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6月13日

夕刻、浦賀の「為朝神社」へ虎見物。
京急に揺られること1時間、浦賀駅に降り立ったがあまりに何もない。
日本史上では知名度の高い浦賀も、実際は辺鄙な町だったと知らされる。
舗装された海岸道路を歩く。
あたりはもう真っ暗で、海は闇に包まれて見えない。
しばらくいくと、家屋の軒先には提灯がぶら下がっているのが見えてきた。
かすかに祭囃子も聞こえ、すでに祭の情緒が漂っている。

為朝神社に着いてみて初めて、為朝神社がとても小さな神社だということに気がついた。
石段を登った社殿前の広場からは、もうすでに人があふれていた。
私は体の小ささを利用してなんとか鳥居の柱の裏を確保。
しかし、柱に邪魔されて特設舞台は全然見えない…



為朝神社はその名の通り、鎮西八郎源為朝を祀る神社であるが、
不思議なことに本人との土地的なつながりは見出せない。
なんでも、寛政12年(1800)、浜町の漁民が海に漂流していた木像を引き上げ、
地蔵堂に安置し祀ったところ、当時蔓延していた疫病が治まった。
この木像こそが鎮西八郎為朝の像だったそうだ。
やがて為朝神社が創建され、航海及び疱瘡除の神様として信仰を集めていったという。

非常に不可解な話だ。
強弓の名手として名高い源為朝、生まれは河内。青年期は九州で活躍。
保元の乱で破れ伊豆大島に流された後は、流人に関わらず伊豆諸島を支配し、
八丈小島で追討を受けて自害した。
追討から逃れ、琉球王家の始祖・舜天となったという伝説もある。
ちなみに伊豆諸島では源為朝は絶大な人気があるそうで、為朝神社が三社もある。
海伝いに為朝神社が伝わったと考えるのが妥当だとは思うが、、、

調べてみると、面白いことが分かった。
1632年、八丈島に漂流物がきっかけで天然痘が蔓延したが、
八郎神社(為朝神社か?)に祈願したら治まったという故事があり、
1711年、江戸の疱瘡大発生で、鍋松君(徳川家継)も疱瘡にかかり、
故事をもとに八丈島の水と八郎神社の護符で祈祷すると平癒した、らしい。
それをもとに、江戸時代後期には「疱瘡除けの神・為朝大明神」が関東で流行したようだ。
そもそも、「八丈島」という名称自体が、「ハチロウ」の方言「ハッチョウ」に由来しているとか。
もしかしたら、「鎮西八郎→鎮静八郎」の語呂合わせかもしれない。



そうこうしているうちに、「虎おどり」が始まった。
近松門左衛門作『国性爺合戦』の主人公・和藤内の
「千里ヶ竹の虎狩り」から派生した民俗芸能で、
もともとは伊豆・下田に伝わっていたもの。
1721年、奉行所が下田から浦賀奉行所に移されるのにともない、
廻船の船改めをしていた下田の問屋が浦賀奉行所に伝え、
時を経て為朝神社で行うようになった。
『国性爺合戦』はもともとは人形浄瑠璃で、後に歌舞伎の題材となったが、
為朝神社の「虎おどり」は獅子舞などの民俗芸能に、
歌舞伎、唐人踊りなどの要素も取り入れた珍しいものとなって伝わっている。
下田から伝わった虎おどりに、八丈島から伝わった為朝神社。
時差から考えると、虎おどりのために為朝神社を勧請したとも思えなくはない。
下田の虎おどりは絶えたというが、もともとは為朝大明神と関係があったりはしないのだろうか?

ちなみに、岩手釜石には「釜石虎舞」が漁師の風鎮祈願として伝わっているらしいが、
その起源を、鎮西八郎為朝の三男閉伊頼基が士気の鼓舞のために舞った、
としているところが興味深い。



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まずは大陸風の衣装を身に着けた女児による唐子踊り。
いきなりの異国風情に度肝を抜かれ、以前上海で見た京劇を彷彿させる。

女児たちが舞台を退くと、太唐人なる髭の大男が舞台袖から虎をおびき出した。


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勢いよく二匹の虎が飛び出した。
親子の虎は時には観客にちょっかいを出しながら、舞台上を暴れまわる。

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舞台向かって右側、為朝神社の社殿ではお囃子組が盛り上げる。
境内にあふれかえった人々の見守る中、虎は見事に舞う。

人々が虎に見とれている間に、背後には男児が扮する和藤内が控えていた。
そして、、、




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叶明神の神札を振りかざし、一撃で虎を仕留める!

会場からは盛大な拍手。
こうして虎おどりは幕を閉じた。


ちなみに、叶明神とは浦賀の鎮守。
平家全盛期、文覚上人が、源氏の再興を願って房総半島の鹿野山に修行し、
願いが叶うなら良い土地に神社を建てることを誓った。
1181年、源氏再興の兆しが見えると鹿野山の向かい、浦賀に石清水八幡を勧請し、
1186年、壇の浦の戦いで平家が破れた際に、
願いが叶ったとして「叶明神」の称号が与えられたとの由緒を持つ神社である。
源氏を再興した源頼朝と壇ノ浦の戦いの功労者である源義経は為朝の甥に当たる。
為朝の兄、源義朝は為朝の敵方に回り、為朝を捉え伊豆諸島へ流罪にした。
敵同士になってしまった叔父・甥が、約4世紀後に結ばれるとは。
因縁とはなんとも皮肉なものだ。

















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