2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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大磯の左義長でサイト焼きと同時進行で行われるのが「ヤンナゴッコ」
上の写真はまだ明るいうちに撮ったもので、
サイトの横に置いてあるのがヤンナゴッコで使う賽の神の仮宮。
藁で出来た仮宮をソリに括りつけ、ソリの前後に綱を付けている。
ソリに乗せた仮宮を浜辺と海中から引きあう綱引きを模した行事である。



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暗くなった浜辺で9基のサイト燃え上がる一方、
暗闇の海の中ではヤンナゴッコが始まっていた。
褌一丁の若い衆が海に入り、浜と海で仮宮のソリが付いた綱を引きあう。
綱引きは最終的に必ず浜側が勝つ事になっていて、
海の若い衆は仮宮を追いかけ浜にあがり、
藁で出来た仮宮を取り囲ってグチャグチャに踏み潰す。
そして、一斉にソリに飛び乗る。

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そのままサイトまで引っ張っていかれ、人ごみでごちゃごちゃに。
火の側で盛り上がり、独特の節回しの掛け声がこだまする。
若い衆は年寄衆に酒をがぶ飲みさせられ、もう一回行って来い!とまた海へ。
同じことを繰り返し、再び陸に上がったソリは極度の興奮状態で、
全速力のまま浜を突っ切って行った。
アスファルトの道路もなんのその。
このまま町内の道祖神のもとまで綱を引いていくのだ。
「いつもの倍(若い衆が)乗ってんべ」と苦笑した年寄衆の言葉が耳に残った。


ヤンナゴッコは東アジア、東南アジアに伝わる綱引き神事の系統だが、
特に朝鮮半島南部の堂山祭と酷似している。
堂山はタンザンと読み、集落の入口を守る雌雄一対の神。
つまり道祖神のルーツの一つと考えられる風習で、
旧正月の堂山祭りでは、堂山で神事を行った後、
雌雄の綱を結んだもので綱引きを行い(必ず女側が勝つ)、
使用した綱は集落を曳き回した後に堂山に奉納、御神体に巻きつけるという。
これは、大磯周辺に高麗地名が多く、
朝鮮半島からの渡来人が多かったことと関係があるのかもしれない。

もっとも、綱引きの風習は日本中に広く分布している。
綱を引き合うのではなく曳いて回る風習も同じ系統とみなすと、
大まかに言えば以下のように分類できる。
・雌雄の蛇の交尾になぞらえ、豊穣や繁盛に関する吉凶占いをするもの。
・利権に関する競争が風習として残ったもの。
・疫病を擦り付けた藁蛇を焼いたり海に流すもの。(牛頭天王と茅の輪起源)
・大蛇退治伝承をモチーフにしたもの。


ところでヤンナゴッコの要素をまとめると、
・厄災を封じた仮宮を海と陸で引きあう。
・陸に引き上げた仮宮をけちょんけちょんに踏みつける。
・海側にいた若い衆(海の神の化身?)をソリに乗せ集落まで曳いて帰る。
という構成になっている。

解せないのが、賽の神が封じた厄災は隣のサイトで焼いているのに、
わざわざ別の方法で処理しようとしていること。
そして厄災なら海に流してしまえばいいのに、
綱引きでわざわざ陸側に戻してしまうことだ。
仮に海で厄災を流す禊だと考えても、それを即座に踏みつぶすのは疑問だ。
綱引きよりも後半の、海からの来訪神を迎える部分に注目したとしても、
踏み潰す部分がしっくり来ない…
これはなので、前半部と後半部は違う儀式なのではないだろうか。

山がちの土地では神は山の上から、
海がちの土地では神は海の向こうからやってくる。
左義長では賽の神の小屋(厄災帳簿)を焼くが、
神自体の更新(再生・再訪)を表現していない。

つまり、
前半 (神送り)
・厄災と共に賽の神を海に流す。
後半 (神迎え)
・海から神を陸に引っぱり上げる。
・古い仮宮(抜け殻)をつぶし、新しい賽の神を集落にお迎えする。

こうやって、賽の神を更新していたのではないだろうか。
と、想像で勝手に仮説を立ててみた。

それにしても賽の神は、人々の罪状を消すために小屋を燃やしたり、
海に流されたり踏み潰されたりと、大変な思いをしているにも関わらず、
変わることなく人々を守ってくれるありがたい存在なのだ。
と、しみじみと感じたのであった。

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1月15日

大磯の左義長に行ってきた。
どんと焼き・さいと焼き・サイノカミ・道祖神祭・三九郎・御柴灯…などなど、
土地土地で様々な呼ばれ方をしている小正月の火祭りで、
主に正月飾りや古いお札、書初めやダルマなどをそれぞれ持ち寄り、
藁で組んだ仮小屋と共に焼く行事。

