2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


8月2日

18039864_4141527466.jpg


旅の後半、盛岡から田沢湖を通って大曲の近くに泊まった翌日。
雄物川に沿って国道13号を北上し、羽後境の唐松神社へ。

前九年の役では安部貞任の弟、境講師官照が館を置き、
1063年に源義家に敗れるまで、この地一帯を支配していたとされ、
後三年の役の最重要人物、荒川太郎・吉彦秀武も、
この付近に本拠を置いていたという。
そんな蝦夷の豪傑達の活躍した土地、羽後境。
そんな歴史にも関わらず、羽後境はとてもとても小さな町だった。

だが、実際に神社に着いてみてビックリ。
とても田舎町とは思えないほど大きく、また洗練された神社だった。
県道に沿った鳥居を潜ると、神社まで一直線に杉並木が続いている。
どの杉も巨木で、参道を歩いているだけで、
この神社の歴史の古さを考えさせられる。

参道の途中には、太い注連縄が巻き付いた二本の杉があり、
何だろう?と覗いてみると、そこから道が枝分かれし、
そこが唐松山天日宮の入り口だった。

18039864_2847831914.jpg


参道の先には社務所が見える。
流線型のカッコイイ社務所だ。
注連縄をくぐり、左手を見ると、そこに天日宮の社殿があった。

18039864_43987270.jpg


か、格好良すぎる!!
神明造りが進化したような社殿に、花崗岩の丸石が敷き詰められた島、
周囲の堀は小川で隣の池と繋がっていて、
池の中心にはストーンサークル風の立石が。
どうやらこれらの建物は、唐松神社出身の土木工学の第一人者、
物部長穂博士が関わっているのかもしれない。
いかにも河川工学・ダム工学の第一人者を物語っているようだ。
ちなみに博士の弟は陸軍中将の物部長鉾氏。
この人物、船舶参謀長、船舶練習部長、船舶兵団長など、
やたらと船舶に関わる仕事に就いているのが、
なにやら物部氏の宿命めいていて興味深い。

18039864_2533409924.jpg


祭神は饒速日(ニギハヤヒ)、愛子神、玉鉾神。
ニギハヤヒは物部氏の祖神。

愛子神は迦具土神とも火結びの神とも呼ばれているので、
愛宕神から転化したものだろう。
源の義家の危機を救ったとして、後に寄進を受けている。

玉鉾神はよく分からないが、邪悪を祓う祭具の玉鉾から転じた、
と解説しているサイトがあった。
鉾というとアメノヒボコを思い浮かべる。
この地の伝承には出てこない神だが、
まさか、物部長鉾氏のことではあるまい?


杉並木の参道に戻り、真っ直ぐに進むと唐松神社の社殿へ通じる。
もとは韓服神社といい、神功皇后の腹帯を御神体として祀っているという。
祭神はもちろん息長帯姫命(神功皇后)
他は軻具突命 豐宇氣姫命 高皇靈命 神皇靈命となっている。

神功皇后の腹帯が御神体とは奇妙な話であるが、
これは、神功皇后の三韓征伐に因んだ伝承として伝わっている。
神功皇后は、仲哀天皇と共に九州の熊襲平定の途上、
神懸かりして「西海の豊かな国を与えよう」と託宣した。
夫の仲哀天皇はそれを非難して急死してしまったが、
神功皇后は、懐妊しているにも関わらず新羅征伐に向かい、
新羅どころか高句麗、百済も服従したという。
その時、出産を遅らせるために巻いていたのが、この腹帯なのだという。
つまり、唐松(韓服)は神功皇后の御腹帯を意味している。

この話には続きがあって、記紀では、三韓征伐から戻った後に、
仲哀天皇の別腹の皇子、香坂皇子、忍熊皇子が反乱を起こしたが、
それを平定し、自分の息子である応神天皇に後を継がせたことになっている。
が、唐松神社の縁起では、三韓征伐後、その足で北海征伐に赴き、
月出野(唐松林)と呼ばれるこの土地に社殿を造営したことになっている。
この時付き従っていた物部膽咋連(いくいのむらじ)が、
腹帯を下賜されて神宝として祀ったとのことなのだ。

