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2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

恐山では憔悴しきって、温泉に入るのを忘れてしまった。
湖岸で呆然としていたため、時間も夕刻に迫っていた。
本当は下北半島の西の果て、仏ヶ浦にて夕日を眺めたかったのだが、
とても間に合わないだろう。
下北半島は思った以上に広かった。
そこで、奥薬研温泉の露天風呂で疲れを癒した後に、大間崎を目指すことにした。
本州最北端で夜を明かすのもまた一興かと。


恐山から北へ、山道を下っていく。
そのうちに大畑川にぶつかるので、左に。
そこが薬研温泉だった。
奥薬研温泉かっぱの湯は、大畑川沿いに作られた無料の露天風呂で、
番台も洗い場も男女の別もない温泉だった。
溢れたお湯はそのまま川に流れるので、体を洗おうと持って入った石鹸類を使うことはあきらめ、
手ぬぐいでゴシゴシ体をこするのみにして、ゆっくり湯に浸かった。

ある程度気分も回復。
空はすっかり暗くなってしまったが、半島の北辺を目指し、大畑に抜けた。
大畑からの国道279号線は、ひたすら海岸ギリギリを通っている。
視界の右はずっと海。海の向こうは北海道だ!
といっても、夜なので真っ暗だ。曇っているので星さえも見えない。

と思っていたが、風間浦町に入ったころからだろうか、
妙に空が明るくなってきた。
漁火だ!
このあたりはイカ漁が盛んなのだ。

蛇浦海岸のあたりで、車道の脇に車を停めた。
漁火に浮かび上がる小島の影に惹かれたのだ。
草島と、漁火の津軽海峡。

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「人は死んだらお山さ行ぐ。」
という観念は下北半島に限ったことではないが、
この地でお山というと恐山のことを指す。
陸奥湾に面する大湊、津軽海峡に面する佐井、太平洋側に当たる大畑、
つまりはすべての方面から恐山に至ることが出来る。
そしてどの方面から来ても、恐山に入るには渡らなければいけない川がある。
三途の川だ。

死者も生者も三途の川を渡り、恐山に行く。
死者はそのまま帰ってこないが、生者は宿坊に泊まり温泉で癒され、
再び三途の川を渡って戻ってくる。まさに生き返るのだ。
と、冷水で出会った爺サマに教えられた。

三途の川に架かる太鼓橋から見た宇曾利湖は、どこまでも透明で美しかった。
湖を囲むように聳え立つ八峰、
剣山、地蔵山、鶏頭山、大尽山、小尽山、北国山、屏風山、釜臥山。
これらは「蓮華八峰」と称され、上空から見ると
あたかも蓮華の花弁を形作っている。
これらの山並みを見渡し、いよいよ恐山に足を踏み入れた。

恐山のご本尊は地蔵菩薩。
山門からまっすぐ伸びた先に、大きな本堂。
まずはご本尊に参拝。
そして、本堂の左脇から山道を登って、地蔵山の不動明王に参拝。
不動明王に至る階段にいたる途中、あたりを見渡せる場所があるので、
南南東の方向に見える釜臥山を遥拝。

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釜臥山の奥の院には釈迦如来が祀っており、この三聖地は直線で結ばれている。
三聖地を参拝することによって、恐山参拝の結願が成就されるのだという。
写真の、山並みの向こうから顔を出している山が釜臥山だ。

そして、いよいよ恐山地獄めぐり。
地蔵堂の西には荒涼たる景色が広がっている。

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この荒涼とした雰囲気は那須の殺生石の谷にも似ている。
一日に何匹も野生動物が死ぬという、現役の呪いの地…
ただ、殺生石では感じなかった、底を突き抜けた感じの悲しみが、
恐山地獄には充満していたように思う。
至るところに詰まれた石塚は、高く詰まれて山になったものもあれば、
まだ小さい集まりでしかないものもあった。
賽の河原と呼ばれる一帯には、まだ小さく新しい石塚が散在していて、
そのどれにもこれにも、故人の名が書き込まれている。
弔っても弔っても弔いきれないのか、
いくつもいくつも、同じ名が…


賽の河原の地蔵堂に入った。
六角形の小さなお堂は、六道に迷う衆生を救う地蔵菩薩をあらわしてのことか。
ありとあらゆる壁面や床に、古い衣類がかかっていた。
どれもこれも故人の名前が書いてある。故人が生前愛用したものだろう。
扉を閉め、閉ざされると、どっと悲しみが押し寄せ、胸が押しつぶされそうだ。
重い、あまりにも重い…
あまりの重さに、自然と涙がこぼれそうになった。
こんなこと初めてだ。
お経をあげ、私も草履と手ぬぐいを、お堂の片隅にそっと置いた。
弔いたい人がいたのだ。

