2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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11月21日 夜

日光参りを終え、とりあえず日光を離れた。
そのまま自宅に帰っても良かったが、まだ余力が残っていたので、
もう一泊、栃木を堪能していくことにした。

まずは、宿泊地をどうするかだ。
気ままなひとり旅と。
安全で、人に迷惑の掛からない場所ならどこでも寝られる。

念のため調べておいた、那須塩原の福渡温泉に向かった。
ここは、野天風呂が夜遅くまで営業しているとのこと。

現地に着いてみると、川沿いに温泉旅館が並んでいて、
向かいの川岸に野天風呂があった。
料金箱が設置されていて、寸志を入れる仕組み。
向かいの旅館からは丸見えだが、気にせず裸になった。
ポツポツと雨が降っていたので、風呂には誰もいなかった。

岩の窪みをひさしにして、雨の中入浴。
なかなか快適だ。

そのうち、入浴している姿が見えたからか、
ほろ酔いのおじさんたちがフラフラと傘を片手にやって来た。
灯りも持たずに危なっかしいな、と思っていたら、
一人が浴衣のまま風呂にどぼん。

・・・

無事救出されたその人は、濡れ鼠のまま旅館に帰っていった・・・


その日は、那須塩原の道の駅に宿泊。
広くて綺麗で、その上温泉も近い、すばらしい宿泊拠点だ。




11月22日

朝一で昨日の温泉に入浴。
箒川に掛かる吊り橋の紅葉が見頃だったので、堪能。
少し写真も撮ろうと三脚を立てて、
良い日差しを待っていたが、雲の流れは速いものの、
なかなか良い光の具合にはならず、1時間ほどで断念。
せっかく朝風呂に入ったのに、すっかり冷えてしまった。

那須と言えば、以前から気になっていた場所があるので、
コンビニの地図で情報収集をして、その場所に行ってみた。


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「殺生石」

鳥羽上皇の寵姫、玉藻前。
絶世の美女と言われるこの姫は、実は天竺と中国で天子を惑わし、
悪の限りを尽くして王朝を滅ぼした金毛九尾の狐の化身だという。
安倍晴明に正体を見抜かれ、那須野にて射殺されたが、
そのまま石と化し、毒を吐き続け、近寄る人間や動物を殺し続けたという。
その後、玄翁(金づち)の名の由来ともなった玄翁和尚の法力によって、
石化した妖狐(=殺生石)は砕かれた。


以前、遠州七不思議に興味を持って、相良の大興寺を訪れたことがある。

学識僧であると共に、類い希なる石マニアであった開祖、
大徹和尚の業績に、那須野の殺生石の謎を解いた、とあった。
謎を解いただけで、殺生石を砕いたわけでは無いので、
美味しいところを玄翁和尚に持って行かれた形になったが、
きっと類い希なる石マニアのことだから、砕くのが惜しくなってしまったのだろう。
なんとなく気持ちは分かる(笑)

といったわけで、那須の殺生石のことがずっと気になっていたのだ。


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いざ殺生石の目の前に来ると、それは何でもないただの岩に見える。
小高い丘の中腹に何気なく転がっており、注連縄がなければ気付かないほどだ。
丘の麓には柵が張り巡らされており、それ以上近寄ることは出来ない。
看板を読むと、ふむふむ・・・

「有毒ガス発生」「危険なので柵内に入らないでください」
・・・玄翁和尚!妖狐の呪いがまだ残っているようです!


柵の手前には警備員が居て、常に殺生石を監視している。
毎日のように、小動物が毒気に当たって死んでいるようで、
その日も、あそこにうさぎ、あそこにカラス、と教えてくれた。
訪れたときはちょうど、もう一人の警備員と無線で連絡を取り合って、
殺生石に近づいた狐のつがいを、余所へ追いやっているところだった。

死骸を放っておくと、死肉目当てに寄ってきた動物がまた死に、
それ目当てにまた・・・
と死の連鎖を繰り返す。
さすがに観光地で死骸の山はマズイので、こうして警備員は、
人・動物ともに、日々監視を続けているのだ。

しかし、この硫化水素ガスというのは怖い。
ここでは監視員が居て、常にガスの噴出量を連絡しあっているからまだマシだ。
以前、福島で渓谷全体が源泉というワイルドな野湯に行ったことがあったが、
そこは数年前に毒ガスで死者が出たそうで、行ったときにはすでに廃れ果てていた。
「有毒ガス」「臭い無し」「即死」と書かれては、さすがに焦る。
管理人も居ない山奥で、素っ裸で行き倒れたら、助かる術などないだろう。
死の恐怖に怯えながら、そそくさと温泉に入った苦い思い出が頭に浮かんだ。





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そんな現役バリバリの呪われし土地に相応しく、殺生石にいたる道には、
慈悲を求めてやまない無数の地蔵が・・・
雪に半ば埋もれ、大きな手で必死に拝む姿があまりに切ない・・・

この地蔵、もとは教傅という一人の坊様にまつわる謂われがある。
教傅は生まれながらの不良少年で(すごい設定だ…)、
将来を心配した母は教傅をお寺に預けた。
その教傅も寺を継ぐことになり、再び母と暮らすようになったが、
一向に素行はよくならない。
ある日、教傅が仲間と連れだって旅行に出ることになり、
朝、支度をしていると、母が朝飯を用意したと呼びに来た。
教傅、「まだ支度が終わってないんじゃ!」と、癇癪を起こし、
朝食のお膳を蹴飛ばして、そのまま旅に出てしまう。
那須温泉に着いた教傅たちは、殺生石を見物しようとこの地を訪れたところ、
空が俄に暗雲立ちこめ、雷鳴が轟き大地は火を噴いたという。
仲間達は一斉に逃げ出したが、教傅は動くことが出来ない。
「俺は出発前、親の用意した飯を足蹴にしてきた。
 だから天罰を受け、火の地獄に堕ちるのじゃぁあぁ~!!」
ともがき苦しみ、息絶えたという。
その後、有志がここに地蔵を祀り、親不孝の戒めとして語り継がれたという。

殺生石と言い、教傅地蔵といい、なんと殺伐とした観光地か・・・
この縋るような目をした千体地蔵は、地元の石匠が寄進を思い立ち、
たった一人で作り続けているものだという。
いまは七百体ほどだそうだが、いずれ千体に達するのだろう。
なにかそれで浮かばれるものがあると良いのだが。

あまりに切ない土地だった。
ときおり吹き付ける横殴りの雪が、また寂しさを一層引き立たせる。
あまりに切ないので、この後、すぐ隣にある温泉で暖まり、
近くのアルパカ牧場でモフモフしてきた。
何という落差。
栃木は色々な意味で奥の深い土地だと、改めて思い知った。



