2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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5月23日

丹生都比売神社を後にした一行は、立里荒神社を目指した。
とはいえ、立里荒神社に行くには高野山の門山を通って行かなくてはならない。
時間の都合も考えると、そのまま高野山に参ったほうがいいのだが、
正しい参拝順序は 丹生都比売神社ー立里荒神ー高野山 らしい。
なので、高野山の門前で胡麻豆腐を食べ一服、
そのまま荒神岳に向かった。

高野龍神スカイライン(スカイラインと言っても普通の山道)を進み、
途中から脇道に入っていく。
いつのまにか周りの山々が眼下に見える高所まで来ていたが、
そんなところにも集落があったりして驚いた。

雨はどんどん強くなる一方だ。
胡麻豆腐屋で聞いた情報によると、この暴風雨で、
高野山に通じる道の一つが倒木で塞がれたらしい。
そんな嵐の中、立里荒神社にたどり着いた。

立里荒神社


意外なことに、駐車場には車がチラホラと停まっていた。
バスも停まっている。
この嵐の中、参拝客がいるということか。

立里荒神社


立里荒神社


立里荒神社は山の上に鎮座しているので、
駐車場から長い石段を登っていく。
驚いたのは、その参道に隙間なく白木の鳥居が立っていることだ。
これは、それだけ信奉者が多いということ。
これまでそれなりの数の神社を巡ってきたが、
これほどまで鳥居が連なったところは見たことがない。

立里荒神は弘法大師の勧請した神。
弘仁七年、高野山伽藍を開基しようと初めて高野山に上り、
地鎮の法を修していたところ障碍を起こすものがいる。
汝は何者ぞ?と問うと、荒神岳に住む神だという。
自分を祀れば、三宝荒神と変じて大願を成就させるとのこと。
弘法大師は板に三宝荒神の絵を書き、御神体として祀り、
一七日の間荒神供を修法した。
すると障碍は一切なくなり、無事高野山を開くことが出来たとのこと。

現在の御祭神は火産霊神と誉田別命。
三宝荒神は火の神、かまどの神としても知られ、火を使う職業の信奉が篤い。

また興味深い話として、立里に伝わる「お辰」の民話がある。

 妙谷(たいたに)というところに大きな滝がある。妙谷の滝という。
昔、ここに平家の落人という杓子屋(しゃくしや)が住んでいた。毎日杓子(この村ではシャモジという)を作っていた。
 また近くの山小屋にお辰という娘が住んでいた。この山小屋へ毎夜、若者が遊びに来た。娘は、ふしぎに思い、若者の着物へ糸をつけて帰した。明日、糸の行方をみると谷をへだてた滝に入っていた。まもなく娘は身ごもった。生んだ子は人間の赤子ではなく蛇の子でタラヒに七はい生んだ。七峠の見えるところへ埋めてくれといって母子とも死んだ。そこで荒神さんから立里へゆくところの七峠の見えるところへ埋めて墓を作った。
 立里の中岡卯之吉さんという人が高野山からの帰途にこの葬式に出会った。死骸を入れた長持が余りにも立派であったので驚いているのに「これは普通の人ではない。平家の落人の家筋だろう」と思った。
 ところが、このお辰墓も時代の変遷で道路拡張のために墓を奥の方へ移すために掘った。
その時、足のスネの骨が出た。女にしては余程背の高い人だと思われた。動物の骨でなく正しく人間の骨であった。蛇の子というのは、今いう月足らずのブドウ子のことで流産したのではないかという。

蛇神にまつわる異類婚姻譚でポピュラーな、蛇神様の夜這いの話。
三輪山の大物主の話が有名だが、立里でも同様の話があるのが興味深い。
タタリ神が守護神になるという経緯が大物主と重ねられたか。
蛇神として挙げられることの多い「杓子=シャクジン」
を示唆する登場人物といい、なかなか興味深い。


