2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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夕方。

由良浜で思いがけず長居をしてしまった。
日付が変わらないうちに自宅へ帰るつもりだったのに、
夕方になってもまだ山形に居るという…

羽黒山から下りて、精も根も尽きた上に、
さらに寄り道などしてしまったのものだから、
もはや限界。
惰性で国道7号線を南下していた。
この国道は、日本海の海岸線に平行しているので、
右手には沈み行く夕日を一望できる。

ふと、暮坪の辺りでブレーキをかけた。
暮坪は、その地名は知らなかったが、
過去に何度かこの道を通るたびに気になっていた土地だ。
海に突き出た岩場に鳥居が立っている印象的な場所なのだ。
その鳥居に、いままさに夕日がかかかろうとしていたのだ。

即座にカメラを三脚に据え、撮影。


撮影後、感謝の意を込めて、鳥居のもとに行ってみた。
これが、遠くからでは分からなかったのだが、なんと道がない…
岩の壁をよじ登るしか方法は無かったのだ。
しかし、ここまで来たら行くしか無い。
それが人情というもの。

壁をよじ登り、よじ登り、よじ登った先に、海が広がっていた。
鳥居の下に腰を下ろし、呆然と夕日を眺めた。
これで旅も終わりなのだ。
沈み行く太陽に別れを告げた。

車に戻り、ドアを開けた。
ふと振り返ると、岩場の鳥居の向こうの空が、大変なことに!

疲れも忘れて夢中で駆けた。
急いで岩の正面に戻り、三脚を立てカメラを据えた。
こんな光景、見た事がない!
夢中で光景を切り取ったのだった。

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8月10日

東北旅行最後の日。

山から下り、精も根も尽きた。
時間も既に午後を回っている。
ずっと山に居たからか、突如、海が見たくなった。

鶴岡から西へ。
日本海に向かった。
由良峠を越えて、由良へ。
この地は温泉街として名高いようだ。

由良浜には小島があってそこに赤い橋が架かっている。
帰路を急いでいるにもかかわらず、こういう橋を見ると、
無性に渡ってみたくなるのが人情というもの。

橋の先の小島は全域白山神社の境内となっている。
周りは全て岩場で、それに沿って遊歩道が続く。
歩いて10分もかからない小さな島だが、
遊歩道は岩のに起伏に沿って作られていて、
上へ下へと忙しい。

小島の先端に立ち、南西の方向を見た。
視線の先には大海原。
左には由良八乙女浦の海岸線。

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出羽三山を開いた能除大師、
すなわち崇峻天皇の第三皇子、蜂子皇子は、
この浦から出羽に上陸したという。
由良の岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて踊っているのを目撃し、
この地に上陸したという。
故に、この地を八乙女浦と呼ぶ。
上陸した蜂子皇子は、三本足の烏に導かれて羽黒山に登り羽黒権現を感得。
そして出羽三山を開いたという。

出羽の奥地に、飛鳥の皇子が来るとは唐突な話である。
当時の飛鳥は、蘇我物部戦争が蘇我馬子の勝利に終わり、
蘇我氏の専横政治の真っただ中にあった。

蘇我馬子によって皇位につけられた崇峻天皇だったが、
馬子の傀儡である立場に不満を募らせていた。
しかし、馬子は謀略をもって崇峻天皇を暗殺、
いよいよ蘇我氏に逆らえるものは居なくなった時代だ。
崇峻天皇の子であった蜂子皇子は、聖徳太子の勧めによって宮中を脱出。
丹波国の由良から出航、出羽に逃れ着いたのだ。

丹波国、今の京都北部に、由良の地は残っている。
若狭湾に流れる由良川の河口部だ。
この辺りはかつて、丹波国何鹿(いかるが)郡と呼ばれていた。
「いかるが」とは奈良の「斑鳩」と同じ読み。
「斑鳩」は言わずと知れた、聖徳太子の本拠地で、
法隆寺は今も斑鳩の地に残っている。
なるほど、丹波の何鹿は聖徳太子と関係が深かったのだろう。

面白い事に、この由良川を少し上流にさかのぼると、
「物部」という土地がある。
「物部」ときて「由良」とくると、ピンと来る人もいると思うが…
「ひふみの祓詞」でおなじみの「ふるべゆらゆら(布留部由良由良)」だ。

全国の「由良」を調べてみると、決まって海の側にある。
そして大半が「物部」に関連しているようだ。
丹波の由良には先に述べた「物部」、
淡路島の南端、友が島を望む地に「由良」があり、その北に「物部」。
伊予輿居島の「由良」は、風早国造・物部阿佐利の土地で、
饒速日命、宇麻志麻治命を祀った国津比古命神社にもほど近い。

そして、鶴岡の由良。
蜂子皇子が聖徳太子の勧めで海に逃れた。
その橋渡しを、蘇我氏に破れた物部氏が担ったのかもしれない。
偶然八乙女を見つけて上陸したのではなく、
もともと出羽の物部氏の土地に匿うつもりだったのかもしれない。

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8月7日
羽黒修験の修行体験に参加したときのこと。

修行体験のことを知ったのは旅に出る直前で、
友と別れる予定日の翌日に、同じ山形で修行体験の参加者を募集していた。
申し合わせたようなタイミングに、迷わず参加表明。

集合場所に着いてみると、同年代の人が多くてほっとした。
山伏修行という特殊さだけあって、自分と似たような業種の人が多く、
その点でも居心地は良さそうだった。

修行を詳しく書くときりがないので、感想を中心にざっと。

1日目
13:30 集合 オリエンテーション 山伏装束に着替え
14:00 峯中式
14:30 中台(拝所)とそう行
17:30 床固め(座禅)
18:00 壇張(一汁一采)
19:00 夜間とそう行
21:30 南蛮いぶし
22:00 勤行
00:00 就寝

