2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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6月15日

房総南部、富津市と鋸南町の境にある鋸山に行ってみた。
学生時代に一度行ったことがあるが、その時ロープウェイで山頂まで行き、
景色を眺めただけで帰ってしまったので、
じっくりと見てまわるのは初めてだった。

東口の駐車場に車を停め、入山料を払い、石段を程なく登ると大黒堂がある。
そこから右手に進むと開けた場所に出た。
岩肌に巨大な磨崖仏が掘られている。

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日本寺大仏。正式には薬師瑠璃光如来。
宇宙全体が蓮華蔵世界たる浄土であることをあらわしたもの。
日本一の大きさを誇る大仏で、原型は天明3年(1783)に
大野甚五郎英令が門弟と共に3年を費やして作ったもの。
自然のままに崩壊していたものを、
昭和44年に4年の歳月をかけ再現したものが現在の大仏だ。

鋸山は正式には乾坤山日本寺といい、山全体が境内となっている。
歴史は古く、聖武天皇の勅願で行基によって
神亀2年(725)に開山されたとされている。
法相宗→天台宗→真言宗を経て、曹洞宗に落ち着いている。
最盛期には七堂十二院百坊を有する規模を誇ったそうだが、
廃仏毀釈と昭和14年の火災で本堂を含めたほとんどの建物を失っているので、
現在では大仏や無数に掘られた石仏が残るのみだ。

山には無数の道があり参詣ルートを迷ったが、
とりあえず真っ直ぐ登っていくことにした。
目についたものを記録していったので、順不同で紹介する。

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   ・
   ・
   ・

ものすごく疲れた…
精神的に疲れた。
大仏を作った大野英令は鋸山に留まり、命果てるまで石仏を掘り続けたそうだ。
だが軟らかい石質故に風化が進み、さらには廃仏毀釈で首を刎ねられ、
ちょっと正視しがたい状態になっている。
保護のための鉄格子がまた…


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山頂に出た。
切り立った崖の上から房総半島の内陸部が見渡せる。
といっても、山、山、山があるだけだけど…

日本寺の裏側はかつて採石場になっていた。
軟らかく加工しやすい石質は房総石(金谷石)として大量に切り出されたが、
建材技術の向上と共に、もろい房総石よりもより頑丈な大谷石、
またはコンクリートに取って変わられた。
江戸時代から続く採石場は、昭和末期に歴史を閉じた。
山頂から垂直に削り取られた崖は人の手によるもの。
よくぞここまで切り出したものだ、と驚きを隠せない。
鋸山の名前は、切り立った岩肌が鋸の刃の如く見えることの由来する。

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下山途中、百尺観音へ続く道があった。
正直もうお腹がいっぱいだったのだが、折角なので寄ってみた。
かなり高さのある切通しの間を抜け、辿り着いた広場は先程の崖の下だった。

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百尺観音。
着工は昭和41年、6年の歳月をかけて作られた百尺(30.3m)の磨崖仏。
日本寺大仏の着工時期と重なることから、
この時期に鋸山の再興活動があったことが伺える。
「戦没者の供養」「交通犠牲者供養」の祈りを込めて作られた観音像だそうだ。

ふと大谷観音を思い出した。
大谷石の採石場にある磨崖仏で、これもまたかなり巨大なもの。
岩肌を削り去った後、残された空白を目の当たりにすると、
人は仏像を掘りたくなるのだろうか。
山は先祖代々守ってきた聖地。
それを切り売りしたことに対するせめてもの償いなのかな。
余談だが、旅をして回っていると、聖地と呼ばれていた場所が削られ、
見るも無残な姿になっている光景をしばしば見掛ける。
山に限らず、森の木々や土地もそうだ。
自然はもはや地球のものではなく、人間のため資源として費やされていく。
切り売りしたその先には残骸しか残らない。
そうなった時、土地の人は先祖からの土地を捨てるしかなくなるんだろうな…