立里荒神社


立里荒神社


それはさておき、写真を撮ろうと構えていると、
幼い子を連れた参拝者が通りすぎていった。
こんな暴風雨にもかかわらず、偉いものだ。
参道は途中でつづら折りになりながら、更に上まで続いていた。
私はかろうじて折りたたみ傘をさしてはいたものの、全く意味を成さない。
レンズに付く水滴をぬぐいながら、風に飛ばされぬよう参道を登って行った。

参道を登りつめると、そこには信じられない光景が待っていた。
この暴風雨の中、この辺鄙な場所にもかかわらず、
参詣者で溢れていただのだ。
酒をまいたり、生肉をまいたり、、、

先客たちが去った後、参拝。
一通りの参拝を終え、同行者たちは先に歩き出したが、
私は静かになってから写真を撮りたかったので、その場にとどまった。
真正面から向きあって、写真を撮る。
なんとも言えない力強さに引き込まれるような思いがした。
吹き荒れる風雨に殴られるまま向かい合っていたから、
一層そう感じたのかもしれない。
とにかく人々の思いのこもった、力みなぎるお宮だった。

立里荒神社





*なお、高野山では知り合いのお坊さんを訪ねて宿坊を案内してもらったものの、
 結局天候と時間と体力の問題で奥の院には参拝せず。
 日記も又の機会に。
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5月23日

前日は和歌浦のPさんのご自宅に泊まらせてもらった。
Pさんは東京から和歌浦に移住した人で、
雑賀崎に居を構えている。
雑賀崎は戦国時代、雑賀衆の名を轟かせた傭兵集団の本拠地だ。
その地は、三方を山に囲まれた港で、
近年、和歌山市から抜けるトンネルが出来るまではアクセスも悪かっったため、
独自の文化が色濃く残っているそうだ。
あいにくこの日は朝から雨で、街並みを探検するまでには至らなかったが、
ちらっと見た限りでも、人がすれ違うのがやっと、
といった細い道が入り組んでいる大変よそ者には歩きづらそうな集落だった。


他のメンバーと落ち合い、立里荒神を経て高野山へ向かう。
Pさんの車で、東京から来たOさんNさん、滋賀のMさん、それに私の5名。
紀ノ川を遡っていく。
雑賀、根来、九度山、、、と歴史好きなら心踊らせる地名が連続。
なるほど、高野山から紀ノ川沿いに海に出る土地に点在していたのか。
車は九度山までは行かずに、西高野街道(県道109)を右折、山道に入った。

西高野街道に入ったころ、丹生都比売神社の道標が見えた。
丹生都比売神社は紀州一宮で全国的にも有名な神社。
誰からというでもなく、立ち寄ってみようという声が上がった。

街道を途中で左折。星山、天野というロマンチックな地名を通り、
丹生都比売神社に至った。

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雨は相変わらず降り続いている。
駐車場から朱塗りの太鼓橋が見えた。
実に渡りたくなる橋である。

脇に普通の道があるにもかかわらず、皆で橋を渡った。
ノリがいいのかなんなのか(笑)
脇には普通の道があるにも関わらず。
頂き付近には階段もなく、つるつると滑って大変危険だった。

橋の上から右手を見ると池を見渡すことができる。
島が浮かんでいて、そこに祠が祀ってある。
市杵島比売か弁財天だろう。
島の形が真四角だ。池の丸いカーブと対照的で面白かった。

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太鼓橋の先にも小川があり、そこを渡ると雰囲気が変わる。
木々に囲まれた空間に、朱塗りの巨大な社殿がそびえ立っていた。

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丹生都比売神社は、四棟の本殿が並んでいる。
第一殿 丹生都比売大神
第二殿 高野御子大神
第三殿 大食都比売大神
第四殿 市杵島比売大神