宿坊に集合し、山伏装束を各自手渡される。
白の半着に白の袴、白の越中褌に白の帯、白の脚絆に軍足、
白のさらしを頭に巻き(宝冠という)、白の地下足袋に金剛杖。
そして何より大事なお〆これを常に首に掛ける。
これが羽黒の山伏装束だ。
2泊3日の全行程、この装束を着の身み着たままで過ごす。

宿坊の祭殿にて峯中式を行い、祝詞を称える。
先達の祓詞の後に、皆で三語、般若心経、三山拝祠を奉唱。
今回お世話になったのは神道系の修験なのだが、
今年のテーマは神仏習合なのだそうで、般若心経を祝詞の間に挟む。
これら一連の奉唱を、これから3日間、至る所で繰り返すのだ。

そしていざ、お山に向かって出発。
ここで戸惑う。
参加者全員、ちゃんとしたリュックと、雨具を持っているではないか…
私はちゃんと必須道具の確認をする前に旅に出てしまったので、
そんなことは一切知らず…
というよりも、山伏は雨でも濡れながら歩くものだと思ってた(笑)
仕方がないので、風呂敷包みを胴に巻き付け、借りた雨具と水を携帯した。
山伏の中でも時代錯誤の私って一体…

登山は十何年ぶりだったので、正直不安だったのだが、
この日に備えて毎日地下足袋で歩いていたので、大丈夫だった。
そもそもよく考えたら、普段から山中の神社を歩いているし…
一日目の山中とそう行(巡礼のこと)は、羽黒三を巡るだけだったので、
案外余裕だった。

宿坊に戻ると、床固め(座禅のこと)。
壁に向かって30分、何も考えず座禅。
動いたら肩を叩かれるわけではないが、それだけに自分との戦い。
とにかく疲れない姿勢を模索。

そして壇張(だんばり)。食事の事だ。
一杯の白飯に一杯のみそ汁、そして漬け物。
これだけ。
「山伏は速飯です。餓鬼のようにむさぼり食うべし。」
とのことで、先を競うように食い終わる。
最後に茶碗に白湯を注ぎ、胃に流し込む。
これで食事は終わり。

食事も終わったし夜も更けた、これで一日が終わりかと思いきや、
夜間とそう行が待っていた。
山伏の夜は長いのだ。
初日は山には入らずに、麓の里を練り歩く。
闇夜に白装束の集団が歩いているのは、かなり怖い。
事情を知らない旅行者などがこれに遭遇すると、一目散に逃げ出すだろう。
田畑に飛び交う蛍がきれいだった。

夜はまだ終わらない。
お次は南蛮いぶし。
密室にこもって唐辛子など香辛料を炭火でいぶすのだ。
当然煙りが目と鼻と喉を刺激し、体液が溢れ出る。
穢れをこれで流し出そうということか。
狭い部屋の、一番先頭に座った。
後ろから団扇で扇ぐので、先頭ほど煙が充満すると言われていたが、
ろうそくの朧げな灯りに照らされた出羽三山の神の掛け軸が、
せめてもの救いと思い、先頭に。
煙が喉を刺激し、咳が出ると、更に喉が刺激される。
この悪循環に陥ると絶対絶命だ。
とにかく、心を落ち着け、呼吸を極力静かに行う。
これでなんとかこらえる事が出来た。
夕方の座禅もそうだが、一連の行は、呼吸法を身につける訓練でもあるようだ。

そして解放。
空気がこれほどうまいと思った事はない。
勤行を行い、夜12時、就寝。
明日は4時起きだ。早く寝ないと身体が持たない。
そのような事を考える暇もなく、眠りについた。


2日目
4:00 起床
4:30 水垢離
5:00 床固め
5:30 壇張
6:00 月山・湯殿山とそう行
14:00 湯殿山滝行
17:30 床固め
18:00 壇張
19:30 夜間とそう行
21:30 南蛮いぶし
22:00 勤行
00:00 就寝

「ぶぉぉぉ~~~~」
法螺貝の音で強制起床。
皆黙々と布団をたたみ、黙々と山伏装束を身に着ける。
庭に集合、「おな~り~」の声とともにお山に向けて出発。
訓練の行き届いた兵団みたいだ。
杖の音を響かせながら、出羽三山神社の鳥居をくぐる。
随神門をくぐると、急な石段が下に続いている。
露に濡れた石段を滑らないように降りて行くと、沢にたどり着く。
沢の前には社が並んでいる。
この社の軒下を借りて、全員褌一丁に。(宝冠は外さない)
ちなみに女性は浄衣1枚。浄衣の方が水切れが悪くて寒そうではある。

禊の前には準備体操というか、作法がある。
川面凡児の鎮魂法のうち、「鳥船神事」と「息吹」と呼ばれるものだ。
「鳥船」は、船の櫂を漕ぐ動作を、えっさ、えっさ、えっさ、と繰り返す。
「息吹」は、両手で大気を包み込むようにして頭上にあげ、
手を合わせて胸元まで降ろしてくる。それに合わせて深呼吸だ。
最後に「エイ!」と気合いを入れて、水に入る。

夏とはいえ、早朝の山の中。
山の上から流れてくる水は冷たい。
寒さを克服するには、肩まで水につかってしまう事。
気合いを入れて身体を水に託してしまうと、不思議な事に、
身体の中から温かくなってくる。
皆で奉唱。声を出せば出すほど、身体は熱くなってくる。