18039864_1271102032.jpg


この日の唐松神社は、若い夫婦で賑わっていた。
女一代の守り神として子宝・安産の神様として崇敬を集めているそうで、
ひっきりなしに夫婦連れの参拝者がやって来る。

唐松神社の社殿はちょっと変わっていて、わざと参道よりも低地に作られている。
朱塗りの鳥居をくぐり、しばらく行くと下に向かう石段があるのだ。
これは、慶長七年、常陸から秋田に転封された佐竹氏に因んだ伝承がある。
出羽久保田藩の三代藩主佐竹義処の時代のこと。
代々藩主は唐松神社の前を通る時には下馬する習わしになっていたのに、
ある時、佐竹義処は習わしを破って下馬せずそのまま通り過ぎようとした。
その時、馬が突然棒立ちになり義処は落馬してしまったのだ。
怒った義処は当時唐松岳にあった唐松神社を麓に移し、
それでも気が収まらないのか、わざと低地に社殿を建てたというのだ。
この義処という人物、暗愚なことで有名なので、
こういった伝承も生まれたのかもしれない。

参拝後辺りを見回すと、若い夫婦に紛れて、
男三人の我々一行はあきらかに浮いていた。
そそくさと神社を後にしたのは言うまでもない…






  * * *






※ここから先は個人的なメモです。興味がある人だけどうぞ(^_^;)

ところで、この唐松神社には「物部文書」なる資料が残されている。
これが近年公開されて、進藤孝一氏が『秋田「物部文書」伝承』として出版された。
それを元に、物部氏が秋田に至った経緯を考えてみた。

物部文書と唐松神社記録を合わせて考えると、
整合性はないものの、歴史上何度か物部氏と唐松神社の接触が伺える。

1 ニギハヤヒが鳥海山に降臨、唐松岳に日の宮を建てて居住。
  原住民と融和した後、より豊かな大和を目指し移動。
  大和の豪族、長髄彦(ナガスネヒコ)と結ぶ。(物部文書)

2 神功皇后の三韓征伐後、物部膽咋連が腹帯を祀る。(物部文書・唐松記)
  
3 物部守屋の子、那加世が捕鳥男速に連れられて
  唐松神社へ落ち延びる。(唐松記)
  なお、『東日流外三郡誌』によると蘇我物部戦争から57年後のこと。

4 物部守屋末裔を名乗る守屋氏が天平宝字元年(757)
  保呂羽山を開山し創建波宇志別神社を創建。
 (守屋氏由緒)

5 那加世の一族は何代かを経て北陸を経由、
  仁賀保(鳥海山の麓)に隠れ住む。
  平将門の乱に出陣、戦死者を出す。
  物部長梶が天慶二年(939)平鹿郡八沢木(保呂羽山)へ入る。
  43年後、長梶の子・長文が唐松神社へ。(物部系図)


このように、物部氏が唐松神社へと至った伝承が複数存在する。
これは1ないし2のころから物部氏の重要拠点が存在し、
それを頼って、後世の末裔が落ち延びていったと考えることもできれば、
逆に、この地に落ち延びた物部氏が伝承を創作したとも考えられる。
私感では、ニギハヤヒの鳥海山降臨はさすがに創作した神話、
もしくは仁賀保(鳥海山の麓)に落ち延びた3の記憶を
神話に置き換えたもののような気がする。

2については、日本書紀から物部氏についての記載を抜粋した表から考えてみた。
http://members3.jcom.home.ne.jp/wakoku-keisei/mononobe.html

膽咋=胆咋なのだが、胆咋以降120年間、日本書紀から物部氏の記載が無いという。
リンク先の表の作者は、仲哀らヤマトの主力が 山東半島近辺に出てしまっていた、
と書いているが、物部文書にのっとると、北海征伐で秋田に駐在してた、
とも考えられる。
朝廷の出羽征伐で有名なのは、658年阿倍比羅夫の活躍だが、
それ以前から朝廷による出羽への進行があったのかもしれないし、
どうもそれ以降も、進退を繰り返していたようだ。


3は、唐松神社が物部氏の物語性を重視しているのに対して、
物部文書や物部系図は、一族の史実を伝えることを重視しているのではないか、
と進藤氏本人も指摘しているように、
有名な物部守屋との直接の関係を印象付けるための伝承かもしれない。