日光・那須の旅  完


おまけ:殺生石を探せ!
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前回の日記で、勝道上人の墓所を紹介したが、
そこから滝尾神社に向けて、石畳の道が続いてる。
この道は女体山への山岳修験の道で、
女体山の中宮に当たる滝尾神社を経て、女体山に続いているようだ。
この女体山信仰の道は、男体山の二荒山神社に対して、
「もう一つの日光」などとも呼ばれていたそうで、
前回の香車堂や、滝尾神社の子種石など、
どうも女性に関する信仰が多いようだ。


勝道上人の墓所で時間を費やし過ぎて、
いざ古道を歩き始めたころは、もう夕方になっていた。
夕方だからと言うわけではないだろうが、
他に人は全然いない。
若い男の子と、岩壁に向かって両手を広げている女性…だけだった。

若い男の子は、その場に似つかわしくない、
というか、どう見ても同業者だったので話しかけてみると、
映画のスタッフ(ADアシスタントディレクター)で、
機材番をしているらしい。
なんでも、小栗旬の主演の時代劇のロケをやっていたらしい。

…残念ながら、残り香すら味わえなかった。



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滝尾古道は細かく見てくと色々と見所があるのだが、
その時はもう、ゆっくりと堪能している余裕はなかった。
(写真は途中で見かけた何やら曰くありげな石)
何しろ、杉の巨木に囲まれ真っ直ぐ伸びている石畳の道が、
どこまで続くのか見当もつかなかったのだ。
一応略図をプリントアウトしてきていたが、
略図は略図だけに、距離の間隔までもが略されていて、
とっくに着いているはずの滝尾神社に、いつまで経ってもたどり着かない。
しかも、三脚を担ぎながらの道程。
どこを切り取っても画になりそうなので、
どこもかしこも切り取りたくなってしまうのが悲しい性。
実際古道は見事なもので、晩秋の色枯れた木々でさえも、
沸き立つ情緒にあふれていた。

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そうこうしているうちに、辺りはすっかり暗くなってしまった。
目的地まであとわずか、と思うと、引き返す気にもなれない。
あとちょっと、あとちょっとが命取りとは分かっていても、引き返せない。

おかげさまで、滝尾神社に着いたときには真っ暗になっていた。
何故そうまでしてここに来たかったか。
非常にしょーもない理由なのだけど…

滝尾神社の鳥居には、額束の真ん中に穴が空いていて、
ここに石を3度投げて、一度でも穴を通れば願いが叶うという。
俗に「運試しの鳥居」と呼ばれる。
ここに石を投げてみたかったのだ。


ちょうどとあるコミュで、鳥居に石を投げる習慣について、
の話題で盛り上がっていたこともあり、興味があったのだ。
そもそもそのコミュでは、関西では鳥居の上に小石を投げて、
上に乗れば願いが叶うという遊びが盛んなのだが、
関東ではやらないし、危険だから止めるべきだ、主張している人がいた。

で、調べてみると、関西以外の地方でも、この遊びはやっているようだったのと、
上に乗せるパターンの他にも、島木と貫(鳥居の上に乗っかっている横木)
を通れば良い、なんてパターンもあるようだ。
それらは民間習俗、特に子供の遊びとして広まった節があるのに、
滝尾神社では、それは公然のものとして、
しかも的として小さな穴まで開いているという。

どうもこの穴、単なる運試しとされているが、
女体山の中宮に有ることといい、
香車堂(矢のように子供が出てくる。)と同じ古道にあることといい、
どうも、「穴を通す」ことに意味がありそうだ。
つまりは、そういうことなんだろう。
おあつらえ向きに、この先には子種石がある。


で、石を投げた結果はどうなったか?

真っ暗で何も見えませんでしたとさ。
(写真だと明るいようだけど、これは長時間シャッター)

ただ、2発目は鳥居に当たって跳ね返る音がしなかったので、
きっと穴を通って向こう側に落ちたんだと思う。
ということにしておく(笑)


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日光東照宮の境内の北東、東照宮美術館の脇に「史跡探勝路」なる遊歩道があり、
その小道を辿っていくと、程なくして開山堂に到達する。
そこは東照宮周辺の喧噪とはかけ離れた、物静かな佇まいだった。

杉の茂る境内に、朱塗りの建物が二つ。
奥のお堂が開山堂、勝道上人を祀る霊廟で、
勝道上人とその十人の弟子の木像が安置されているという。

手前の建物は観音堂(産の宮)。鳥居は神仏習合の名残。
境内に入ると真っ先に、観音堂の異質な光景に目がいった。

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正面には将棋の駒があふれんばかりに並んでいる。
数を数えようとしたが、面倒になって止めた。

由緒書きにはこうある。

 「この観音堂は揚柳観音を祀ったものであり、
 別名「香車堂」「将棋っ駒」とも呼ばれる。
 将棋の駒の香車が戻らずに直進する駒なので、
 妊婦がこの駒を借りて帰り、自宅の神棚に祀ると
 無事出産できるという安産信仰の社でもある。
 出産後は借りた駒と共に新調した駒を一緒に返納するので
 駒の数は増えるばかりである。」

勝道上人の霊廟の横に安産信仰とはまた唐突な話だが、
行者(ぎょうじゃ)が訛って香車(きょうしゃ)にでもなったのだろうか。
真っ直ぐ進む香車が、子宮から出てくる子に見立てられるというのは珍しい気がするが、
香車の意味するところの槍は、矢などと同じく男性の象徴とされるので、
やはり子孫繁栄にまつわることから生じた信仰なのだろう。
開山堂から先は女体山に繋がる山岳信仰の古道で、
女体山の参道にも当たるこの地に女人のための信仰が興ったことも頷ける。




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開山堂の裏手には、勝道上人の墓所がある。
墓所の背後の岩壁は「仏岩」と呼ばれていて、
仏岩の岩窟で勝道上人が入寂したとも、仏岩で荼毘に付されたとも、
仏岩の上部に遺骨が納められていたとも言われている。
かつて、この岩壁に仏の姿をした岩が並んでいたそうだが、
地震で崩れ仏岩の名のみが残ったのだとか。

現在では、高くそびえる岩壁の足下の窪みに、六体の石仏が安置されている。
梵天、帝釈天、四天王のうちの三体、不動明王。いずれも仏法の守護神だ。
腰より下を土中に埋ずめ、静かに並んでいる様は、
勝道上人を護り通すという固い意志にも感じられた。

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日光と言えば日光東照宮。

首都圏で育った人は、修学旅行で必ず行く場所だそうだけど、
関西で育った私にはあまり馴染みのない場所だった。
数年前、東北からの帰りに立ち寄ったことがあったが、
人の多さにゲンナリした覚えがある。