水から上がった頃には、寒さも眠気も吹っ飛んだ。
三語の一説に、「諸々の罪穢れ 祓い禊て清々し」というのがあるが、
まさに「清々し」とはこのことなのだと実感した。

宿坊に戻り、床固め。
そして壇張。
相変わらず一汁一菜。
我々は体験修行者ということで、昼にはおにぎりが出るらしいのだが、
本格的には、朝晩2回の一汁一菜だけで何日も過ごさないといけないのだ。
この3日間だけでも、体力が持つのか心配なのに…

そして、月山と湯殿山のとそう行に向かう。
宿坊から月山までは距離があるので、登山口まではマイクロバスで。
今日は本格的な登山コースを、一般の登山客に混じって進む。
登山客と違うのは、我々は軽装で地下足袋だということ。
月山は、木が無く瓦礫の道が多い。富士山に似た山容をしている。
岩の角が地下足袋の足の裏を刺激して気持ちいい。
軽装で山に登ると、山と一体化した気分になれるようだ。
残念ながら、この日は辺り一帯が霧に包まれ、展望は望めなかった。
視界の訊かない足下の悪い道を、前を進む人の足元を見ながら進む。
危険な道も、先人の足取りを辿る事で越えて行ける。
千何百年も積み重ねてきた足跡に、私の一歩も加わった事が、密かに嬉しい。

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月山の頂上は、月山神社の本宮となっており、
人形に穢れを吹き付けてから聖域に入る仕来りになっていた。
我々もそれに倣い、神前で奉唱。
ちなみに三山拝祠はお山を讃えた祝詞なのだが、
この節回しというか調べが、とても美しいものだ。
お山の頂で三山拝祠を唱えると、とても気持ちがよい。

山小屋でキノコ汁とおにぎりで昼食を摂り、午後は湯殿山に抜ける。
湯殿山に続く道は、月山の瓦礫道と違って土の道だった。
木々も増え、緑の匂いが濃密になってくる。
途中、わき水を掬い飲む。うまい!
雪解け水で手が凍えるが、登山で火照った喉に胃に身体に、気持ちよく凍みる。

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今回の修行で知り合ったある人は、
10年前、今回と全く同じ道を歩いた事があると言った。
無鉄砲にザック一つで山に入り、月山を越え湯殿山に抜ける途中で日が暮れた。
不幸にも天気は大雨に。一夜を過ごす装備もない。
途方に暮れていると目の前に雷が落ちた。
怖くなって無我夢中に駆け下りたのが、今回たどったコースらしい。
それを、歩いているうちに思い出したそうだ。
下り道は、とても走って降りられるような道ではないのだが、
夢中になると人はとんでもない力を発揮するものだ。
そして時が経ち、また彼は出羽三山に呼ばれたのだろう。
生かされてるのはお山の神のおかげと、彼は実感して生きてきたそうだ。
人にはそれぞれ、山に入る理由がある。


急勾配の崖を梯子でくだり、山陰のなだらかな道に辿り着いた。
この道は雪がまだ残っていた。
その雪が雪解け水となって、沢になっていた。
沢に沿って進むと、湯殿山神社の御神体に辿り着く。

湯殿山の御神体に対面するのは一年ぶりだ。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=914496806&owner_id=40168
当時はまさか一年後、山伏の姿で湯殿山を訪れる事になろうとは、
夢にも思わなかった。

湯殿山の御神体については、口外禁止につき秘しておく。
歩き続けた足を癒してくれる、母なるぬくもりとでも言っておこうか。
車で一息に乗り付けた一年前とは、当然ながら感じるものが違ったものだ。

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湯殿の御神体との再会を終え、今度は沢に降りて行く。
獣道としか思えない道から沢に入り、沢を上って行く。
もはや道は、ない。

やがて滝に辿り着いた。
滝行だ。
即座に下帯一丁になる。
みな一応怖がってみせてはいるが、そんな事はないだろう。
山歩きで火照った身体には、滝の冷たさが気持ちよいはずだ。
たとえそれが、さっき見た雪解け水だとしても。

先輩たちの様子を見つつ、滝に入った。
裏から入った為、滝の本流に打たれる事もなく、案の定気持ちが良い。
長い時間をそこで過ごしたが、物足りない気がして、
本流に打たれてみようと思った。
私は生まれつき、修行を好む体質なのだw

先達が滝に打たれていた場所に入ってみた。
さすがにすごい水圧に身体が押し崩される。
その場で足を組み、座って耐えた。
滝に打たれながら、何を唱えて良いのか分からないので、
とりあえず般若心経をひたすら唱えていた。

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滝から出ると、足腰が立たなくなっていた。
膝がガタガタと震え、自分の意志ではどうにもならない。
やっとのことで装束を着たのだが、振り返ってみると、
まだ滝行を続けている猛者が居た。
先達は「やり過ぎは意味がない」と笑っていたが。

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沢を下り、湯殿山神社の参道を歩き大鳥居へ。
大業を終えたことで、気分は晴れ晴れとしていた。
滝に打たれた効果なのか、後頭部に爽快感がずっと残っており、
視界に飛び込む景色が冴え渡っていた。


さて、これで二日目が終わったわけではない。
修行は淡々と続くのだ。
宿坊に戻った後は、床固め、そして壇張。
もはやここまで来ると、食事の少なさなどは全く気にならなくなっていた。
現代人の生活が、いかに無駄に食しているかを思い知らされた。

夜間とそう行は、少し山道を歩いた。
一人では絶対に歩きたくない闇の中、
しかも、林の中の祠を巡って、奉唱。
しかし、月山登山を終えた我々には怖いものがなかった。
奢りとは怖いもので、緊張感をなくした一行は、ついつい雑談が。
先達に怒られ、我に返った。
まだまだ修行は続いているのだ。

