2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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4月20日

南三陸町を後に、重い気持ちのまま南下。
去年お世話になった石巻市雄勝の葉山神社に向かった。
志津川中学校で道を聞いた時、わざわざ電話までして調べてくれたが、
結局橋が落ちていてその道は使えなかった。
情報が混乱している。
北上川の河口にかかる大きな橋が落ちている。
落ちた鉄骨が川を少し上った場所に沈んでいる。
リアスの入り組んだ土地柄ゆえ、主要道が使えないと途端に交通の便が悪くなる。
ナビのない車なので、地図を見ながらの移動だったため、何度も道に迷った。

道を把握。
北上川に沿った道を進む。
正確には、道であった場所だ。
北上川南岸は、堤防ごと道がぶっ飛んでいた。
水が引いた跡に作られた仮の道は水面と変わらない高さ。
当然ガードレールなど無いので、ハンドル操作を誤れば川に落ちる。

北上川の落ちた橋、新北上大橋の南岸に辿り付くだけで相当神経を使った。
雄勝には、ここからトンネルを通って雄勝湾に出るのが一番の近道。
そうでなければ女川町を通って大回りしてくる道があるのだが、
あとで聞いた話によると、そのルートは延々と続く瓦礫の山で、
時間がかかって仕方がないとのことだった。

トンネルをぬけるとそこは瓦礫の山だった。
南三陸町で見た瓦礫とは違う。手付かずの瓦礫だった。
先にも書いたが南三陸町は報道もされ、割と大きな町ということもあり、
瓦礫の撤去は割と進んでいた。
しかし雄勝は、津波に襲われたそのままだった。

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町の規模が小さい上、高台に避難所となる施設もないために、
被災後はそれぞれ縁を頼って方方に散ったという。
雄勝は元々津波に弱い土地だということを後から聞いた。

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海と山、僅かな陸地にへばりつくような集落。
典型的な漁村の立地であり、こういう町を釣りをしながら渡り歩いたものだ。
その度に海面と道路が近いことを驚いたものだが、
津波に襲われた後では、海と道路を隔てる壁がもぎ取られ、
海と道との境が希薄になっていた。
訪れた時間の潮までは把握していなかったが、
満潮時には海に沈みそうな道をいくつも通って、
やっとのことで葉山神社に辿りついた。

葉山神社。
当日記ではかつて石神社をメインに紹介した。
http://miyokame.blog82.fc2.com/blog-entry-227.html
訪れた当時、葉山神社は大掃除の真っ最中で、
写真はあまり撮っていなかった。
だが、その時に千葉宮司に話しかけた事によりご縁をいただき、
この神社は私にとって忘れ難い神社となった。
(詳しくはリンク先の記事を参照)

千葉宮司とは震災後に連絡を交わし、無事を確認していた。
親戚筋の秋田に疎開されたいたそうだが、数日前に雄勝に戻ってきたそうだ。
海のすぐそばの葉山神社。
航空写真でも被害の様子が見て取れていた。
私はここに、かつて撮影した御神体の写真を奉納したかったのだ。
社殿は崩れたとしても、山の上の御神体(石神社)は無事だろう。
麓の神社は全てを失ったが、せめて御神体の写真を励みにして欲しい。
その想いから、写真の奉納を思い立った。

雄勝 葉山神社 石神社


葉山神社にたどり着くと、千葉宮司が待っていた。
久々の再会。
去年の訪問後、国立劇場の法印神楽の公演でお姿を拝見したが、
直接お会いしたのは二度目だった。

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身体的には特にお変わりはない様子、とはいえはっきりと落胆の様子が伺えた。
話は自然と被災時ことになる。
葉山神社の大浜集落では、避難所は公民館の施設となっていた。
千葉宮司ご一家は山に逃げたそうだが、町場の人は公民館を目指して逃げた。
しかし、前代未聞の大津波。
山から町場の、公民館毎飲み込まれるのが見えた…。