私にとっては日光東照宮を含む二社一寺は、その程度の認識だった。
一昨年、曾祖父の出自を知るまでは…


曾祖父は、祖母が幼い頃に亡くなってしまい、
詳しいことはほとんど伝わっていなかった。
僧だったこと。関東で修行し、鳥取を経て愛媛にやって来たこと。
どこかの寺の歴代住職の墓に入っていること。
それしか情報が無かったが、父の記憶を頼りにそのお寺を訪ねたところ、
山の上の奥の院に墓所があることが判明したのだ。

その時までほったらかしていたのもひどい話だったが、
久々に父の故郷に帰ったその時に、思い立って探したのが良かった。
そうでないと、そのまま永久に忘れ去られるかもしれなかったのだ。

その墓標に、「静然大僧都」「大正11年没」「日光輪王寺彦坂大僧正徒分」
と刻まれていたので、曾祖父が日光で修行したことが分かったのだ。
関東で修行した人、という祖母の記憶とも一致している。

そして、曾祖父の足跡を巡る旅が始まったのだ。


…と思ったが、そのまま約一年半、放置してしまった。

そうこうしているうちに、祖母が骨折して入院してしまった。
幸い命に関わる怪我ではないが、年齢も年齢なので心配だ。
思い立って、曾祖父の育った日光へ、回復祈願に参ることにした。

これが、今回の日光への旅の真の目的だったのだ。




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二社一寺と先述したとおり、日光は
「日光東照宮・日光山輪王寺・ 日光二荒山神社」で構成されている。
これは、明治政府の神仏分離令によって神社と寺院が明確に分けられたからで、
それ以前は、全てひっくるめて「日光三所権現」と称し、
神仏習合の山岳信仰が行われていた。

東照宮は衆知の通り、徳川家康が亡くなった後に建立された神社で、
元和3年(1617年)に社殿が完成したのに対して、
二荒山神社、輪王寺は奈良時代にまで遡るようだ。
輪王寺は以前の日記でも紹介した日光山中禅寺と同じく、
勝道上人の開創と言われている。



東照宮関係の建物は相変わらず混み合ったいたので、
お参りだけをササッと済ませた。
本殿は改装中で、ちょうど御神前の床下を組み上げていた。
宮大工の仕事を目の前で見るという面白い体験が出来たが、
人混みに飲み込まれる前に退散した。


で、肝心の輪王寺である。
輪王寺といっても、先に述べた日光三所権現時代の名残で、
日光山中に関係する寺院が点在している。

この日訪れたのは東照宮に隣接する、輪王寺の本堂・三仏堂。
日光三社権現本地仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)という
高さ8.5mもある金色の大仏三体と、
東照三社権現本地仏(薬師如来・阿弥陀如来・釈迦如来)という掛仏の、
2組の三尊仏がご本尊として祀られている。
祖母の回復を祈願。


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さて、ここを訪れたもう一つの理由は、この三仏堂の脇にある「金剛桜」が、
曾祖父の師である「彦坂大僧正」に由来する木なのだというからだ。
彦坂大僧正に関する情報が、この桜の木しか分からなかったので、
とりあえずやって来た。

桜の根本の由来書きにはこうある。

「黄芽、白花大輪の山桜で花香が強く、樹齢は約500年。
 地際より数本の支幹に分かれ、特異の樹形をなし、
 その基部の周囲は約5.7mに及ぶ。繖房状に3~4花を着け、
 花茎は約3.8?で、極めて大輪。

 花弁は円形で長さ約1.7?。巾は約1.6?で、花弁の縁は重なりあっている。
 明治年間、当寺門跡厚大僧正が移植せられたもので、
 大僧正の諡号、金剛心院に因んで命名されたもの。

 昭和11年5月10日三好理学博士の調査により、山桜の勝れた突然変異種に属し、
 加うるに樹形の著しきにより名木として指定を受く。」


これだけでは埒があかないので、寺務所を尋ねてみた。
寺務所の応接間に通され、色々と話を伺った。

この厚大僧正というのが、曾祖父の墓標に刻まれていた彦坂大僧正だそうで、
つまり、俗姓が彦坂氏だったのだ。
出家のことはよく分からないが、俗名を捨てるとはいえ、姓は記録に残るらしい。

寺務所ではさすがに曾祖父のことまでは分からなかったが、
師である厚大僧正は、すごい偉大な人だということが分かった。
どうも輪王寺の門跡再興の祖らしい。

輪王寺の歴史をザッと書いてみる。
輪王寺はもともと、「満願寺」だったが、明暦元年に後水尾上皇の院宣により
「輪王寺」の寺号が下賜され、それ以来代々、法親王(出家した皇族)が住持を務め、
「輪王寺門跡」あるいは「輪王寺宮」と称された。

ところが戊辰戦争中、当時の門跡を彰義隊が担ぎ出し、
京の天皇に対抗して、「東武天皇」として即位させた。
が、上野戦争に巻き込まれ、東北に逃亡するものの、降参。
蟄居の後還俗、これが北白川宮能久親王を名乗った。

この一連の戦いの影響か、明治新政府の神仏分離令で、
「輪王寺」の称号は没収され、もとの「満願寺」に戻る。
この時に門跡号も途絶えたのだろう。
そして明治15年、内務卿の許可を得て厚大僧正は正住職になり、
翌年、門跡号を復興して「輪王寺」を再興したのだ。



先に述べた金剛桜は、神仏分離令によって移転した三仏堂の景観を整えようと、
厚大僧正が他所から移植してきたもの。
当時すでに樹齢400年を越える老木だったのを、
大僧正は毎日この樹の下に来てはお経を唱え、養生した。
その甲斐あってか、新たな根も生え、
これまで以上に繁茂するようになったのだという。


結局、曾祖父のことはよく分からなかったが、
修業時代、きっとこの桜の樹の世話などもしていたのだろう。
こうして、立派に紅葉している老樹を目の当たりにすることで、
曾祖父に少しでも触れることが出来たような気がして、嬉しかった。

空は澄み渡り、どこまでも青かった。
この日は旅行中、一番の好天気。
戦場ヶ原で夜明けを迎え、軽く食事をとった後、
中禅寺湖の湖岸を走り、東岸の山上、明智平に向かった。

明智平は、日本史の謎の一つ「南光坊天海=明智光秀 説」
の証拠の一つとされる場所である。
つまり、いつの間にか徳川家康のブレーンとして歴史に登場し、
東照宮の創建にも関わった江戸幕府の政僧南光坊天海が、
その謎の前半生と、東照宮に点在する明智家の桔梗紋、明智平の命名などから、
天海の正体は明智光秀か、またはその近親者、という俗説が生まれたのだ。

