2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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5月18日 

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朝6時頃起床。
安宿の部屋のカーテンを開ける。
申し訳程度の小さい窓だが、視界の先にはちゃんと宍道湖が広がっていた。

8時に、しんじ湖温泉の旅館に泊まっている両親を迎えに行く。
旅館では、母の兄弟が揃っていた。
季節の挨拶程度のやりとりはあったが、
実際に会うのはおそらく15年ぶりくらいだ。
日記が長くなったからもうお忘れかと思うが、昨日は親戚の結婚式だったのだ。
松江に住む母方の長男宅にお邪魔することになった。
そこに祖母が滞在しているという。
祖母とも久々の再会だ。
15年ぶりに会った祖母は、まだまだ元気で、
石見の山奥で独り気ままに暮らしているという。
いずれ、石見に泊まりに行こう。


9時過ぎ、親戚宅を出た。
10時半に、出雲大社周辺の資料館を予約していたので、
それに間に合わすためだ。
宍道湖の南の市街地は混みそうなので、北岸の道を選んだ。
国道431号は、一畑電鉄と平行しながら出雲大社まで続いているのだ。
片側一車線の道は、左に宍道湖の岸が迫り、右に島根半島の山並みを眺める。
湖と山に挟まれた細長い平地に広がる農村風景を見ていると、
この土地が遠く海の向こうから引っ張られてこられたという、
出雲国引き神話が本当のことのように思えてくるのだ。

道は信号もなく、車は快適に進んでいたが、
宍道湖の大きな湖面から離れ、斐伊川と神戸川に挟まれた土地の、
島根ワイナリーの辺りで急に混み出した。
しばらく渋滞に嵌っていたが、これではいつたどり着くか分からないので、
ナビで抜け道を見つけて住宅街を抜けた。
抜け道を使って一気に出雲大社に近づいたが、
出雲大社に向かう道はどこもかしこも混んでいる。
車を、大社から少し離れた大鳥居に停めた。松江から約1時間だった。
資料館を見学した後、いよいよ出雲大社を目指した。

大鳥居から真っ直ぐ伸びた神門通りの商店街を抜け、いざ境内へ。
鳥居を抜けると土の参道は下り坂になり、小さな川を渡ると、
もうそこが行列の最後尾だった。
ガードマンに訊くと、4時間待ちだという…
この日は祭礼があるので本殿公開は11時からと訊いていたが、
やはり並ぶ人は早朝から並んでいたのだろう。

4時間とは気が遠くなりそうだが、私はこのために出雲に来ているので、
ここで諦めるワケにはいかない。
半ば無理矢理連れてきた両親に悪いと思いつつ、
もう一生見られないのだから!と説得。交代で並ぶことにした。

まずは両親に並んでもらい、私は拝殿まで行き参拝。
境内をぶらぶらと歩くと、とんでもないことに気がついた。
行列は、参道から直接本殿に連なるのではなく、
本殿手前で右に折れ、ぐるっと本殿を一周。
そして今度は逆回りに本殿をぐるっと回り、
やっと本殿にたどり着くのだ。

見なかったことにして行列に戻ると、父親がいなかった。
父は神社よりも山野草が好きなので、境内周辺の植物を見に行ったそうだ。
この後、拝観直前に電話するまで父は戻ってはこなかった…

何度か交代を繰り返しつつ、境内を見学。
その中で、常に参拝客が絶えない社があった。

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素鵞(そが)神社
祭神は素戔嗚尊。
出雲征服期に最盛期を迎えていた蘇我氏に関係のある神社とも、
松江市八雲山の麓に鎮座する須賀神社の関係だとも言われている。
出雲大社の背後、神体山・八雲山の麓に鎮座するこの社。
八雲山を挟むように、境内の西には素鵞川、東には熊野川が流れているが、
松江の八雲山が、西麓に須賀神社(須賀川)、東麓に熊野大社(意宇川)を有することに、
なぞらえた配置になっているのだろうか?

だが、江戸時代の国造家三男、千家俊信の書いた『出雲國式社考』によると、
かつては園の妙見社に比定されていた、とのことらしく、
20世紀初頭の研究によって、素鵞神社に書き換えられた節もあるようだ。

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だが、これほどに人々が参拝するのはまた別の理由があった。
参拝者を観察していると、参拝後決まって本殿の後ろに回り、
本殿と八雲山との狭い隙間でなにやら手を合わせている。
そこには大きな岩肌がむき出しているのだが、
それを撫でる人、塩を盛る人、さまざまだ。
なんでも、某江○氏がパワースポットとして紹介して以来、
このような行動を取る参拝客が激増したという。
まぁそれについては、何も言うまい。

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約2時間半後、行列は意外に早く本殿拝観受付にこぎ着けた。
受付では服装チェックがあり、ラフな格好では拝観を拒否される。
私はジャケットにシャツ、ノーネクタイだったが、
中には紋付き袴の気合いの入った爺さまがいたりと、
決して観光気分で踏み入れてはならない場所なんだと痛感した。
八足門で靴を脱ぎ、本殿の急な階段を登る。
急な階段と言っても、思ったよりも大変ではなかった。
現在の本殿の高さは約24mだが、かつての本殿はもっと巨大なもので、
中古には48m、上古には96mもあったらしい。
それに比べれば、たいしたことはない…

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※手前が現在の本殿。後ろの建物が、平安時代の本殿(48m)の模型。


階段を登った所が大床。見学客はすぐには拝観できない。
本殿を一周するように列ができているのだ。
大床の高さは何mなのかは分からないが、
柵一つしかない縁側なので、相当怖い。
私は高いところが大好きなので平気だが、
高所恐怖症の人は立ちすくむんじゃないだろうか?
瑞垣の向こうには、社殿を囲むように延々と行列が見えるが、
瑞垣の中は、白い小石が敷き詰められた広い空間で、
長かった待ち時間も、うんざりするほどの人混みも忘れさせてくれるような、
静かな空間が広がっていた。

