2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


8月7日

多摩川流域の蛇神信仰を調べていたら、
稲城に面白い風習を見つけたので行ってみた。
「妙見尊の蛇より行事」
稲城の妙見寺に隣接した妙見尊で、
通称は、武州・百村の北辰妙見様と呼ばれている。
管理は妙見寺の住職が勤め、神仏習合時代の姿を思い起こす。
明治元年の神仏分離令によって、神社仏閣が明確に分けられたなか、
多くの妙見信仰の神社は祭神を天之御中主神と変えてきたが、
妙見尊は祭神を変えずにきたようだ。
このような神社が、まさか東京に残っていたとは驚きだ。

ネットの情報に、過去のタイムスケジュールが載っていて、
早朝から萱場で萱を刈り、神社で干すこと数時間。
午後3時ころから干した萱を寄り合わせ、巨大な蛇を作るという。
さすがにこの暑いさなか、朝から行くのは大変なので、
蛇をより始める3時頃に行くことにした。

電車で30分ほど。
隣の市とはいえ、交通の便は悪い。
京王相模原線の稲城で降りると、
いかにも神社がありそうな山が目の前に見えた。
そこへ向かっていく途中の道で、
写真サークルらしき中高年の人たちとすれ違う。
郷土文化云々と書かれた旗掲げていた。
もしや、と思って歩みを早めたが、時既に遅し。
完成した蛇の前で、直会の宴が開かれていた。
なんでも今年はいつも以上に早く完成したらしい。
遅れてきた訪問者に、おばさんたちはビールを勧めながら、
「せめて蛇をさわっておいで!」
蛇をさわることで、厄災を落とすのだ。

蛇より行事の起源は、寛文2年(1662)
諸国に疫病が蔓延した際に始められ、
以来、氏子たちの手によって延々と続けられてきたという。
萱で蛇を作るのは、妙見尊の建立に由来する。
天平宝字4年(760) に、伏敵祈願のために道忠禅師が
尊星王の秘法を七日七夜に渡り修したところ、
妙見菩薩が青龍に乗って現れ国難が消滅したという。
その時に建立されたのが妙見宮(今の妙見尊)であり、
その後天永3年(1112)、妙見寺を建立し別当に充てたことが、
妙見寺縁起に記されている。

蛇より行事が始められたのは、創建よりもかなり後の時代になる。
確かに山頂の妙見尊から延々と80mほど、
石段に沿って伸びる蛇は、妙見様を背に乗せている格好になり、
これは妙見様の降臨の再現しているのだろう。
かつてはさらに長く、今の京急のガード下まで、
実に200m以上の長さになったという。
茅葺き住居の減少と宅地開発によって萱の確保が難しくなり、
現在では境内脇に萱場を作って伝統を守っているとのことだ。


20070807-161024.jpg



蛇の頭は、鳥居横の二十三夜塔の前に横たわっていた。
二十三夜塔は月待ち信仰の一つで、
十三夜、十五夜、十七夜、十九夜、二十三夜、二十六夜など
特定の月齢で行われる月待ちの中でも、
もっともポピュラーなものである。
月待ち信仰は、月の満ち欠けよろしく、
女性の出産や子育てに関する祈願が行われたらしい。
住職によると、蛇より行事の行われる8月7日は、
ちょうど二十三夜に当たるのだという。
ということは、蛇より行事は二十三夜待ちの一環で、
直会の宴で真夜中過ぎの月の出を待ったのだろうか。


20070807-162742.jpg



多摩川流域で萱の蛇というと、世田谷奥沢神社の「大蛇お練り」、
横浜生麦の「蛇も蚊も」が思い当たる。
どちらも江戸時代、疫病が流行ったことに由来する。
厄よけの行事であり、蛇より行事と同じように、
萱や藁を使って大蛇を作りあげるのだ。
奥沢神社は八幡大神のお告げ、生麦は素戔嗚尊に因んで、
との由来で、必ずしも妙見菩薩の乗っていた青龍
というわけではないようだ。
江戸時代中期、厄災を除く蛇の流行が
この地域であったのだろうか?

氏子のおばさんにもらったビールを飲み干し、
また来年と笑いながら、直会の続く境内を後にした。
夏の太陽はいまだ天高く、
額に浮かぶ汗は拭っても拭いきれないほどだった。


20070807-162540.jpg



















管理者にだけ表示を許可する


Design by mi104c.
Copyright © 2017 風と土の記録, All rights reserved.




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。