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2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

5月17日 午後

揖屋神社から、再び西に進路を取った。
松江の目的は、意宇(オウ)六社巡り。
揖屋は松江でも東の果てなので、ここからは意宇川に沿って西に向かうのだ。
が、道が渋滞していた。
黄泉比良坂を出た時点で、もう時刻は15時をまわっていた。
実は、意宇六社のうち、場所を明確に調べていたのは、
揖夜、神魂、八重垣、熊野、の観光名所としても有名な神社。
他の2つ、真名井、六所神社は、だいたいの場所しか分かっていなかった。
正直なところあまり見所のなさそうな神社なので、
現地で神社を探すのは、痛いタイムロスになる可能性もある。

ということで、真名井、六所神社はスパッと諦めてることにした。
国道9号の渋滞は、松江バイパスに入る道が原因だった。
松江バイパスに入りさえすれば、次の目的地である神魂神社まで、
大きく分かりやすい道が続いている。
だが、渋滞。
クセで、ついつい脇道に入ってしまった。
農村風景が続いているから、道は繋がっているだろう、との考えだ。
だが、入った脇道は分かりにくく、少し迷ってしまった。
とりあえず進んでいると、なんと意宇川に出た。
ここを進むと、そのうち神魂神社にたどり着くだろう。
そう考えて、川沿いの道を進む。

しばらく行くと、畑の向こうに鳥居が見えた。
もしやと思い農道に入っていく。
案内板も由緒書きも無く、神社名が分からないが、
場所的にここが六所神社だとピンと来た。

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境内は狭く、鳥居から覗くと社殿が近くに見える。
ここが、かつての出雲国庁に併設した神社だったとは、とても想像できない。
六所神社とは、出雲惣社として六柱の神を祀ったとも、
または、本来は「禄所」で国内の神社の管理・統括をする場所とも言われている。
ちなみに六柱の神とは、
伊邪那岐命、天照皇大神、月夜見命、伊邪那美命、素盞鳴尊命、大己貴命。
いかにも朝廷から来た国司の管轄らしい組み合わせだ。

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社殿の中の様子。
祭壇の奥の急峻な階段は、大社造りの本殿の階段で出雲らしいが、
おそらく意宇六社で一番こじんまりとした社殿ではなかろうか。

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社殿の前には、ちゃんと六所神社の額が掛かっていた。
板にそのまま書いたような粗末な額だ。
お世辞にも達筆とは言えない字…
やはり、出雲人にとって、大和朝廷に屈したことは、
今も忘れられない汚点なのだろうか。
それがこの朝廷主導の施設の扱いに顕れている気がするなぁ。







※以下はひたすら長いので、興味のある人だけどうぞ(^_^;)

702年、この地に大和朝廷から出雲初の国司がやって来た。
正五位下忌部宿禰子首(いんべのすくねおびと)。
壬申の乱では大伴吹負に従って古京を守り抜き、
天武天皇の元で帝紀・上古諸事の記定にあたり、
伊勢神宮の奉幣使もつとめた、文武両道の大ベテランだ。
いまだ強大な出雲国を治めるには、
それほどの人物でないと勤まらなかったようである。

国司就任により、それまでの出雲国造は力を失った。
出雲国造は、その当時にはすでに出雲臣と名乗り、
その後、現在に至るまで出雲国造家として延々と続いているが、
元々は意宇地方を支配するオウ氏であった。
国造とは国司の前段階の地方長官で、各地方の首長を率いていた。
ところが、朝廷から国司が来たことによって、
オウ氏=出雲国造は地方長官という立場を失い、
他の首長たちと地位が横並びになってしまったのだ。
とはいえ、大和朝廷にとっては最後の強敵であった出雲、
国司の人選には慎重に慎重を重ねたのだろう。