本殿の壁に沿って大床を一周し、いよいよ本殿の拝観へ。
時間を区切って、神職が案内してくれる。
上手く列の先頭に並んだので、一番手前で内部を見ることができた。
最前列一番下手が一番よく見える、との情報を得ていたので、
神座までよく見渡すことができた。

天井を見ると、有名な八雲の図。
大陸風の色調の大小の雲が、はっきりとした色彩で描かれていた。
普段は扉を開けないので色が褪せないとか、明治のころに塗り直されたとか、
さまざまな憶測を耳にするが、確かにこの八雲の図の色鮮やかさは、
とても昔のものとは思えない鮮やかさがあった。

残念ながら撮影は禁止なので、本殿の図を描いてみた。
八雲の図は拝観記念のしおりからの複写。

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こうして配置を見ると、足りない雲はもしかしたら、
御内殿(神座)の天井に描かれているのかもしれない、と思ってしまう。
御内殿の扉は閉じていたので、中がどうなっているのか分からない。
本殿の天井は、屋根の高さと比べてずいぶん低いのだが、
その中もどうなっているのか分からない。
神職でさえも知らないのだから、限られた人にか知らされない秘密でもあるのだろう。

オオクニヌシを祀った神座は、よく言われるように、
確かに西を向いていた。
参拝者に対してそっぽを向いているのは、
黄泉の国である西の海に向かっているとか、
中央とは相容れない神だから封印されているとか、
諸説ささやかれているのは有名な話である。
そこで、神祐殿(資料館)で見た江戸時代の絵巻を図にしてみた。

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これを見ると、オオクニヌシの隣は出雲国造の定位置だと分かる。
現在の配置にある御客座五神は、記述があったかどうか失念。(多分なかった。)
大社造とは、そもそもがこのように祭神と祭主が隣り合って並ぶものなのだ。
出雲大社と逆の造り(女造り)の神魂神社は、上手に国造が座るのだろう。
この配置を見ると、高貴な御方が臣下に直接言葉をかけず、
側用人を介して伝達するしきたりを思い出す。
高貴な者は下賤な者とは口をきいてはいけないのだ。
出雲の祭祀方法というのは、神の面前に人間が向かい合うのではなく、
国造が神と一体となって、人間の上に君臨するのだろうか。


さて、そこで疑問になってくるのが、和加布都怒志(ワカフツヌシ)と斑牛の存在。
絵巻では、赤い衣裳を着た子供と牛が描かれていた。
ワカフツヌシの「ワカ」は、美称とも、神子ともとることができるが、
絵巻に従えばフツヌシの息子だろう。
ではフツヌシとは?

真っ先に思いつくのは物部氏の祭神、経津主神。
出雲でワカフツヌシを祀るのは、出雲大社の東隣、美談の県神社(美談神社)で、
ここは県の名が示すように、早くから大和朝廷が支配した場所とされている。

また、フツとはスサノオの父、という文章をネット上で見かけた。(ソース不明)
ならばフツの子供で、ワカフツヌシはスサノオのこととも取れる。

出雲側の文書『出雲国風土記』ではフツヌシはあまり出てこなくて、
意宇郡楯縫郷で天石楯を縫い合わせた、との記述くらいしかないようだ。

同じ出雲側の文書でも、朝廷に提出する『出雲国造神賀詞』では、
アマテラスの命に従い、アメノホヒ(出雲臣の祖)が、
子のアメノヒナトリにフツヌシを副えてオオクニヌシ降した、とある。

一方、同じ国ゆずり神話でも日本書紀では、
タケミカヅチと共にオオクニヌシに国ゆずりを迫ったことになっている。

出雲・朝廷双方で、国譲りではフツヌシが活躍したことを認めているようだ。


ところで、天保前後に書かれた『出雲國式社考』の美談神社の項では
ワカフツヌシは「所造天下大神御子」つまりオオクニヌシの子とされている。
おそらく絵巻が描かれた時代とそう違わない時期に、
国造一族が書いた文章にて、そういうことにされているならば、
当時の出雲ではワカフツヌシが出雲神の系譜に加えられていた、ということだろうか。


では斑牛とは?
おそらく「摩多羅牛」のことだろう。
有名なところでは、秦河勝が建立した広隆寺の「牛祭」で登場する。
赤い狩衣を着た神が、牛の背に揺られて練り歩く。
摩多羅牛の背に乗る人物の冠には北斗七星がデザインされていて、
北辰信仰との関係が伺える。
背後の素鵞神社が妙見宮と呼ばれていたこととも関係するのだろうか?

ともかく今回の公開に先駆けての仮殿遷座においても、
牛飼い神と御牛の遷座が行われたそうなので、
やはり現在でも重要な位置づけの神であることは変わりないのだろう。
これは今後の課題にしてゆっくりと考えよう。



今回の特別拝観、両親はイマイチ反応が薄かったけど、
自分としてはとても楽しかった。
神話とか八雲の不思議、とかを抜きにしても、
木造の巨大な建物に登ることが出来ただけでも、
充分価値のあることだと思う。
8月頭から半ばまで、最後の特別拝観がある。
なんと今度は、整理券を配るというのだ。
しかも、往復はがきでもOKとのこと。
そりゃ、炎天下何時間も並んだら、
倒れる人が続出するのは目に見えているから善処したのだろう。

なんだか私たちは並び損だったような気もするが、
並んだ分だけ感動が大きくなった、とも言えるのだ(笑)

















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