鋸山は色々と考えさせられる場所だった。
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早池峰



山の天気は移ろいやすい。
先程までからっと晴れていた空は、
太陽の力が弱まるのを見計らったように、
雲が湧き、風が吹き上げ、視界を閉ざし始めた。
茜に染まった太陽が雲海に呑まれると、
もう周囲は別世界になっていた。



早池峰




ガスの中にいるのにさらに濃いモヤモヤしたものが、
ものすごい勢いで走り回っていた。
戦慄し、避難小屋の中へ退避した。
この日はここで夜を明かす。
粗末な夕食を済ませ、友人GOさんの撮影に付き合った。
この山の上に大光量照明を2台も持ち込んでいた。
なんとタフな人なんだ…
ガスに光が乱反射して、周囲一帯が明るくなった。
里から早池峰を見た人は、山の頂が不気味に光っている、
と思ったのではないだろうか。
早池峰七不思議のひとつに、
「天灯 頂上に於て天より一点光の下降することあり。」
という一条がある。

撮影を終え、小屋に待避。
しばらくの後、屋外の厠へ行こうと戸を開けると、
扉の向こうは白い闇だった。ごうごうと叫び声をあげている。
このまま異世界に迷い込むんじゃなかろうかと恐怖したのを覚えている。

いつの間にか眠ってしまったらしい。
目が覚めたのは午前1時頃だった。
それまでの悪天候が嘘のように、空は澄み渡っていた。
風一つない、物音一つ聞こえない静寂の世界。
それはそうだ。闇夜に跋扈する動物さえもここにはいない。
静まり返っているなんてものじゃない。
音が無いのだ。



早池峰





明らかに睡眠が足りてないが、そのまま外で過ごした。
興奮で眠気がすっかり覚めたのだ。
やがて空が白んできた。
星が姿を潜めていく。
と同時に、東の空が朱に染まっていく。

夜明けだ。




早池峰





いつの間にか人が増えていた。
ご来光を目当てに朝早くから登ってきたのだろう。
皆思い思いの場所に腰をおろし、太陽が生まれるのを眺めていた。




早池峰





朝が来た。
様々なものが活動を始める。
風が動き雲が渦巻き鳥が飛ぶ。
自然の摂理なのだろうが、コンクリートに囲まれた生活をしている私には、
何もかもが新鮮だった。



早池峰





下山。
目の前には里へ降りる道が長く長く続いていた。

早池峰


6月11日

昼前、友人の民宿御伽屋の御主人GOさんと合流。
この日はこれから早池峰に登ることになっていた。
かねがねGOさんからは、
「夜中にふと思い立って月明かりだけで登っちゃった」
なんて話を聞いていたので、登山初級者の私でも、
早池峰は楽に登れると思っていたのだ。
毎年2回も早池峰神社に来ているにも関わらず早池峰には登ったことがない。
いつかは登ってみたいと思っていたので良い機会だった。

Oさんと別れてGOさんと二人で登山口へ。
荒川高原の広大な景色を通りぬけ、未舗装の凸凹路を走りぬけ、
辿り着いたのが小田越登山口。
北は早池峰、南は薬師岳、両峰の狭間に位置する登山口だ。
ハイマツの林を抜けるとなんと雪が。
私は地下足袋だったので、凍った雪でつるつる滑って大変だった。
ちなみに林業用スパイク地下足袋も持っているが、
早池峰は岩山なので(岩肌でスパイクが滑る)ので持ってきていなかった。

雪が残っているにも関わらず、ところどころに桜も咲いている。
正確には、桜はすでに散っていて花びらだけが登山道に落ちていた。
そんな林を抜けると、目の前に広がるのは岩・岩・岩。
早池峰
富士山や月山も岩の山だけど、どちらも「岩を乗り越えて登る」ほどではない。
が、早池峰は登山道などという甘っちょろいものではない。
岩を大股にまたいで乗り越え、真っ直ぐ上を目指すのだ。
(一応ロープで登山道は区切ってある…)
こんな道を、照明も点けずに月明かりだけで登るGOさんって…
早池峰
しばらく登っていると急にガスがかかってきた。
木が無く周囲の見通しがいいので、雲が動いている様がよくわかる。
一時は目の前を行くGOさんの姿が見えなくなるほど視界が悪くなった。
そんな中で巨大一枚岩の梯子場が続く。
たまにガスが切れ視界が広がると、あたり一面巨石だらけだった。
なるほど、いかにも修験者が好みそうな山ではある。

