2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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早朝、榛名湖畔で目を覚ました。
前日に片品で吹割の滝を堪能した後は長野に向かって移動。
昼前に諏訪で用事があるので、その途上にあたる榛名山で車中泊をしたのだ。

榛名山には、以前、夜中に訪れたことがある。
そのときも何かの途上で、伊香保温泉で入浴した後、
榛名神社を目指してドライブした。
途中からものすごい霧に包まれ、なんとか榛名神社の鳥居まで行ったものの、
すぐに引き返した覚えがある。
それ以来、再訪を願ってやまなかったのだ。

この日も、前日の夜もものすごい霧。
時には一寸先も真っ白で見えないなるほど。
夜明けに合わせて目覚ましをセットして、朝の榛名湖を撮影しょうと思っていた。
湖面に映った榛名富士を、と思っていたが、霧が凄くてそれどころではなかった。
上の写真の小山の向こうに、榛名富士があるのだが…
これはこれで、榛名山らしい一枚になった。



霧は晴れそうもないので、榛名神社に移動。
榛名神社は榛名湖から南西に下っていく途中に鎮座している。
午前6時。人っ子一人いないので、土産物屋の駐車場を拝借。

鳥居をくぐり、随神門をくぐる。
すぐ左手に三重塔。
神仏習合時代の面影を色濃く残した境内だ。

しばらく行くと水琴窟。
なんとそこには先客がいた。
若いギャルとギャル男(もしかして死語か?w)のカップルだ。
とても参詣者とは思えない。犬を連れていたので散歩だろうか。


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カップルと着かず離れず、渓流に沿って参道を進んでいく。
左手は岩壁だ。
行者渓と呼ばれる岩と岩に挟まれた谷。
右側の岩には木の扉で閉じられた、人為的な四角い穴があった。
東面堂跡とのこと。
かつてはお堂の須弥壇の奥、秘仏・千手観音を納めていた場所だったそうだ。

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かつての東面堂は、歌川広重の「上野 榛名山雪中図」に見ることが出来る。



渓流沿いの道から左に折れ、岩壁の隙間に向かう石段を登ると、
ついに榛名神社の心臓部だ。
神門をくぐり、九十九折りに石段を登ると双龍門。
神域を構成する巨岩のひとつ、鉾岩を背負った門だ。

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すると、双龍門の手前でカップルの男が急に叫んだ。
どうも、ハチか何かに刺されたらしく、
ジャージの裾をまくってべそをかいている。
人のことをとやかく言うのは好きではないが、
お世辞にも神域に入るにふさわしいとはいえない態度。
神罰が下ったのだろうか。

カップルは御神体を目にすることなくその場を引き返して行った。
おかげで静かになった。

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双龍門をくぐると、さほど広くもない空間に、
前後左方から背の高い巨岩が屹立していた。
拝殿、その左には国祖社・額殿、背後には神楽殿。
額殿は神楽を見るための桟敷で、
太太神楽の額が多数かかっていることから額殿と呼ばれる。

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双龍門と鉾岩(ヌボコ岩/ローソク岩)

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神楽殿と弥陀窟(岩壁上部の3つの穴に阿弥陀三尊を祀ったとか)

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そして、拝殿の背後に御姿岩。御神体だ。


今にもこちらに落ちてきそうな大きな岩。
真横から見ると、相当傾いているようにも見える。
そして、この巨大な岩の首の部分に御幣が立てられているのには驚いた。
はしごも架けられそうもない大岩によじ登る人が居るということだ。
気のせいか、拝殿手前の巨大な杉の木の、枝が御姿岩のほうに張り出して、
落下を食い止めているようにも見える。
そうなるように成長するように、何かの力が働いたか。

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御姿岩の腹部には磐屋があり、拝殿とつながっていて、
そこに「御内陣」と呼ばれる主祭神を祭る場があるという。
主祭神は火産霊神(ホムスビ:カグツチ)と埴山姫神(ハニヤマヒメ)で、
イザナミの死因となった火の神カグツチの出産と、
その直後にひり出した大便(土の神)に由来する。
火と土の神を祀るのは、榛名山がかつて大噴火をしたころから、
綿々と続けられている信仰なのだろう。




参拝を終えたころ、社務所のおじさんがやってきて、
朝早くからご苦労だね、と声をかけてきた。
相変わらず霧の境内は神秘に包まれていたが、
その声で現実に戻ることが出来た。
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老神温泉ですっかり気分は回復したので、午前中に立ち寄ろうとした「吹割の滝」へ。
上の写真は午前中に展望台からみた景色。
雨で滑って落ちそうな気がしたものだ。