不幸中の幸い。
町場の人たち公民館に逃げたものの、鍵が閉まっていて入れなかったらしい。
その場を諦め山に逃げたのが幸いして、多くの人が助かったとのことだった。

かつて参詣した神社を見る。

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無くなりはしなかったものの、天井まで水に浸かり、再建を余儀なくされた。
社殿の前に立つと、浮き上がった床板の隙間から猫が飛び出してきた。
御神体は持ち出して難を逃れたとのこと。
低い位置にあった社務所は流され、湾の向こう側で発見されたそうだ。
法印神楽の道具も同時に流されたが、古い道具がご自宅に残っているとのこと。
神楽を司るのは何と言っても神楽衆だが、ほとんどの神楽衆が無事であったという。
ほとんどは……。
ただ一人、長に当たる人が、体の悪い家族を守って逃げなかったという…。

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葉山神社には引っ切り無しに人が訪れていた。
神楽衆の一員の親父さんも訪れていて、久々の再会に話が弾んでいた。
こんな状況でも地元の人の篤い崇敬の念が感じられた。
いや、こんな状況だからこそか。
千葉宮司の家は、中世に雄勝に流れ着いてこの土地を盛り立てた家。
その祖神を祀るお社が祖王神社として鳥居の脇に鎮座しているのだが、
不思議なことに、海に沈む以前と寸分違わぬ姿で鎮座していた。

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写真左が祖王神社。
やはり神社というものはなにか大きな力に守られているのだと確信した。


ふと梢を見上げると、お守りが引っかかっていた。

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社務所で配っていたものだという。
津波に流されても留まるお守り。
これを我が身の守りに譲ってもらった。

雄勝への道は19時に封鎖されるという。
街灯もなく海と道との境もない状況なら当然だろう。
名残惜しいところだが、そうは言っていられない。
御神縁に預かった以上は、神社の再興を見守りたいと心に誓い、 
銀山温泉への帰路についた。

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   * * *

その後。
銀山温泉のKが支援運動を立ち上げた。
温泉のお湯を被災地に届けようタンクローリーを手配し、
雄勝の避難所に入浴支援に駆けつけたのだ。
避難所では建設会社が置いていった五右衛門風呂があるものの、
実施風呂に浸かるまでは出来ず、2ヶ月間掛け湯だけで過ごしてたそうだ。
出張温泉は人々の癒しになったことだろう。
私は二人を引き合わせただけに過ぎないのだけど、
このような草の根の支援に少しでも役に立てたことを嬉しく思った。
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4月17日

東日本大震災から一ヶ月と少しが過ぎたころ。
やっと気持ちに余裕ができて、何かをしなければという心境になってきた。

震災前で延期になっていた仕事に、友人の旅館の撮影があり、
そろそろ手がけないといけない時期になっていた。
東北に身を運ぶなら、これまでさんざんお世話になった東北の、
震災後の様子をこの目に収めておかないと…。
何か出来ることはないか?
そうは思っても現実には、単身乗り込んだところで何ができるわけでもない。
瓦礫撤去の人足も、たった一人では力になれない。
東北の信仰や民俗風習を見て回っていた私にできること、
それは、縁をもらった土地を訪れ、祈ることなのではないか。
そう思い立ち、4月17日、東北に向け出発した。

夜の東北道。
ところどころに修復された箇所があるものの、走行には支障がない。
白河の関を越え東北地方に入ると、心なしか胸が重くなった。
17日は宮城~山形間にある古関PAで車中泊をした。

4月18日
銀山温泉にて仕事の撮影。
銀山には大学時代からの親友(以下K)がいて、
10年になる東北旅行は彼に誘われたことから始まったのだ。
翌日からはKの車で被災地の旧知を訪ねることになる。


4月19日
尾花沢で大学時代のバンド仲間と昼食。
去年生まれた幼子とも初対面。
この子のためにも未来を残さなければならない。

その後車を走らせ秋田入り。
尾花沢から横手に抜け、湯田から岩手入りするのがいつものコース。
この途中に懇意にしている陶芸家、菊池窯がある。
安否伺いに立ち寄り、話し込む。
泊まって行けと言われたが、ゆっくりもしていられないので
夕食だけごちそうになる。
菊池さんは震災の時は車で盛岡に向かっていて、
幸い怪我もなく戻ってきたそうだ。
陶器は割れなかったが、収まらない余震のため
棚の上のものはすべて下ろされていた。
震災後、被災地の人が菊池窯にマグカップを求めに訪ねてきたらしい。
菊池窯のマグカップを愛用していたが震災で割れてしまい、
心に余裕が欲しいため、マグカップを買うためだけに岩手に訪れたそうだ。
余震が続き不安な中にもかかわらず…。
震災は物理的な損失以上に、心の疲労が激しいことを認識した。