登山口から2時間あまり、岩場を登り切ると尾根に出た。
左へ行けば早池峰山頂、右へ行けば剣岳だ。
先ほどとは打って変わって平坦な湿原地帯に木道が設けてある。
「御田植場」と呼ばれるこの場所では、
夜になると乙女の田植歌が聞こえてくる、
なんて言い伝えを聞きながら歩いていると、
唐突に、視界の先の早池峰山頂が姿を表した。

早池峰


登山道は雪に埋もれ、なだらかな白い傾斜を作っていた。
傾斜の先には早池峰山頂。
その先には傾きつつある太陽。

早池峰


先程の雪道のように凍ってはいなかった。
時々足元深く埋まる雪をしっかりと踏みしめながら、
山頂に向けて上り詰めた。
早池峰早池峰

早池峰山頂から来た道を振り返る。
空はすっかり晴れ、はるか先に雲が沸き立っていた。

早池峰山頂。
早池峰神社奥宮。
とうとう来ることが出来た。

早池峰
奥宮で参拝する私。

参拝を終え、遠野の方向を見下ろすと、
薬師岳が雲海に飲み込まれるところだった。

早池峰


6月11日

遠野 六神石神社


来内の伊豆神社から遠野の街に戻る途中、
ちょっと遠回りをして「六神石神社」を訪れた。
「おない」の長女「おろく」が得たという六角石山。
伊豆神社と六角石山を結ぶ線上に位置する神社だ。
六角石山麓には他にも里宮として「六角石神社」があるのに、
ここだけは「六神石神社」と書く。
糠前の「六角石神社」を訪れたこともあるが、
神社の規模で言えばこちらの「六神石神社」が断然大きい。

遠野 六神石神社


「六神石神社」は二度目の訪問。
前回は夕方遅くの訪問で、お参りしている間に真っ暗になり、
闇のなかで猿たちに威嚇されて冷や汗をかいたものだ。
http://miyokame.blog82.fc2.com/blog-entry-26.html
今回は早朝の訪問。
改めて見る境内は広々として光に溢れていた。

遠野 六神石神社


「六神石神社」
祭神は 表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長帶姫命、大己貴命、少彦名命

あれ?
三姉妹の陰が全く見当たらない。「おろく」はどこへ行った?

そもそも不思議なことに、遠野三山の三女神は(私の知る限りは)
早池峰の瀬織津比売の存在感が大きすぎて他の姉神たちの存在が感じられない。
瀬織津姫は祓戸四神の一柱なので、その姉妹と言うと、
・瀬織津比売(せおりつひめ)
・速開都比売(はやあきつひめ)
・速佐須良比売(はやさすらひめ)
ということになる。

「六神石神社」はもともと、住吉神社だった。
大同二年(807)に六角石山奥宮に薬師を祭った際、
山麓に不動と住吉三神を祭ったのが始まり。
その後、嘉祥年代(848-851)に遷宮した後、現在地に落ち着いた。
一方山頂の奥宮は幾度の火事に見舞われ、明治に里宮と合祀。
その際、社名を「六神石神社」に改め、「新山宮」となった。
大同二年は早池峰開山の翌年。(早池峰は大同元年説と二年説がある)
随分早い段階で、九州北部を発祥とする住吉の神が勧請されたことになる。
海に関する神が祀られているのは盆地の遠野には似合わないが、
釜石の海からは六角石山を見ることができるそうなので、
そういった経緯で祀られたのだろうか。