左義長という不思議な名は、平安時代の宮廷行事、
三毬杖(さんぎっちょう)が由来とされている。
これは陰陽師が執り行なった行事で、宮中・清涼殿の東庭に青竹束ねて立て、
三本の毬杖を立てて扇や短冊などで飾り、焼いて吉凶を占ったという。
ちなみに毬杖とは振振毬杖(ブリブリギッチョウ)と呼ばれる大陸由来の球技で、
今でいうホッケーみたいなものだったらしい。
さらに余談で、左利きのことをギッチョと呼ぶのは、
左利きの人は毬杖を左手で使うことが語源とされている。
そういう諸々が混同されて、左義長に落ち着いたようだ。

ちなみに他の呼び名は、代表的なものを三つ挙げてみた。
どんと焼き:歳徳神(としとくじん、とんどさん)
      その年の福を司る神を正月にお迎えする。
      歳徳神は出雲で祀られることが多いため、
      どんと焼きは出雲系の行事とも。

さいと焼き:仮小屋を多くはサイト(賽塔)と呼ぶ(紫燈・柴灯のこと?)
      密教僧や修験者が行う紫燈護摩から派生しているのだろうか。

サイノカミ:塞の神(道祖神)、歳の神に由来
      前者は集落に入ろうとする厄災を塞いで溜まった穢れを焼き払う。
      後者は歳徳神のことだろう。

面白い例としては、村人の罪を帳簿に書き留めている疫病神が、
年末に(疫病神は神無月の後に呼ばれるらしい)出雲に呼ばれる際、
道祖神に帳簿を預けて行く。
その隙に村人は道祖神の持つ帳簿を燃やしてしまうのだ。(信州中部)

とにかく、名は違えどもやってることは同じといううことは、
庶民の間を渡り歩いた宗教者が正月にお飾りを燃やす行事を民間に広め、
それが土地土地でさまざまに解釈されてきたってことなのだろう。
大磯が古式ゆかしい左義長の名を使うのは、
同町に住んでいた伊藤博文の側近がこの祭りを左義長と呼んだことが始まりで、
それまではセエトバレエ、ドンドヤキ、ドウミドンヤなどと呼ばれていたそうな。

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私が大磯を訪れたときには、すでに海岸に9期のサイトが並んでいた。

大磯の浜にサイトが並ぶのは祭りの最終日。
本来は12月8日の「一番息子」から道祖神祭りが始まっている。
一番息子は、縄で縛った陽石(ゴロ石=五輪石)を子供たちが引き釣り、
未婚の娘さん(または息子さん)が居る家の軒下で、
「〇〇さんに良いお婿さんが(またはお嫁さん)来ますように、一番息子。」
(その後に「二番息子」「三番息子」と続く…)
と唱えながら石を地面に突いて回る行事。
西日本の「亥の子」、東日本の「十日夜(とおかんや)」と類似した行事だが、
道祖神と習合しいる例は珍しいようだ。

次は年明けて1月11日。
早朝に松を買い、13日までナナトコマイリ(七所参り)。
町内七ヶ所(今は人が増えて八ヶ所)の各道祖神の御仮屋を作り、
住民は家内安全、無病息災を願い期間中にすべての道祖神を参る。
この期間子供たちは夜に太鼓をお囃しで各家庭を廻りご祝儀を集める。
かつては御仮屋に籠ってサイトに飾る正月飾りの番をしていたそうだ。
御仮屋にはオンベ竹が立てられており、
最終日の朝、海岸でオンベ竹を中心に立て、サイトを組み上げる。

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サイトを見守るように、道祖神も居らっしゃっていた。
大磯では、年末に一つ目小僧がやって来て村人の悪行の帳簿をつけるが、
分厚く重くなったから道祖神に預けて帰る。
道祖神は民を慮り、自らの小屋に火を点け帳簿ごと焼いてしまう。
燃えてしまったのではしかたがない、と一つ目小僧も帳簿を諦めるのだ。
道祖神の上にお供えしてある四角いものは豆腐。
豆腐は一つ目小僧に関連する食べ物。
本来一つ目小僧は豆が嫌い(豆粒→魔滅)と伝承されていたものが、
いつの間にか豆腐好きと伝承されてしまっているそうだ。(多田克己説)

サイトの点火は19時から。
あたりはどんどん暗くなる。
日中は曇っていた空も、雲がどんどん薄くなって月が顔を出した。
月には暈がかかっていた。

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そして点火。

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一気に燃え上がるのではなく、じわじわと燃え上がる。


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各サイトは氏子たちが、棒の先に餅を付けて囲っている。
火が収まってきたころ、餅を炙って食べるのだ。
う~ん、参加したい。


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ある程度燃えたところで、オンベバシラを倒しにかかる。
その年の恵方に倒すのは、恵方を司る歳徳神の性質をよく表している。
倒したオンベバシラを燃え盛るサイトに突っ込み、あとは燃えるに任せる。
盛大に燃えあがれ。