4について、保呂羽山の波宇志別神社には、
正式には757年、大友吉親が蔵王権現を勧請した事になっているが、
神社の由緒書などの資料は、天正と寛永の火事で全て消失している。
江戸時代初期、大友氏の跡継ぎが幼かったため一時的に守屋氏が別当に。
以降、大友氏と守屋氏で別当を巡って争ってきたが、
嘉永六年(1853)に守屋氏が大事故を起こして失脚。
守屋氏が創建云々は、この時に作られた由緒かもしれない。
なお、5によると物部氏が平鹿から唐松神社に移った際、
一族であった守屋氏を残してきたという口碑が残っており、
この守屋氏は唐松神社の物部氏となんらかの関係があると思われる。

なお、進藤氏は天平宝字元年から三年の間に、平鹿郡の隣、雄勝郡に
雄勝城が建設されたことを示唆している。
ここで気になるのが、大友、守屋の両氏。
大友は大伴氏の末裔を名乗り、守屋氏は物部氏の末裔を名乗っている。
だとすると、これは大和朝廷の軍事氏族の両雄となる。
この時代の大伴氏は、征東大使(征夷大将軍の前身)
大伴弟麻呂を輩出するの少し前なので、
対蝦夷前線の雄勝城に従軍していたとしても不思議ではない。
物部氏については、物部広成が蝦夷征伐に従軍していた記録がある。
本人はともかくとしも、物部氏が雄勝城に来ていた可能性はある。
なお波宇志別神社のある大森町の『大森町史』には、
『続日本後記』に「承和二年(835)吉弥候志波宇志ニ姓物部ヲ賜フ」
とある、と紹介されている。
吉弥候志(きみこし)、とは吉弥候、吉弥候部のことで、
服属した蝦夷(俘囚とよばれる)はこの姓に改姓させられた。
(というよりは、元々は姓を持っていなかった)
その波宇志のキミコに物部姓が与えられたということだ。
ちなみに吉彦秀武は、このキミコに改姓した俘囚の末裔だとされている。


5について、北陸を経由としているが、
これは新潟に多い物部神社と関係しているのだろうか?
残念ながら北陸時代の詳細については語られていない。

平将門の乱に関わった人物は系図から特定できるが、
仁賀保からの出兵はいささか遠すぎる気もする。
そもそも平将門の乱の舞台になった坂東には、物部氏が古くから関わっていて、
そこそこの勢力を保っていたと思われるのだ。
六世紀前期には物部小事が坂東を制したといわれ、
物部信太連、物部匝瑳連などの祖とされている。
なお、この信太郡と匝瑳郡に挟まれた郡が香取郡で、
香取神宮に祀られているのは言うまでもなく「経津主大神」である。

また天平宝字から延暦期にかけて、先述の物部広成(768年入間姓に改姓)が
武蔵国入間を拠点に蝦夷討伐に従事している。
広成は入間の有力豪族なので、これは小事から繋がる坂東の物部一族なのだろう。
またこれは武蔵国造の物部氏との関係も示唆される。

そして、寛平から昌泰期(889~901)、
平将門の乱に先駆けて、東国強盗の首領・物部氏永が蜂起した。
ちなみにこの時代の強盗というのは、ただのならず者とはちょっと違う。
地方常駐の朝廷軍が廃止され、治安悪化に伴って武装した集団で、
こういった連中が後の武士へと発展していく。
軍事貴族から武士(もののふ)の時代へと変わりゆく過程なのだ。

平将門の乱では物部長臣と、その親族の長處、長根は「将門ノ乱ニ死ス」
長梶は「将門ノ乱ヲサケテ出羽ノ国平鹿ニ移住」とのこと。
出羽国平鹿群というのは同家の口碑によると八沢木の保呂羽山のことで、
同地に43年過ごした後、長梶の子長文が唐松神社へ移ったようだ。
戦乱に乗じて一旗揚げようとしたのか、
坂東物部氏から応援依頼が来たのかは分からないが、
最終的に出羽に逃げ延びた物部長梶の一族は、
武器を捨て神職に落ち着く道を選んだようだ。


以上、とりあえず東国の物部に纏わる話を羅列してみた。
個人的には、2を下敷きに、5というのが率直な感想。
それにしても物部那加世が坂東物部氏を頼らなかったのは何故なのだろう?
そういえば先日書いた守屋神社の姫伝承も、坂東を通り越して会津に来ている。
那加世の子孫の北陸時代は何をしていたのか、などという疑問も抱きながら、
じっくり考えていきたいと思う。


















管理者にだけ表示を許可する


Design by mi104c.
Copyright © 2017 風と土の記録, All rights reserved.




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。