参拝を済ませ、背後に回った。
境内社が4社並んでいるのだが、それよりも気になったのが本殿横の妙な塚。
わざわざ土を盛り上げて、ご丁寧に杉の木を植えたように見える。
前回来たときには暗くて気がつかなかった。

遠野 六神石神社


かねてから六神石神社は他の神社と格が違うように思っていた。
やけに広くて綺麗な境内だったり、灯籠には菊の御紋があったり。
これはもしや、「貴人の墓」なのではなかろうか…


ところで六神石神社といえば、このお三方への挨拶は忘れてはならない。
相変わらず素敵な表情をなさっていた。

遠野 六神石神社遠野 六神石神社遠野 六神石神社


6月11日

遠野入りして一日目。
早朝、遠野から少し離れた場所にある伊豆神社へ行ってみた。
伊豆神社は有名なので名前は知っていたが、実際に訪れるのは初めて。
遠野の街を離れ、山に囲まれた県道238号を南下。
風景はどんどん寂れていく。
やっと小さな集落が見えた。そこが来内(らいない)集落。
アイヌ語で「死の谷」と解釈されている。
そんなことを思っていたら伊豆神社を通りすぎた。
大きな神社を想像していたので、民家に挟まれた鳥居を見逃してしまった。

遠野 伊豆神社


伊豆神社
祭神は瀬織津姫、母神(俗称おない)

『遠野物語』第二話 神の始
 遠野の町は南北の川の落合に在り。
 以前は七七十里とて、七つの渓谷各七十里の奥より売買の貨物を聚め、
 其市の日は馬千匹、人千人の賑はしさなりき。

 四方の山々の中に最も秀でたるを早地峰と云ふ、
 北の方附馬牛の奥に在り。
 東の方には六角牛山立てり。
 石神と云ふ山は附馬牛と達曾部との間に在りて、
 その高さ前の二つよりも劣れり。

 大昔に女神あり、三人の娘を伴ひて此高原に来り、
 今の来内村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、
 今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、
 夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、
 末の姫眼覚めて窃に之を取り、我胸の上に載せたりしかば、
 終に最も美しき早地峰の山を得、
 姉たちは六角牛と石神とを得たり。
 若き三人の女神各三の山に住し今も之を領したまふ故に、
 遠野の女どもは其妬を畏れて今も此山に遊ばずと云へり。

「大昔に女神あり~」の一説は、遠野を見守る早池峰に関わる重要な一説。
遠野の信仰の原点とでも言うべき物語だ。
三女神の母については、征夷大将軍 坂上田村麻呂が連れてきたとする話、
前九年の役で敗れた安倍宗任の妻とする話もある。
母 「おない」と「おいし」「おろく」「おはつ」の三姉妹の名は、
安倍宗任伝説に付随した話だ。
 お「いし」=「石」上山
 お「ろく」=「六」角牛山
 お「はつ」=「早」池峰     
から考えられた当て字だろう。とうことは、
 お「ない」=来「内」 か?

伊豆神社という名称は、大同年間(806-809)
早池峰を開いた四角藤蔵が来内権現を感得し、
故郷の来内に草庵を建てて祀っていたところ、
それを聞きつけた伊豆走湯の修験者が遥々やってきて、
獅子頭を御神体として奉納したことに由来する。
唐突に伊豆から修験者が来たのが疑問ではあるが、
今のところそれしか説明のしようがない。
(遠野から海岸に出た釜石には虎踊りなど伊豆の民俗が伝わっているが、
 それは廻船業で名を馳せた吉里吉里善兵衛が、
 後北条家臣時代に伊豆の下田を領有していたからであって、
 伊豆神社と結びつけるのは少々無理がある。)

伊豆神社は、早池峰・薬師岳・早池峰神社・神遣神社を結ぶ直線上にある。
これが、伊豆神社が「神の始」とされる由縁。
また遠野の郷土史家の研究によれば、
「早池峰山」「薬師岳」「天ヶ森」を結ぶラインでもあり、
それが元々の遠野三山である可能性があるとのこと。
遠野の街から早池峰を仰ぎみると、上記三山が重なって見えるわけだ。