菊池窯を後にして岩手入り。
南三陸の先輩と連絡が付く。
この写真スタジオ時代の先輩とは、以前から妙な縁で繋がっている。
今回の震災でも真っ先に気になったのはこの先輩のこと。
安否が判ったのは4月中旬。出発の数日前のことだった。
とりあえず会いに行こうと思い連絡したものの、しっかりと連絡はつかず。
それがやっと繋がった。

「力仕事を手伝います。なにか不足している物資があれば持って行きます。」
そう伝えると、「ははは、とりあえずおいで」と。
物資はあるし、強いて言うなら甘いものでも持ってきて、と言う。

なら美味しいケーキをと思い、ネットで有名なケーキ屋はないかと探す。
一関の店に目星をつけ、一関に向かう。
午後21時ころだった。
東北育ちのKでさえ驚くほど吹雪いている岩手の夜。
震える被災者のことを思うと胸が痛い。

南下。
宿のアテのないときは決まって車中泊だが、
車中泊をするには、いつも道の駅などの施設を利用させてもらっている。
一関に向かう道では水沢の道の駅が目についた。

水沢といえば黒石寺。
日本三大奇祭で知られる蘇民祭が行われる寺院だ。
我々はいつも早池峰神社の蘇民祭に出ているが、
それの大元が黒石寺の蘇民祭。
蘇民祭は蘇民将来譚に基づく祭で、
その恩恵に預かった者は厄災から免れるという。
いまだ余震の危機にさらされている先輩のために、
黒石寺で祈願をして、お守りを求めて届けようと思い立った。
水沢の道の駅に車を停め車中泊。


4月20日
8時半に目覚め。
実は全く寝られなかった。
北上川に掛かる橋を渡ってすぐそこに黒石寺があるのだが、
橋が通行止めで渡れない。
水沢は岩手の内陸だが、こんなところに震災の影響が出ている。
迂回路をとり9時に黒石寺着。

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妙見山黒石寺。
天平元年(729)行基が一堂宇を造り、薬師如来像を安置。
翌年東光山薬師寺と号して開山した。
大同2年(807)蝦夷によって薬師寺焼失。
嘉祥2年(849)慈覚大師が背後の大師山の石窟にて行基菩薩を夢に感じ、
石窟の蛇紋岩から寺号を黒石寺、山中に妙見祠があることから妙見山黒石寺として再興。
全山天台宗とし、薬師如来を本尊とするが故に薬樹王院とも号した。


この水沢は旧名を胆沢と呼び、
阿弖流為(あてるい)や母礼(もれ)といった土地の長が治めてたいが、
坂上田村麻呂はこの地に胆沢城を築いて彼らと対峙した。
胆沢城には鎮守府八幡宮神社、城輪(きのわ)に石手堰(いわでい)神社を勧請したが、
薬師寺(黒岩寺)はその神宮寺として位置づけられた。
蝦夷と呼ばれた陸奥の民と朝廷との戦の歴史は長きにわたり繰り返されるのだが、
それはこの胆沢の地を巡る争奪戦に象徴される。

前述の蘇民祭。
早池峰神社の参戦記はこちら。
http://miyokame.blog82.fc2.com/blog-entry-71.html
コマを詰めた麻袋=蘇民袋を裸で揉みくちゃになりながら奪い合う勇壮な祭で、
黒石寺の祭は早池峰の比にならないほどの争奪戦になるそうだ。
蘇民袋を見事確保した者は蘇民将来の子孫として無病息災を約束される。

その一方でこの蘇民袋、阿弖流為の首を模したものという物騒な伝承がある。
朝廷と先住民の戦乱の記憶、
もしくは俘囚(朝廷に降った先住者)支配の呪術的要素も含まれていると思えて仕方がない。

黒石寺の蘇民祭では最終的に蘇民袋が切り裂かれ、中に詰まったコマが飛び散り、
それがまた厄除けの守りとされる。
そのコマを模したお守りを入手するのが今回の目的。

まずは東北の厄災祓いと先輩の無事を祈願。
お守りを求めたいのだが事務所が閉まっていたので住職の屋敷と思しき家を訪ねる。
平時なら遠慮したいことかもしれないが、思いが勝っての行動。
事情を話し、特別に蘇民祭の時に配られる蘇民将来駒を譲ってもらった。
明るくさばけた女性で、こちらのほうが励まされた。

