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この石碑、「日本中央」と彫られている。

金曜日の日中に東京を発ち、北へ駆け抜け深夜に八戸へ。
さらに北、三沢で車中泊。いざ下北半島へ入らむとする土地に、
なんと日本の中心があった。
遠くへ来たなぁ、と思ってたのに、まだ日本の真ん中だったとは…w

この土地、古くは「都母」と書き「つも」と読んだ。
現在の天間林村に「坪」、隣接する東北村に「石文」として土地に跡を残す。
石碑の名は、通称「つぼのいしぶみ」。
実に千年にわたって人々の想像力を掻立ててきたいわくの石碑だ。

古くは『袖中抄』(1185-1190頃)に記されている。
「いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有。
 日本の果てと云えり。但、田村の将軍征夷の時、
 弓のはずにて石の面に日本の中央のよしを書付けたれば、
 いしぶみと云う。(中略)其所をつぼと云う也。」

『袖中抄』に限らず、藤原仲実、藤原清輔、西行、源頼朝、和泉式部、、、
と名だたる歌人たちがこの「つぼのいしぶみ」に思いを馳せ、詠んできた。

長らく行方知れずになっていた石碑が、昭和24年、
ひょんなことから発見された。
土地の者が家の裏手のお堂を建て直すことになった際、
長く運送業をしてきた家なので、馬を供養するため馬頭観音碑を建てたいとなった。
手頃な石がないかあてを探しているうちに、例の石が見つかった。
橇にのせて運ぶために梃子を使って起こしてみると、なんとそこに文字が見える。
つぼのいしぶみの伝説は、土地には語り継がれていたので、
まさか、と思い汚れを落としてみると、そこには「日本中央」の文字。
こうして、世紀の発見に各地から学者やマスコミが訪れて
お祭り騒ぎになったそうだ。


そもそも、誰が何の為に「日本中央」と彫ったのか。
伝説では征夷大将軍・坂上田村麻呂が彫ったと言うことになっているが、、、
、、、史実としては、田村麻呂は都母までは到達していないそうだ。
実際に都母まで到達したのは田村麻呂の後任の征夷大将軍・文屋綿麻呂。
『日本後記』の綿麻呂の北征を記した文によると、
 出羽の都留岐(ツルギ=人名)の進言があり、
 弐薩体(ニサタイ=岩手北部から青森南部)の仇敵、
 伊加古(イカコ=人名)が軍勢を整え都母にいて、 自分を討たんとしている。
 自分は先兵としてイカコを攻めるから兵糧を支援してくれ、と。
 そこで米百石を支給し激励した、とあるのだ。

このことより、都母に到達した将軍は田村麻呂ではなく綿麻呂だとされている。
伝説は、わかりやすいように田村麻呂に置き換えられたのだろう。
いわずもがな、東北にはあちらこちらに田村麻呂伝説が残っている。

確かに官軍がやって来た形跡はあった。
では、なぜここが「日本中央」なのか。
まだ、まとまった見解はないが、、、
一つは、当時の日本の影響力、
 もしくは制服目標が樺太や中国北部まで及んでおり、
 それらを含めると、現青森が日本の中央となる。
もう一つは、日本とは「日の下(もと)」の意味で
 朝廷側から見て日出る方角にある陸奥を、日本の国と呼んだ。
 これは陸奥を同じく「日高見」と呼んだことと同じ理屈。

九州から発した東征が、日の本を制する進撃であったのならば、
行き着く果ては日の本の国、その日の本の国を制した証に
いしぶみを残したのかもしれない。

あるいは、誰かが戯れに彫ってみただけかもしれない。

未だ謎多き「つぼのいしぶみ」
一見の価値は有ると思う。

















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