隣の公民館に車を停めさせてもらい鳥居をくぐる。
朱の鳥居をくぐるとすぐに石鳥居。その先には石段。
杖が用意されていたので早朝から運動かと覚悟したが、
石段が急なわけでもなく、参道が長いわけでもなくホッとした。

遠野 伊豆神社


石段はすぐに途切れ、あとは土がむき出しの坂。
なるほど、杖はこのためか。
適度に茂った木々の間を縫って、参道が続いている。
木の後ろに何かが潜んでいそうな、雰囲気のある境内だ。
フォト
かわいい豆狛犬が遠慮がちに向い合っていた。


遠野 伊豆神社


社殿には遠野でよく目にする「鉄の剣」が外壁に奉納してあった。

遠野 伊豆神社


遠野の母神にご挨拶して、遠野の旅の無事を祈った。



6月10日

仙台の青麻神社を出たのが午前9時前。
そこから遠野に向かうのだが、折角なので途中でどこかに立ち寄りたかった。
出発直前に、Oさんに行きたいところを挙げてもらっていたのだが、
それが雄勝の石神社(いそのじんじゃ)だった。
石巻の北、北上川の河口に南隣した半島が雄勝で、
その中心に位置する石峰山に石神社が鎮座しているという。
Oさんは霊感が強い人で、そこが気になると感じたらしい。
雄勝に抜けるとその後が大変な気がしたが、直感を信じて行ってみることにした。

石巻漁港で刺身定食を食べ、雄勝に着いたのは午前11時ころ。
石峰山に鎮座ということ、登山口が葉山神社ということしか情報がなく、
地図にもナビにも詳細が出ていなかったが、なんのことはない、
半島にアクセスするには海岸沿いの道一本しかなく、
その沿線に葉山神社が鎮座していた。

突然現れた二人組に海岸で作業していたおじさんたちは驚いていた。
ごくありふれた漁村である。
平日の真昼間、川崎ナンバーの車がいきなり神社に乗り付けるなんてことは、
めったに無いことかもしれない。
まずは様子を伺いに、葉山神社にご挨拶。
意外なことに、葉山神社は社殿の大掃除をしていた。

葉山神社は石神社の里宮で、元は薬師堂だった。
現在の祭神は少彦名尊。神紋は九曜紋。
鎌倉時代初期、千葉義清が常陸国筑波山麓より移住、石峰権現の神主に。
延徳二年(1490)に子孫が修験に変わり、(羽黒派修験の市明院)
石峰山も明治初期までは女人禁制の行場となっていた。
葉山とは「端山(ハヤマ)」のこと。
里と神の世界との境界を表す信仰で、東北に多く見られる。
葉山神社には祖王神社があり、一説には朝鮮の王子の墓とされている。
伝承では、朝鮮国から王がうつろ舟に乗って漂着したのが尾浦浜。
その王が移り住んで亡くなったのが葉山神社のある大浜とのこと。
境内の案内版では、流れ着いたのは千葉大王の皇子となっている。
(神亀年中、天竺釈旦国より漂着。)

大掃除をしていた若い男性に石神社のことを伺った。
なだらかな山道で急な場所は一箇所だけ。登るのは容易いとのこと。
良かった♪と我々は石神社に向かって歩き出した。

雄勝 葉山神社 石神社


石神社
祭神は多岐津姫。
地元の人は「石峰様」と呼んでいる。
石峰様が白馬に乗ってこの山に登ってこられた。
冬は山の神、実りの時期には田の神として人々を見守ってきた。