宿坊に戻り、昨日と同じく南蛮いぶし。
二日目は更に強力な配合で、昨夜得た呼吸法では間に合わない。
脱落者が続出する中を、掛け軸の三山神像を頼りに耐えていたが、
なんと、充満する煙の中で、祝詞の奉唱を始める猛者が現れた。
それに続こうと声を出すが、とてもじゃないが耐えられない。
途絶え途絶えになりつつも、必死で唱えた。
はっきり言って、もうどうにでもなれ、の心境だ。
後に先達が、「本格的な修行でもあれはない」とあきれた程の荒行だったらしい。

最後に勤行を終え就寝。
この日もあっという間に眠りについた。


3日目
4:00 起床
4:30 水垢離
5:00 羽黒山とそう行 床固め
8:00 火渡り
8:30 出生式
10:00 やまぶし温泉入浴
12:00 直会 

もう慣れたものだ。
法螺貝にさっと起き、黙々と出発の準備。
昨日と同じ禊場へ。
この日は日曜日だったため、ちらほらと観光客がいたが、
おかまいなしに褌一丁になって、入水。

昨日と違う事は、このまま宿坊に戻らず、つまり朝飯抜きで、
羽黒山とそう行に入るという事。
しかし、もはや空腹さえも心地よくなっていた。

羽黒山の長い石段を上り終え、出羽三山神社へ。
拝殿に上がり、正式参拝。
三語、般若心経、三山拝祠。
長い羽黒修験の、特に神社系と仏教系に分かれてしまった明治以降、
出羽三山神社の正式参拝に般若心経が唱えられることは無かった。
ある意味タブー視されていたことを、今回試みてみたそうだ。
悲しきかな、政治の仕組みで修験道が表向きには廃止され、
神道と仏教に分かれて存続して行くなかで、
お互いに齟齬が生じてしまったのだ。
今回、神社での般若心経のさなか、なにかが起こっていたらしい。
先達はそのことについて、「お山の神も喜んでいたのでは?」と語っていた。
何が起こっていたのかは私は気がつかなかったが。
それはともかく、この参拝がすばらしかった。
最後にその場で額ずき、幣束で清めてもらったのだが、
と~お~つ~か~み~え~み~た~ま~え~
の詞とともに、頭上から清らかな光が降りてきた(ように幻想した)。
そして、幣束が自分の背中に触れたときには、
目を瞑って額ずいているはずなのに、大きな光に包み込まれたようで…


宿坊に戻り、先輩が火を熾し始めた。
とたんに、たき火ほどの炎が立ち上った。
これを順次、走って飛び越える。
飛び越える時には力一杯「おぎゃ~~~~!!」と。
これは新たな誕生である。
山から下りて、生まれ変わった自分の誕生式である。

これで、修行は終わり。
温泉で修行の垢を洗い流す。
修行の山の近くには必ず温泉があるが、これはすなわち「産湯」なのだ。
再び俗世の生活に戻った我々。

宿坊で直会。
山伏式は、大杯で日本酒を回し呑み。
次々と倒れて行く修行者たち。
これは愉快。
こんな馬鹿酔いする事など、滅多に無いだろう。

そして、次々と解散して行く。
また来年、集うことを誓い合って。

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仏ヶ浦の入り口には、地蔵堂がある。

そこで参拝していると、おばさんに声を掛けられた。
遊覧船の女将のようだが、客引きが目的ではなく、
私がお堂に手を合われている姿に興味を惹かれたそうだ。

世間話の中で、仏ヶ浦の奥座敷とでも言うのか、
霊水の湧き出る聖域があることを知った。

仏ヶ浦の波に洗われる奇岩群に比べて、
聖域は地味な上に行きにくい場所にあるので、
その事を知らされなければ素通りするところだった。


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奇岩と奇岩に挟まれた通路から水溜りが続いており、
容易には超えられないので通常は迂回したくなる場所。
そのような水溜りは他に幾らでもあったのだが、
ここだけは緑色の藻がびっしりと生えていた。
藻はおそらく淡水に育む藻なのだろう。
その先に霊水が染み出していることが想像できた。

通路は幅3mくらい。
岩の縁を水に浸からないようにそっと進む。
行き着いた先には、不思議な空間があった。

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入り口以外を岩壁に囲まれた小さな浜辺。
あまり人が来ないからか、純白な砂は穢れを知らないようだ。
左隅に、お地蔵様が祀ってあり、その脇から湧き水が染み出している。
これが霊水だ!
それにしても不思議なのは、正面の岩壁。
綺麗な三角形を描き、さらにそこだけ色が違う。
人の為しえる業ではないのはあきらかだ。


聖域の真ん中に立って感じたのは、ここが「胎内」だということ。
外部から守られている上に、恵みの水も与えられている。
もっとも、洞窟に胎内を見出すのは全国どこにでもある習俗ではあるが、
洞窟の多くは生まれ出ることを目的にしているのに対し、
こちらは帰るべきところとでもいうのか、ずっとこの場に居たいと思わせるものがある。

霊水は、これまたよくある話で、
1杯飲むと10年長生き、2杯飲むと20年長生き、3杯飲むととことん長生き、
という話だ。とりあえずいっぱい飲んでおいた。
場所が場所だけに、寿命尽きる前に亡くなった人の、
魂の雫を飲んでいるようで複雑な気分ではあった。


聖域から再び岩場へ。
仏ヶ浦はまだまだ続いているようだ。
いかにもここを通れといわんばかりの、
しかしいかにも波を被って海に落ちそうな天然の道があった。

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危険な気もしたが、その先に観光客が居たので意を決して通ることに。
しかし何を思ったか、観光客は私が足を踏み入れたと同じタイミングで引き返してきた。
おいおい、こんな足場の悪い場所ですれ違いか…

