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2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

早朝。

目覚ましアラームより前に目が覚めた。
寒くて起きてしまった、と言ったほうが良いかもしれない。
私は朝は弱いので、二度寝してしまいそうになったが、
昨日寝過ごしてしまったことが頭に浮かび、意を決して跳ね起きた。
そもそも、戦場ヶ原に車中泊した目的は、早朝の風景を撮影することだ。
前日に下見もしている。
日の出前だというのに、もう空は明るくなっている。
急いでカメラを携え、撮影場所に向かう。

頭の中の想像では、朝日に染まる朝靄の向こうに、男体山の影が立ちそびえる、
そんな画を想定していた。
しかし、空はカラッと晴れて、靄なんてどこにも立ちこめていない。
このまま日の出まで男体山に対峙していても仕方がないことはすぐに分かった。

予定変更。
撮影候補その2の、戦場ヶ原の夜明けを狙うことにした。


     * * *  
     
そもそも戦場が原とはなんぞや?
物騒な名前だが、実際に血生臭い戦場になったことはないようだ。

ここは、約2万年前、日光火山群の噴火で堰き止められた湖の跡。
地面に倒れた葦などの植物が、気温が低いが為に腐らずに形を留め、
腐葉土化して積み重なって出来た大湿原地帯。
なので、ここで戦争などしようものなら、敵味方関係なく湿地に沈んでしまう。
とても人間の立ち入るような場所ではないのだ。

「戦場ガ原神戦譚」には、この地の由来が書かれている。
ことの起こりは、中善寺湖の領有権を巡ってのこと。
上野の赤城山の神と下野の男体山の神との間で戦争が起こった。
ところが、いざ戦争が始まると、男体山の旗色が悪くなった。
そこで男体山が鹿島大明神に相談すると、
奥州小野の猿丸という弓の名人をの存在を紹介してくれた。

猿丸が戦地を訪れると、赤城山の化身のムカデの群れ、
男体山の化身の大蛇の群れが争っていた。
猿丸が目をこらすと、赤城山勢の中に二本の角を持つ大ムカデがいて、
それを大将と見定めて、左の目を打ち抜いた。
こうして赤城山の神々は諦めて撤収して、男体山の勝利に終わった。


ちなみに小野の猿丸とは、猿引きをする家の元祖であると、柳田国男は言っている。
猿引きとは猿回しのことで、今日の猿回しの家に系図をみると、
どの家も下野小野氏の家紋、右二つ巴の紋を使っているのだそうだ。
だてに日光猿軍団がいるわけじゃない。

猿引きとは、かつては立派な職業的宗教集団で、
猿を引き連れ日本各地を巡業して周り、信仰を集めていた。
主な対象は牛馬を扱う人々で、厩の前で猿回しをして、
牛馬への祈祷を行ったという。
今でも古い厩に、駒引き猿の絵馬や、
猿の頭や腕のミイラが残されているのはその為だ。

男体山の大蛇は、現在も祀られている大己貴命
(=出雲神・蛇神とされることが多い)のことだろう。
男体山に敗れたムカデとは、谷川健一によると、
鉱脈の形状がムカデに喩えられたとのことで、足尾鉱山のことか?

山の信仰集団による鉱山開拓の歴史が、
この伝説には詰まっているような気がしてならない。


     * * * 

話を戻そう。

戦場ヶ原展望台に行き、三脚を据えつけた。
構図を決めようとするが、これといったシンボルが有るわけでもなく、
いまいち決定力に欠ける気がする。
さてさて、日が昇って斜め上から降り注ぐの強い光に期待しようか。
などと曖昧に考えつつ、寒さに震えながら待っていた。
寒さで電池が消耗するから、電池を肌着の中に入れ温めたり、
三脚の横で運動して、体を温めたり…



すると、なんとしたことか。
山の向こうの空が色づいてきた。
この方角が茜に染まるとは予想外のことだった。
急いでカメラを起動し、レンズを替え、構図を決め、シャッターを切る。

わずかの間のことだった。
やがて光は意志を持ち、遠の山々を照らしはじめ、空は白んでいく。




夜明けだ。
新しい1日が始まる。


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