そもそも、古代出雲は一枚板ではない。
弥生時代中期、出雲東部の意宇川流域に農耕集落が発生し、
首長(オウ氏)をはじめ、幾つかのムラが発生した。
一方、弥生時代後期、出雲西部の神門(カンド:神戸とも)川~斐伊川流域には、
カンド氏を中心に、幾つかのムラが出来ていった。
意宇川流域ではオウ氏が勢力をつけ、クマノ神を掲げるクニが生まれる。
一方で神門川流域では、カンド氏がキツキ神を掲げるクニを作り上げた。
だが、神門川流域はそのころ、吉備からの侵入を受ける。
弥生時代末期~古墳時代初期の吉備は、大和と同盟関係にあった。
強大な同盟を背景に、吉備から神門川を伝って、
(今の広島県三次市から国道184号沿いに)出雲への侵入をはじめた。
そして支配下に治めたのが、神門川中流の小さな盆地、須佐の地である。
須佐を落とした吉備軍は、神門川をさらに遡り、カンド氏を屈服させた。
ここに、出雲西部は大和朝廷に降ったのだった。
須佐を屈服させ、須佐の男たちを先兵として出雲西部を征服した歴史は、
大和朝廷に伝わると、スサノオ神話の土台となった。
出雲の山奥の小さな集落でしかない須佐が、
後に出雲を代表する神と伝えられることとなったのである。

だが、吉備の出雲西部支配は、そう長くは続かなかった。
大和朝廷が急激に力を伸ばしてきた5世紀末、
吉備と大和の関係は緊迫したものとなっていた。
対大和に力の重点を傾けると、必然的に出雲の支配力は弱くなる。
その隙に乗じて、出雲東部で力を蓄えていたオウ氏は、
出雲西部を着実に切り取っていったのだ。
これから先は、オウ氏の全盛期になる。
出雲全土をほぼ掌握したオウ氏は、氏族の神クマノ神の上に、
出雲全土の頂点に立つべき神、カモス神を生み出した。
それが今の神魂神社である。
神魂神社を頂点として、熊野神社、杵築神社(現出雲大社)、佐田神社、能義神社と、
各地の有力首長の祭祀を組み込みながら、出雲神話を造っていったのである。
また、出雲国引き神話に見られるように、国外にも影響を与えていった。
コシ国から引いてきた土地は美保関になり、
新羅から引いてきた土地が日御碕になる、といった神話は、
当時の出雲の外交関係が背景になっていると考えられる。

だが、オウ氏の出雲支配も長くは続かなかった。
6世紀になると、吉備を滅ばした大和朝廷が出雲に侵入を開始してきた。
まずは物部氏。
物部氏は、但馬から海路による侵入を試みた。
出雲西部、斐伊川下流、美談に県を置いたことが記録として残っている。
そして、次の段階は蘇我氏。
これは、かつての吉備からの侵入経路をなぞったようで、
かつてのカンド氏の領土を切り取った。
その形跡は、須佐の地を流れる素鵝(ソガ)川、
カンド氏の祀っていたキツキ神(現出雲大社)の本殿の真後ろにある、
素鵞(ソガ)神社などは、その名残だと言われている。

また、出雲の東に位置する伯耆・因幡も、古墳の分布によると、
当時すでに大和朝廷の支配下に置かれていたようだ。
こうして、東西を大和朝廷に挟まれた最後の大国・出雲は、
戦わずして生き残る道を選んだ。
これが、大国主の「国ゆずり」である。
一時は出雲全土を支配したオウ氏は、出雲”臣”という
朝廷の決めた姓を名乗り、出雲国造の地位のもと、
朝廷の下で出雲国の管理をした。
まだこの段階では、出雲臣(オウ氏)の下に、
他の首長が従う支配体制は温存されていたが、
国司の赴任によって、その地位も剥奪され、オウ氏の中心地は国庁となった。
結局、オウ氏は神魂神社と、朝廷側に組み込まれた杵築大社(現出雲大社)の
2大祭祀センターの長に収まることで生き延び、今に至るのである。


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