2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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6月7日

諏訪に遊びに来ていた時に、TVで地方ニュースを見ていると、
ちょうどこの日に、奈良井宿で漆器祭を催しているという。
ずっと漆器のぐい呑みを探していたので、漆器祭に行ってみることにした。

まずは諏訪大社にお参りして、先の日記の北斗神社へ参拝。
そこから奈良井方面に抜けるには、有賀峠か杖突峠のルートがあるが、
今回は杖突峠を通ることにした。
なぜなら、その途中にちょっと曰くありげな神社があるからだ。

守屋山中を通る杖突峠。
峠のピークを過ぎ、高遠側に降っていく途中に、その神社はある。
守屋神社里宮。

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この神社は、以前に来たことがあるのだが、
その時に見逃したものがあるので、もう一度訪れたいと思っていたのだ。

鳥居横の駐車スペースには、すでに車が一台停まっていた。
珍しいな、と思いつつ隣に停める。
駐車スペースといっても、1台分しかないから、
車体が半分路側帯にはみ出してしまった。

広い境内ではないので、先客はすぐに分かった。
なにしろ、鳥居から社殿まで真っ直ぐ石段が伸びているのだ。
中年の女性5人組。あぁ、スピリチュアル系の人だ、と直感した。
なにしろ、みんな白い上着を着ているのだ。
中でも全身白づくめの、指導者っぽい人と少し話し込んだ。
どうも、この日は諏訪大社4社をまわる予定らしい。
守屋神社には、物部氏を助けるため?に、参拝したとのこと。
やはり、だった。
そう、守屋神社を訪れる人は、物部氏の足跡を追う人ばかりなのだ。

扁額には「従六位 物部連比良麿 謹書」とある。
謹書、ということなので、この「物部守屋神社」と書いた人物が、
物部連比良麿だということになる。
扁額の時代が分からないが、そんなに古い物だとは思えない。
調べてみると、この額は明治40年ころに作られたそうだが、
何らかの理由で長い間掲げることが出来なかったとのことだ。


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石段を登っていくと、社殿にぶつかるのだが、そこはもぬけの殻だ。
その後ろにさらに上へと続く石段がある。

その石段を登っていった先に、茅葺きの雰囲気の良い建物がある。
普通はこれが社殿かと思うが、実はこれは只の覆屋。
この中に本殿の祠が収まっているのだ。
残念ながら、立派な覆屋とは裏腹に、本殿は荒れ果てている。

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本殿の下を覗くと、あきらかに意図的に作られた石室がある。
そして、その中には石棒が。

この石室、今はぽっかりと口を開けているが、
かつては蓋が閉まっていたという。
今はとある神社の神主を務める人物が、子供の頃にこっそり開けてみた、
という話を、その友人という人物から訊いたことがある。

それにしてもこの石棒、形が悪い。
諏訪地方で祀られている石棒とは、あきらかに違う。
御神体の盗難にでも遭って、代わりにこの石を入れたのだろうか?

おそらくこの祭祀形式、ミシャグチ信仰のものなのだろう。
ネットで調べていたら、灯籠に社宮司の文字があった、との記述を見つけた。
社宮司とはシャグウジと読み、ミシャグチを祀る神社のことを指す。
ミシャグチを祀っていたモレヤ氏の末裔が、
守屋神社(守「矢」は嫡流のみ許される姓)で石棒(石神:ミシャグチ)を祀ることに、
なんの不思議もない。

そこになぜ物部氏が入り込んだのか。
守屋の集落に伝わる伝承では、物部守屋の子息が流れ着いて、
神長家に養子に入ったということになっているようだ。
真偽はともあれ、最終的には秋田にまでつながる物部の逃亡伝説。
天然の交差点である諏訪に、その足跡が残っていてもおかしくはない、
と考えるほうがロマンがあって良いのかもしれない。
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6月7日

諏訪の両親の所に遊びに行ったとき、自由な時間が出来たので、
以前から気になっていた場所に行ってみた。

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諏訪大社上社本宮と上社前宮を結ぶ御柱街道の間、
山の中腹にポツンと神社があり、麓から果てしなく長い石段が伸びている。
あの石段を見ただけで登る気が失せるので、一人でウロウロ出来る機会に、
一度登ってみたいと思っていたのだ。

