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2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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磐神社から少し衣川を降ったところ、衣川の関の裏手の山に、
月山神社と並んで和我叡登挙神社があり、
そこにもアラハバキ神が鎮座しているという。
安部頼良が館を衣川上流から下流に移転した際に、
アラハバキ神の依代を近隣に見出したのだろうか?
しかしこの和我叡登挙神社、延喜式にも記載されているのだが、
明治の頃には既に、その場所も読み方さえも忘れられていた。
今は、場所はこの三峯山に特定し、読みも”わかえとの”
に落ち着いているが、異説もあるようでなんとも釈然としない。
釈然としないのは、実際訪れて見ての感想でもあるが、
それは追い追い書いていくことにしよう。


その山の麓についたころは、すでに夕方近くになっていた。
昼頃、歴史資料館の案内係のおばさんに聞いた話だと、
地元の人が元朝参りに行く神社らしいので、
それなりに有名な神社なのかと思っていたが、
全然場所が特定できずにウロウロしてしまった。
見つけたのも偶然に近い。
私は衣川でもう一つ気になっていた場所があり、
そこに行く案内板を先に見つけて行ってみたのだが、
二社とも、奇しくも同じ山にあったのだ。
その神社とは三峯神社。
旅行中はこの山の名を知らなかったので気が付かなかったが、
山の名も三峯山と言うそうだ。

三峯神社は、その名の通り秩父の三峯神社の分社である。
前九年の役で、蝦夷討伐に苦戦した源頼義・義家父子が、
日本武尊が東夷征伐の際に秩父の三峯神社に祈願した故事に習い、
当地に三峯の神を奉祀したのが始まりだという。
その後、享保元年に改めて秩父から分霊勧請したのが
今の三峯神社である、と由緒書にあった。
ただ衣川の三峯神社は予想以上に小さかった。
民家に隣接する形で建っているが、行った時間が遅かったため
誰もいなくて何も聴けなかった。
面白いことに、駒形神社でもないのに神厩舎と神馬像があった。
そしてその奥が真の目的地である和我叡登挙神社に繋がる参道だった。

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三峯山は標高130mの里山だが、とても険しい山だった。
参道があり、ふもとのほうはコンクリートの階段まであるのだが、
標高が上がるに連れて、道が形を成さなくなってくるのだ。

060806_5822.jpg


夏の間は誰も登らないのか、草は生え放題。
昼間のおばさんは15分もあれば登れると言っていたが、
とてもとても、それどころではなかった。

060806_5835.jpg


やっとの事で山頂にたどり着く。
月山神社の鳥居が見えたが、もはや参道は草木に埋もれ見えない。
まさかここで藪こぎをするとは思いもよらなかった。

情報によると、月山神社と和我叡登挙神社は
隣り合わせになっているらしい。
月山神社を進んでいくと、神楽殿のようなものがあり、
その奥に本殿がある。
その他の建物というと、鳥居脇に朽ち果てた社があっただけだ。

おかしいなと思い、脇道に入ってみるも、降っていくのみ。
しばらく歩いても和我叡登挙神社らしき建物は見当たらない。
しかたがないので月山神社に戻る。
何しろ、由緒書きも案内板も何もないので、
よく分からないまま月山神社の本殿の前に行くと、
本殿前に申し訳なさそうに鎮座している岩があった。
もしかしてこれがアラハバキ神なのか!?

060806_5852.jpg


これまで見てきたものの圧倒的な存在感と比べると、
このアラハバキ神はいかにも存在感がない。
大きさもせいぜい2m四方といったところか。
何よりも、アラハバキ神の後ろに社があるのが気にかかる。
これはどうしたことだろうか?

060806_5873.jpg


後に調べた結果、やはりこの磐が和我叡登挙神社のアラハバキ神
であることには間違いないようだ。
ただ、あまりに資料が無くて、それ以上のことはわからなかった。


三峰山を去った私は、途中の村道の片隅に館跡の碑を見つけた。
安部貞任が拠点にした衣川の館跡だ。
夕日に赤く染まるその碑の周りは、一面の田んぼが広がっていた。
1062年、衣川の柵を朝廷軍に落とされた阿部貞任は、
衣川の館に火を放ち逃走する。
そこに追いついたのが源頼義の嫡男・源義家。
逃げる貞任に義家は呼びかけた。
「衣のたてはほころびにけり!」
そこで貞任は、咄嗟に上の句で返答した。
「年を経し糸の乱れの苦しさに。」
貞任の機知あふれる返答に、義家は思わず追うのを躊躇った。

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かくして、厨川の柵に逃れた阿部軍も、
奮闘むなしく敗れ去ってしまった。
貞任は討ち死に、藤原経清は斬首、貞任の弟宗任は配流。
ここに、安部氏による蝦夷の反乱は終止符を打たれたのだ。
しかし勝利した源氏は、武士の台頭を恐れる朝廷の貴族たちによって
都に呼び戻された。
結局は、源氏に協力した出羽の清原氏だけが得をしたのだ。
その後清原氏は、経清の息子・藤原清衡と陸奥守に返り咲いた
源義家の連合によって滅ぼされる。
その奥州藤原氏は三代後の藤原泰衡の時代に、
義家の子孫、源頼朝によって滅ぼされるのだ。
まさに戦乱の世を絵に描いたような、
因果応報がもつれにもつれた蝦夷の戦い。
血を血で洗う蝦夷の歴史を、アラハバキの神は
常にその地で見守ってきたのであろう。
戦が止んで久しい現在も、そしてこの先もずっと、
アラハバキ神は同じ場所で人々の生活を見守っていくのだろう。

















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