なんとかやり過ごし、その先へ。


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これはまた不思議な…

どうしてこの場所には、人智を超えた岩ばかりあるのだろう。
先の尖った岩は、隣の岩壁から剥離したものだろうか。
だとしたら、上手い具合に地面に刺さったものである。
人間が「三角」や天に突き出した「柱」を神聖視することを知ってか知らずか。


こういうものを見せられたら、行かずにおられないのが性。
足場を探る。




…が、さすがに辞めておいた。
目の前の岩たちがおいでおいでをしているで…
これ以上行ったら本当に帰って来れないような気がしたのだ。

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なんだこの異空間…

噂には聞いていたが、想像以上の場所だった。

仏ヶ浦。
恐山の奥の院。
あの世の入り口があるともいわれている場所だ。
恐山から見て浄土の方向、つまり真西に、
このような場所が自然に出来上がっていること自体が不自然で、
本当にあの世の入り口が開いているのではないか?
と考えざるを得ない場所だった。

駐車場は崖の上で、急勾配の遊歩道を15分ほど下ると、
断崖絶壁の海岸線には珍しい、猫の額ほどの砂浜がある。
そこが仏ヶ浦に降りる唯一の場所のようだ。

砂浜を歩くとすぐ、巨大な二つの岩壁にぶつかる。
岩壁と岩壁の間に道がついていて、そこを抜けると異世界が待っていた。

「如来の首」なる岩が、来訪者を出迎えてくれる。
ここより先は砂浜が途切れ、岩場を進むことになる。

潮が満ちつつあるのだろう。
磯のあちこちに海水が溜まりはじめ、足元がおぼつかない。
岩壁をつたい、時に跳ね、再び砂交じりの広い空間にたどり着くと、
目を瞠った。

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蓮華岩というらしいが…
これは本当に自然の造形物なのだろうか…
あまりにも出来すぎている。
蓮華岩もさることながら、印相を模ったとしか思えない岩まである。
この浜も少し水に浸っているので、ひとたび海が荒れると、
蓮華岩を残して水没するはずだ。
まさに蓮の花咲く浄土を彷彿させる景色が広がるのだろう。

そしてひとたび海が荒れると…
仏ヶ浦には土左衛門が流れ着くらしい。


1954年9月26日に津軽海峡で起こった洞爺丸事故。
台風の観測を誤ったことに起因する世界第三位の海難事故で、
洞爺丸だけで1155人、他の貨物船4隻の転覆を含めると
合計1430人の死者・行方不明者を出しだ事故である。
最大の被害を出した洞爺丸は、
北海道から1kmも離れていない海上で転覆したのだが、
なぜか仏ヶ浦には、他の沿岸を上回る数の水死体が打ち上げられたそうだ。
海流の関係なのか、死者の霊が浄土の入り口を目指したか。
ともあれ、津軽海峡を隔てたこの地に、
多くの水死者が集まったことは事実のようだ。


振り返ると、凛々しく切り立った青白い海食崖の足元に、
いびつな形相の岩場が広がっていた。

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大間から仏ヶ浦に海岸沿いを南下していると、途中妙に赤い海岸があった。
気になったので車を停めた。

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浅瀬に岩を転がして、人工的な磯を作り出しているのは、
投石によるフノリの養殖。
人工的な磯を作り出すことで、布海苔を定着させる場所を作り出しているのだ。
前日漁火を見た風間浦が発祥で、そこから全国に広がった方法だという。

浦に突き出した岡が気になるので行ってみると、塩釜神社跡だった。
そこで菅江真澄の名を見つけて驚いた。
「菅江真澄」は江戸時代後期の旅行家で、
訪れた土地の詳細な絵日記を残している。
いわば民俗学者のさきがけであり、私の憧れの人でもある。
三河生まれで信濃、出羽と旅して歩いたが、
まさか下北半島の奥座敷にまで足跡が及んでいるとは思わなかった。

 寛政四年十月六日、真澄は松前から船で奥戸(大間)の湊に上陸、
 翌日、佐井に向かう途中「赤石」を過ぎたあたりで山陰に馬が多く、
 「この場所も牧なのですか」と真澄は聞く。そうではなく「冬飼い」といい、
 この辺りでは冬場放し飼いが行われ雪の中の草木を食し、
 無くなれば磯に寄せる海藻類を食しているのだという。 
 海にのぞんだ岡の小さい神の祠を目にし、
 この土地の真澄はこの土地の老人にこの由来を聞き、この社に詣でている。

岡の前に立てられた一本柱の案内文にはそう書いてあった。
神社の由来は書かれていないが…
この土地が「赤石」、寒立馬がいた、ことが分かった。
どうも真澄は下北半島の旅の先々で、牧を訪れているようだ。
後撰和歌集にも詠まれる「尾駮の駒」に関心があったらしい。

寒立馬は、現在では下北半島の太平洋側の突端、尻屋崎でのみ行われているようだが、
かつては至る所で行われていたようだ。
寒風に耐えた馬は強靭な肉体を備える。
残念ながら現在の寒立馬は、その俊敏な能力を発揮することもなく、食用となる。