幸い、休んでいる間に天気も回復。
再びやる気もわいてきた。

滝への遊歩道の入り口には、かなりディープな土産物屋が…
食事をすると女将さんが裕次郎のカラオケを熱唱してくれるサービス有り。
チラッと聴いたが、いやに上手かった。
才能の無駄遣い…いや、趣味と実益を兼ねているというか…


しばらく下っていくと、岩盤の上に出た。
ひっきりなしに、スピーカーで足元の注意を呼びかけている。
岩盤の上に白線が引いてあり、それ以上外に出るなと。
ハイヒールのおばちゃんが白線の外でポーズをとってたが、
現地監視員にさっそく注意されていた。

そしてその背後には、「鱒飛の滝」

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落差15mの滝に鱒の遡上も止められるということで、
以前は鱒止の滝と呼ばれてそうな。
さっきまでの雨のためか、どどどどど、と轟音で荒れ狂っている。
しかし、これだけ侵食されても、滝の中央の岩だけは削られずに残っているのがすごい。
滝行に耐える修験者の姿のようだ。


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さて、メインの滝には、岩盤の上を進んでいく。
岩盤がないところは、絶壁につけられた細い歩道を進むのだ。

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この吹割渓谷は、およそ1万年前に片品川と栗原川に生まれた滝が、
上流へ侵食(後退)していった際にできた深い渓谷。切り立った崖は数十mに及ぶという。
渓谷にせり出した大岩を二つやりすごすと、展望台から見えた広い岩盤に出た。

岩盤の上に目をやるとぽっかりと穴が開いていた。

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約1.5mはある「おう穴」だ。ポットホール、または瓶穴ともいう。
川底の窪みにあった石が、水の力で回転しながら岩を掘り下げ、丸い穴をあけたもの。
水面に映る青空が余りに綺麗で、覗き込んで写真を撮っていたら、
まわりにぞろぞろ人が集まってきて、みな首をかしげていた。


そして「東洋のナイアガラ」が目の前に。

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千畳敷と呼ばれる岩盤にできた裂け目、そこに左右から一気に水が落ちるのだ。
その勢いはすさまじく、毎年7センチずつ、千畳敷を削りとっているとか。
増水しているからか、自分たちの足元の、白線ぎりぎりまで水が流れている。
落差は何メートルあるのだろうか?
滝つぼを覗き込みたいが、足元の流れに飲まれそうでこれ以上近づけない。
話によると、この滝つぼに竜宮城の入り口があるらしいのだが…

6月18日

取引先の懇親旅行で、群馬は尾瀬の入り口、片品へ。
懇親旅行といっても、ペンションで集まって呑んで騒ぐだけなので現地集合、現地解散。

翌日。
笑顔で解散するも、あきらかに呑み過ぎで気持ちが悪い…
でも、道中見つけた日本のナイアガラとかいう滝が気になっていたので寄り道。
日本のナイアガラは「吹割の滝」というらしい。
少し離れた駐車場に止めて、まずは全景を見ようと展望台へ。
ところがこれが誤算だった。
展望台は山の中。
山道を延々と登っていく。
しかも霧雨だっがどんどん強くなり、体が冷える…

一応全景を見たところで、一目散に退却。
うぅ、寒いし気持ち悪い…

これは出直しだ。
これまた気になっていた「老神温泉」に急行。
湯元華亭という温泉で小一時間ほどぼけーっとし、なんとか回復。


気を取り直して。
さて、この老神温泉、なんと言っても名前が気になる。
土地の古い神にでも由来しているのだろうか、と。

温泉街の中心に位置する神社に寄ってみた。


「赤城神社」

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写真

鳥居をくぐってまず目に飛び込んでくるのが巨大天狗。
むむ、これが老神様か?と思ったが違うみたい。
老神温泉から北西に位置する武尊山系に迦葉山という天狗で有名な山があるそうで、
おそらく迦葉山弥勒寺にある巨大天狗を意識したものだろう。

赤城神社は、上毛三山のひとつ赤城山の赤城大明神を祀る神社で、
群馬県ではポピュラーな神社。
調べてみると、なんと「老神」とは年老いた神ではなく「追い神」。

開湯伝説によると、、、
日光男体山のムカデ神と赤城山の蛇神が戦った時のこと、
赤城の蛇神が日光のムカデ神に射られてしまった。
赤城山の蛇神はこの地まで逃れ、体に刺さった矢を抜いて地面に刺したところ、
そこからみるみる温泉が湧き出した。
その湯に浸かるとたちどころに傷が癒え、ついに男体山の神を追い払うことが出来たという。
(老神温泉では、毎年5月に大蛇を担いで練り歩く「大蛇まつり」を行うとか。見たい!)

