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2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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ヤマトタケルの妻、弟橘媛を祀る橘樹神社は、
多摩丘陵の南の端の中腹の平らに開けた場所に鎮座する。

そこからほぼ同距離に、二つの遺跡が存在する。
南に登れば子母口貝塚、北に登れば富士見台古墳である。
私はまず、南に向かって丘を登ることにした。


子母口貝塚は、考古学ではちょっとした重要な遺跡である。
標式遺跡といって、文献資料の無い縄文時代を区分する
基準となる遺跡なのだ。つまりは、新しく土器が発掘された場合、
幾つかある標識遺跡の出土品と照らし合わせて、その時代を特定する。
子母口貝塚の子母口式土器と似た形式ならば、
それは縄文時代早期のものだと判断されるのだ。
ちなみに縄文時代早期とは、約1万~6千年前で、
子母口貝塚は大体8千年前の遺跡だとされている。

070219_9040.jpg


公園化された子母口貝塚にたどり着くと、
そこだけ空気が違うことに気が付いた。
いや、正確に言うと、臭いが違うというか、
何やら臭いのだ。
魚介類特有の臭いが…

地面を見てびっくりした。
やけに小石の多い公園だな、と思ったら、
それは捨てられた無数の貝殻だったのだ。
貝塚とは、言うなれば集落のゴミ捨て場みたいなものだが、
捨てられたといっても、それは8千年前の話。
昭和初期に発掘調査をしたとしても、
調査後は埋めてから開放するのが普通なのだが、
如何なることか?
もしや演出?とも疑ってみたが、臭い付きの演出なんて、
周辺住民が許すはずがない。
大雨で発掘後に埋めた土が流れたのか?
貝塚を他に見たことが無いのでよく分からないのだが、
そういうものなのだろうか…

川崎の内陸部にこのように魚介類を
補食していた形跡があるのは意外だが、
その理由が説明されていた。

070219_9035.jpg


8千年前当時の海岸線は、地球温暖化のため極地の氷河が溶けて、
現在よりも3~5m高かったという。
(縄文海進:ピークは6千年前)
写真の地形図によると、丘陵地である子母口は、
ちょうど内湾を見下ろす海岸の地だったようである。

現在公園の眼下には果てしなく住宅地が広がっている。
縄文時代には一面の海だった、なんてとても想像できない。
地球温暖化が確実に進行している現在、
そんな穏やかなことは言っていられないが…


再び橘樹神社に戻り、そこから北に丘を登ること10分、
先程よりもより一層険しい坂は、
変速機付きの自転車を持ってしても、
押して登ることを強いられるほどだった。
古墳が丘の頂上に作られているようだ。

弟橘媛の遺品を埋葬したとされる富士見台古墳は、
丘の最高地とはいえ、周りを民家で囲まれた場所で、
案内板がなければとても古墳とは思えない塚だった。
もちろん景観もない。
現在の規模は、墳丘高3.7m、径17.5mだが、
宅地開発で削られる前はもっと規模が大きかったそうである。
悲しい伝説を今に伝える土地にしては、あまりに寂しい現状だ。

弟橘媛の遺品となると、やはり古事記に記された通り
櫛が治められているのかと思っていたが、
橘樹神社の社殿によると、
御衣・御冠がこの地に漂着したとなっているらしい。
はて?
貝塚のあった8千年前ならともかくも、
ヤマトタケル(記紀では2世紀、一般には4~6・7世紀頃の
複数の大和の英雄を具現化した架空の人物とされる。)
の時代に、果たしてこの地に海岸はあったのか?
もちろん無かったであろう。
縄文中期、約5千年~4千年前から地球の気温は下がり始め、
海面もそれに従い低くなっていくのである。
海岸のない場所に、漂流物は流れ着かない道理である。

よくよく調べてみると、面白いことが分かった。
郷土誌には「このあたりのむらのかしらの墓」
として紹介されているというのだ。
その郷土誌『橘』を見たことがないので断定は出来ないが、
ありそうな話である。
丘の上に首長を埋葬することも、その丘を崇めるために、
離れた場所に祭祀場(橘樹神社)を設けることも、
古代の祭祀の方法として非常にしっくり来るものがある。


話はちょっとそれるが、川崎の古名、
橘樹郡の由来にはもう一つの説がある。
多遅摩毛理(たじまもり)だ。
垂仁天皇の命で、不老不死の果実とされる
「非時の香の木の実」(ときじくのかぐのこのみ)を
常世の国から持ち帰った人物である。
常世の国とは日出ずる国、つまりは東国であり、
10世紀頃までの武蔵・相模両国はミカンの産地であった。
多遅摩毛理はミカンを非時の実として天皇に献上したのだ。
これにより、ミカンは 多遅摩の果→橘(たちばな)
と呼ばれるようになったという。
多遅摩毛理はもともとこの地の支配を命じられていたとする説もあり、
常世の国は神仙思想による創作、
徐福の不老不死を求める船出と同等のものと考えても良いだろうが、
とにかくこの地は橘と名付けられ、
多遅摩氏は橘氏の名を拝領したのである。

その橘の”かしら”を祀ってある神社、
「橘の頭」が弟橘媛の冠、もしくは櫛に転化して、
ヤマトタケルの物語に便乗する形になったのではないだろうか。
たまたまだったのか、本当に関係があったのか?
古墳は盗掘され尽くし、遺品の手がかりは何もない。
伝承に頼るしかない現在、伝承の是非を問うのは野暮かもしれない。
弟橘媛の存在はどうであれ、その存在に頼らざるを得ない事情や、
そうあって欲しいと願う土地の人の希望があったことだけは、
紛れもない事実なのであろう。

願わくば、この土地に伝わる伝承を、
後々の世までも伝えていって欲しいものである。


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