2月12日
友人が仕事で甲州へ行くという。
久々に甲府盆地の土を踏みたかったので、
車で同行することにした。
9時頃家を出て、調布インターから高速に乗った。
いつも中央道は大月で降りることにしている。
ちょうど昼時、甲州街道から富士みち(国道139号)に入り、都留市に。
うどんといえば吉田うどんが有名だが、富士吉田はちょっと遠い。
お隣の都留にも、吉田うどんと同じ系統のうどんがあるので、
私はいつも都留に寄るのだ。
禾生(かせい)の「山もとうどん」でたらふくうどんを食す。
学生の頃は、大盛りでも足りないくらいだったのだが、
最近は中盛りで充分だ。ごんぶとでコシの強すぎる麺が愛おしい。
うどんで腹を満たした後は、甲州街道で甲府盆地へ。
笹子トンネルを抜けると、目の前は舞い落ちる雪。
郡内地方(都留一帯)と国中地方(甲府一帯)は土地柄が違う、
という話を思い出した。
そういえば友人と運転を代わっていたので、
車窓の風景でも撮っておけば良かった。と今になって後悔。
しかし、甲府に近づくに連れて雪は雨に変わり、
この日の行動に多少の不安を覚えた。
13時ころ、友人の目的地に到着。
2時間ほど時間が空くので、久々に甲州の民俗探訪。
まずは、昭和町の義清神社へ。

義清神社は、甲斐源氏の祖、源義清を祀る神社。
義清の没後、居館内に社を建て祀られたのが始まりらしい。
義清の父は、なんとあの有名な新羅三郎源義光なのだ。
平安後期、常陸国に拠点を置いていた義光は、
三男の義清に同国武田郷を支配を任せる。
武田郷の義清さんだから武田義清という名を名乗ったわけだけど、
武田義清は土地の豪族ともめ事を起こし、甲斐国に配流になったのだ。
ところが、これが甲斐を中心に源氏が栄える切っ掛けとなり、
武田本流はもとより、小笠原をはじめとする
数々の名族を生み出していったのだ。
などと書いても、まったく興味が湧かない人が大半だと思うけど…
なぜ義清神社に参ったかというと、我が苗字の家系は、
元をず~~~~~~~っと辿っていけば、この源義清にたどり着くからだ。
これは挨拶に参らないわけにはいかない。
ということで、真っ先にお参りに行った。
境内には馬の石像。

武田氏は甲斐国に配流になったのち、馬産によって繁栄したという。
今でも巨摩郡や駒ヶ岳の地名が残っているが、
古くから牧(馬や牛を育てる、いわゆる牧場)があったのだ。
馬を基盤に栄え、馬と共に生きた武田氏。
最強の騎馬軍団も、織田の近代兵器に壊滅されられた後は、
見るも無惨に衰退していった。
1582年、武田勝頼の死によって武田嫡流が滅ぶ。
1130年の武田義清の甲斐入りから、実に4世紀半後のことだった。
そういったわけで、この義清公がいなければ今の私はいないわけで、
なかなか感慨深い思いに浸ったひとときだった。