男体山と赤城山の戦いは、以前日記でも紹介した「奥日光・戦場ヶ原」が舞台。
なるほど、老神温泉を通る国道120号(通称・日本ロマンチック街道…)は、
金精峠を越えればすぐに戦場ヶ原だ。

『戦場ガ原神戦譚』によると、、、
中禅寺湖の領有権を巡って、男体山の神と赤城山の神の間で戦が起こった。
男体山軍の旗色が悪くなり、鹿島大明神に相談すると小野の猿丸を助っ人に呼ぶ。
猿丸が駆けつけると、男体山の化身・蛇の軍団と、赤城山の化身・ムカデの軍団が戦っていた。
猿丸は、敵中の二本の角を持つ大ムカデを大将と見定め、左目を打ち抜いたところ、
赤城山の神の軍は撤収し、男体山の勝利に終わった。。。


あれ?
どちらも蛇神が勝ったことに違いないが、
栃木側の伝説では「蛇神=男体山、ムカデ神=赤城山」
群馬側の伝説では「蛇神=赤城山、ムカデ神=男体山」
になっている。

自分たちの山の神が勝ったことにしたい気持ちは分かるが、
どうしても自分のところを蛇、負け組みをムカデにしたいらしい。


そもそも蛇とムカデはよほど相性が良い(悪い?)のか、
昔から両者の戦いが数々の物語となっている。
きまって負けるのはムカデ側だ。

『今昔物語』
加賀の七人の漁師が不思議な島に流された。
島人の歓待を受け、隣の島との争いごとに助太刀することになる。
さて、隣の島から襲ってきたのは巨大ムカデ。
島の神である大蛇と血みどろの戦いを繰り広げたが、
漁師たちの放った矢がムカデを倒した。
漁師たちは島人からお礼として土地をもらい繁栄する。

また有名なところでは、俵藤太の「三上山の大ムカデ退治」がある。
俵藤太(藤原秀郷)が近江瀬田の唐橋を渡ろうとしたところ、大蛇が横たわっていた。
村人は恐れて近寄れないでいたが、秀郷は何食わぬ顔で跨いで通った。
大蛇は秀郷の勇気を見て、正体の龍神の姿を現し、
三上山の大ムカデを退治して欲しいと頼む。
大蛇は竜宮の王で、大蛇に化けて勇気のある人物を探していたという。
秀郷は苦心の末、大ムカデを鏃に唾をつけた矢で射止めた。
(ムカデは唾液を嫌うという。秀郷は眉に唾をつけて、
ムカデの吐く炎を防いだ。これすなわち眉唾。)
秀郷はその後、竜宮に招かれ、龍神からお礼として、黄金の太刀と鎧を頂いたという。

もっともこれらの話、蛇とムカデ、弓、謝礼という共通点があるので、同源なのではないか、とか、
藤原秀郷は下野(栃木)を拠点としていたことから、
戦場ヶ原の戦いがムカデ退治の元ネタとなった、とも言われているが。



ムカデは鉱脈の象徴とされるから、鉱脈を切り開いて手に入れた話とも捉えることも出来る。
日本最古の銅山、和銅が開かれたときに、
銅製のムカデをご神体とすべく、元明天皇から下賜された例があるから、
銅山とムカデは縁が深いと考えられていたのは確かな話。

確かに赤城と日光の間には銅で有名な足尾があるのだけど。
でもそんな安直な話でもない気がするし…
う~ん、謎だ。

6月13日

夕刻、浦賀の「為朝神社」へ虎見物。
京急に揺られること1時間、浦賀駅に降り立ったがあまりに何もない。
日本史上では知名度の高い浦賀も、実際は辺鄙な町だったと知らされる。
舗装された海岸道路を歩く。
あたりはもう真っ暗で、海は闇に包まれて見えない。
しばらくいくと、家屋の軒先には提灯がぶら下がっているのが見えてきた。
かすかに祭囃子も聞こえ、すでに祭の情緒が漂っている。