嫌な予感がしたが性分には逆らえず、ついついシャッターを押してしまった。
レンズが壊れた…



沈んだ気持ちで賽の河原を歩いた。
これまでは気がつかなかったが、なぜか、カラスが妙に多い。
魂は鳥になる、ともいうが、ここに来た霊がみなカラスになったのではないか、
と思うほど多い。
カラスの親子に出会った。
子はまだ人間に慣れていないのだろう。近づいても警戒の色を見せない。
人の最後にたどり着くといわれる場所でも、
たえず生命の営みは育まれているのだ。

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そして。
とうとう宇曾利湖岸にたどり着いた。
湖越しに見える美しい形の山が大尽山。
賽の河原を経た魂は、湖を渡り大尽山へ行くと言われている。
また、湖岸で大尽山に語りかけると、故人と対話できるとも。

生者は宇曾利湖の先に進むことは出来ない。
死者の世界の入り口恐山から遥か遠く遠く、浄土と呼ばれる地を眺めるだけだ。
弔う者は、ここで決別を知るのであろう。

晴天ならば、美しい輝きを見せると言われる宇曾利湖も、
私の気持ちを反映するがごとく、どこか澄み切らない様子だった。

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「日本中央」からマサカリ形の下北半島をひたすら北上。
片側一車線のひたすらまっすぐな道。
途中、袈裟に菅笠、旅装の僧を追い越した。
恐山まで歩いて参るのだろうか。

むつ市街を抜け、いよいよ恐山への道。
参拝道にあたる車道を走っていると、路傍の端々に無数の道標や石仏が見受けられる。

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そのどれもこれもに、赤い前掛けと白い頬かむりがなされて、
土地の人々の信仰の篤さを物語っていた。


歩いていくなら大変な道のりだろうが、車だとそうでもない山の舗装路。
しばらくすると、車がたくさん路肩に止まっている場所に差し掛かった。
危うく通り過ぎそうになったが、ペットボトルを持っている人を見て、
ここが「恐山冷水」だということに気がついた。

路肩に車を止め、ありきたりのペットボトルを持って湧き水へ。
いつも旅先で湧き水を見かけては汲むようにしている。
が、それにしては準備が悪く、大抵は500mlのペットボトル、
運がよければ2リットルのペットボトルが車に積んである程度。
幸運なことに、この日は2リットルの空きペットボトルが2本もあった。

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水を汲み終え、土地の人らしい爺サマとお話した。
爺サマは自主的に冷水の掃除に来ているという。
話していくうちに、冷水の背後の森が、かつての古道だと言うことを教えてくれた。

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当然ながら恐山も、自動車が発明される前は、歩いて参ってたのだ。
今の道は、往時の道をなぞっている場所もあるが、そうでない所もあるという。
土地の人さえもその存在を忘れてしまっているが。。。

話が弾み、案内してくれることになった。

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爺サマ、山に入るのが趣味で、このあたりの山を歩いているうちに、
人や牛馬が歩いて出来たと思われる、道のようなくぼみを発見をしたという。
かつての古道だと確信し、以来、古道の発掘に明け暮れているとか。
一面に生い茂る笹を払い、倒木を取り除き、人が通れるようにしようと。

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面白いものを見せてくてた。
ヒバだらけの山のはずなのに、古道の脇に一本だけ杉が生えているという。
別の場所には、古道を挟むように対の杉が生えているともいう。
かつての参拝者が植えたのではないか、との話だ。
ヒバの森に杉が孤立して生えることなどありえないそうだ。


爺サマ自作の地図では、古道は「鬼石」まで伸びている。
もっとも、古道自体はまだ発見しきれておらず、途切れ途切れだそうだが。
「鬼石」周辺は、すでに通れるというので連れて行ってもらった。

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古道の最終点にあたる「鬼石」
かつての参拝道はこの巨石の前を通って恐山に至っているのだ。
恐山には人々の霊だけでなく、魑魅魍魎の類、畜生の霊もやってくる。
そういった霊の進入を、この鬼石はにらみを利かせて阻んでいる、とのことだ。
かつてこの巨石の下には石仏があった。
そして春夏秋、恐山で祭礼があるときは、必ずこの場で祭祀を行ったという。
やがて鬼石は古道とともに草木に埋もれ、石仏も車道の脇に移動され、
祭祀の場所も鬼石からは離れた場所になった。