赤石からさらに南下していくと、奇妙な景観にぶつかったので、また車を停めた。

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「願掛岩」というらしい。
なんと、ここにも菅江真澄の足跡があった。
真澄は寛政五年春、ここ佐井村にとどまり、
三上 温・自性院・坂井家などの人々と親交を結んだようだ。
これらの人々のことは、蝦夷が島(北海道)で聞き及んだらしい。
奥戸から田名部(むつ)へ向かう前に、わざわざ反対方向の佐井を訪れさせた。
それほどの人たちがこの辺りに住んでいたことになる。
船が交通の要だった時代、下北半島は交通の要衝だった。
ことに佐井湊は、南部の宝庫と呼ばれたヒノキ材の搬出港で、
近畿や北陸の豪商たちも進出してきていたという。
さまざまな地域と結ばれ、それだけ文化水準も高かったのだろう。

 磯谷の村を行くと、矢越(願掛岩のある地名)のこちらに雌矢越石・雄箭越石という
 その高さ百尋もあろう巌が立っている。小さな祠がふたつあるのは、誉田の神と、
 矢船豊受媛(稲荷社)を祀っているらしい。二の鳥居に木の枝を鍵の形に打ち掛けるのは、
 懇想する者が願いを掛けたのである。
 それで、この岩を「神掛」と言い、「鍵掛」とも書いたらしい。
 

願掛岩の、岩と岩の間に立つと沖合いに小島が見える。

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その小島に向かうように、金網が立てられ、そこに数多の鍵が掛けられていた。
こういった「恋人たち向け」の信仰はどこの海岸でも見られるが、
まさか江戸時代から続く民間信仰の類だったとは思ってもいなかった。


それぞれの断崖に参道が続いている。
そういうことならば、登らないわけにはいかない。

まずは海に向かって右手の、女願掛から。

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鳥居をくぐると、いきなり急傾斜。
道はあってないようなものだ。
岩肌をしばらく登っていると、海岸特有の背の低い木立の中に入っていく。

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ひぃひぃ言いながら登っていくと、巨石を祀る祠に行き当たった。
正面から見ると大きな岩だが、裏に回れば幅が1mもない、薄い岩だった。

さらにけもの道は続いている。

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ほとんど岩をよじ登るようにして、行き着くところまで行ってみた。
木立が途切れ、急に視界が広がった。

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私はバカの例に漏れず高いところが大好きなのだが、
さすがにここでは足がすくんだ。
少し強い風が吹けば、、、突然岩が崩れたら、、、
大海原へ一直線である。


さて、次なるは男願掛。
こちらも非常に登りたくなる様相をしている。

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男願掛は登る人も多いらしく、一応遊歩道の体裁を整えていた。
途中、色々な不思議きのこを見かけたが、きのこには詳しくはないのでよくわからなかった。
遊歩道の先には小さなお堂風の神社があった。
願掛岩の頂上に「海を守る天狗様」の社があるとのことだが、ここのことだろうか。
それとも女願掛の頂上の岩と祠のことだろうか。
菅江真澄の記録には、誉田神と矢船豊受媛の祠があり、
矢越八幡神社は今でも麓に鎮座している。
ちなみに、佐井の街中には箭根森八幡宮という源頼義が勧請した八幡宮があり、
陸奥守・源頼義の東征がこの地にまで及んでいたことになっている。。。


道は険しくなるが、さらに続き、大きな岩の下に出た。
この岩が御神体なのだろう。

岩には、わずかに人の登ったような跡があった。
それを見ると、登らないわけにはいかないだろう。
なので、登ってみた。

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切り立った岩の頂上。突端まで出てみると、はるか遠くの海まで見渡せて清清しい。
津軽海峡から佐井湊に入ってくる船は、この岩を目的にしたのだろう。
また、ここに立って船を誘導したのかもしれない。

頂上で石笛を吹いたりして、気持ち良い一時を過ごした。

恐山では憔悴しきって、温泉に入るのを忘れてしまった。
湖岸で呆然としていたため、時間も夕刻に迫っていた。
本当は下北半島の西の果て、仏ヶ浦にて夕日を眺めたかったのだが、
とても間に合わないだろう。
下北半島は思った以上に広かった。
そこで、奥薬研温泉の露天風呂で疲れを癒した後に、大間崎を目指すことにした。
本州最北端で夜を明かすのもまた一興かと。


恐山から北へ、山道を下っていく。
そのうちに大畑川にぶつかるので、左に。
そこが薬研温泉だった。
奥薬研温泉かっぱの湯は、大畑川沿いに作られた無料の露天風呂で、
番台も洗い場も男女の別もない温泉だった。
溢れたお湯はそのまま川に流れるので、体を洗おうと持って入った石鹸類を使うことはあきらめ、
手ぬぐいでゴシゴシ体をこするのみにして、ゆっくり湯に浸かった。

ある程度気分も回復。
空はすっかり暗くなってしまったが、半島の北辺を目指し、大畑に抜けた。
大畑からの国道279号線は、ひたすら海岸ギリギリを通っている。
視界の右はずっと海。海の向こうは北海道だ!
といっても、夜なので真っ暗だ。曇っているので星さえも見えない。

と思っていたが、風間浦町に入ったころからだろうか、
妙に空が明るくなってきた。
漁火だ!
このあたりはイカ漁が盛んなのだ。

蛇浦海岸のあたりで、車道の脇に車を停めた。
漁火に浮かび上がる小島の影に惹かれたのだ。
草島と、漁火の津軽海峡。

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「人は死んだらお山さ行ぐ。」
という観念は下北半島に限ったことではないが、
この地でお山というと恐山のことを指す。
陸奥湾に面する大湊、津軽海峡に面する佐井、太平洋側に当たる大畑、
つまりはすべての方面から恐山に至ることが出来る。
そしてどの方面から来ても、恐山に入るには渡らなければいけない川がある。
三途の川だ。

死者も生者も三途の川を渡り、恐山に行く。
死者はそのまま帰ってこないが、生者は宿坊に泊まり温泉で癒され、
再び三途の川を渡って戻ってくる。まさに生き返るのだ。
と、冷水で出会った爺サマに教えられた。