為朝神社に着いてみて初めて、為朝神社がとても小さな神社だということに気がついた。
石段を登った社殿前の広場からは、もうすでに人があふれていた。
私は体の小ささを利用してなんとか鳥居の柱の裏を確保。
しかし、柱に邪魔されて特設舞台は全然見えない…



為朝神社はその名の通り、鎮西八郎源為朝を祀る神社であるが、
不思議なことに本人との土地的なつながりは見出せない。
なんでも、寛政12年(1800)、浜町の漁民が海に漂流していた木像を引き上げ、
地蔵堂に安置し祀ったところ、当時蔓延していた疫病が治まった。
この木像こそが鎮西八郎為朝の像だったそうだ。
やがて為朝神社が創建され、航海及び疱瘡除の神様として信仰を集めていったという。

非常に不可解な話だ。
強弓の名手として名高い源為朝、生まれは河内。青年期は九州で活躍。
保元の乱で破れ伊豆大島に流された後は、流人に関わらず伊豆諸島を支配し、
八丈小島で追討を受けて自害した。
追討から逃れ、琉球王家の始祖・舜天となったという伝説もある。
ちなみに伊豆諸島では源為朝は絶大な人気があるそうで、為朝神社が三社もある。
海伝いに為朝神社が伝わったと考えるのが妥当だとは思うが、、、

調べてみると、面白いことが分かった。
1632年、八丈島に漂流物がきっかけで天然痘が蔓延したが、
八郎神社(為朝神社か?)に祈願したら治まったという故事があり、
1711年、江戸の疱瘡大発生で、鍋松君(徳川家継)も疱瘡にかかり、
故事をもとに八丈島の水と八郎神社の護符で祈祷すると平癒した、らしい。
それをもとに、江戸時代後期には「疱瘡除けの神・為朝大明神」が関東で流行したようだ。
そもそも、「八丈島」という名称自体が、「ハチロウ」の方言「ハッチョウ」に由来しているとか。
もしかしたら、「鎮西八郎→鎮静八郎」の語呂合わせかもしれない。



そうこうしているうちに、「虎おどり」が始まった。
近松門左衛門作『国性爺合戦』の主人公・和藤内の
「千里ヶ竹の虎狩り」から派生した民俗芸能で、
もともとは伊豆・下田に伝わっていたもの。
1721年、奉行所が下田から浦賀奉行所に移されるのにともない、
廻船の船改めをしていた下田の問屋が浦賀奉行所に伝え、
時を経て為朝神社で行うようになった。
『国性爺合戦』はもともとは人形浄瑠璃で、後に歌舞伎の題材となったが、
為朝神社の「虎おどり」は獅子舞などの民俗芸能に、
歌舞伎、唐人踊りなどの要素も取り入れた珍しいものとなって伝わっている。
下田から伝わった虎おどりに、八丈島から伝わった為朝神社。
時差から考えると、虎おどりのために為朝神社を勧請したとも思えなくはない。
下田の虎おどりは絶えたというが、もともとは為朝大明神と関係があったりはしないのだろうか?

ちなみに、岩手釜石には「釜石虎舞」が漁師の風鎮祈願として伝わっているらしいが、
その起源を、鎮西八郎為朝の三男閉伊頼基が士気の鼓舞のために舞った、
としているところが興味深い。



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まずは大陸風の衣装を身に着けた女児による唐子踊り。
いきなりの異国風情に度肝を抜かれ、以前上海で見た京劇を彷彿させる。

女児たちが舞台を退くと、太唐人なる髭の大男が舞台袖から虎をおびき出した。


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勢いよく二匹の虎が飛び出した。
親子の虎は時には観客にちょっかいを出しながら、舞台上を暴れまわる。

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舞台向かって右側、為朝神社の社殿ではお囃子組が盛り上げる。
境内にあふれかえった人々の見守る中、虎は見事に舞う。

人々が虎に見とれている間に、背後には男児が扮する和藤内が控えていた。
そして、、、




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叶明神の神札を振りかざし、一撃で虎を仕留める!