まぁ今回の訪問はそれを掘り下げるわけではなく、
ただ、男体山を拝みたかっただけなのだが。


明智平からロープウェイに乗り、展望台へ。
ものすごい強風。
この日は比較的温かく薄着だったので、冷たい風が肌を刺すようだ。

それでも、展望台からの眺めは素晴らしかった。
昨日、一昨日と過ごした奥日光が一望できる。
ものすごく大きく感じた中禅寺湖も、明智平から眺めると水たまりのようだ。
日光山を開いた勝道上人が、男体山の登頂時にはじめて、
眼下の湖に気がついたという冗談のような逸話も残っているが、
こうして高所に立ってみると、山を拓くということは、
その土地一帯の地勢を把握することでもあったのだろう。



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登山家に、山に登る理由を問うと、「そこに山があるから」と言う。
使い古された言葉だ。

マタギの血の交じった友人は、山には3つの世界があると言っていた。
まずは麓、人間の世界。
そして中腹は、獣の世界。
一番上は、神の世界。
獣の世界から人間界へあふれた害獣は駆除してしかるべきだが、
人間も必要以上に獣の世界に踏み込まないし、必要以上は殺さない。
日本人はこの絶妙なバランスを保つことによって、自然と共存してきた。
ただ、闇雲に傷つけないことだけが自然保護ではない。全てはバランスなのだ。
そして、神の世界、具体的には森林限界以上と言っていたが、
そこには決して踏み入りたくないと。血がそうさせると。

それは友人の個人的な心情だし、レジャーとしての登山を非難するものではない。
ただその言葉は私の心には重く響き、それ以来、なんとなく登山は避けてきた。

私の父親は若い頃は登山が趣味だったので、
高校に上がる前は幾度となく山に連れて行ってもらった。
今思えば関西の名だたる霊山ばかり踏破していたようだ。
「なんで霊山ばっかり?」と訊いてみたが、本人には自覚が無いようだったが…

そして今の私は…
聖地を色々とまわっていると、どうしてもその先を見てみたくなり…
何度か、登山に誘われることがあっても、どうも実行に移せなかったり…
まぁ、こういうのはお導き次第、と言う考えの持ち主なので…

ただ一つ言えることは、私が山に登ることになった時は、
その理由は「そこに山があるから」ではないのだと思う。
きっと、「神のもとに近づきたい」のだと思う。
まぁ神なんてものは概念に過ぎないのかもしれないけど、
「なにか高いところからいつも見守ってくれている存在」
に近づいてみたいのだと思う。


話は元に戻るけど、手元にある藤森栄一さんの著書『古道』に、
昭和33年、男体山に本格的な考古学調査が入った時の調査隊の一人、
佐野大和さんの言葉が載っていたので、転載してみる。
ちなみにこの時の調査は凄まじいもので、山頂の巨石や岩の至る処に、
王朝時代から武家全盛期にかけての様々な珍宝が置かれていたそうだ。
それは考古学者と言えども、生涯に一度当たるかどうかわからないほどの、
すばらしい光景だったそうだ。


 「 西日の落ちようというころ、西方の真っ赤な雲海にむかって、
 巨石の上に端座、激しい呪文を唱えている行者があった。
 それは、生きた人間であって、しかも、すでに人間ではなかった。
 やがて、数人の行者は、西方目くらむばかりの断崖の岩壁に
 上半身をのりだして、鬼のような形相で何かを求めていた。

  洪宝はそういう行者たちが、千年以上前から、登攀してきては、
 西方浄土に、より近い高さ故に、こうして捧げてきたものである。
 むろん、行者自身の持物もあろうが、さる貴き人たちの発願で
 斎らされた宝物が多かった。関東ばかりではない、遠く、都からも、
 この男体の西方への祈りが、行者にたくされてきたであろう。」



山は遠くから眺める方が良い、と言う。
たとえばあんなに美しい富士山なども、登山道に立ってみるとただの瓦礫の山だ。
人々は、遠くに見える美しい山を、神の象徴・偶像として遙拝してきた。
これは、現存する古い神社などを見ても明らかなことだ。
そして、さらに一歩踏み入れたくなった人々は、
近づき、よじ登り、たどり着き、感じた。
そこにはただ空があっただけかもしれない。
でも、遠くから眺めるだけではわからない、何かがあるんだろう。

残念ながら、私は自意識が芽生えてからは父親と登ってないし、
今回だって、車やロープウェイでビューと登ってきただけだが…

いずれ、目の前にそびえる男体山に、ちゃんと登ってみたいものだ。

早朝。

目覚ましアラームより前に目が覚めた。
寒くて起きてしまった、と言ったほうが良いかもしれない。
私は朝は弱いので、二度寝してしまいそうになったが、
昨日寝過ごしてしまったことが頭に浮かび、意を決して跳ね起きた。
そもそも、戦場ヶ原に車中泊した目的は、早朝の風景を撮影することだ。
前日に下見もしている。
日の出前だというのに、もう空は明るくなっている。
急いでカメラを携え、撮影場所に向かう。

頭の中の想像では、朝日に染まる朝靄の向こうに、男体山の影が立ちそびえる、
そんな画を想定していた。
しかし、空はカラッと晴れて、靄なんてどこにも立ちこめていない。
このまま日の出まで男体山に対峙していても仕方がないことはすぐに分かった。

予定変更。
撮影候補その2の、戦場ヶ原の夜明けを狙うことにした。


     * * *  
     
そもそも戦場が原とはなんぞや?
物騒な名前だが、実際に血生臭い戦場になったことはないようだ。

ここは、約2万年前、日光火山群の噴火で堰き止められた湖の跡。
地面に倒れた葦などの植物が、気温が低いが為に腐らずに形を留め、
腐葉土化して積み重なって出来た大湿原地帯。
なので、ここで戦争などしようものなら、敵味方関係なく湿地に沈んでしまう。
とても人間の立ち入るような場所ではないのだ。

「戦場ガ原神戦譚」には、この地の由来が書かれている。
ことの起こりは、中善寺湖の領有権を巡ってのこと。
上野の赤城山の神と下野の男体山の神との間で戦争が起こった。
ところが、いざ戦争が始まると、男体山の旗色が悪くなった。
そこで男体山が鹿島大明神に相談すると、
奥州小野の猿丸という弓の名人をの存在を紹介してくれた。

猿丸が戦地を訪れると、赤城山の化身のムカデの群れ、
男体山の化身の大蛇の群れが争っていた。
猿丸が目をこらすと、赤城山勢の中に二本の角を持つ大ムカデがいて、
それを大将と見定めて、左の目を打ち抜いた。
こうして赤城山の神々は諦めて撤収して、男体山の勝利に終わった。


ちなみに小野の猿丸とは、猿引きをする家の元祖であると、柳田国男は言っている。
猿引きとは猿回しのことで、今日の猿回しの家に系図をみると、
どの家も下野小野氏の家紋、右二つ巴の紋を使っているのだそうだ。
だてに日光猿軍団がいるわけじゃない。

猿引きとは、かつては立派な職業的宗教集団で、
猿を引き連れ日本各地を巡業して周り、信仰を集めていた。
主な対象は牛馬を扱う人々で、厩の前で猿回しをして、
牛馬への祈祷を行ったという。
今でも古い厩に、駒引き猿の絵馬や、
猿の頭や腕のミイラが残されているのはその為だ。

男体山の大蛇は、現在も祀られている大己貴命
(=出雲神・蛇神とされることが多い)のことだろう。
男体山に敗れたムカデとは、谷川健一によると、
鉱脈の形状がムカデに喩えられたとのことで、足尾鉱山のことか?

