2011/06/15 (Wed) ご挨拶
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その2
2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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4月17日

東日本大震災から一ヶ月と少しが過ぎたころ。
やっと気持ちに余裕ができて、何かをしなければという心境になってきた。

震災前で延期になっていた仕事に、友人の旅館の撮影があり、
そろそろ手がけないといけない時期になっていた。
東北に身を運ぶなら、これまでさんざんお世話になった東北の、
震災後の様子をこの目に収めておかないと…。
何か出来ることはないか?
そうは思っても現実には、単身乗り込んだところで何ができるわけでもない。
瓦礫撤去の人足も、たった一人では力になれない。
東北の信仰や民俗風習を見て回っていた私にできること、
それは、縁をもらった土地を訪れ、祈ることなのではないか。
そう思い立ち、4月17日、東北に向け出発した。

夜の東北道。
ところどころに修復された箇所があるものの、走行には支障がない。
白河の関を越え東北地方に入ると、心なしか胸が重くなった。
17日は宮城~山形間にある古関PAで車中泊をした。

4月18日
銀山温泉にて仕事の撮影。
銀山には大学時代からの親友(以下K)がいて、
10年になる東北旅行は彼に誘われたことから始まったのだ。
翌日からはKの車で被災地の旧知を訪ねることになる。


4月19日
尾花沢で大学時代のバンド仲間と昼食。
去年生まれた幼子とも初対面。
この子のためにも未来を残さなければならない。

その後車を走らせ秋田入り。
尾花沢から横手に抜け、湯田から岩手入りするのがいつものコース。
この途中に懇意にしている陶芸家、菊池窯がある。
安否伺いに立ち寄り、話し込む。
泊まって行けと言われたが、ゆっくりもしていられないので
夕食だけごちそうになる。
菊池さんは震災の時は車で盛岡に向かっていて、
幸い怪我もなく戻ってきたそうだ。
陶器は割れなかったが、収まらない余震のため
棚の上のものはすべて下ろされていた。
震災後、被災地の人が菊池窯にマグカップを求めに訪ねてきたらしい。
菊池窯のマグカップを愛用していたが震災で割れてしまい、
心に余裕が欲しいため、マグカップを買うためだけに岩手に訪れたそうだ。
余震が続き不安な中にもかかわらず…。
震災は物理的な損失以上に、心の疲労が激しいことを認識した。

菊池窯を後にして岩手入り。
南三陸の先輩と連絡が付く。
この写真スタジオ時代の先輩とは、以前から妙な縁で繋がっている。
今回の震災でも真っ先に気になったのはこの先輩のこと。
安否が判ったのは4月中旬。出発の数日前のことだった。
とりあえず会いに行こうと思い連絡したものの、しっかりと連絡はつかず。
それがやっと繋がった。

「力仕事を手伝います。なにか不足している物資があれば持って行きます。」
そう伝えると、「ははは、とりあえずおいで」と。
物資はあるし、強いて言うなら甘いものでも持ってきて、と言う。

なら美味しいケーキをと思い、ネットで有名なケーキ屋はないかと探す。
一関の店に目星をつけ、一関に向かう。
午後21時ころだった。
東北育ちのKでさえ驚くほど吹雪いている岩手の夜。
震える被災者のことを思うと胸が痛い。

南下。
宿のアテのないときは決まって車中泊だが、
車中泊をするには、いつも道の駅などの施設を利用させてもらっている。
一関に向かう道では水沢の道の駅が目についた。

水沢といえば黒石寺。
日本三大奇祭で知られる蘇民祭が行われる寺院だ。
我々はいつも早池峰神社の蘇民祭に出ているが、
それの大元が黒石寺の蘇民祭。
蘇民祭は蘇民将来譚に基づく祭で、
その恩恵に預かった者は厄災から免れるという。
いまだ余震の危機にさらされている先輩のために、
黒石寺で祈願をして、お守りを求めて届けようと思い立った。
水沢の道の駅に車を停め車中泊。


4月20日
8時半に目覚め。
実は全く寝られなかった。
北上川に掛かる橋を渡ってすぐそこに黒石寺があるのだが、
橋が通行止めで渡れない。
水沢は岩手の内陸だが、こんなところに震災の影響が出ている。
迂回路をとり9時に黒石寺着。

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妙見山黒石寺。
天平元年(729)行基が一堂宇を造り、薬師如来像を安置。
翌年東光山薬師寺と号して開山した。
大同2年(807)蝦夷によって薬師寺焼失。
嘉祥2年(849)慈覚大師が背後の大師山の石窟にて行基菩薩を夢に感じ、
石窟の蛇紋岩から寺号を黒石寺、山中に妙見祠があることから妙見山黒石寺として再興。
全山天台宗とし、薬師如来を本尊とするが故に薬樹王院とも号した。


この水沢は旧名を胆沢と呼び、
阿弖流為(あてるい)や母礼(もれ)といった土地の長が治めてたいが、
坂上田村麻呂はこの地に胆沢城を築いて彼らと対峙した。
胆沢城には鎮守府八幡宮神社、城輪(きのわ)に石手堰(いわでい)神社を勧請したが、
薬師寺(黒岩寺)はその神宮寺として位置づけられた。
蝦夷と呼ばれた陸奥の民と朝廷との戦の歴史は長きにわたり繰り返されるのだが、
それはこの胆沢の地を巡る争奪戦に象徴される。

