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2011/05/13 (Fri) 東北巡礼 その1
2011/01/02 (Sun) 万治の石仏
2011/01/01 (Sat) 諏訪大社 蛙狩神事

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4月29日。
安曇野を訪れたときのこと。

連休の旅は、まず妻の実家である諏訪を訪れることから始まった。
直接大阪に帰ればいいものを、何故長野に寄ったかというと、
単純明瞭。松本でJFL(サッカーのJ2の下位リーグ)の試合があり、
妻がそれを見たいというのだ。
そう、この連休の長い旅は、松本のJFL観戦に始まり、
磐田のJ1観戦に終わるという、
妻の都合最優先のスケジュールだったのだ。

松本のサッカー場に妻を送った後、私は安曇野を探索した。
当初は上高地に行こうかと思っていたが、
快晴の連休に行けば、人ごみでうんざりするのでは?と思い直し、
かねてから関心のあった、魏石鬼八面大王伝説
(ぎしきはちめんだいおう)を探ることにした。

魏石鬼八面大王とは、桓武天皇の頃、安曇野の有明山の麓、
宮城の地に住んでいた鬼で、魔力をもって雲を起したり、
霧を降らしたり、天地を飛びあるいたりして
村人にさんざん悪さをしていたそうな。
それを聞きつけた朝廷は、坂上田村麻呂を派遣し、
苦難の末、田村麻呂は八面大王を打ち殺した。
しかし八面大王は生命力は凄まじく、
田村麻呂は復活を恐れて八面大王の体を切り刻み、
バラバラにして各地に埋めた。
それらは現在、耳は有明の耳塚、足は立足、
首は松本筑摩神社に、胴体は大王神社として残っているという。
こうして安曇野に平和が訪れたのだ。


ところで、まったく逆の言い伝えもある。
すなわち、全国統一を目指す朝廷が蝦夷討伐を行った際、
信濃国を足がかりにして、その住民たちに無理難題を押しつけ、
住民たちは重圧に疲弊し切っていた。
それを見かねた有明山の八面大王は立ち上がり、
坂上田村麻呂軍に一歩も引けを取らずに戦った。
しかし、とうとう八面大王は敗れ、再び生き返ることのないように、
体をバラバラに切り刻まれ、葬られた。

まったく正反対のの解釈だが、不思議なことに、
どちらも安曇野に残る伝承なのである。

※八面大王伝説に関する詳しい情報は、
ネット上でいくらでも資料があるので、
そちらをご覧いたされたい。
http://ravensky.nm.land.to/wiki/wiki.cgi?page=%C8%AC%CC%CC%C2%E7%B2%A6
個人的には、筑紫君磐井の王・八女大王の末裔が流れ着いた、
という説を面白く思う。


  * * *


松本のサッカー場を後にした私は、
有明の郷土資料館に立ち寄った後、有明山に向かった。


20070429-143758.jpg


どうやら有明山は古くから修験の霊山なのらしい。
私が有明山神社を訪れた時は、祈年祭が終わった直後だったらしく、
護摩を焚いたような炭がまだ燻っていた。
郷土資料館に寄らなければ、祈年祭を見物できたかもしれないが、
資料館は資料館で面白かったので、そこは良しとしよう。

有明山には、と呼ばれる横穴式岩室が残っている。
これこそが、八面大王の住処とされているのだ。
考古学的には、巨石露岩の下に構築された珍しい形の石室、
なのだそうだが、長年山岳修験者の修行場として
使われていた経緯があり、出土品は何もないそうだ。
周りには巨石がゴロゴロと転がっていて、
何か祭祀場のような雰囲気を漂わせている。
魏石鬼岩窟とは、”ぎしき=儀式”を行う磐座のことなのだろうか?
岩肌には仏画が複数刻まれていた。

20070429-150148.jpg

 20070429-150902.jpg



今回は時間がかなり限られている。
いつもなら、J1の試合なので、
たとえ昼からの試合でも朝早くから並び、
試合後も選手のお見送りやら何やらで、結構時間が持てるのだが、
JFLの試合ともなると、並ばなくても入れるし、
お目当ての選手がいるわけでもないので、
試合が終わればそれで終わり。
私には2~3時間しか時間がなかったのだ。