山の信仰集団による鉱山開拓の歴史が、
この伝説には詰まっているような気がしてならない。


     * * * 

話を戻そう。

戦場ヶ原展望台に行き、三脚を据えつけた。
構図を決めようとするが、これといったシンボルが有るわけでもなく、
いまいち決定力に欠ける気がする。
さてさて、日が昇って斜め上から降り注ぐの強い光に期待しようか。
などと曖昧に考えつつ、寒さに震えながら待っていた。
寒さで電池が消耗するから、電池を肌着の中に入れ温めたり、
三脚の横で運動して、体を温めたり…



すると、なんとしたことか。
山の向こうの空が色づいてきた。
この方角が茜に染まるとは予想外のことだった。
急いでカメラを起動し、レンズを替え、構図を決め、シャッターを切る。

わずかの間のことだった。
やがて光は意志を持ち、遠の山々を照らしはじめ、空は白んでいく。




夜明けだ。
新しい1日が始まる。


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私は迷っていた。
場所は戦場ヶ原。
時間は午後五時をまわっている。
無性にお腹が減っていたのだ。

中禅寺湖畔でも食べるチャンスがあったが、
なんだか食指が動かないままここまで来てしまった。

戦場ヶ原には、この日の車中泊の場所の偵察と、
明日撮影すべきポイントを探るために、日のある内に立ち寄ったのだ。
ならば、偵察は済んだので食事をすればいいだけの話だが、
そうもいかない。

というのは、あてにしている奥日光湯元温泉が、
午後六時までの営業とのこと。
戦場ヶ原で食事を取れば、確実に間に合わない。
体は芯から冷え切っていた。
温泉街なら夕食もなんとかなるはず!
考えあぐねた末、私は湯本へ急いだ。


こんなはずじゃなかった。
プリントアウトしてきた立ち寄り湯は、
在るべきはずの場所には無かった。
そのうえ案内板にも、それらしき施設が
白のインクで塗りつぶされた跡が…
そのうえ、温泉街自体が雪に埋もれ、静まりかえっている。

駐在さんに確認すると、やはり数年前に立ち寄り湯は廃業したそうだ。
他の数件の立ち寄り湯の場所を訊いて、そちらへ向かう。
が、なんとその2件とも、本日休業日とのこと…
シーズンを過ぎた温泉街の悲しさよ。

仕方が無い。
なんとか、日帰り温泉をやっている旅館を見つけたので救われた。
運任せで選んだ温泉だったか、これが大当たり。
お湯はいいし、綺麗だし、そのうえ他にお客が居ない^^
ちょっぴり長湯をしてしまったが、
体はホカホカ、気力も体力もすっかり回復。

さて、夕食は温泉街ではありつけないことが分かった。
仕方がない、戦場ヶ原に戻ってみよう。もしかしたら夕飯抜きか?

戦場ヶ原のドライブインに戻ってみると、
幸運にも一件のドライブインの灯りがともっていた。
そこは食事も出している店だ。
駆けつけてみると、不意の客に驚く店主。
しかし、残念ながら食事のサービスはもう終わってしまっていた。

パンならあるよ、と言うので物色しても、カステラだし…
そこで、「おっきりこみ生麺」に気がついた。
「おっきりこみ」とは、北関東の郷土料理で、きしめんやほうとうの類だ。
生麺と地酒を買って、やっとこの日の夕食が決定した。
産直野菜なども売っていれば言うこと無しなのだが、これは無かった。
車に積んである野菜で何とかしよう。


だが安心するのはまだ早かった。
なんと、寒すぎて湯が沸かない…
寒冷地適用のツーバーナーを使っているのだが…

同時に温めている携帯食のかき餅を断念し、
最大火力で湯を沸かすことに専念。
紆余曲折を経て、やっと夕食にありつくことが出来た。
決して上出来とはいかない料理だったが、
寒空の下食べる煮込みうどんは最高だった。

夕食に向けて一喜一憂の繰り返しだったが、
これも気ままな旅の醍醐味だ。
こういうことでも楽しめてしまう自分の性格に乾杯☆



心に余裕が出来てくると、雲一つ無い星空をただ眺めているのがもったいなくなった。
酒を呑んで気が大きくなってもいたのだろう。
この星空を撮ってみよう、と思った。
私の父親は、天体写真を趣味としていたので、
小さい頃に何度か、夜の山奥に連れて行ってもらったことがある。
そういうことを思い出しつつも、三脚にカメラを乗せて、
最適な場所を探し歩いた。

また体が冷えてしまうが、そんなのは関係ない。
目の前にそびえる男体山と、満天の星空を目の当たりにして、
もう他のことは考えられなくなっていた。

しかし、真っ暗闇で構図の決定がこんなに難しいとは思わなかった。
ピントもいまいち合わせづらい。
目測で無限大に合わせればいいというものでもないようだ。
かといって星を注視するとかえってピントが合わないので、
ファインダーをぼんやり見つめて感覚だけでピントを合わせる。
注視の外の感覚のほうが、案外正確なことに気がついた。

シャッターを切ってみて数十秒間露光して、
仕上がりを液晶画面で確認する。
デジタルの功罪は、なまじ確認できてしまうので、
納得がいくまで撮り続けてしまうことだ。
それだけに時間が掛かるし、その分体が冷えていく。
おそらく気温も零下のはずだ。

限界を感じつつもなかなか納得がいかず、
最適な場所を探し歩いているうちに、
撮影しはじめたころにはまだ見えなかったオリオンが、
いつの間にか男体山の上空に現れていた。

今しかない!と思って撮影した一枚。

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中禅寺湖では、少しのんびりしすぎてしまった。
半月山の展望台から中禅寺湖を男体山を眺めたり、
二荒山神社に参拝したりで、気がつけばもう夕方になってしまっていた。