前述の蘇民祭。
早池峰神社の参戦記はこちら。
http://miyokame.blog82.fc2.com/blog-entry-71.html
コマを詰めた麻袋=蘇民袋を裸で揉みくちゃになりながら奪い合う勇壮な祭で、
黒石寺の祭は早池峰の比にならないほどの争奪戦になるそうだ。
蘇民袋を見事確保した者は蘇民将来の子孫として無病息災を約束される。

その一方でこの蘇民袋、阿弖流為の首を模したものという物騒な伝承がある。
朝廷と先住民の戦乱の記憶、
もしくは俘囚(朝廷に降った先住者)支配の呪術的要素も含まれていると思えて仕方がない。

黒石寺の蘇民祭では最終的に蘇民袋が切り裂かれ、中に詰まったコマが飛び散り、
それがまた厄除けの守りとされる。
そのコマを模したお守りを入手するのが今回の目的。

まずは東北の厄災祓いと先輩の無事を祈願。
お守りを求めたいのだが事務所が閉まっていたので住職の屋敷と思しき家を訪ねる。
平時なら遠慮したいことかもしれないが、思いが勝っての行動。
事情を話し、特別に蘇民祭の時に配られる蘇民将来駒を譲ってもらった。
明るくさばけた女性で、こちらのほうが励まされた。

黒石寺も土壁が崩落している。
始めは直そうと思っていたが、続く余震にキリがないので放置しているそうだ。
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黒石寺を発つ。
空は重い雲がのしかかっている。
地震以来空を注意して見るようにしているが、
このような雲は見たことがない。

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そして一関のケーキ屋へ。
一関への道も、塀が崩れた民家をあちらこちらで見かけた。
そして、目立つのが葬儀の案内板。
家族であろう、複数名の名が記されている案内を多数見かけた…。

名物のロールケーキを買い占め、南三陸に向かう。

南三陸町。
向かってみて気が付いたのだが、遠い。
岩手の主要道はリアス式海岸を避け、内陸部を通っている。
そこから派生した道がリアスの町に続くのだが、交通の便は悪い。

途中集落を通ったが、人の居ない商店に「全壊」の張り紙。
見た目では崩れていないが、耐震規定から外れたのだろう。
取り壊さなければならない運命だ。
いたたまれない。

南三陸町に近づく頃。
チラホラと民家が見えてきた途端、瓦礫の山。
まだまだ海岸は遠いはず。
後で判ったことだが、海岸近くの人たちは海の怖さを知っているので、
一目散に避難所に逃げ込んだ。
しかし、奥地の人はまさか津波が届くとも思わず、逃げることなく波に飲まれた。
南三陸町で人が住んでいた場所は、
高台の一部をのぞいて軒並み波にさらわれたのだ…。

町に出た。
何も無い。
瓦礫の山。
川を越える盛土の道だけが目立っている。
鉄骨だけになったビルを見て、
「最後まで避難を呼びかけた女性のいた場所だな」とKは言う。
そのことは知らなかった。
あまりに被害が広すぎて、把握出来ていない…。

志津川中学校の避難所に先輩がいる。
手書きの看板が出ていると言っていたが、辿りつくまでに迷った。
何故見落としたかというと、まさかそこが道だとは思わなかったからだ。
瓦礫の中の隙間。
としか思えなかった道に戻り、高台にある志津川中学校に辿りついた。
先輩は手が離せないようで、少し待ってくれと。
校内では長渕剛、尾崎豊の曲の演奏。
仙台からボランティアで演奏に来ていたとのこと。
みんなそれぞれの思いを胸に、支援活動をしているようだ。
写真でも撮って待ってて、と言われたが、
とてもそんな気にはなれなかった。
どこもかしこも瓦礫の山。
根っからの報道カメラマンでもない限り、安易に撮れるものではないと思い、
カメラは封印した。

先輩と再会。
5年ぶりくらいか。
都内でカメラマンをしていたが、実家を継ぐため帰郷。
ネットを使って小さな魚屋を全国規模の有名店にのし上げた。
http://www.yamauchi-f.com/
オンラインサイトの賞を貰い、いよいよこれから、という時期の被災。
高台の避難所から、「あそこが俺の家だった」と指をさされても、
それがどこなのか検討がつかなかった。
まさか全てが流されるとは思っていなかったため、
身一つで逃れたまま、すべてを失ったとのこと。
避難所の脇を指差し、「あそこに遺体が溜まっていてね…」
その場所は避難所の2~3m下でしかない…。

避難所の中には入らなかったが、
物資置き場を見せてもらった。
体育館いっぱいに山積みされた救援物資。
避難者の疎開が始まっている現状では持て余すほどだという。
南三陸町は報道で有名になったため、ひっきりなしに物資が届くそうだ。
逆に、他の避難所のことを心配していた。
志津川中学校の避難所は、先輩の会社のスタッフで仕切っている。
先輩が胸をはって、ちゃんと統率が取れていると言っていたのが心強かった。
先輩自身は小さな子供を抱えているため、4月末には関西に移住するという。
こうして一人一人去っていく。
現時点ではやることがいっぱいでアドレナリンが出て興奮しているが、
人が少なくなって落ち着いてからが怖いと言っていた。
町の壊滅。
復興も何も、ゼロからのスタートではない。
マイナスからのスタートだ。
途方にくれる。

こうして、南三陸町を後にした。

続く

















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