迷ったが、もう一つ安曇野で気になる場所があったので、
そこにも行ってみた。蝦夷に関わりそうな話だが、
まだ今回は書かないでおく。
案外これが手間取って、既にお迎えの一時間前になってしまった。

サッカー場に向かう途中、やはり見過ごせないと思い、
大王わさび農園へ。
ここは八面大王の胴体を埋めたといわれる、大王神社が鎮座している。
わさび農園の売店も、ボチボチ閉店準備に取りかかろうというさなか、
私は一路、大王神社へ。
農園の中程に鳥居があり、一目で大王神社だと分かった。
巨大なわらじが奉納されていたのだ。
果たして八面大王は巨人だったのだろうか?
この辺りはダイダラボッチ伝説もあるので、それとの混同か?

20070429-173746.jpg


拝殿の向こうには橋がかかり、その先の島に石の社があるのだが、
そこは関係者以外立ち入り禁止となっていた。
特に農園関係の施設があるわけでもなさそうなのに、
立ち入り禁止と言うことは、信仰に関することだろうか。
石の祠とは別の方向にも橋が架かり、そちらは通ることが出来た。

辺り一面のわさび畑の上を橋が架かっている。
橋の先には岩窟があった。
が、これは先の魏石鬼岩窟の再現だそうだ。
向かって左の岩窟に入り、奥深くまで進んでいくと、
2体の石像が佇んでいた。
岩窟はちょうど西を向いているようだ。
かなり黄色く染まった光が、右側の石像をかすめていた。
一定の時期、ちょうど石像に光が当たるようになっているようだ。
これはなかなか粋な計らいである。
民衆の八面大王を慕う気持ちが伝わってくるようだ。

20070429-174158.jpg



民衆のために立ち上がった八面大王伝説とは、
この大王神社の説明書きに書いてあったことである。
現在、八面大王はわさびの守護神として、
民衆に丁重に祀られているのだ。


夕日に映えるわさび畑と松本平。
遠くには穂高連峰がかすんで見える。
のどかな風景だ。

なんて、感慨にふけっていたが、
妻との約束の時間はとっくに過ぎている!
穏やかな風景とは逆に、現実は穏やかではなかった。
私は一路、サッカー場へと急いだのであった。



追記、というか妄想。

八面大王が気にかかったのは、
その伝承が以前であったとある伝承に酷似していたからだった。
それは阿蘇の鬼八伝説である。

鬼八(きはち)は健磐龍命(タケイワタツノミコト)に降った
阿蘇の先住民だが、健磐龍命のいじめに耐えかねて、反旗を翻す。
だが、鬼八は高千穂に追いつめられ、切り殺されてしまった。
しかし鬼八は切っても切っても復活するので、
健磐龍命は鬼八の体をバラバラに刻み、別々の場所に葬ったのだ。
ここでは名前の”八”と、バラバラに埋葬という伝承が重なる。
さらにいえば、阿蘇山は昔大きなカルデラ湖だったものを、
健磐龍命が岩山を蹴り破り、水を流して土地を開拓した、
という伝承があるのだが、
安曇野もかつては広大な湖で、
龍の子、泉小太郎が岩山を蹴破り水を流して開拓した、
という伝承が残っている。
泉小太郎は八面大王とは直接関係しないが、
安曇野に安曇族が侵入したころは、一帯が大きな湖だった、
といわれている。
”龍”で”八”と言うと、ヤマタノオロチや、
三湖伝説の八郎太郎、さらには八大竜王を思い浮かべるが、
さすがにこれは考えすぎか。

阿蘇と安曇野、ともに海人が関わっているといわれている。
だが、阿蘇は海から渡ってきた天孫族が原住民を討伐したのに対し、
安曇野は、海人族である安曇野住民の棟梁を、
大和に根付いた天孫族が討伐する話だ。
これは一体どういうことなのだろう?
討伐される側の”八”ってなんだ?

















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