いざ参道に足を踏み入れる。
しばらくは小石のゴロゴロした道だ。
かつては海岸だったのかもしれない。
道から小石が消えた頃、道も消えた…
雄勝 葉山神社 石神社
容易いって…
来るものを拒むような、道なき道を暫く歩き続けることになった。
梅雨の豪雨で山が荒れてしまったのだろうか。
雄勝 葉山神社 石神社
中腹まで行くと雰囲気が変わり、やっと山道らしくなってきた。
参道のあちこちにかつての行場の名残があるみたいだが、
脇にそれてそれらを確認しようにも、険しすぎてよくわからない。
それに、参道自体にも侵入を拒むように障害物が横たわっている。
雄勝 葉山神社 石神社


ざっと一時間ほど歩いた。
私はどちらかというと猿に近いので割と山道は平気だが、
Oさんはすでにヘトヘトに疲れきっている様子だった。
「行者返し」なる急峻な上り坂を登りきり、
つづら折りになった道を抜けると鳥居が見えてきた。

雄勝 葉山神社 石神社


鳥居の向こうに何かいる!?
我々は姿勢を正して神域に足を踏み入れた。


雄勝 葉山神社 石神社


そこには石峰様が鎮座ましましていた。
圧倒的な存在感。
植物の息吹が霧となり、光を滲ませていた。
祭壇には様々な供物が供えてあり、人々の信仰が篤いことを物語っていた。
なにやら祭祀をしたと思われる痕跡も残っていた。
石笛を吹き、祝詞をあげて参拝。
手を触れ耳を当てると、水の滴るような音を感じた。
ずっとこの地で、人々を見守ってきたのだ。
感動で言葉にならなかった。


さて、石峰様の鳥居の手前に分岐路があり、道はさらに上へと続いていた。
頂上付近、そこにも磐座があった。
見る角度によっては祭壇に見えたり艶かしく見えたりする巨石。
とある角度から見てハッとした。


雄勝 葉山神社 石神社


巨石と樹木が戯れている!
特に謂れは無い巨石だけど、この石にも並々ならない存在感を感じた。
一体いつ頃から樹木と戯れていたのだろう。
そして、時が経てば樹木と完全に同化していくのだろうか。


麓に降りると葉山神社の大掃除は終わっていた。
先程の若い男性に挨拶したところ、なんと宮司さんだった。
(ラフな格好だったからわからなかった)
千葉義清の直結の子孫である。
話をしているうちに、大掃除は神楽の稽古の為だとわかった。
なんと、宮司氏は雄勝法印神楽の担い手の中核だったのだ。
先述したように千葉氏は羽黒の修験者で、
山伏神楽である法印神楽を一子相伝で伝えてきたのだ。
大正の世になって、民間の有志にも神楽を伝授し今に至る。
重要無形民俗文化財にも指定され、例大祭の神楽のみならず、
日本全国を飛び回っているという。
なんと、この出会いの2週間後には東京の国立劇場で公演するとのこと。
東京公演は約10年ぶりで、この機を逃すと次はいつになるかわからないと。
もちろん、後日我々は公演を観に行った。

直感だけで訪れた石神社。
今回の遠野行きは山伏神楽である早池峰神楽を観に行くことだったが、
思わぬところで他の山伏神楽とも出会うことが出来た。
素晴らしい御神体と出会えたことといい、収穫の多い訪問だった。

この夏、岩手の早池峰には2回行った。
3月の蘇民祭を合わせると、3回行ったことになる。
6月の訪問は、友人に誘われてのこと。
遠野物語100年祭で神楽や鹿踊りが披露されるので、
是非見てみたいとのこと。
この際遠野をじっくり見てみようと、誘いに乗った。


6月9日

友人Oさんとは仙台駅で待ち合わせ。
前日まで日程や行程を決めかねていたが、
直前に、宮城の青麻神社に立ち寄ることになった。
私も特に予定を決めていなかったので快諾。
そのまま家をでた。
高速道路の深夜割引を使って夜のうちに仙台入り。
夜行バスのOさんとは仙台駅で落ちあうことになった。
予定では早く着いて少し車内で寝るつもりだったが、
仙台駅周辺には落ち着いて休息できる場所がなかった。
結局仮眠を取れないまま旅をすることになった。

