういう風に、向かい合って祀られる例は見たことがない。
しかも祀られている神が神だけに、意味深なものを感じた。

5月17日 午後

境港で海鮮丼を食べ、いよいよ松江に向かう。
混んでいそうな米子ルートを避け、中海の北岸を通ることにした。
再び境水道を渡り、国道431号へ。

中海の沿岸を、片道1車線の道が延々と続いている。
信号もなければ集落もない。
ただただ、ひたすら道が続いていた。

途中、弁慶の生まれ故郷という、どこにでもありそうな伝承をもつ
道の駅本庄で停まったが、とくに収穫も無し。

そうこうしているうちに、松江市街に入った。
両親は、宍道湖温泉のわりと良いホテル。
私は、急遽同行することになったので、普通のビジネスホテル。
両親と荷物を降ろして、あとは自由行動だ。

ビジネスホテルのチェックインは夜にしてあるので、
とりあえず9号線を東に進むことにした。
目的地は揖屋神社。黄泉の入り口とされる場所だ。


途中、大橋川沿いを走っていたら、非常に気になる島を見つけた。
車を停める場所もないので、とりあえずガソリンスタンドへ乗り入れ。
ガソリンを入れるついでに、車を停めさせてもらった。

スタンドの若いお兄ちゃんは、当然その島の名を知るわけもない。
かなり怪訝な顔をされてしまった。
気を取り直して、取り合えず島に向かって川縁を歩く。

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川の真ん中に浮かんでいる小さな島。
正面に鳥居があり、鳥居の前は岸壁。
島全体が神社のような構造だ。
だた、そこに行くには船に乗るしかない。
川に小舟が係留してあったので、おそらくそれで上陸するのだろう。
鳥居の前に直接船を乗り付けるようだ。

名前もなにも分からない。が、妙に惹かれるものがあった。
私は為す術もなく、ただただ、ぼけ~っと眺めていた。

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追記
帰ってきてから調べると、どうも手間天神社だということが分かった。
手間というのは、高皇産靈神の手の隙間からこぼれ落ちた神のこと、
つまりは少彦名神のことを指すらしい。
なんだ、納得。粟島神社と同じく、ガガイモの船に乗った少彦名神を表しているようだ。

出雲神話とは関係ないのだが、美保神社で見かけた興味深いもの。

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境内の上手側にひっそりと祀られた、玉垣に囲まれた丸石。
なんでも丸石さまと言うらしい。
昔、漁師の網にふたつの丸石が掛かった。
片方の石は海に帰し、片方の石は丸石さまとして美保神社に祀られた。
丸石さまは安産の神さまとされて、頭をなで回すと御利益があるという。
写真の窪んでいるところは、長年なでられた名残だという。
周りの小さな丸石は、由来は伝わっていないそうだが、
同じように海からあがったので奉納したのだろうか。
網にこんな見事な丸石がふたつも入っていたら、
信心深くなくても思わず唸ってしまうのではないだろうか。
ちなみに同じ山陰の京都府舞鶴市には、
海中から拾い上げた丸石をエビス神として神社前に置き、
出漁前に丸石を叩いて大漁を祈願する風習が今でも行われているそうだ。

美保神社を出ると、そこはすぐ船泊りになっていた。
イカ釣り漁船が何艘も停泊している。
おばちゃんたちが陽気に焼きイカを売っていたので、ひとつ求めた。

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5月17日午前

弓浜半島を貫く国道431号をずっと北上、
途中、境港を通るが、昼食にはまだ早いので、後に寄ることにして、
中海と外海をつなぐ境水道をまたぐ橋を渡った。
弓浜半島側(鳥取県)は平らな土地だが、
越から引っ張ってきたという島根半島は急峻な山が海に迫るので、
境水道大橋は、平地から大きなアーチを描いて、山の上につながっている。
そして、道はすぐに山の下へ降りていき、海岸線を東西につなげている。
我々は、美保神社へ向かうべく、進路を東へ取った。

ちなみにこの土地、”美保岬”と呼びたいところだが、美保関になっている。
関というからには、なにかとの境目なのだろう。
先ほど通ってきた弓ヶ浜は、別名”黄泉が浜”とも語られるそうで、
何やらこの世とあの世の関のようにも感じられる。
そしてそれを裏付けるように、美保関一体には古墳が沢山造られていた。
ネコの額という形容が相応しい、狭い土地にもかかわらず、である。

山の迫る海岸線らしいクネクネ曲がった道を、美保関の先まで走る。
小さな漁港に守られるように、美保神社はあった。

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美保神社は、エビスさまの総本山。
古事記で言うところの、事代主神が釣りをしていた海岸ということだ。
事代主神は本来は託宣の神とされ、漁業神のエビスとは全く関係ない。
エビス(蛭子)はイザナギ、イザナミの子供で、
足腰が立たないために海に流されたと日本神話は語る。
海に流すということは、どこかに漂着するわけで、
漁業民の間では、海からの漂着物や、クジラやイルカの類、
時には水死体などを豊漁をもたらすエビスとして祀っていたのだが、
いつのまにか、海で釣りをしていた事代主神が、エビスと呼ばれるようになった。
無論、これは同じ出雲の大国主神がダイコクと読めることから
大黒様とされるようになったという、七福神信仰ブームにあやかったことと、
発祥は同じくするものかと思われる。