三途の川に架かる太鼓橋から見た宇曾利湖は、どこまでも透明で美しかった。
湖を囲むように聳え立つ八峰、
剣山、地蔵山、鶏頭山、大尽山、小尽山、北国山、屏風山、釜臥山。
これらは「蓮華八峰」と称され、上空から見ると
あたかも蓮華の花弁を形作っている。
これらの山並みを見渡し、いよいよ恐山に足を踏み入れた。

恐山のご本尊は地蔵菩薩。
山門からまっすぐ伸びた先に、大きな本堂。
まずはご本尊に参拝。
そして、本堂の左脇から山道を登って、地蔵山の不動明王に参拝。
不動明王に至る階段にいたる途中、あたりを見渡せる場所があるので、
南南東の方向に見える釜臥山を遥拝。

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釜臥山の奥の院には釈迦如来が祀っており、この三聖地は直線で結ばれている。
三聖地を参拝することによって、恐山参拝の結願が成就されるのだという。
写真の、山並みの向こうから顔を出している山が釜臥山だ。

そして、いよいよ恐山地獄めぐり。
地蔵堂の西には荒涼たる景色が広がっている。

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この荒涼とした雰囲気は那須の殺生石の谷にも似ている。
一日に何匹も野生動物が死ぬという、現役の呪いの地…
ただ、殺生石では感じなかった、底を突き抜けた感じの悲しみが、
恐山地獄には充満していたように思う。
至るところに詰まれた石塚は、高く詰まれて山になったものもあれば、
まだ小さい集まりでしかないものもあった。
賽の河原と呼ばれる一帯には、まだ小さく新しい石塚が散在していて、
そのどれにもこれにも、故人の名が書き込まれている。
弔っても弔っても弔いきれないのか、
いくつもいくつも、同じ名が…


賽の河原の地蔵堂に入った。
六角形の小さなお堂は、六道に迷う衆生を救う地蔵菩薩をあらわしてのことか。
ありとあらゆる壁面や床に、古い衣類がかかっていた。
どれもこれも故人の名前が書いてある。故人が生前愛用したものだろう。
扉を閉め、閉ざされると、どっと悲しみが押し寄せ、胸が押しつぶされそうだ。
重い、あまりにも重い…
あまりの重さに、自然と涙がこぼれそうになった。
こんなこと初めてだ。
お経をあげ、私も草履と手ぬぐいを、お堂の片隅にそっと置いた。
弔いたい人がいたのだ。

嫌な予感がしたが性分には逆らえず、ついついシャッターを押してしまった。
レンズが壊れた…



沈んだ気持ちで賽の河原を歩いた。
これまでは気がつかなかったが、なぜか、カラスが妙に多い。
魂は鳥になる、ともいうが、ここに来た霊がみなカラスになったのではないか、
と思うほど多い。
カラスの親子に出会った。
子はまだ人間に慣れていないのだろう。近づいても警戒の色を見せない。
人の最後にたどり着くといわれる場所でも、
たえず生命の営みは育まれているのだ。

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そして。
とうとう宇曾利湖岸にたどり着いた。
湖越しに見える美しい形の山が大尽山。
賽の河原を経た魂は、湖を渡り大尽山へ行くと言われている。
また、湖岸で大尽山に語りかけると、故人と対話できるとも。

生者は宇曾利湖の先に進むことは出来ない。
死者の世界の入り口恐山から遥か遠く遠く、浄土と呼ばれる地を眺めるだけだ。
弔う者は、ここで決別を知るのであろう。

晴天ならば、美しい輝きを見せると言われる宇曾利湖も、
私の気持ちを反映するがごとく、どこか澄み切らない様子だった。

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「日本中央」からマサカリ形の下北半島をひたすら北上。
片側一車線のひたすらまっすぐな道。
途中、袈裟に菅笠、旅装の僧を追い越した。
恐山まで歩いて参るのだろうか。

むつ市街を抜け、いよいよ恐山への道。
参拝道にあたる車道を走っていると、路傍の端々に無数の道標や石仏が見受けられる。

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そのどれもこれもに、赤い前掛けと白い頬かむりがなされて、
土地の人々の信仰の篤さを物語っていた。


歩いていくなら大変な道のりだろうが、車だとそうでもない山の舗装路。
しばらくすると、車がたくさん路肩に止まっている場所に差し掛かった。
危うく通り過ぎそうになったが、ペットボトルを持っている人を見て、
ここが「恐山冷水」だということに気がついた。

路肩に車を止め、ありきたりのペットボトルを持って湧き水へ。
いつも旅先で湧き水を見かけては汲むようにしている。
が、それにしては準備が悪く、大抵は500mlのペットボトル、
運がよければ2リットルのペットボトルが車に積んである程度。
幸運なことに、この日は2リットルの空きペットボトルが2本もあった。

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水を汲み終え、土地の人らしい爺サマとお話した。
爺サマは自主的に冷水の掃除に来ているという。
話していくうちに、冷水の背後の森が、かつての古道だと言うことを教えてくれた。

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当然ながら恐山も、自動車が発明される前は、歩いて参ってたのだ。
今の道は、往時の道をなぞっている場所もあるが、そうでない所もあるという。
土地の人さえもその存在を忘れてしまっているが。。。

話が弾み、案内してくれることになった。

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爺サマ、山に入るのが趣味で、このあたりの山を歩いているうちに、
人や牛馬が歩いて出来たと思われる、道のようなくぼみを発見をしたという。
かつての古道だと確信し、以来、古道の発掘に明け暮れているとか。
一面に生い茂る笹を払い、倒木を取り除き、人が通れるようにしようと。