丹生都比売大神は天照大御神の妹神で稚日女命とも。
神功皇后の三韓征伐の折、丹生都比売大神の託宣により、
衣服・武具・船を朱色に塗ったため戦勝することが出来た。
これに感謝し応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進されたと伝わる。
(『播磨国風土記』)
丹生は辰砂のことであり、朱色の塗料の原料。
水銀を精製できる鉱石で、中国では錬丹術の仙丹という、
不老不死の薬の原料として重宝された。
神社の説明によると、「丹生」の名が付く土地には辰砂鉱山があり、
丹生都比売は全国の辰砂を取り扱う一族の祀る姫神であり、
丹生都比売神社はその総本山なのだという。

高野御子大神は丹生都比売の御子神。
密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、
黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導いた神。

あとで知った話だが、高野山参拝の際は、
まず丹生都比売神社から参るのが古来の道順だそうだ。
これは、高野御子大神が高野山の導きの神だからなのだろう。
丹生都比売神社→立里荒神→高野山
立里荒神はもとから立ち寄る予定だったため、
偶然とはいえ、古来の参拝順序を踏襲したことになった。

大食都比売大神と市杵島比売大神は、鎌倉時代に行勝上人が勧請した神。
祭神が四柱となり、今の形に収まった。


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社殿の脇には、境内社である「佐波神社」。
佐波神社を調べると、鎌倉近辺に多い「鯖神社」に行き当たる。
サバは左馬とも書き、源義朝(左馬頭)を祀っていることが多いそうだ。
丹生都比売神社には北条政子が関わっていて、
鎌倉時代に社殿を寄進している。
その際に佐波神社も勧請したのであろうか。

佐波神社の場所に立つと、その奥がものすごく気になった。
石の柱が何本か立っているのが見えた。
霊感のあるOさんも、その場所からエネルギーを感じると言っていた。
境内の外に出ることになるが、ぬかるんだ道を辿りその場所に行ってみた。

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まず目についたのが小さな祠。
役行者を祀っている石祠だという。
他には真言が円の中に刻まれた光明真言石碑と、四基の五輪卒塔婆。
ここはかつて神仏習合時代に多宝塔があった場所なのだそうだ。


帰りももちろん太鼓橋を渡った。
さすがに今度は私だけだった。
振り返ると着物姿の女性が社殿に向かって歩いていて、大変絵になっていた。

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キトラ古墳の壁画公開は飛鳥資料館の中で行われていた。
飛鳥資料館の敷地に入ってみると、不思議な光景に目を丸くした。

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なんだろう、この立石と周囲の行灯の配置。
飛鳥時代の祭祀を再現したようだが、
それよりもっと古い、縄文時代を感じさせる。
周囲ではバンド演奏の準備をしていて、
これからイベントが行われることが予想された。

この立石は「須弥山石」と呼ばれるもので、
明治35年に石神集落の田んぼの中から発掘されている。
日本書紀に、斉明天皇が外国からの使者を迎えて須弥山石のもとで饗宴した、
との記述があり、飛鳥の石像群の中で唯一文献に残っているものだという。
発掘されたものは三段だが、表面の模様や内部の穴の配置が合わないため、
本来は四段だったと考えられている。(飛鳥資料館のものは再現されたもの)
内部の穴に水を通すことで噴水になる。
いわば分離運搬できるポータブル噴水。
饗宴など重要な場面で、庭の中心に「須弥山」を立て、
三千大千世界(仏教的宇宙)を再現したのだろう。
須弥山には甘露の雨が降っており、
これにより須弥山の住人たちは空腹を満たされる。
噴水は甘露の雨を再現したものだろう。

しかし、、、
須弥山石を中央において、三千大千世界を作ってしまう、
つまり斎場の中央に石を立てて祭りを行う、
この発想は立石崇拝やストーンサークルの思想により近い気がする。
斉明天皇は土着の立石信仰に、
当時の正先端科学である須弥山思想を重ねあわせて、
このような饗宴の場を設けたのではないだろうか。
なお、斉明天皇は巨大土木工事マニアで、
巨大な堀を掘ったり巨石運んできて公園を作ったりとやりたい放題、
蘇我赤兄に斉明天皇の失政として批判されている。

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飛鳥資料館の庭には、他にも飛鳥の謎の石造物のレプリカが集められている。
写真は亀石、猿石、噴水石人像。
一言で言えば、不気味だ。

いずれも教科書レベルの有名な石だけど、
こうして改めて見てみると、王朝文化の最前線に疑問を感じる。
どういうわけでこうなったのか。
どちらかというと縄文文化の発展形のような造形。
もしかしたら飛鳥という土地は、
新旧入り交じった混沌の中にあったのだろうか?