なにしろ周りに何もないので一直線の石段が目立つ目立つ。
だが石段の下まで来ると、あらためて石段の長さに嫌気が差した。
私は気力を振り絞って石段を登り始めた。

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視界を遮るもののない石段は、思ったよりも気持ち良かった。
石段の左右は草の斜面に時々岩が露出しているだけ。
地元の人のサイトの情報によると、以前までは石段が途中で途切れていたという。
石段を作っている最中に戦争になって以来、そのままになっていたとのこと。
やっと去年、石段が全て完成したのだそうだ。
それまでは、土の急斜面を踏み跡を頼りに登るしかなかったらしい。



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頂上にたどり着くと、目の前に神社があった。

土地がならされてないので、背後の岩塊をくりぬいて、
社を建てるスペースを確保している。
神社の名は「北斗神社」
天御中主命(アメノミナカヌシ)を祀ってる。
北の空に輝く北極星に象徴したこの神は、
神仏習合の時代には、北辰妙見菩薩とされていた。
古代中国で天帝(天皇大帝)と見なされていた北辰(北極星)。
この星宿信仰に仏教思想が流入して、妙見菩薩となった。
妙見とは、優れた視力をもって、善悪や真理をよく見通す者ということ。
が、民間信仰レベルでは、目の病が良くなるように願掛けがされたようだ。

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奉納物は、「め」と書かれた絵馬に、縄、小皿。
小皿は、灯明皿と先述のサイトでは説明されていた。
灯りをつけて願掛けにお籠もりをした、という記述があるそうだ。

では縄は一体?
長い間石段が無かったとのことなので、参拝の便宜に縄が使われていたものが、
時代を経て、縄自体が奉納物と機能するようになったのか。
それとも天御中主命の御利益である長寿に掛けて、なが~い縄を奉納したのか。

ふと、以前稲城市で見かけた妙見尊の蛇より神事を思い出した。
妙見尊の藁蛇は、社殿のある山の上から麓まで、
参道にそって延々と藁の蛇を這わすというもの。
疫病落としの藁蛇として信じられているもので、
これは江戸時代(宝暦前後)の疫病大流行に、
多摩川下流域で広がった藁蛇信仰の一つ。
だが私は、藁蛇を疫病落としに使うという伝統は、
このとき偶発的に生まれたのではなく、この土地には元々の下地があったと思っている。
それが、この地域を治めていた武蔵国造の祖である出雲臣。
出雲臣の出身地域に今でも残る「荒神さま信仰」は、
藁で蛇を作るところ、藁蛇をもって集落を練り歩くところ、
藁蛇を鳥居や木に巻き付けて放置するところなど、
ほとんど同じものと言っても過言ではない。


話を元に戻そう。
社の左右の空間(といってもほとんど崖だが…)には、
これまたへばりつくように、石碑が立っている。
下手には、泰一社、三社神社。上手には庚申碑、そして小さなお堂のような建物。

このうち、「泰一社」がちょっと興味をそそる。
「泰一」とは「太一」で、北極星のことを指し、北斗神社と同じ意味合いだ。
そして、右側面には「祭主・物部安貞」
左側面には、「願主・当村 赤羽○○、 高遠 守屋○○」
裏は草に埋もれて見えなかったが、どうやら「文政九年」と刻まれているらしい。

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諏訪の赤羽某と高遠の守屋某が、物部安貞氏にお願いして、
泰一社を勧請した、ということだろうか?

「物部安貞」と個人名が特定できるので検索を掛けてみると、
上でも参考にしたサイトしか出てこない。
それによると、この人物は「最後の禰宜太夫の一代前の人」だそうだ。
ただ禰宜太夫が歴代「物部」を名乗っていたわけではないらしい。


太一神を祀る物部氏、となると、思い浮かべるものがある。
出雲大社の資料館で見た、江戸時代の本殿座位置図だ。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=877336558&owner_id=40168

斑牛をつれた和加布都怒志(フツヌシは物部氏の祭神)は、
おそらく鎌倉時代に大黒天と習合した「摩多羅神」のことを指す。
「摩多羅神」はいまいち全容が掴めないのだが、
頭巾に北斗七星を載いているくらいだから、北辰と見なされていたのだろう。
安直に、ワカフツヌシ(物部氏)=太一神 と考えると、
出雲の系譜と言われる諏訪大社のお膝元の北斗神社で、
物部氏に連なる人物が太一神を祀った、
と上手く繋がってしまうのだが、どうも何か引っかかる…



諏訪と物部氏との関係は、昔からチラホラとささやかれていて、
その噂の発生源となるのが、守屋山の登山口にある「物部守屋神社」。
これは、次の日記で紹介しようと思う。