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面白いものを見せてくてた。
ヒバだらけの山のはずなのに、古道の脇に一本だけ杉が生えているという。
別の場所には、古道を挟むように対の杉が生えているともいう。
かつての参拝者が植えたのではないか、との話だ。
ヒバの森に杉が孤立して生えることなどありえないそうだ。


爺サマ自作の地図では、古道は「鬼石」まで伸びている。
もっとも、古道自体はまだ発見しきれておらず、途切れ途切れだそうだが。
「鬼石」周辺は、すでに通れるというので連れて行ってもらった。

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古道の最終点にあたる「鬼石」
かつての参拝道はこの巨石の前を通って恐山に至っているのだ。
恐山には人々の霊だけでなく、魑魅魍魎の類、畜生の霊もやってくる。
そういった霊の進入を、この鬼石はにらみを利かせて阻んでいる、とのことだ。
かつてこの巨石の下には石仏があった。
そして春夏秋、恐山で祭礼があるときは、必ずこの場で祭祀を行ったという。
やがて鬼石は古道とともに草木に埋もれ、石仏も車道の脇に移動され、
祭祀の場所も鬼石からは離れた場所になった。

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爺サマの手入のおかげで、現在では祭祀は鬼石の前で行われているそうだ。
今も車道脇に残る石仏だけが、変革の歴史を物語っていた。

鬼石の周りには自生の石楠花がたくましく育ち、時期になると一斉に花を咲かすという。
それを皆に見せたいがために頑張っているとも言っていた。
また爺サマは、参道に紫陽花を植え続けているという。
下北半島の紫陽花は夏が開花時期。
酸が強い土地なのか、途中見かけた紫陽花は、鮮烈な青だった。
爺サマは「紫陽花千本植えるまでは死ねんよ」と言っていた。
今はまだ六百本だそうだ。

いずれ必ず、開通した古道を歩きに訪れることを約束し、爺サマと別れた。

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この石碑、「日本中央」と彫られている。

金曜日の日中に東京を発ち、北へ駆け抜け深夜に八戸へ。
さらに北、三沢で車中泊。いざ下北半島へ入らむとする土地に、
なんと日本の中心があった。
遠くへ来たなぁ、と思ってたのに、まだ日本の真ん中だったとは…w

この土地、古くは「都母」と書き「つも」と読んだ。
現在の天間林村に「坪」、隣接する東北村に「石文」として土地に跡を残す。
石碑の名は、通称「つぼのいしぶみ」。
実に千年にわたって人々の想像力を掻立ててきたいわくの石碑だ。

古くは『袖中抄』(1185-1190頃)に記されている。
「いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有。
 日本の果てと云えり。但、田村の将軍征夷の時、
 弓のはずにて石の面に日本の中央のよしを書付けたれば、
 いしぶみと云う。(中略)其所をつぼと云う也。」

『袖中抄』に限らず、藤原仲実、藤原清輔、西行、源頼朝、和泉式部、、、
と名だたる歌人たちがこの「つぼのいしぶみ」に思いを馳せ、詠んできた。

長らく行方知れずになっていた石碑が、昭和24年、
ひょんなことから発見された。
土地の者が家の裏手のお堂を建て直すことになった際、
長く運送業をしてきた家なので、馬を供養するため馬頭観音碑を建てたいとなった。
手頃な石がないかあてを探しているうちに、例の石が見つかった。
橇にのせて運ぶために梃子を使って起こしてみると、なんとそこに文字が見える。
つぼのいしぶみの伝説は、土地には語り継がれていたので、
まさか、と思い汚れを落としてみると、そこには「日本中央」の文字。
こうして、世紀の発見に各地から学者やマスコミが訪れて
お祭り騒ぎになったそうだ。


そもそも、誰が何の為に「日本中央」と彫ったのか。
伝説では征夷大将軍・坂上田村麻呂が彫ったと言うことになっているが、、、
、、、史実としては、田村麻呂は都母までは到達していないそうだ。
実際に都母まで到達したのは田村麻呂の後任の征夷大将軍・文屋綿麻呂。
『日本後記』の綿麻呂の北征を記した文によると、
 出羽の都留岐(ツルギ=人名)の進言があり、
 弐薩体(ニサタイ=岩手北部から青森南部)の仇敵、
 伊加古(イカコ=人名)が軍勢を整え都母にいて、 自分を討たんとしている。
 自分は先兵としてイカコを攻めるから兵糧を支援してくれ、と。
 そこで米百石を支給し激励した、とあるのだ。

このことより、都母に到達した将軍は田村麻呂ではなく綿麻呂だとされている。
伝説は、わかりやすいように田村麻呂に置き換えられたのだろう。
いわずもがな、東北にはあちらこちらに田村麻呂伝説が残っている。

確かに官軍がやって来た形跡はあった。
では、なぜここが「日本中央」なのか。
まだ、まとまった見解はないが、、、
一つは、当時の日本の影響力、
 もしくは制服目標が樺太や中国北部まで及んでおり、
 それらを含めると、現青森が日本の中央となる。
もう一つは、日本とは「日の下(もと)」の意味で
 朝廷側から見て日出る方角にある陸奥を、日本の国と呼んだ。
 これは陸奥を同じく「日高見」と呼んだことと同じ理屈。

九州から発した東征が、日の本を制する進撃であったのならば、
行き着く果ては日の本の国、その日の本の国を制した証に
いしぶみを残したのかもしれない。

あるいは、誰かが戯れに彫ってみただけかもしれない。

未だ謎多き「つぼのいしぶみ」
一見の価値は有ると思う。


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