さて、肝心のキトラ古墳。
古墳自体の公開かと思っていたが、壁画だけの公開だった。
四神の青龍、白虎、朱雀、玄武が描かれていることで貴重な古墳だが、
漆喰に描かれた壁画にカビが発生したことにより、
石室から切り離しての修復作業が行われていたもの。

案外壁画は小さく、しかも実物は不明瞭な部分も多く、
期待しすぎるとがっかりするかもしれない。
ただ、このような緻密な絵画が飛鳥時代から時を経て今に残っていることは
考古学的にはものすごく貴重な遺物である。
個人的には、四神の他に天体図の壁画と、
各方角に対応した色で描かれた半人半獣の十二支像が興味深かった。

竹生島から長浜港へ戻ったのは15時少し間。
空はどんより曇り、雨がたまにポツポツ落ちてきていた。

友人のYさんとはここでお別れ。
残ったメンバーはこの日の宿泊地、和歌山へ向かう予定だが、
その前に奈良へ立ち寄り、特別公開中のキトラ古墳壁画を見る事に。
こんな時間から大丈夫か?とも思ったが、
高速を使うとあっという間に奈良へ。
私は高校卒業まで南大阪に住んでいたが、
その頃の感覚が抜けていなかったので、
こんなに速く移動できるとは思っていなかった。

キトラ古墳壁画の公開は飛鳥資料館。
飛鳥には来たのは3度目。
一度は高校生の時、原付で大和川を遡って。
その時は法隆寺を見て帰ったから正確には飛鳥には行ってないが…
2度目は旅の途中。飛鳥入りできたのが夜で、
真夜中の石舞台を壕の外から眺めたことしか記憶にない。

南阪奈道を降り、街に入る高架から飛鳥が一望できた。
盆地に浮かぶ島のように、飛鳥三山が頭を覗かせている。
畝傍山・耳成山・香具山の三山は飛鳥の象徴。
決して大きな山ではないが、存在感のある山だ。

飛鳥資料館に行く前に、是非とも「蘇」を食べてみたい、との声が上がった。
「蘇」とは古代のチーズ様の乳製品。
飛鳥資料館「万葉乃衣食住」の為に西井牧場が復活させたもので、
西井牧場の直営店『みるく工房飛鳥』が「飛鳥の蘇」として販売している。

地図を頼りにたどり着くと、みるく工房は天香具山の麓にあった。
店内に入ろうとすると、黒いタクシーが急に敷地に入ってきて、
中から4名の女性がものすごい勢いで店内に突入、
「蘇」が売り切れたと聞くと、他の商品をみるでもなく、
あっという間に帰っていった。
つむじ風の如くだった。

残念ながら「蘇」は売り切れていたが、「駱」を購入。
つまりは飲むヨーグルトなのだが、とても美味しかった。

せっかく車から降りたので周囲を見渡すと、
なかなか風情のある街並み。

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白壁の民家はただ古いわけではないようだった。
ちゃんと景観に合うように建て替えたり手を入れたりしているようだ。
この土地を理解している人たちが暮らしていることが伝わってきた。

その先には天香具山。
天岩戸神社の鳥居が見えたので行ってみた。

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集落から溝一つで隔てられた境内。
石橋の向こうは竹林が道を守っていて、明らかに空気が違う。
進んでいくと、まもなく拝殿が見えてきた。