6月1日

その日は、山形の友人の結婚式の翌日だった。
一同解散した後、私は進路を西にとった。

特に何も調べてきていなかったが、
寒河江のチェリーランドのアイスが美味しい、
という情報を手に入れたので、その方向を目指すことにしたのだ。

そしてその方向には出羽三山が。
出羽三山、特に湯殿山には前々から興味があったので、
この機に足を伸ばしてみることにした。

チェリーランドのアイスは美味しかったし、
偶然にもミスサクランボコンテストをしていたけど、
ここは割愛(笑)

寒河江川に沿って国道112号を西に。
どんどん標高が高くなっていき、月山湖を通り過ぎた辺りで、
湯殿山に行く有料道路に入る。
有料道路といっても普通の山道だ。
辛うじて舗装はしてあるが、向こうから車が来たら離合できるのかどうか。


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そんな道をひたすら走ると、山中に似つかわしくない
巨大な朱の鳥居が目の前に現れた。
駐車場からは湯殿山神社本宮まではバスが出ているそうだが、
ここまで車で来て、その上神社までバスを利用したら、
苦労して山を切り開いた先達たちに申し訳ない気がしたので、
ここは歩くことに。


朱の鳥居を潜り抜け、バス用に舗装された道をひたすら登っていった。
この道の途中から修験者用の参道が別れていて、それは月山山頂まで続いている。
とはいえ、その道はまだ雪に埋もれていたのだが。

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途中、要所要所で石碑が祀ってあり、神名が刻まれていた。
それぞれ、参道から見える山々に対応しているようだ。
そのような石碑や祠が参道に19ヶ所、
多くは修験者用の参道(御沢駆け)に沿って設置されているが、
舗装路にも幾つか設置されていた。
そして、参道の最後に現れたのが、異様に恐ろしい雰囲気を醸し出している石像、
姥権現だった。

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姥権現は、西会津の霊山、飯豊山にまつわる伝説。
西会津ではかつて、十三参りに男子が飯豊山に登る通過儀礼があった。
ある時、一人の男の子が遭難し行方不明になった。
心配した母親は、女人禁制の禁を破り山に入ったところ、
神の怒りに触れ、石にされてしまったという。

姥権現に見送られ、参道を登り切ると、そこはバスの停留所だった。
途中何台ものバスに追い抜かれたが、充実感は大きかった。
歩いてきた道を振り返ると、朱の鳥居が遙か彼方に確認できた。

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この停留所が湯殿山神社本宮の入り口。
ここから石段を少し進むと、御神体の鎮座する場所に至る。
だが、ここから先は残念なことに撮影禁止なのだ。
写すのもダメなら、ここで見たことを他人に伝えることも禁じられている。
かの芭蕉翁でさえ、
「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」
と、言っちゃいたい気持ちが見え隠れしている、
というかほとんど言っちゃってる俳句を残しているほどなのだが、
先人に敬意を表し、ここで見たことは秘しておくことにする。

ただ一つ言えることは、深い山中をさまよい歩いた末に、
こんな凄いものの存在を知ってしまったら、
それは神に出会ったとしか表現できなかっただろう。


   ※  ※  ※


ところで、湯殿山の行人(修行者)には、
「上り下りの行人」と「一世行人」の二つがあるそうだ。
前者は、在家の行人で、その名の通り参詣後山を下りてくる人。
後者は、そのまま山に籠もり、千日行や三千日行を続けた人を指す。
修行が満願した後、山を下り湯殿山信仰を広めた者もいたけど、
そのまま即身仏を志した者も多かったという。
五穀断ち、十穀断ちと呼ばれ、生の木の実や草の根しか口にしない(木食行)。
この修行を千日以上行う間に、筋肉は衰え、肉は落ち、水分も無くなる。
生きているうちに肉体がミイラ化するのだ。

それが終わった後は、土中に埋めた石室に入り(土中入定)、
念仏を称えながら死を待つという。
3年3ヶ月後に石室が開けられた時には、即身仏になっているのだ。
悟りとともに永遠の命を手に入れるという即身仏。
その深遠たる思想は私にはまだちょっと理解出来ないが、
彼らは自らの生を犠牲にすることによって、
永遠に世の平穏を祈り続けることを選んだのだ。

木の実草の根だけで雪深い出羽の冬を三度も乗り越える修行、
入定に至る前に息絶えた行人がほとんどだっただろう。
現存の即身仏は17体、そのうち湯殿山だけで10体確認出来るとされるが、
湯殿山の長い歴史の中で、たった10名しか即身仏にたどり着けなかったのである。
湯殿山参道の朱の鳥居の側には、行人の供養碑が建てられていた。

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