会場からは盛大な拍手。
こうして虎おどりは幕を閉じた。


ちなみに、叶明神とは浦賀の鎮守。
平家全盛期、文覚上人が、源氏の再興を願って房総半島の鹿野山に修行し、
願いが叶うなら良い土地に神社を建てることを誓った。
1181年、源氏再興の兆しが見えると鹿野山の向かい、浦賀に石清水八幡を勧請し、
1186年、壇の浦の戦いで平家が破れた際に、
願いが叶ったとして「叶明神」の称号が与えられたとの由緒を持つ神社である。
源氏を再興した源頼朝と壇ノ浦の戦いの功労者である源義経は為朝の甥に当たる。
為朝の兄、源義朝は為朝の敵方に回り、為朝を捉え伊豆諸島へ流罪にした。
敵同士になってしまった叔父・甥が、約4世紀後に結ばれるとは。
因縁とはなんとも皮肉なものだ。

















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6月7日

横浜・生麦の「蛇も蚊も祭り」を見に行った。
生麦事件で有名な生麦は、川崎駅と横浜駅をつなぐ東海道に位置する。
いまはすっかり住宅地になり、海も埋め立てで遠くなってしまったが、
かつては鶴見川の河口の半農半漁の農村だったという。

近代化した町並みに、いまも300年前の風習が残っていると知り、
以前から興味を持っていたが、今回念願かなって見学に行くことが出来た。

「蛇も蚊も」とは不思議な名称だ。
その名の通り、「蛇も」は蛇のことだとわかるが、
「蚊も」の蚊の由来はわかっていない。
蛇の鳴き声から由来してるのでは?という説もあるようだけど、眉唾だ。
というか蛇って鳴くのだろうか?

「蛇も蚊も出たけい、日和の雨けい」「出たけい、出たけい」がこの祭りの掛け声なので、
追い出す対象に蚊も含まれているのだろう。
マラリヤがハマダラカによる感染症と発見されたのが1902年だが、
日本では江戸時代にすでに蚊による感染症が知られていたことになる。


厄病よけに茅や藁で大蛇を作る祭りはこれまでにいくつか見てきた。
主に多摩川の流域に多いようで、いづれも江戸時代に疫病が流行したことが起源。
蛇も蚊も祭りも同時代のものだが、他所と違うのは祭りの後に川に流すこと。
奥澤神社大蛇お練り、百村妙見尊の蛇より神事などのように、
鳥居に絡ませたり、道に這わせたままにするのは、
集落に結界を張り厄災から守る「道きり・辻きり」の名残をうかがわせるが、
疫病を川に流すのは、「人形流し」の影響だろうか。
(※もっとも、流した蛇が船のスクリューに絡まる事故があったため、
  現在では川に流さず神社で焼くそうだが。)

疫病、という視点から外れるがと、似たような民俗行事に虫送りがある。
特に、津軽地方の虫送りは藁で竜を作り、それを川に流す。
また、虫送りで送られる代表的な害虫に、稲を食べる「うんか」が居て、
尾張地方にはその名の通り「うんか送り」なる、人形を川に流す民俗行事がある。
「蛇も蚊も」が虫送りから派生したと考えると、「蚊」は「うんか」のことなのかもしれない。
そもそも蛇だって、「マムシ」が示すように虫として考えられていたフシもあるのだ。



蛇も蚊もが行われるのは現在では2箇所。
道念稲荷と原明神社だ。
かつてはこの2社の蛇(道念が雄蛇・原明神が雌蛇)が最後に絡まる2社合同の祭りだったようだが、
明治の中ごろから合同ではなくなり、それぞれ単独に雌雄の蛇を作るようになったそうだ。

道念稲荷は、身延山の奥の院の奥、大蛇伝説のある七面山で修行した道念和尚が、
この地を訪れたときに建立した神社だそうだ。
この稲荷のお告げにしたがい、疫病退散と海上安全のために、
茅で大蛇を作り川に流す祭りを始めたという。


また一説にはこういう話もある。

今から400年以上も昔、村に模範的な青年がいた。
美しい妻を娶り幸せな暮らしをしていたが、ある時妻は病をこじらせ亡くなってしまった。
妻が息を引き取るとき、男は「二度と妻は娶らず、お前のことを一生忘れない」と誓った。
だが、四十九日も過ぎぬ間に、男は村人の世話で新しい妻を迎えてしまった。

再婚から三日後、新妻は夫とともに里帰りをした。
道中、妻がのどが渇いたと道端の池の水を飲もうと顔を覗き込んだところ、
水面に映った妻の顔は醜い大蛇の顔になっていた。
驚いた男は妻を支えていた手を離してしまい、妻はドボンと池に沈んでしまった。