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参道から一段上がった広場、横幅いっぱいに広がった社殿。
脇から後ろに回ると、本殿はなく裏の竹やぶのの前に
三つ鳥居の拝所があった。

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竹やぶの中には磐座があり、それを祀っているようだ。
巨石を取り除かれた岩戸と見立てているのか。
あとで調べたところ、巨石4個の他に岩穴があるのらしいが、
その時はわからなかった。

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他には、七本竹の伝承があり、
ここの竹は毎年必ず七本枯れ、七本新しく生えるとのこと。
この竹に触ると腹痛になるらしいが、
竹だらけなのでどれがどれだかわからなかった。

観音堂から舟廊下を渡り、都久夫須麻神社で参拝。
ご祭神は 市杵島比売命(弁財天)、宇賀福神、浅井比売命、竹生島龍神。
このうち市杵島比売命、宇賀福神、龍神は、弁才天・水神関係だとわかる。
浅井比売命というのはこの地の産土神。
雄略天皇3年(420年)に浅井比売命を祀る祠が建てられたことが、
この島の祭祀の起源であり、他の神仏は後から追加勧請されていった。

この地には浅井比売命にまつわる伝承が伝わっている。
多多美比古命(伊吹山の神)が、姪で浅井岳の神・浅井比売命と高さを競い、
負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を切り落とした。
その首が琵琶湖に落ちて竹生島が生まれたという。

浅井岳とは(現在の金糞岳)のことだと考えられている。
金糞山は標高1317m、伊吹山は標高1377m、
金糞山に竹生島の標高197mを足すと伊吹山を越えるためだ。

竹生島に面する琵琶湖北東部は古くから浅井郡といわれ、
竹生島の祭祀を担って来た。
有名な戦国浅井氏はこの地が本貫地で、
前編でも書いたように、蓮華会で弁才天像を奉納したりと、
積極的に祭祀に関係しているようだ。
浅井氏のルーツは三条公綱の落胤説、物部守屋後裔説があり、
いずれにせよ定住した土地の名をとって浅井と称したのだろう。

浅井という地名なだけに、湖の底も浅いのかと思いきやそうではなかった。
竹生島の周囲は琵琶湖で一番深い場所で、最深部は104mに達するそうで、
実際は浅井なのに深いのだ…

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都久夫須麻神社の向かい、琵琶湖に面した方には竹生島竜神拝所。
社殿の入り口には八大龍王拝所とあった。
崖の上に迫出した社殿で、先端には神棚があり、
中心に金の御幣、左右を玉に巻き付いた蛇が守り、
幾多の奉納品が所狭しと並べられていた。


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拝所から琵琶湖を覗くと、突き出した岬の突端に鳥居。
船から我々を迎えてくれた鳥居だ。
琵琶湖に向かって願いを書いた土器(かわらけ)を投げ、
投げた土器が鳥居を通ると願いが通じるという。
鳥居の周りが白いのは、積もり積もった土器片の色だ。
かわらけ投げは、京都の神護寺が発祥で、
酒宴の余興から発展した厄除けとのこと。
同じものを秋葉山で見たことが有る。
他には比叡山、屋島でも行われているそうで、
江戸期の飛鳥山でも行われていた記録が有る。

さて、このかわらけ投げ。
私には他のルーツがあるように思えて仕方が無い。
竹生島から北に約2km、葛籠尾崎という半島の先端部。
この沖6mから700mから、縄文時代早期から平安時代の、
約140点の土器が発見されている。
葛籠尾崎湖底遺跡と呼ばれるこれらの土器は謎に包まれていて、
・湖岸遺跡からの「遺物流出説」
・祭祀(さいし)により土器を沈めた「祭祀説」
・船が沈没・転覆したため積荷の土器が沈んだとする「船舶の沈没説」
・葛籠尾崎の地滑りによる「遺跡の沈下説」
などが原因として考えられている。
このうち「祭祀説」と似たようなものを見たことがある。
http://miyokame.blog82.fc2.com/blog-date-200707.html
箱根芦ノ湖の湖上祭。
九頭龍神に捧げる供物の入ったお櫃を湖底に沈める祭り。
(ちょうど葛籠尾も葛クズ籠リュウだし…)
琵琶湖の最深部に眠る龍神に供物を捧げる風習が、
かわらけ投げと習合して続けられて来たのではないだろうか。