実は、一昨年東北からの帰りに日光を訪れたことがあったのだが、
その時は東照宮周辺と、二荒山神社中宮を観光したにもかかわらず、
華厳の滝を見逃してしまっていた。
滝と言うからには山の中にあるものとばかり思っていたので、
土産物屋の並ぶ湖岸に、まさか華厳の滝があるとは思っていなかったのだ。

行ったことのある人ならすぐ分かることだが、
華厳の滝は男体山の噴火でできた堰止湖である中禅寺湖から、
堰を破ったように流れ落ちている滝なのだ。
言わば天然のダム放水口である。
湖によくある、龍神や巨人が岩壁を蹴破って水を流した、
といった内容の伝説が無いのが不思議に思える。

駐車場に車を停め、滝の側へ。
そこには展望台があり、滝を上から眺めることが出来る。
が、もっと滝に近づきたい観光客の心理をくすぐるように、
ちゃんと有料のエレベーターが用意されていた。
駐車場でお金を払ったばかりなのに、さらに料金を取るのか!
と憤慨しつつも、ちゃんと払ってしまうのが観光客の悲しい性。

高度差100mというエレベーターに載り、
滝壺と同じ高さの展望台にたどり着く。
断崖絶壁を真っ直ぐくりぬくエレベーターとは、複雑な気分…

だが、そこから見る華厳の滝は圧巻だった。
展望台から滝壺までは距離があるにも関わらず、
ドドドドドドド・・・・と、滝壺に叩きつける水の音がこだまする。
周囲は、中禅寺湖が堰き止められる以前に、
長い長い時間を掛けて削られたであろう岩肌がむき出して、
鋭角に削がれた岩盤は、そこを訪れる者にキバを剥いているようだった。

カメラのファインダー越しに滝と対峙していると、
滝の瀑音が耳の感覚を奪い、自分が周囲から分離して行く気がした。
ファインダーというのは不思議なもので、
被写体に対する集中力が極限にまで達すると、
自分を取り巻く周りの世界は構図の彼方へ消失し、
自分の存在は被写体と一つになる。

それは食うか食われるかの精神の戦いのときもあれば、
激しく繋がりあった後のエクスタシーのときもあるのだが、
そういう感覚に陥った後は、とにかくげっそりと疲れる。
昔の人は、写真を撮られると魂を抜かれる、と感じたらしいが、
撮影する方もまた、魂を削られているのだ。


気がついたら、ずいぶん時間が経っていた。
まさか有名な観光地の、用意された展望台の上で、
このような撮影になるは思わなかった。
いつの間にか土産物屋はしまっていたが、
観光客は相変わらず、ひっきりなしに入れ替わっていた。
私はにわかに羞恥心を覚え、その場を立ち去った。

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出流山を出発した私は、ルートを決めかねていた。

自宅で軽く目を通してきた日光周辺の道路地図では、
出流山の隣、鹿沼市から足尾町を経て日光に出る粕尾峠のルートを確認していたが、
ナビで見ると、この道がとてつもない山道であることが分かった。
心情的には、修験の山をかすめる山道を通って日光入りしたかったが、
これから暗くなろうという時刻、山中の峠道に入っていくのは危険な気がした。

それに、このまま日光で車中泊するとしても、明日の朝食などは入手しておきたい。
なので、平地に戻り、日光街道を進むことにした。

日光街道(例幣使街道:国道121号)は、片道1車線の狭い道路。
両脇に杉の大木が延々と並んでおり、大変情緒がある。
のだけど、日も暮れて照明もなく真っ暗なこの街道は、
杉並木の圧迫感もあって、かなり神経を使う道路だった。

途中、今市の「とんかつあづま」で夕食。
モチモチの特上ロース、思えばこの旅一番の贅沢だった…

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今市のスーパーでつまみやパンを買いこみ、再び日光街道へ。
そのまま真っ直ぐ日光に到着。

ライトアップされた神橋を眺めたのも束の間、
さらに奥地へと進む。
この日の最終目的地は、中禅寺湖のほとりにしようと決めたのだ。

渋滞で有名ないろは坂も、夜中には車はほとんど居ない。
あっという間に中禅寺湖にたどり着き、ちょっと拍子抜けした。


さて、中禅寺湖に着いた。
一応車中泊の出来そうな場所として、
何か所か候補にあげていた場所はあるのだが、
心情的には、朝一で中禅寺湖に浮かぶ男体山を拝みたかった。

候補地の一つに、中禅寺湖に突きだした「八丁出島」があった。
そこなら障害物なく、目の前に男体山を望める。
行けるところまで車で行こう。

ということで、湖岸の道を時計回りに南に向かう。


だが、これは徒労に終わった。
道がすぐに封鎖されていたのだ。どうやら夜間通行止めらしい。
後で分かったが、八丁出島は驚くほどアクセスが悪い。
夜に乗り込もうだなんて、無謀そのものだったようだ。

途方に暮れていても仕方がないので、もう一つの候補、戦場ヶ原に向かった。
ちなみにこの候補と言うのは、朝一で写真を撮りたいスポットのことで、
それにさえこだわらなければどこでも良いのだが…

戦場ヶ原に着いてみると、真っ暗だ。
さすがに土地勘もない山中に、闇夜にいきなり飛び込むのは厳しい。
どこか遠くで野犬?の遠吠えがするし、そのうえなんと、雪が降ってきた。

私は一目散に引き返した。
やはり多少は明るい湖岸で車中泊しよう。
無駄な行動だけど、今回の旅は平気だった。
なにしろ、ガソリン代が110円台にまで下がっていたからだ(笑)

結局、中善寺湖東岸、立木観音の中善寺の側の、歌が浜駐車場で車中泊。
幌の内壁に銀マットを張り巡らし防寒、シュラフを2枚重ねにしてバーボンを舐めた。



翌日。

早朝に設定したアラームで目覚める。
窓の外は曇り模様。それどころか、強風が吹いていた。

前日の夜、観光案内板で調べたところ、
歌が浜から八丁出島まで歩いて40分程度。
歩けない距離ではない。
三脚担いで朝一で行ってみよう、と思っていたのだけど、
曇り空に気分が萎え、強風に身を震わせて、
再び深い眠りの中へ。


起きるともう10時近くだった…

相変わらず風は強いが、ツーバーナーでお湯を沸かしつつ、
昨夜買ったパンを網の上で炙る。
豆を挽いてコーヒーを淹れ、ちょっとだけ贅沢な朝食。

もうこうなっては八丁出島に行こう、などという気はなくなった。
すぐ隣の、中禅寺に参拝。


中善寺は内部が撮影禁止だったので写真を撮っていないのだが、
ご本尊の立木観音はぜひ生で見て欲しい。

奈良時代末期、日光を開いた勝道上人が彫ったとされる十一面千手観音観音像。
男体山の麓、今の二荒山神社中宮の位置に立っていたカツラの大木を、
なんと立木のまま彫ったのだという。
その後、廃仏毀釈の混乱の中、元の位置から現在の中善寺に匿ったのが、
立木観音の由来。
彫ったときから西を向いていたので、中善寺でも西を向かせて安置してあるそうで、
ちょうど中禅寺湖を眺める方向を向いている。
今まで見たことのないような、とても慈悲深い表情をしていた。