すると、空に暗雲が立ち込め、大風が吹き大雨になり、稲妻が光り雷鳴がとどろいた。
そして池からは大蛇が現れ、男を飲み込もうとした。

男は、先妻への誓いを破った仏罰ではないかと、必死に謝り念仏唱え逃げ帰った。
そして毎日先妻の冥福を祈り続けると、六日目にどこからともなく大蛇が現れ、
呪うように家の周りを回り続けたが、夕方になると姿を消した。

村の古老が話を聞きつけ「家の軒先にショウブとモチクサ、カヤを置けば大蛇は来ない」と教えた。
教えの通りにすると六日目、再び大蛇が現れたが残念そうに帰っていった。

このことがあって以来、生麦村では茅で大蛇をつくり、自分の家の周りを子供に担がせて回り、
仏の供養に柏餅をつくり、子供たちに振舞ったという。
これを最初に行ったの6月6日なので、毎年この日に祭りを行うようになったという。


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当日、早朝から蛇を作り始めるとのことだったが、さすがにそこにはお邪魔せず。
祭りの始まる13時ころに原明神に参った。
明神の広場では社殿の前に、すでに二体の大蛇が横たわっていた。

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長さ約27m、目は巻貝、角は琵琶の枝、耳は琵琶の葉、それぞれ赤く塗ったもの。
口の中には頭と同じ編み方で舌を作り、尻尾には赤く塗った木剣。


しばらくすると氏子たちが集まってきた。
神主による祝詞奏上のあと、大蛇の頭にお神酒を振りまき、氏子たちもお神酒を頂く。
そして、二体の大蛇を担ぎ上げた。

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神社をそれぞれ三周回り、鳥居から町に繰り出す。

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先頭に子供たちが打ち鳴らす太鼓。
神主が幣を持って辻々を祓い清めて歩き、
その後ろに「わっしょいわっしょい」「蛇も蚊も出たけい、日和の雨けい」「出たけい、出たけい」
と大蛇が付いていく。

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スピーカーで「大蛇の巡航です」と呼びかけながら練り歩くので、
お払いを望む家は玄関先でおひねりを持って待ている。

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そして、家の前で三度、大蛇を空高く放り投げる。

昔は大蛇を家の中を通過させたそうだ。
今もその名残か、時折家の中に首を突っ込ませて、家の中で三度放り投げることもあった。

家の中に入ってしまうのでは、家に入らせまいとした伝承と食い違ってしまうが…
どうやら観察していると、家の中で暴れることで大蛇の胴体の茅が乱れ落ちる。
この茅を大事に取っておくようだ。
茅を軒先に吊っておく、というのは先の伝承にも言われていることだが、
牛頭天王の蘇民将来譚とも共通する話でもある。
興味深いのは、蛇も蚊もの行われる町内に、「牛頭」さんという家が多く見られることだ。

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玄関奥深くまで首を突っ込む大蛇。


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一軒家もマンションもい関係ない。依頼主宅に届くように空高く放り投げる。

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巡行は13時から17時まで約4時間。
担ぎっぱなしはキツイので、たまに休憩。

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途中で取れてしまった角を付け直す。

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角復活。角は戦闘モードだそうだ。(この意味は後で分かるw)



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巡行再開。入り組んだ路地にもどんどん入っていく。
大蛇は曲げてはいけないので、後退するときの舵取りが大変だ。まるでトレーラーの車庫入れ。


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第一京浜。青信号を見計らって突っ切る。


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趣のある銭湯に突っ込む。


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広い場所でも、狭い場所でも。

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京急と並んだ大蛇。


再び休憩を入れ時間調整。
17時に、もう一体の大蛇と原明神前で落ち合い、境内に入っていく。

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社殿前で並んだかと思いきや、勢いをつけてぶつかり合う。

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ぶつかり絡みあい、ぶつかり絡み合い、それを三度繰り返し、地に横たわる。

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神主が祓い清め。祭りは収束に。



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最後に、氏子によって大蛇が丸められ、とぐろを巻いた状態に。
角、目、耳、尻尾の剣を取り外し、息を引き取る。
今はもう川に流すことはしないので、翌日焼かれるのを静かに待つのみだ。
氏子たちも順次、引き上げていった。



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大人たちが居なくなった後、大蛇は子供たちの遊具に。
いつの時代も変わらない光景なのだろう。

    蛇も蚊も祭り  完







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