同行のPさんが神社の先が気になると行っているのでついていってみた。
弘法大師庵跡や荷揚げの船着き場があり、
その先になにやら意味ありげな赤い鳥居が。
他のメンバーからかなりはぐれてしまっていたのが気になったが、
誘惑には勝てず鳥居に吸い込まれていった。

鳥居の先は下り坂になっていて、階段が崖の下に続いている。
湖面がちらりと見えると、そこにはまた鳥居があった。

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この先は湖面。
岩に沿って石段が水面下まで続いている。
禊場かと思っていたが、後で調べると「放生会斎庭」だそうだ。
6月14日の龍神祭の際、この場所から稚魚を放つ。
一般に放生会の起源は、『金光明経』長者子流水品、
釈迦仏の前世であった流水(るすい)長者が、
大きな池で水が涸渇して死にかけた無数の魚たちを助けて
説法をして放生したところ、魚たちは三十三天に転生して
流水長者に感謝報恩しことに因む。
また神仏習合により神道にも取り入れられ、
720年(養老4 年)戦において多くの兵の命を奪った罪への禊ぎとして
宇佐神宮で行なわれたのが放生会の最初とされる。

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石鳥居には「奉納某氏」「己巳年己巳月己巳日」と大きく刻まれていた。
己巳の日は弁才天の縁日。
石鳥居は新しいようなので最近の該当日を調べてみたら、
平成元年の5月9日がそうだった。
その日に合わせて「某氏」は石鳥居を奉納したのだろう。
なにか某氏の執念にも似た信仰を垣間見た気がした。

穏やかな湖面が目の前いっぱいに広がる放生会斎庭は大変気持ちよく、
後から追いついたメンバーとともに、帰りのフェリーの時間も忘れて寛いだ。
賑やかな境内とは一線を画した静かな空間。
ふと湖底を見ると、ところどころに白い玉が見えた。
なるほど、これは龍神様のお供え物の卵だ。
すぐ近くの水の底に、龍神様が隠れているような気がした。

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5月22日

ひょんなことから、琵琶湖の竹生島に行くことになった。
友人から誘われていたものの、行かないつもりでいたのだが、
どういうわけか急に参加したくなった。

集団行動なので交通の都合も考え夜行バスで現地入り。
行程も現地の移動も完全にお任せ。
私にとっては久々の、完全に人任せの旅だ。

前日夜22:00発の新宿発京都行きの夜行バスを予約。
チケットの手配が後手に回ってしまったので長浜行きのバスは満席、
京都入りしてから長浜まで鉄道を使うことにした。
京都までのチケットはなんと5千円もしなかった。
夜行バスは大学に入ったばかりの頃に、実家の大阪行きを使っていたが、
(しばらくしたら18切符の鈍行旅に切り替えた)
当時とは比較にならないくらい安くなっている。
その上バスの乗り心地も快適になっていた。

新宿出発は30分ほど遅れたものの、京都へは予定通り6:00着。
集合時間は長浜に9時。3時間ある。
長浜は琵琶湖の北部、どうせ電車に揺られるなら、
町中を走る東海道本線よりも、湖岸を走る湖西線に乗り琵琶湖を眺めたい。
と思ったが、時刻表を見ると湖西線はあまりにも連絡が悪く、
集合時間に間に合わないことが判明。
素直に東海道本線で長浜に直行し、
長浜城跡の公園で湖を見ながらおにぎりを食べた。

