2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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5月17日 夕方

真名井神社を出た時点で、もうすでに時間は16時になっていた。
まだ意宇六社のうち半分しかまわっていない。
急いで車を発進させ、真名井神社の前を通る道を西へ。
すぐに国道432号と交わるので、国道を南に折れた。
しばらく行くと、風土記の丘が見えてきた。
風土記の丘にも寄ってみたかったが、今回のテーマは神社なので、
泣く泣くそこを通り過ぎて、神魂(カモス)神社へ。

神魂神社の駐車場に車を停め、ほっと一息。
駐車場は車が沢山停まっていて、まだまだ観光客が居るようだった。
そして、小高い丘の中腹にある境内へ。

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鬱蒼とした木々に挟まれた石段を登り切ると、
いきなり本殿が目の前に。
1583年改修の記録が残る本殿は、最古の大社造りで、国宝に指定されている。
なんと400年以上、このままの姿でここに建っているということだ。
出雲大社のような派手さはないが、他を圧倒する存在感を放っていた。

神の魂と書いてカモスと読むのは、
神の坐(いま)す所→カンマス→カモス とも、
イザナミ(とイザナギ)を祀ることから、神ムスビ→カモス 
など諸説あるが、はっきりとしたことは分からないようだ。

神魂神社は意宇地方と拠点とする出雲国造(出雲臣)にとって、
熊野大社と並ぶほど重要な神社なのだが、
延喜式神名帳には記載されて無く、それゆえ、出雲臣の私的な神社だったとも、
実は創建は延喜式以降、だとも言われている。
社伝では、斉明天皇の勅令により出雲大社が創建されるまで、
天穂日命の子孫が出雲国造として25代まで当社に奉仕したとされ、
いわば、出雲国造の本貫の地といって差し支えない。
国造の就職儀式、火継式では、熊野大社での神事の後、神魂神社へ参拝、
力士から酌を受け、その力士の神事相撲3番を見学する。
その後、国造は出雲大社に向かい、そこでの神事によって、
国造継承の儀式は完了するのだ。


神魂神社は、イザナミを祀る点で、イザナギを祀る真名井神社と対になっているが、
それとは別に、出雲大社と対になっているとされている。
出雲大社の本殿の男造りに対して女造り。
祭神は、出雲大社は西を向いているのに対し、東を向いているという。
そして、どちらの天井にも八雲の図が書いてある。
出雲大社のものは、八雲の図なのに実際書かれている雲は七つで、
理由は謎とされている。
このことは今回の本殿公開に先立つ報道で、
散々語られていたので記憶に残っている人もいるかもしれない。
だが、神魂神社には、なんと雲が九つ書かれているというのだ。
こちらは本殿公開はされていないので実際の絵は見られないが、
社務所で購入した絵はがきをみると、
確かに出雲大社の雲と同じようなタッチで、雲が描かれているのが分かる。
雲がひとつ、出雲大社から飛んできた、なんて風雅な言い方もできるが、
あきらかになんらかの意図をもって描かれているのは明白だ。
朝廷の命令で建てることになった出雲大社から、雲ひとつ取り上げた。
それは、まじないであったか、ただの意地であったかは分からないが。

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神魂神社境内の下手側に、幾つか社が並んでて、
その中に気になるものがあった。

いかにも曰くありげな横穴と、その前には神の依り代である神籠(ヒモロギ)。
横穴に入ってみると、深さは3mほど、
穴の奥は人が一人なんとか座って居られる程度の穴だ。
社務所で巫女さんに聞いてみると、「ただの防空壕です。」と一言。
そんなことは無いでしょう?と返しても、防空壕の一点張り。
あまり愛想の良い人ではなかったので、それ以上訊くのは辞めておいた。

ヒモロギは、古式なんとか神事で使用されたもの。
あの調子なので詳細は訊けなかったが、
根本に藁蛇が絡みついていたことと、右隣が荒神社なので、
荒神さまに纏わる神事だったのかもしれない。


さて、神魂神社にはこのような由緒がある。
垂仁天皇は、出雲国造十三代の孫、野見宿祢(ノミノスクネ)が
怪力であることを御聞きになり、
当時大和で日本一の大力と豪語する當麻蹴速(タイマノケハヤ)と
角力させんと勅使を当大庭に遣はされ、宿祢に伝えさせ給う。
 爾来宿祢は当社に参籠、必勝を祈る内に、神夢に依って、
裏山へ奇岩、怪石を累々と集めて力試をし、天磐座大神を祀り、
信仰によって自信を深め遂に蹴速を倒して、天皇の親任を得、
当時殉死の弊風があったのを改めて埴土に替える様になったと伝えられる。

また、最後の一行については、日本書紀にこうある。
垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命が亡くなった。
それまで垂仁天皇は、古墳に生きた人を埋める殉死を禁止していた為、
群臣にその葬儀をいかにするかを相談したところ、
野見宿祢が土部100人を出雲から呼び寄せ、人や馬など、
いろんな形をした埴輪を造らせ、それを生きた人のかわりに埋めることを
天皇に奏上し天皇はこれを非常に喜び、
その功績を称えて「土師」の姓を野見宿祢に与えたとある。

野見宿祢は土師氏の祖とされる人物で、
土師氏は古墳造営や葬送儀礼に関わった氏族。
意宇群がヤマトから「黄泉の国」と呼ばれたことと、
土師氏の祖が意宇群から出ていることは、なにか関係があるのかもしれない。

それはともかく、神魂神社の裏山には、今でも磐座が残っているという。
境内を下手に進み、禊ぎ場らしき湧き水を通り過ぎると、
私立高校の敷地に入る。
敷地内に入るのは気が引けたが、野球の試合をやっていて、
観客が大勢いたので、それに紛れて入らせてもらった。
(この日記は掲載許可をもらっていますが、見学される方は迷惑をかけないように!)

グラウンドの近くに、森を背にした鳥居があり、
出雲神社、と扁額に書いてある。
そこから少し入ったところに、質素な拝殿があり、
そのすぐ後ろに岩が、まさに累々と積まれていた。

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拝殿はあれども、聖域を仕切られているわけではないので、
岩の山に登ってみた。

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前から

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横から

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後ろから

この他にも、奥の磐座なる場所もあるようなのだが、
スズメバチが飛び回っていたので、これ以上の探索は諦めた。
帰り際、試合を終えた高校球児の一団が、
元気な声で「ありがとうございました!」と挨拶してきた。
こちらは、感謝されるようなことは何もしてないのだけどね…(^_^;)
私は曖昧な笑顔で返したのだった。

















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