黒石寺も土壁が崩落している。
始めは直そうと思っていたが、続く余震にキリがないので放置しているそうだ。
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黒石寺を発つ。
空は重い雲がのしかかっている。
地震以来空を注意して見るようにしているが、
このような雲は見たことがない。

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そして一関のケーキ屋へ。
一関への道も、塀が崩れた民家をあちらこちらで見かけた。
そして、目立つのが葬儀の案内板。
家族であろう、複数名の名が記されている案内を多数見かけた…。

名物のロールケーキを買い占め、南三陸に向かう。

南三陸町。
向かってみて気が付いたのだが、遠い。
岩手の主要道はリアス式海岸を避け、内陸部を通っている。
そこから派生した道がリアスの町に続くのだが、交通の便は悪い。

途中集落を通ったが、人の居ない商店に「全壊」の張り紙。
見た目では崩れていないが、耐震規定から外れたのだろう。
取り壊さなければならない運命だ。
いたたまれない。

南三陸町に近づく頃。
チラホラと民家が見えてきた途端、瓦礫の山。
まだまだ海岸は遠いはず。
後で判ったことだが、海岸近くの人たちは海の怖さを知っているので、
一目散に避難所に逃げ込んだ。
しかし、奥地の人はまさか津波が届くとも思わず、逃げることなく波に飲まれた。
南三陸町で人が住んでいた場所は、
高台の一部をのぞいて軒並み波にさらわれたのだ…。

町に出た。
何も無い。
瓦礫の山。
川を越える盛土の道だけが目立っている。
鉄骨だけになったビルを見て、
「最後まで避難を呼びかけた女性のいた場所だな」とKは言う。
そのことは知らなかった。
あまりに被害が広すぎて、把握出来ていない…。

志津川中学校の避難所に先輩がいる。
手書きの看板が出ていると言っていたが、辿りつくまでに迷った。
何故見落としたかというと、まさかそこが道だとは思わなかったからだ。
瓦礫の中の隙間。
としか思えなかった道に戻り、高台にある志津川中学校に辿りついた。
先輩は手が離せないようで、少し待ってくれと。
校内では長渕剛、尾崎豊の曲の演奏。
仙台からボランティアで演奏に来ていたとのこと。
みんなそれぞれの思いを胸に、支援活動をしているようだ。
写真でも撮って待ってて、と言われたが、
とてもそんな気にはなれなかった。
どこもかしこも瓦礫の山。
根っからの報道カメラマンでもない限り、安易に撮れるものではないと思い、
カメラは封印した。

先輩と再会。
5年ぶりくらいか。
都内でカメラマンをしていたが、実家を継ぐため帰郷。
ネットを使って小さな魚屋を全国規模の有名店にのし上げた。
http://www.yamauchi-f.com/
オンラインサイトの賞を貰い、いよいよこれから、という時期の被災。
高台の避難所から、「あそこが俺の家だった」と指をさされても、
それがどこなのか検討がつかなかった。
まさか全てが流されるとは思っていなかったため、
身一つで逃れたまま、すべてを失ったとのこと。
避難所の脇を指差し、「あそこに遺体が溜まっていてね…」
その場所は避難所の2~3m下でしかない…。

避難所の中には入らなかったが、
物資置き場を見せてもらった。
体育館いっぱいに山積みされた救援物資。
避難者の疎開が始まっている現状では持て余すほどだという。
南三陸町は報道で有名になったため、ひっきりなしに物資が届くそうだ。
逆に、他の避難所のことを心配していた。
志津川中学校の避難所は、先輩の会社のスタッフで仕切っている。
先輩が胸をはって、ちゃんと統率が取れていると言っていたのが心強かった。
先輩自身は小さな子供を抱えているため、4月末には関西に移住するという。
こうして一人一人去っていく。
現時点ではやることがいっぱいでアドレナリンが出て興奮しているが、
人が少なくなって落ち着いてからが怖いと言っていた。
町の壊滅。
復興も何も、ゼロからのスタートではない。
マイナスからのスタートだ。
途方にくれる。

こうして、南三陸町を後にした。

続く


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