9:00集合。
友人Oさんとその友人たち、総勢8名。
そして竹生島フェリー乗り場では友人のYさんと合流。
フェリーに乗り込み約30分で竹生島だ。

田舎が四国だけあって、小さいな頃からフェリーには乗っている。
デッキで風を受けるのが好きで、この日もそうした。
湖上を進むとそこは海としか思えない景色が広がっていたが、
風が潮を含んでいない分、さわやかだ。

あっという間に竹生島が見えて来た。
施設は南部に集中しており、フェリーは南東から島に近づく。
湖に突き出した龍神拝所の鳥居が我々を迎えてくれた。

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竹生島は神の住む島といわれ、古くからの信仰の島。
「宝厳寺(竹生島観音)」と「都久夫須麻神社(竹生島神社)」が鎮座している。
都久夫須麻神社はかつての竹生島弁才天社で、宝厳寺と一体化していた。
神仏分離令以降は弁才天を宝厳寺に託し、都久夫須麻神社と改称。
現在の祭神は 市杵島比売命(弁財天)、宇賀福神、浅井比売命、龍神。

フェリー乗り場から土産物屋の並んでいる参道。
ちなみに、帰りに土産物屋内の食堂でおにぎりと鮒寿司を食べた。
鮒寿司はずっと食べてみたいと思っていたので、やっと念願が叶った。
店主のお手製の鮒寿司。ただの土産物屋と侮ってはいけない。
さすがは毎日湖の上で暮らしている人物の味付け。絶品だった。

入島管理所から急な石段が続く。
ただでさえ登りづらい石段なのに、上から下まで参拝者の行列。
この五月は竹生島観音の御開帳でもあったので、島中参拝者だらけだ。
本尊千手千眼観音の御開帳は本来60年に一度だが、
『「覚醒観世音菩薩蕪悲の心」-西国三十三所結縁御開脹-』という催しで、
西国第三十番札所でもある宝厳寺も御開帳しているのだ。

石段の頂上は本堂・弁天堂。
弁才天は観音信仰による御開帳とは関係がないので、
通例の60年周期の御開帳。次は2037年とのこと。
何も見られないのかと思いきや、拝所の左右に御前立像という、
弁才天像の分身が控えていた。

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左が永禄8年(1565)浅井久政奉納、右は慶長10年(1605)奉納のもの。

これら御前立像は、かつて本尊だったもの。
室町時代から続く「蓮華会行事」の毎開催ごとに、
新しい弁才天像奉納する習わしがあった。
宝物殿には、浅井久政の母が永禄九年(1566)に奉納したものがあり、
現存する最古の竹生島弁才天像だという。

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本堂から北方向に石段を下りると、宝厳寺観音堂。
建物は桃山時代の唐門で、国宝に指定されている。
玄関から入ると、回廊を反時計回りで仏間の入り口に周る。
そこに行列が出来ており、その列に並んで参拝。
あまりのんびりと拝む時間はなかった。

行列の出来ていた場所は、神社に続く渡り廊下で、
太閤の戦艦の舟櫓から移築した「舟廊下」として、重文に指定されている。
舟廊下は長い柱で支える懸造になっており、
格子窓から覗く景色は宙に浮いているようだ。
観音堂と弁才天社を舟で繋げる意図でこのような構造にしたのだろうか。

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(後半へ)

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5月6日

諏訪からの帰路、富士川を下って駿河湾に出た。
旅の終わりは、なぜかいつも海に出てしまう。

旧東海道を東に。
ちょうど太陽が沈む頃、沼津の千本松公園にたどり着いた。
夕日を見送るため、海岸へ。

駿河湾の対岸、ちょうど昼に居た由比辺りだろうか。
一筋の長い、そしてやけに重そうな雲があったので眺めていると、
みるみるうちに雲が湧いて来た。
あっという間に、対岸は雲に飲まれた。

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日が沈み、暗くなるまで眺めていた。
雲はどんどん成長していく。
まるで生命が宿っているかのようだ。
不思議な光景だった。

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