6月10日早朝
仙台駅で合流。
どうも都会の交通はどこも複雑で苦手だ。
早々に青麻神社の鎮座する郊外へ向かった。

青麻神社(あおそじんじゃ)
青麻神社


宮城県民の森に鎮座。この地はかつては岩切と呼ばれ、
中世には留守氏の居城、岩切城(高森城)があった。
仁寿2年(852)穂積保昌が山城国よりこの地に来て
里人に苧(からむし=麻の一種)の栽培を教え、
尊崇する日月星の三光神(天照大神、天御中主神、月読神)を、
清水が湧く山峡の岩窟中に奉祀したのが創始と伝えられてる。
穂積氏が海運を担っていたことから『海上交通』
まさか語呂合わせではないと思うが『開運』にご利益がある。
また、源義経の家臣、常陸坊海尊にまつわる伝説もある。
天和2年(1682)、村人の久作が目を患い窮していると、
老人が現れ「丑の刻の夜更けに斎戒沐浴して天を拝みなさい」と告げる。
それを守って続けていると、30日あまりで目が見えるようになった。
再び現れた老人に感謝を述べ名を尋ねると、
「 吾はその昔源義経公の臣下であった常陸坊海尊である。」と。
なんでも、今は名を清悦と変え下野国出流山中の大日窟に隠遁していたが、
青麻に移り住もむことにしたと言う。
その後、中風を患った母を持つ樵が山中を歩いているときに海尊に出くわし、
治療法を教わったところ、「桑の箸を使えば全快するだろう」と。
その為、『中風封じ』のご利益もあわせ持つ。
東国を中心に数多ある青麻神社の総本社であり、
多くは『中風封じ』の目的で青麻神社を勧請していると思われる。

青麻神社

海上安全祈願か、藁で作った船があった。


駐車場に車を停め、神社に向かおうと思ったが、
Oさんが「こっちが気になる」と呼び止めた。
「三の滝」と書かれた案内板がある。
神社に向かって左側の、緑深い場所に道が続いていた。
梅雨のさなかなので地面がぬかるんでいたが、行ってみることにした。

青麻神社


滝はすぐに分かった。
滝というには大げさな、小さい沢の段差だった。
三つあるのか数えてみたが、よくわからなかった。
滝の向かいには滝の宮の小さな石祠。
湿り気のある崖を背に祀ってある。
かつてここに湧き水でも出ていたか。

滝の宮の先にも遊歩道が続いていた。
遊歩道と言えるほど整備されたものではないが。
滝の宮付近を通りすぎると、急に空気が変わった。
閉ざされた空間に降り注ぐ光。
隠田といった印象。もしかしたらここで、麻を育てていたのかもしれない。
麻は古来から世界中で、人間の生活と深く関わってきた資源。
種子は食用・薬用。種子から油が採取できる。
日本では養蚕技術・綿栽培が導入される以前は、麻の衣服が一般的だった。
残念ながら麻薬のイメージが浸透し栽培農家が激減したが、
繊維研究の進む欧米では、エコロジーの観点から麻布が注目されているという。
ちなみに私は麻古布を仕立て直して着ているが、夏はすこぶる快適である。

青麻神社


遊歩道は途切れたが、地形に沿って奥まで進むことが出来た。
どこまでも、同じような畑に適した地形が続く。
土がふかふかで、素人目にはいつでも植物を育てられそうだ。
土に足を取られるようになってきたので、探索をやめ引き返した。


青麻神社


青麻神社の正面。
早朝だというのに参拝者が多い。
湧き水を汲みに来ている人も多い。
青麻神社は御神水でも有名なのだ。

青麻神社
なぜか河童もいた。

日神・月神・星神を祀る数少ない神社ということで、
念入りに祈願した。
不思議なことに、この旅は星に縁の深い旅となった。

信仰篤い神社は気持ちが良い。
清々しい気分で旅の岩戸を開いた。


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