もう一つのご本尊は、波之利大黒天。
「波のり」と書いて「はしり」と読む。
これは、勝道上人が男体山の頂きに到達したとき、
中禅寺湖の波の上に現れた大黒天のこと。
波乗りの神さまではなく、
波の上を走る→安産、波に留まる→足止め→無事帰還・浮気防止
のご利益があるとされているらしい。
こちらは拝観することは出来なかった。

十一面観音、大黒天、勝道上人の組み合わせは出流山満願寺と同じである。
勝道上人の信仰していた十一面観音に、
二荒山神社の本地仏・千手観音を組み合わせた姿が、
十一面千手観音なのだと寺僧は言っていた。

参拝ルートを辿っていくと、本堂の伽藍の上に出た。
そこから男体山と中禅寺湖が見渡せた。
いつの間にか空を覆っていた雲はちぎれ去り、
濃厚な青空の下をものすごい速さで流れていった。

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11月19日

出発日。
予定では早朝から出発しようと思っていたが、
起きたらすでに早朝ではなくなっていた。

急いでも仕方がない。
今日はとりあえず日光方面に着けたら上出来と考え、東北道に向かう。

今回の目的地は、栃木、日光、奥日光、那須と大まかにしか決めていなかったのだ。
11時ころ出発で、栃木県に入ったのはもう2時頃。
とりあえず栃木インターで降りてみた。

栃木に降りたのは、出流山満願寺を見てみたかったから。
日光を開いた勝道上人の生誕に関わる土地であり、
また日光山へ入山するには、まずここで修行をしなければいけないともいう。
最初に訪れる場所として相応しいと思ったからだ。

栃木インターを降りて栄えてない方へ進む。
幾つかの集落を通り越し、石灰の集積場のど真ん中の、
一面真っ白な山道を進む。
本当にこんな所に?と疑問に思う頃に、出流山への矢印が出てくる。
これの繰り返し。

やっと辿り着いた満願寺。
新蕎麦の旗がはためく参道を脇目に、境内の駐車場へ。
なんと、観光バスが出ていくところだった。
そんなに有名なスポットなのか!?
…自分で訪れておいてなんだけど、正直驚いた。

車を停め、まずは満願寺に参る。
真言宗智山派別格本山で、坂東17番札所。
なるほど、観光客も多いはずだ。
斗栱(ときょう)に龍の木鼻がずらっと並んだ立派な本堂だった。

お参りを済ませ、本堂の脇の奥之院入り口へ。
300円を払い、細い細い山道へ入っていく。

急な階段もあるが、基本的には沢に沿った山道。
途中、一組の老夫婦とすれ違ったが、人にあったのはそれだけだった。

左手は岩山で、聖天堂経由の急峻な道もあるようだが、閉鎖されていた。
緩やかな道をひたすら登っていくと、小さな小屋があり頭上の木立が途切れた。
ひと休みだ、とふと空を見上げると、赤い建物が目に飛び込んできた。

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そこが奥之院拝殿なのだ。
絶壁をつづら折り階段に沿って一気に登った。
息を切らせながら奥の院の入り口に立つ。
改めて建築の構造をみると、凄いことになっていた。


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岩壁にへばりつくように、下から何本もの柱で支えている。
なぜこのような所に奥之院を建てるかというと、
岩壁の途中にある洞窟に建物を繋げるためだ。

奥の院に足を踏み入れる。
がらんとした板張りの空間の、奥に木造が安置してある。
木造の上手、岩肌がむき出した部分の前には賽銭箱があって、
なんとその奥はぽっかりと洞窟がぽっかり口を空けている。

そしてその洞窟に入ってみると、ものすごいことになっていた。

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十一面観世音菩薩の後姿。
脇侍は三面六臂の大黒天(左)と勝道上人(右)とのこと。
天平時代、下野国司若田氏高とその妻、明寿が、
子宝に恵まれないことを嘆いてこの十一面観世音菩薩に祈念したところ、
霊験あらたかに男の子を授かったという。
この子が後の勝道上人である。
その後、勝道上人はここに満願寺を開き、
さらには日光山を開いたのだという。

若田夫妻が本当にここに来たのかどうかはともあれ、
岩壁の洞穴にこれを見出した人物は、さぞかし驚いたことだろう。
闇の中にフッと浮かび上がる異形。
腰を抜かすどころではなかったはずだ。


私は誰も来ない洞窟で、長い時間十一面観世音菩薩と向き合っていた。
いや、向こうは後を向いているのだから、こっちが一方的に眺めていたのか。
鍾乳洞には柵があって、観音様のお顔は拝見できないのだ。
それはともかくとしても、ひとりで照明に照らされたお姿を眺めていると、
観音様が、というより自然の奇跡が語りかけてくるようだ。
ここの闇は、恐ろしい闇ではなくて、全てを包み込む優しい闇だった。


鍾乳洞の照明のスイッチを切って(参拝者は各自照明を点ける)岩壁を降りた。
先ほどの小屋の空間までたどり着くと、
そこには往路では気が付かなかった滝行場があった。
「大悲の滝」
日光修験の行者は、ここで21日間滝に打たれなければ、
入山は許されなかったという。

さすがに滝には打たれなかったが、水の冷たさにひやっとしつつ、
出流山を発ち日光を目指した。


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11月19日から22日の4日間、ふらっと日光周辺に行ってきた。
運が良ければ紅葉でも見られるかな?と思っていたが、
奥日光はすでに晩秋を通り越して冬。
はっきりいって誤算だった。
それもそのはず、今日ニュースで中禅寺湖の雪景色が流れていた。
例年よりも早い冬の訪れなのだそうだ。

風に震え、雪に凍え、空腹に耐え。
もはや修行かと思うような旅だった。

今回はそんな孤独なひとり旅を、淡々と書き綴っていこうと思う。


*写真は半月山展望台から見た男体山。

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ここは山形県南陽市のとある峠道。
通行人を見下すように、大きな顔がほくそ笑んでいる。

