7月29日

猪苗代湖南西の岸、会津若松市湊町の経沢(へざわ)という集落を訪れた。
湖南から会津若松へ抜ける幹線道路からは山一つ隔て、
かといって浜に近いわけでもない、これといった特徴もない農村である。
浮いた話と言えば、大正の頃に近くの山で金掘りの話が持ち上がり、
この集落からも何世帯かが労働力として加わったことくらいだそうだ。
そんな僻地に残る、ちょっと気になる伝承を求めて、
私はこの地に足を運んだ。
山と山に挟まれた狭い土地。
その真ん中を道が一本通っていて、迷うことなどなく集落に入った。
おそらくまっすぐ行くと目的の神社にたどり着くだろうと思ったが、
立ち話をしている老女がいたので、声を掛けてみた。
川崎ナンバーの風変わりな車に乗った男に対して、
怪訝な顔をしつつも神社の場所を教えてくれ、
さらに、神社の歴史に詳しい人まで紹介してくれた。
といっても、狭い集落のこと、
「ほら、あそこ」と指させば分かるほどだったが。

まずは神社にご挨拶。
「守屋神社」というこの神社。
蘇我馬子に敗れた物部守屋に関わる伝承を持つという。
山際の集落の、さらに奥に鎮座する守屋神社。
鳥居の先はもう山の中だ。
急峻な階段を登って行く。

階段と階段を繋ぐ踊り場には木漏れ日が降り注いていた。
そこには姥百合が群生し、ヒグラシの鳴き声が辺り一面に響き渡る。
集落からちょっと山に入っただけなのに、
まるで別世界に迷い込んだような気分だ。
階段を上り詰めると、狛犬の向こうに質素な社殿があった。
まずは参拝し、この地に足を踏み入れたこと、写真を撮ることの許しを請う。
顔を上げ、あたりを見回すも、特に何の変哲もないように思えた。
そこで、社殿の後ろに回ってみると・・・

なんだこれは!?
いかにも意味ありげな囲い。
草に埋まってよく見えないが、囲いの中心は切り株だろうか?
だが、この囲いの意味を紐解くものは見つからなかった。
社殿の下手に、小さな鳥居と、複数の社が並んでいたので、
そちらの方に降りてみた。

鳥居の奥は稲荷社、その隣に疱瘡の神の社。
横には石の祠が4つ並び、小さな大黒様とダルマの石像。
石の祠は特に祭神が書いてあるわけでもなく、
何を祀っているのかは分からなかった。
土地の人が教えてくれた、神社を管理している「係の家」を訪ねた。
氏子総代かと思っていたが、どうも様子が違う。
「代々管理している」とのことなので、宮司じゃないのかと疑問に思ったが、
どうも違うようで、あくまで「係の家」らしい。
あいにく御主人は仕事に出ていて、詳しい人が居なかったので、
次に詳しいとされる、4件となりの家を訪ねた。
そこの御主人が、この土地に伝わる伝承を教えてくれた。
白鳳元年壬申、
中央の政争に敗れ散った父の元を離れ、物部守屋の姫が、
この土地まで逃げ落ちて来て、そして亡くなった。
社殿の背後の囲いは姫の墓で、土地の人は「みささぎ」と呼んでいるそうだ。
実は、「みささぎ」もう一つあるとのこと。
どうも、それは社殿の横の、4つの石祠の背後のことらしい。
私はそこを通ったにもかかわらず、全く気がつかなかった。
特に囲いがあるわけでもなく、盛り上がっているわけでもなく…
ただ、その「みささぎ」の主が誰かということは伝わっていないようだ。
まさか物部守屋ではないと思うが、姫よりも一段低い場所ということからして、
姫を連れ出した従者か誰かだろうか?
秋田物部伝承では、物部守屋の息子・那加世を、鳥取男速が出羽まで逃した、
と伝わっているように、やはりここでも姫を逃した人物が居て当然だと思われる。
ところで、「係の家」は、その時に留守役を任された家で、
代々神社のことを管理しているという。
(宮司と呼ばないのはこのことが原因か?)
ちなみにその家は○部さんと言うのだが、残念ながら物部ではない。
守り役なら分かるが、留守役って、どういうことだろうか?
物部の落人は、この土地からさらに移動をしたというのだろうか?
祭神については、御主人は守屋の神さまとしか認識していないようで、
祝詞では毎回物部守屋の名が出てくるから、やはり守屋なのじゃないか、と仰っていた。
このあたりの詳しい話は、やはり○部さんに訊かないと分からないようだ。
この経沢という土地、物部氏の祭神である「経津主神」の「経」なのだろうか。
変わった名前なので由来を尋ねてみると、
御主人の口から意外な答えが返ってきた。
あくまで御主人の予想だが…
かつて道路拡張工事の時に、お堂や経塚の跡が発掘されたそうで、
そのことから、かつてはこの地に寺院があったことが分かった。
経の沢という地名は、そこから出来たのではないか?とのこと。
ネットで調べたところ、この土地には聖徳太子の息子、
山背大兄皇子の落人伝説もあるらしい。
かつては皇子の建てた太子堂があったそうで、上下の経沢の鎮守だったが、
やはりというかなんというか、上と下で争いが絶えなかったらしい。
ある時、修験者がこの状況を見て、政敵同士が隣り合っているからだ、と、
太子堂を隣村に移した。
それ以来、経沢では争いが収まり、平和な日々が続いたという。
かつてあったというお寺は、この太子堂のことなのだろうか?
物部守屋の姫だけならまだしも、聖徳太子の皇子までが、
ここを選んで落ち延びて来たとはちょっと信じられないが、
とにかく寺院があったことは、発掘物からみても明らかなようだ。
それにしても、やっと落ち延びた先でさえ
中央の政争を思い起こすような伝承を作られるとは…
これでは姫も落ち着いて眠っていられないだろうに。
名だたる貴人の落人伝説が残る経沢集落。
こんな辺鄙な土地に、こんな衝撃の歴史があったとは…
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