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1月1日

午前中に諏訪大社上社本宮→御社宮司総社→上社前宮と初詣。
夕方になって、下社春宮→下社秋宮と初詣。
人生初の元日の諏訪五社参りになった。

夕方に下諏訪に来たのには理由があった。
万治の石仏に向い合ってみたいと思ったからだ。
これまで何度も参っているが、ちゃんと写真に納めようと思ったのは初めてだ。


万治の石仏。
万治三年の刻銘があることからいつの間にかそう呼ばれている。
元々は阿弥陀様。それ以前は烏帽子石。
と呼ばれていたことが記録から分かっている。
大きな岩の胴体に何をどう間違えたのか、
不釣合に小さな首がちょこんと乗っているお姿。
ひとことで言うと大変不恰好だ。
この奇天烈な石仏に出会った岡本太郎御大は、
「こんな面白いものを見たことない」と大絶賛し、
ご丁寧に石碑まで残している。
最近ではみのもんたが猛烈プッシュしてたとかで有名になったらしく、
ご存じの方も居らっしゃるかも知れない。

そんな万治の石仏だが、意外と禍々しい伝承を持っている。
時は万治三年。
諏訪大社下社春宮の大鳥居を造る際の話。
この大石を材料にしようとノミをいれたところ、
傷口から血が流れだしたので石工は祟りを恐れて作業を止めた。
するとその晩、石工は夢で上原山に良い石材があると告げられた。
お告げ通り石材を探し当て、大鳥居は無事完成。
石工たちは血の流れた石を阿弥陀如来を祀ったそうな。

大鳥居を任されるほどの石工にしては随分杜撰な彫りだが、
とにかくこうして春宮横の大石は阿弥陀仏に変身した。

万治の石仏と呼ばれるようになった阿弥陀様。
最近新しい参拝作法が出来たようだ。
「万(よろず)治(おさまり)ますように」 と唱えながら時計廻りに3周廻り、
最後に正面で一礼して「万(よろず)治まりました」と心のなかで唱える。
観光者向けの一時のブームで終わるのか、このまま諏訪に定着するのか。
こうしてまた伝承が曖昧になっていく。

元は磐座だったかもしれないこの大石は、
この先も数奇な運命を辿り変容していくようだ。
「それもまた一興。」
愛嬌たっぷりに微笑むそのお姿は、どこか達観しているように見えた。

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1月1日

今年の正月も諏訪で過ごした。
大晦日に諏訪入り。
二年参り(神社で日を跨ぐこと)はせずに早めに就寝。
元旦は早朝から諏訪大社本宮に詣でた。
日中になると大混雑になるのだが、早朝だと人もまばら。
参拝を済ませ、家族と別れて待機。
私一人残って特殊神事である「蛙狩神事」を見学するためだ。

8時半に南参道の御手洗川で神事が始まるとの情報を得ていたので、
7時半からベストポジションに待機。
こういう場合、三脚を設置して場所取りをする手もあるのだけど、
いつも三脚を持ってくるのを忘れてしまう。
同じく写真目当てのおじさんと他愛のないことを話しつつ、寒さに耐える…

8時半、太鼓橋に氏子役員を伴って神職がやってきた。
役員たちは太鼓橋に並び、神職は川の岸に。
氏子のうち二人が鍬を担いで川に入っていった。
御手洗川は細い水路状の川だが、神事を行う場所は丁度良く土が溜まっている。
そして驚くべきことに毎年必ず蛙が二匹出てくる。
この奇跡は諏訪の七不思議の一つになっているほどだ。

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案外と蛙を掘り出すのに時間がかかった。
注連で結界している範囲を隈なく掘り起こし、やっと蛙を捕まえたようだ。
狩りの担当者は冷たい川の中に長時間手を突っ込んで大変そうだった。
まったく頭の下がる思いである。

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捕まえた蛙を神職の持つ三宝に乗せる。
逃げないようにすぐさま板で隠して…って、蛙見れないのか、残念。
写真を拡大してみるとはみ出した足が見えるので、ちゃんと蛙はいるようだ。

三宝に乗せた神贄を掲げ持ち、布橋を通って四脚門から神前へ。
神贄を奉納する神事が始まった。
神前で小さな弓を射る所作をし、矢を蛙に突き刺す。
私は遠くから見ていたが、確かに矢が突き刺さっていた。

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蛙狩神事の形式は時代によって変容しており、
かつては蛙を焼いて大祝と神官たちが食べていたこともあるそうだ。
春の御頭祭でも鹿肉を神前で分けあって食べていたそうなので、
諏訪の神事は神と共に獲物を食らうことを重要視していたのかもしれない。
蛙を食らうのは蛇。諏訪の神が蛇神とされてきたことを示唆する神事でもある。

奉納の後、引き続き「御頭御占神事」が執り行われた。
古い茶色の箱を台に乗せ、中から占い用具を取り出し、組立て始めた。
遠くからなのではっきりとは見えないが、
どうやら藁の馬に木の板を乗せ、それに小刀を当てているようだ。
他のサイトの報告も踏まえると、これに「内縣介」と書かれた紙を垂らすようだ。どうやら神使を模したもので、ミシャグチ神を降ろす儀式とされているらしい。

無事占いの結果が出たようで、神職が拝殿から外に向かって、
大声で結果を読み上げた。言っている内容は聞こえなかったが、
その場で占いの結果を発表するとは思っていなかったので驚いた。
昔はこれを聞いて一年の吉凶に一喜一憂していたのだと思うと感慨深かった。

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