鬼面石。
先人達も、同じようなことを思っていたのだろう。
鬼面石の説明板にはこのような伝説が記されていた。

「昔…このあたりの金山が盛んであったころ、
 ここ砥石沢の大きな岩の洞穴に鬼が住んでおり、
 ここを通る旅人を襲って金や品物を奪い、人々から恐れられていた。

 鬼は七日びには岩から岩へ渡した長い竿に綺麗な着物を掛けて虫乾した。
 これを見たものは長者になるとも盲目になるとも言い伝えられている。

 人々は今でもこの石を「鬼面石」と呼び
 鬼の着物を乾した岩を「竿掛石」と呼んでいる。」

ふむふむ、鬼の顔をした岩は、なんと鬼の根城だったようだ。
これほど分かりやすい住処も珍しいこと。
どれどれ、鬼とやらに会いに行ってみよう。
急斜面には申し訳程度に道が出来ている。
手摺りも階段もない、踏み固められただけの急坂道だ。
ひいひいと喘ぎながら登っていくと、そこには鬼は居なかった。

近くで見ると、鬼面石はものすごく大きい。
アゴの下に当たる部分がえぐれており、風雨が避けられるようになっている。
きっと鬼はここに住んでいたのであろう。
そして、峠道に旅人を見つけると、
斜面をものすごい勢いで駆け下りていったに違いない。
おっかないことだ。

もぬけの殻の鬼の住居を横目に、さらに斜面を登っていくと、
鬼面石の頭の上に出た。
ちょこんと小さな帽子のように岩が乗っている。
(小さな、といってもかなり大きいが…)

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これは笠石と呼ばれる形式で、色々な場所で見られるものだ。
ちょうど見る角度がよかったのだろうか、
岩の背の曲線が、向こうの山の稜線と重なって見えた。
向こうの山の名は秋葉山。
この笠石は秋葉山のミニチュアなのだろうか。

鬼面石の上に仁王立ちすると、眼下に峠道が一望できる。
壮観のひとこと。

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※大きい写真はこちらをクリック

うん!?
何か居る?

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なんと、赤鬼が山中の工場らしき施設を襲っているではないか!
これはヤバイ、戻ってきたら大変な目に遭う!

私は一目散に逃げ出したのだった。




ところで、この鬼面石伝説には異説があるようだ。
以下は南陽市のHPからの抜粋。

「市内の川樋地区と金山地区を分ける山に鬼面石がある。
 ここには大蛇が住み、金山からの登り口は、「竜の口」とも呼ばれていた。
 大蛇は、時に大雨をふらし、土砂を流して村を埋めたともいわれ、
 おかばみ沢 としておそれられていた。
 その近くの鬼面石は唐戸石とも呼ばれていたが、
 鬼面石には隠れ座頭という仙人が住んでいて、
 旧7月16日の盆には忍びの道具や衣装などを持ち出して、
 向かいの山まで綱を張って虫干しするのだ ったという。
 だから村人は7月17日には山へ入ってはいけないと されてきた。
 ところが、おかばみ沢の大蛇があばれまわる ので、
 たまりかねた仙人は金縛りの術にかけて閉じこめようとした。
 おかばみもさるもの、術を逃れようと騒ぎまわり、
 天を曇らせて大雨を降らしたので、村の人々は生きた心地もしなかったが、
  ついに仙人の術が勝って、おかばみは小さな白蛇に変えられ、
 諏訪明神の使いにされてしまった。
 川樋の諏訪明神は、それから雨乞いの神として信仰されるようになったという」

隠れ座頭という仙人、忍び道具の虫干し…
突っ込みどころが満載であるが、忍びと諏訪明神と言えば…

諏訪信仰伝搬の担い手が甲賀忍者だったので、不思議なことではない。
狩猟を生業にする人々に、肉食免罪符「鹿食免」を売り歩いたのだ。
(※詳しくは過去の日記を参照。)
金山採掘による山林破壊とそれによる鉄砲水や土砂災害を、
なんらかの技術を駆使して食い止めたのか。


気になったので、最寄りの諏訪神社を探してみると、
川樋の諏訪神社が近いことが分かった。
鬼面石の眼下の道を東に抜けたところが、川樋の集落だ。

大きな集落ではないので、諏訪神社はすぐに見つかった。
探すもなにも、祭特有の、大きな対のノボリが出ていたのだ。
境内入り口に共同水場を持つこの神社は、
いかにも村の神社と言った風情だった。

参道に提灯が吊ってあるので、やはり夏祭りなのだろう。
屋台などは出ていないから、こじんまりとした祭なのかもしれない。
石段を登って社殿の前に出てみると・・・

社殿で直会をしているではないか。
しかもみな、相当酒が入っている様子。
案の定、すぐさま呼び止められ、
あれよあれよの間に自分も直会の輪の中に…
自分の父親よりも年上であろう親爺さんに囲まれ、
あれよこれよと質問攻め。
残念ながら運転なのでお酒は飲めない。
まぁまぁ食えよ、と次々に出てくるキュウリ。
ちなみに山形弁なので、キュウリを差し出して「け!」
受け取って「く。」で会話になる(笑)

それはともかく、こんな大きくもない集落の神社に、
若者がひょいと現れたのが不思議でならないらしい。
まぁ当然といえば当然か。
あーだこーだの末、信州諏訪から来た神社写真家、
ということにされてしまった。

ここで得た情報は、「赤湯は素晴らしい」くらいだったが、
貴重な時間を過ごすことが出来た。
お礼に集合写真をパチリ。
世が世なら、諏訪明神の使いとして伝説に残ったかな?(笑)

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思わぬ足止めを食らったお陰で、この日の訪問予定は大幅に変更。
せっかくなので、赤湯に入っていくことにした。
川樋集落からそれほど遠くないようだ。

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国道13号を南下。
山間の道を下っていく途中、急に目の前が開けた。
東洋のアルカディア、米沢盆地だ。
視界の真ん中に小さな湖が見える。
瞬間、車を路側帯に停めた。
なんてことのない湖なのだろうが、妙に惹きつけられた。

その名は白竜湖。

「あるとき置賜(おいたま、当地方の名称)が日照りで雨が降らず、
 あちこちで水争いが起こるようになった。
 村人は毎晩のように雨乞いをしたが、雨は降りそうもない。
 そこへ旅の僧がやってきて、気の毒に思い、天に向かって
 経文を唱えること三日三晩、一天にわかに曇り、
 ぽつり ぽつり雨が落ちてきて、やがてざわざわと風がおきたかと思うと、
 湖から白竜が巻物をくわえて天に昇っていったという。
 それから村人はこの湖を白竜湖と言うようになったという。」
(※南陽市のHPから引用。)

これまでのことを踏まえて考えると、
この地方で雨乞いといえば川樋の諏訪神社。
鬼面石の仙人に退治された大蛇は白蛇に姿を変えて
諏訪明神の使いになった。
とうことは…
白竜湖の竜は、諏訪明神の使いに違いない!


もつれ絡み合う奇妙な縁。
鬼面石に宿るのは、鬼かはたまた仙人か。
ほくそ笑むあの顔が、いつまでも脳裏から離れない。

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(2008年8月3日)



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