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祭神は、エビスとされる事代主神と、その父・大国主神の后の三穂津姫命。
本殿は、大社造りを仲良くふたつ並べた「美保造」と呼ばれる独特のもの。
しかし、事代主の母が三穂津姫命かと思いきやそうではなく、義理の母だという。
事代主神にとっては、父の愛人と二人で暮らすようなものだけど、
果たしてそれでいいのか?
社務所で聞いてみると、なんでも三穂津姫は名前にミホが付くから、
などという返事が返ってきた…
が、三穂津姫は出雲に穀物をもたらした神だとも教えてくれた。
美保関は先にも書いたが異界との窓口であるが、それとともに、
実質的には、日本海交易の中継港であったはずだ。
これは、古代の貿易港の特徴として、直接海に面した港よりも、
大河や入り海になっている港のほうが、
停泊や内陸への物資の運搬などに適しているという利点がある。
それと共に、海上からの目印として抜群の大山を有するこの港である。
海外から出雲に穀物をもたらした第一便が、美保関に到着しても、
何も不思議はないと思えるのだ。

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しかしそれとは全く別に、出雲国風土記によると、
美保神社の祭神は、御穂須須美命(ミホススミ)とされている。
大穴持命(大国主)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)の間に生まれた子である。
国引き神話によると、美保関は越国から引っ張ってきたことになっているので、
越国の妻との間の子がこの地に祀られるのは至極当然である。
でも・・・ミホススミって誰だ?
大国主と奴奈川姫の子というと、建御名方命のことなのだろうか?
出雲でタケミナカタの名前を全く見かけないこと、なにか関係がありそうだ。

しかし、もし御穂須須美=建御名方命だとすると、
国譲りを頑なに拒んだ越勢力の建御名方命が、
あっさりと国を譲った事代主に取って代わられているとは、
なんとも皮肉なことだ…

5月17日

早朝、車で実家を出る。
父と母と私、大きくなっても子供はいつまでも子供のようで、
こういう時は父の威厳なのか、運転は必ず父の役目になる。
もう年も年なのだから無理しなくてもいいのに、そこは譲れないのだろう。

阪神高速に飛び乗り、中国道を通って米子道へ。
以前は島根といったらものすごく遠いイメージがあったが、
今は道が通じたのか、4時間もかからずに雲伯地方に入った。
米子で高速を降りたが、親戚の結婚式にはまだ時間がある。
父と母は結婚式に出席するので、14時頃松江で私と別れる。
結婚式の間、私は松江を観光しようという心積もりだ。

時間があるので、真っ直ぐ松江に行かずに、
米子や境港を通ってみることにした。
ちなみに、島根と鳥取の境目は区別が難しい。
地図を見ると、雲伯地方にぽっこりと飛び出た島根半島に湖がふたつ並んでいて、
西側が有名な宍道湖、東側は(正確には湖ではないのだが)中海という。
そのふたつの湖に挟まれた土地が島根県の松江。
中海の東岸から東は鳥取県だ。
米子も境港も、その中海の東岸に位置する都市で、対岸の松江と共に、
この地方の経済の中心地を形成しているのだ。

さきほど、中海は湖ではないと書いた。
中海は、北に100mあるかないかの天然の水路によって外海と繋がっている。
半島の根元から、びよーんと伸びた土地が、
どうしたわけか最後の最後に繋がることを拒んでいるかのようだ。
そしてこのびよーんと伸びた土地のことを、古代の出雲の人々は、弓ヶ浜と呼んだ。

出雲国風土記の「国引き神話」にはこうある。
八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)は、
出雲の国は狭い若国(未完成の国)であるので、
他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうとした。
そして、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、
以下のように「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、
できた土地が現在の島根半島であるという。
国を引いた綱はそれぞれ薗の長浜(稲佐の浜)と弓浜半島になった。
そして、国引きを終えた八束水臣津野命が叫び声とともに
大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったという。
(wikiより転載)

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国道431号を走ると、延々と松林が続いている。
キリの良いところで、弓ヶ浜に車を停めてみた。
弓のように綺麗な弧を描き、白い砂浜が続いている…
と言いたいところだが、残念ながら所々に防波堤やテトラポットが点在。
海の方に目を向けると、島根半島の尻尾のような、
長く伸びた岬を見渡すことが出来る。これが美保関だ。

なるほど、島根半島の取って付け足したような地形を見ると、
国引き神話が生まれるのも無理はないと思う。
この後、宍道湖のほとりを延々と走ったのだが、
とても湖とは思えない雄大な風景が延々と続くさまは、
宍道湖は土地を引っ張ってくる前は海だった、
と言われたら信じてしまいそうなものであった。

国引き神話だけでなく、出雲には記紀とは一線を画した神話の世界がある。
何故そうなったかは、諸説あるが今のところ謎なのだ。
今回の旅は、記紀を忘れて出雲神話の世界にドップリ浸かる旅でもあった。

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※父と美保関


続く


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