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爺サマの手入のおかげで、現在では祭祀は鬼石の前で行われているそうだ。
今も車道脇に残る石仏だけが、変革の歴史を物語っていた。

鬼石の周りには自生の石楠花がたくましく育ち、時期になると一斉に花を咲かすという。
それを皆に見せたいがために頑張っているとも言っていた。
また爺サマは、参道に紫陽花を植え続けているという。
下北半島の紫陽花は夏が開花時期。
酸が強い土地なのか、途中見かけた紫陽花は、鮮烈な青だった。
爺サマは「紫陽花千本植えるまでは死ねんよ」と言っていた。
今はまだ六百本だそうだ。

いずれ必ず、開通した古道を歩きに訪れることを約束し、爺サマと別れた。

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この石碑、「日本中央」と彫られている。

金曜日の日中に東京を発ち、北へ駆け抜け深夜に八戸へ。
さらに北、三沢で車中泊。いざ下北半島へ入らむとする土地に、
なんと日本の中心があった。
遠くへ来たなぁ、と思ってたのに、まだ日本の真ん中だったとは…w

この土地、古くは「都母」と書き「つも」と読んだ。
現在の天間林村に「坪」、隣接する東北村に「石文」として土地に跡を残す。
石碑の名は、通称「つぼのいしぶみ」。
実に千年にわたって人々の想像力を掻立ててきたいわくの石碑だ。

古くは『袖中抄』(1185-1190頃)に記されている。
「いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有。
 日本の果てと云えり。但、田村の将軍征夷の時、
 弓のはずにて石の面に日本の中央のよしを書付けたれば、
 いしぶみと云う。(中略)其所をつぼと云う也。」

『袖中抄』に限らず、藤原仲実、藤原清輔、西行、源頼朝、和泉式部、、、
と名だたる歌人たちがこの「つぼのいしぶみ」に思いを馳せ、詠んできた。

長らく行方知れずになっていた石碑が、昭和24年、
ひょんなことから発見された。
土地の者が家の裏手のお堂を建て直すことになった際、
長く運送業をしてきた家なので、馬を供養するため馬頭観音碑を建てたいとなった。
手頃な石がないかあてを探しているうちに、例の石が見つかった。
橇にのせて運ぶために梃子を使って起こしてみると、なんとそこに文字が見える。
つぼのいしぶみの伝説は、土地には語り継がれていたので、
まさか、と思い汚れを落としてみると、そこには「日本中央」の文字。
こうして、世紀の発見に各地から学者やマスコミが訪れて
お祭り騒ぎになったそうだ。


そもそも、誰が何の為に「日本中央」と彫ったのか。
伝説では征夷大将軍・坂上田村麻呂が彫ったと言うことになっているが、、、
、、、史実としては、田村麻呂は都母までは到達していないそうだ。
実際に都母まで到達したのは田村麻呂の後任の征夷大将軍・文屋綿麻呂。
『日本後記』の綿麻呂の北征を記した文によると、
 出羽の都留岐(ツルギ=人名)の進言があり、
 弐薩体(ニサタイ=岩手北部から青森南部)の仇敵、
 伊加古(イカコ=人名)が軍勢を整え都母にいて、 自分を討たんとしている。
 自分は先兵としてイカコを攻めるから兵糧を支援してくれ、と。
 そこで米百石を支給し激励した、とあるのだ。

このことより、都母に到達した将軍は田村麻呂ではなく綿麻呂だとされている。
伝説は、わかりやすいように田村麻呂に置き換えられたのだろう。
いわずもがな、東北にはあちらこちらに田村麻呂伝説が残っている。

確かに官軍がやって来た形跡はあった。
では、なぜここが「日本中央」なのか。
まだ、まとまった見解はないが、、、
一つは、当時の日本の影響力、
 もしくは制服目標が樺太や中国北部まで及んでおり、
 それらを含めると、現青森が日本の中央となる。
もう一つは、日本とは「日の下(もと)」の意味で
 朝廷側から見て日出る方角にある陸奥を、日本の国と呼んだ。
 これは陸奥を同じく「日高見」と呼んだことと同じ理屈。

九州から発した東征が、日の本を制する進撃であったのならば、
行き着く果ては日の本の国、その日の本の国を制した証に
いしぶみを残したのかもしれない。

あるいは、誰かが戯れに彫ってみただけかもしれない。

未だ謎多き「つぼのいしぶみ」
一見の価値は有ると思う。


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